古田史学会報一覧

『古田史学会報』は178号まで、ホームページで公開しております。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta9.html

第3600話 2026/03/08

『多元』192号に掲載された

    「飛鳥宮天武政権の実態」

 友好団体の多元的古代研究会の会報『多元』192号に拙稿「飛鳥宮天武政権の実態 ―飛鳥木簡の証言―」を掲載していただきました。同稿は、令和八年の抱負とした木簡研究のアップグレードの一環として執筆したものです。冒頭に、古田先生が木簡研究を始めた五十年前とは異なり、研究環境は劇的に変化し、今のわたしたちは実に恵まれた研究環境にあるとして、次の3点を指摘しました。

 (ⅰ)飛鳥・藤原木簡出土量の劇的な増加。
(ⅱ)奈良文化財研究所HP「木簡庫」による検索機能の出現。
(ⅲ)市大樹氏による木簡研究レベルの高度化と公開。

 これらの恩恵を受けて、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の飛鳥宮での天武天皇らの実態が木簡により明らかになりつつあります。具体的には次のことを紹介しました。

①飛鳥遺跡からは「天皇」木簡や天武の子らの名が記された「皇子」木簡(大伯皇子・舎人皇子・大津皇子・穂積皇子)が出土しており、天武と子供たちは「天皇」「○○皇子」と名乗っていたことが決定的となった。
②飛鳥宮で「天皇」を称した天武らが、「詔」を発していたことを示す木簡が飛鳥池遺跡南地区出土している。
③飛鳥の石神遺跡から「仕丁」木簡が出仕している。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められている。これは、飛鳥に各地から仕丁が集められ、そこに行政府があったことを意味する。
④七世紀(評制下)の官職名が記された木簡が飛鳥宮(石神遺跡・苑池遺構)から出土している。
○「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「嶋官」「干官」 苑池遺構(天武・持統期)

 これらの飛鳥出土木簡が示すように、天武ら近畿天皇家は飛鳥宮で天皇や皇子を称し、詔を発し、各地から仕丁を徴発し、官庁を置き、ヤマト政権の天皇として振る舞っていたことがわかりました。そして、飛鳥出土木簡により、七世紀後半の近畿天皇家の実態が実証的に明らかになりつつあると説明しました。
『日本書紀』などの史料解釈にとどまることなく、同時代史料の木簡に基づいた歴史研究を古田学派研究者が重視することを願っています。


第3598話 2026/02/22

『古田史学会報』192号の紹介

別役稿の〝四国の山神社分布〟に触れて

 『古田史学会報』192号を紹介します。同号には拙稿〝唐詩に見える王朝交代後の列島 ―古田説と中小路説の衝突―〟と〝古田史学の会の運命と使命 ―令和八年(二〇二六)に向けて―〟を掲載して頂きました。

 一面に掲載された別役さんの論稿〝現在の神社分布から古代を俯瞰することの危うさ ―山神問題に関して―〟は『古田史学会報』191号の拙稿〝蝦夷国の「山神社」考〟に対する御指摘と興味深い史料状況の報告で、実はわたし宛に送られてきた未発表論文でした。一読してその重要性に気づき、別役さんにお願いして『古田史学会報』に投稿していただいたものです(注①)。あわせて、わたしが主宰している「古田史学リモート勉強会(2月14日)」でも発表していただきました。

 191号の拙論では、各県神社庁HPのリストを中心にWEBで検索した「山神社」分布が、山形県を筆頭として東北地方に濃密分布していることから、この山神信仰圏は古代蝦夷国に淵源するのではないかとの仮説を発表しました。もちろん、明治の神社統廃合などがあるため、現在の分布傾向が古代まで遡ると考えてよいものか熟慮しました。その上で、明らかに山神社が東北地方に濃密分布することから(津軽地方は「山神宮」として分布。江戸期史料による)、この現象を東北各県になぜか偶然にも多く遺ったとするよりも、何らかの歴史的背景があった結果と考えた方がよいと判断しました。

 この基本的な判断は今も変わりませんが、別役稿により、四国地方にはWEBには掲載されていない「山神社」が濃密分布することを知り、驚きました。というのも、東北地方と四国地方には不思議な関係があることを知っていたからです。それは山(やま)のことを「森(モリ)」と称する例(山名)が両地方に濃密分布しており、これは古代縄文語(粛慎語あるいは蝦夷語か)に淵源するのではないかとする論稿を30年前に発表していたからです(注②)。この「モリ」分布と別役さんが紹介した四国地方の「山神社」分布とは関係があるのではないかと思ったのです。このテーマについては検討を続けます。別役さんのご指摘に感謝します。
(注)
①古賀達也「『言語考古学』の成立(序説) ―「山」と「森」について―」『古田史学会報』22号、1997年。
②別役氏は近時、『土佐史学』創刊に関わられ、同誌に論文を発表されている。

192号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』192号の内容】
○現在の神社分布から古代を俯瞰することの危うさ ―山神問題に関して 高知市 別役政光
○七〇一年の王朝交代と朝鮮半島方式から中国方式への展開 茨木市 満田正賢
○唐書類の読み方 ―谷本茂氏の批評を受けて― 世田谷区 國枝 浩
○唐詩に見える王朝交代後の列島 ―古田説と中小路説の衝突― 京都市 古賀達也
○伊都国探求 松本市 鈴岡潤一
○令和八年(二〇二六)に向けて 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』への投稿募集
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になるわかりやすい紙面作りにご協力下さい。
また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)

〖写真の説明〗『古田史学会報』192号。別役さんと古賀、大阪にて。『土佐史学』創刊号。


第3556話 2025/12/10

『古田史学会報』191号の紹介

 『古田史学会報』191号を紹介します。同号には拙稿〝荻上命題と古田論証 ―邪馬壹国の証明―〟と〝蝦夷国の「山神社」考〟を掲載して頂きました。前者では古田史学・古田説の根幹である「邪馬壹国」説に至った古田先生の学問の方法について詳述しました。後者はわたしが進めている蝦夷国研究の一環として、東北地方に濃密分布する山神社について論じたもので、「山神」信仰の淵源が古代蝦夷国に遡る、いわば倭国の「天神」信仰に比肩する蝦夷国の信仰とする仮説を提起しました。

 本号には、拙論や谷本稿のように、文献史学の方法について論究した論稿が並び、古田学派にふさわしいものとなりました。正木稿の、不改常典を天孫降臨以来の九州王朝の統治の根拠である「天壌無窮の神勅」とする新説は注目されます。諸説ある不改常典研究での論争・検証が待たれます。

 拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の書評が池上洋史さんから寄せられ、同書続編の執筆にあたり参考となりました。
191号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』191号の内容】
○荻上命題と古田論証 ―邪馬壹国の証明― 京都市 古賀達也
○『新唐書』日本伝のより深い理解に向けて ―國枝浩氏の批評に答える― 神戸市 谷本 茂
○生島神社と『祝詞』(二) 上田市 吉村八洲男
○古田武彦記念古代史セミナー2025(八王子セミナー)参加の記 千葉市 倉沢良典
○推古紀の裴世清は隋の使者ではありえない! ―野田利郎氏の史料解釈方法への諸疑問― 神戸市 谷本 茂
○蝦夷国の「山神社」考 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○王朝交代と『不改の常典』 川西市 正木 裕
○『東日流外三郡誌の逆襲』の感想 宇治市 池上洋史
○古田史学の会・関西例会のご案内
○新春古代史講演会のご案内(2026年1月18日、茨木市「おにクル」)
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になるわかりやすい紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3543話 2025/10/14

『古田史学会報』190号の紹介

 『古田史学会報』190号を紹介します。同号には拙稿〝温泉大国の九州王朝と蝦夷国 ―すいたの湯の入浴序列―〟を掲載して頂きました。同稿は、国内県別の温泉湧出量が蝦夷国(東北・北海道)と九州王朝(別府温泉・指宿温泉・他)に多いことに注目し、7~8世紀の都の中で太宰府(倭京)だけに温泉(二日市温泉=すいたの湯)が隣接していることから、九州王朝は意図的に温泉の側に遷都したとする仮説を提起しました。

 さらに、すいたの湯(川湯)には入浴序列が決められており、最初は大宰府官僚。その次に入浴できるのが、身分的には高くない「丁(よぼろ)」と呼ばれる労役に就いた人々であることを紹介しました。この序列が九州王朝時代にまで遡るのかは未詳ですが、当時の人々の思想性を考える上で興味深い風習であるとしました。

 本号で最も注目したのが谷本稿でした。昨今の「邪馬台国」説、なかでも畿内説の学問レベルが50年前(古田武彦の邪馬壹国説以前)にまで逆行していることを指摘したものです。近年、古田説支持者・古田ファンの中でさえも、ややもすれば古田説(邪馬壹国説・短里説など)への理解が曖昧になっていたり、誤解されていることをわたしも懸念していましたので、谷本さんの指摘には深く同意できました。古田史学の原点に戻って、多元史観やフィロロギーをわたし自身も学び直すきっかけにしたいと思えた、谷本さんの鋭い好論でした。

 萩野稿は編集部の手違いもあり、掲載が大きく遅れてしまいました。お詫びいたします。白石稿は、この度刊行された御著書『非時香菓(ときじくのかくのこのみ) ―斉明天皇・天智天皇伝説―』(郁朋社)の執筆動機から発行後の評判までを綴ったエッセイ。こうした投稿も大歓迎です。
190号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』190号の内容】
○繰り下げられた利歌彌多弗利の事績 川西市 正木 裕
○考古学から論じる「邪馬台国」説の最近の傾向 神戸市 谷本 茂
○消された「詔」と移された事績 東大阪市 萩野秀公
○生島神社と『祝詞』(一) 上田市 吉村八洲男
○温泉大国の九州王朝と蝦夷国 ―すいたの湯の入浴序列― 京都市 古賀達也
○伊予朝倉の斉明天皇伝承を定説にするために 今治市 白石恭子
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』28集出版記念 新春古代史講演会のご案内
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3498話 2025/06/20

『古田史学会報』188号の紹介

 『古田史学会報』188号を紹介します。同号には拙稿〝倭国伝「東西五月行、南北三月行」考〟を掲載して頂きました。同稿は、『旧唐書』倭国伝に記された倭国の領域記事「東西五月行、南北三月行」が倭国(九州王朝)からの公的情報に基づいた概数記事であることを、『養老律令』厩牧令「須置駅条」・公式令「行程条」や『延喜式』「諸國駅傳馬」を史料根拠とした実証的な方法で論じたものです。『旧唐書』の倭国記事は、歴史経緯記事を除けば7世紀後半頃の倭国律令下の日本列島(駅路や駅数など)を対象としていることから、こうした方法を採用することができ、証明にも成功しているように思われます。

 当号掲載の論稿で注目したのが上田さんの〝『続日本紀』大宝二年 「采女・兵衛」記事についての考察〟でした。九州王朝の采女制度は以前から論じられてきましたが、上田稿では『続日本紀』大宝二年「采女・兵衛」記事に着目し、論じられたことが新しい視点であり、これからの進展が期待できるテーマでした。

 『隋書』俀国伝には「王妻號雞彌。後宮有女六七百人。」という記事があります。おそらくこの「後宮」は後の「中宮」のことではないかと推測されますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)も大宝律令により采女制度を継承し、薩摩・大隅を除く「筑紫七国」と蝦夷国(陸奥国・出羽国)に隣接する越後国からも采女貢進の命令を出すに至ったものと思われます。倭国律令復元研究においても上田稿は一つの方法論を示唆したものではないでしょうか。

 188号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』188号の内容】
○逆転の万葉集Ⅰ 「あおによし」の真実 川西市 正木 裕
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(前篇) 神戸市 谷本 茂
○『続日本紀』大宝二年 「采女・兵衛」記事についての考察 八尾市 上田 武
○倭国伝「東西五月行、南北三月行」考 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(上) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○6/22出版記念講演会・会員総会のお知らせ
○『古代に真実を求めて』29集 投稿募集要項
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3492話 2025/06/05

『東京古田会ニュース』222号の紹介

 『東京古田会ニュース』222号が届きました。拙稿「倭人伝「七万余戸」の考察 ―人口推計学の限界―」を掲載していただきました。同稿は、倭人伝に記された邪馬壹国の戸数七万戸が実数なのかどうかについて考察したもので、北海道・沖縄を除く弥生時代の人口を60万人とする現代の人口推計学の数値の方が信頼できないとしました。その理由について、次のように論じました。

 〝この人口推定に用いられた計算式が統計学的・論理的に妥当かどうか、わたしには判断できませんが、推定にあたり、各時代ごとの「遺跡数」が主要ファクターになっていることは明らかです。また、「期別制限定数」なるものも、恣意性が排除できない曖昧な数値のように見えます。
このような不確かな数値を採用して弥生時代の精確な人口を推定出来るのでしょうか。そもそも、各時代の「遺跡数」などわかるはずもありません。わかるのは「発見された遺跡の数」だけですし、遺跡の性格(人家・倉庫・工房・宮殿など)や規模(遺構の面積・容積)をどのようにサンプリング・カウントして、「定数」に反映させたのでしょうか。もし仮に計算式は論理的に正しかったとしても、このような不確かで曖昧な数値や定数を用いて縄文時代や弥生時代の人口を推定できるとは、わたしには思えません。〟

 更に、正木裕さんによる研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注)を紹介し、正木さんからの解説メールを転載しました。その結論部分を転載します。

 〝壱岐(一大国)は一三八㎢・三千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約五〇㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約二五㎢=方五㎞の範囲の国)。(中略)
「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約二八〇〇㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。

 つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。全国で六〇万人などという人口推計がおかしいのです。〟

 この正木さんの計算方法は誰でも検証可能なデータに基づいているため、恣意性を排除しやすく、説得力があります。「邪馬台国」畿内説論者の多くは、倭人伝の「七万余戸」や里程記事中の「万二千余里」を信じられないとします。しかし、短里説(1里=約76メートル)を無視しない限り、邪馬壹国の位置が博多湾岸にならざるを得ないことから、同様に「七万余戸」も同時代史料であることから、少なくとも現代人の不確かな推計値よりも信頼できると思います。
なお、同紙一面に掲載された橘高修さんの「『邪馬台国』七万余戸は本当か?」では、「七万余戸」を「本当ではない」とされており、読者は相反する2つの仮説を比較できるわけですから、とてもよい配慮と思いました。異なる意見が発表され、読者がそれらを比較検証でき、一歩ずつ歴史の真実に近づけることから、同紙編集部の見識の高さがうかがえました。

(注)正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』一七集、明石書店、二〇一四年。


第3475話 2025/04/17

『九州倭国通信』218号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.218号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」の後編を掲載していただきました。前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。後編では、中国史書(『三国志』倭人伝、『宋書』倭国伝、『隋書』俀国伝、『旧唐書』倭国伝・日本国伝)の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介しました。例として『宋書』倭国伝について、次のように論じました。

 〝たとえば、『宋書』倭国伝の倭国王の比定。そこには五人の倭国王の名前、「讚」「珍」「濟」「興」「武」が記されています。いずれも『日本書紀』には見えない名前です。従って、古田氏はこれら「倭の五王」は近畿天皇家の人物ではなく、倭国も大和朝廷に非(あら)ずとしました。他方、神代の昔から近畿天皇家(後の大和朝廷)を中心に日本列島の歴史は展開したとする一元史観では、「倭の五王」全員をヤマトの天皇のこととするため、次のような解釈や諸説が発表されました。

 云わく、「讚」は履中天皇(去来穂別イサホワケ)。その理由は、第二音「サ」を「讚」と表記した。或いは仁徳天皇(大鶺鷯オホササキ)。その理由は、第三・四音の「サ」、または「ササ」を「讚」と表記した。

 云わく、「珍」は反正天皇(瑞歯別ミヅハワケ)。その理由は、第一字の「瑞」を中国側が間違えて「珍」と書いてしまった。
云わく、「濟」は允恭天皇(雄朝津間雅子ヲアサツマノワクコ)。その理由は、第三字の「津」を中国側が間違えて「濟」と書いてしまった。または第三・四音の「津間」は「妻」であり、この音「サイ」が「濟」と記された。

 云わく、「興」は安康天皇(穴穂アナホ)。その理由は、「穴穂」がまちがえられて「興」と記された。または「穂」を「興(ホン)」と誤った。
云わく、「武」は雄略天皇(大泊瀬幼武オホハツセワカタケ)。その理由は、第五字の「武」をとった。

 わたしはこのような恣意的解釈が日本古代史学界では学問的仮説として横行していることに驚きました。一元史観を是とする〝答え〟を先に決めておいて、それにあうような恣意的で奇々怪々な解釈を羅列する。これは全く美しくないというより他なく、理系ではおよそ通用しない方法です。いわんや、世界の識者を納得させることなど到底不可能です。〟

 当号掲載の沖村由香さんの「古代地名を考える(第一回)『万葉集』次田温泉(すきたのゆ)」は興味深く拝読しました。ご当地の二日市温泉は、『万葉集』には「次田温泉」と大伴旅人の歌(巻六 961番)の題詞にあり、「すきたのゆ」あるいは「すぎたのゆ」と訓まれたはずだが、平安時代の『梁塵秘抄』には「すいたのみゆ(御湯)」とあり、「すきた」→「すいた」の音韻変化が平安時代に発生しているとされました。従って、『万葉集』の「次田」の場合は、従来のように平安時代の訓み「すいた」ではなく、「すきた」と訓むべきとされました。

 わたしも太宰府条坊都市近隣にあるこの温泉に関心を抱いており、九州王朝(倭国)がここに都を置いた理由の一つに、この温泉の存在があったのではないかとする仮説を、本年7月6日の久留米大学公開講座で発表する予定です。この研究のおり、なぜ「次田」を「すいた」と訓むのだろうかと不思議に思っていたのですが、その疑問の一端が沖村さんの論稿により、わかるかもしれないと思いました。

 沖村稿によれば、「平安時代に起こった音便現象(イ音便)によるもの」とのことで、同様の例として、「大分(おほきた)」→「大分(おおいた)」や「埼玉(さきたま)」→「埼玉(さいたま)」、「秋鹿(あきか)」→「秋鹿(あいか)」があるとのこと。このような「き」→「い」という音韻変化があることを知らなかったので、とても勉強になりました。それではなぜ、「すき」の音に「次」の字を当てたのかなど、まだまだ疑問はつきません。これから勉強したいと思います。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。


第3474話 2025/04/15

『古田史学会報』187号の紹介

 『古田史学会報』187号を紹介します。同号には拙稿〝『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」〟を掲載して頂きました。同稿は、『古今集』仮名序に見える「ならの御時」傍注の「文武天皇」や、人麻呂の官位が正三位とあるのは九州王朝系史料に基づくとする仮説です。

 一面に掲載された谷本茂稿「九州王朝は「日本国」を名乗ったのか?」は、倭国(九州王朝)側が七世紀前半以前に「日本」と名乗った痕跡は無いとして、主に古田先生が晩年に発表した古田新説を批判し、むしろ旧説の方が論旨が一貫し、矛盾が少ないとしたものです。なかでも、同稿末尾に追記された【補注】は衝撃的な内容で、中国史書をはじめ漢籍に詳しい谷本さんならではの指摘だと感心しました。これこそ、古田先生が常々言っておられた〝「師の説にな、なづみそ」本居宣長のこの言葉は学問の金言です〟に相応しい論考ではないでしょうか。以下、当該部分を転載します。

 〝古田武彦氏は、『失われた九州王朝』の中で、『三国遺事』五に、新羅の真平王[在位579年~631年]の時代の用例として「日本兵」があり、当時「日本」という呼称が存在した確実な証拠であるとされた(ミネルヴァ書房版382頁~384頁)。融天師彗星歌の説明文を、「… 時に天師、歌を作り、之(これ)を歌う。『星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反(かえ)りて福慶を成さん』と。大王歓喜す。…」と読み下している。『』の部分が歌の内容を直接表記したものとみなしたのである。

 しかし、この読み方は、遺憾ながら、古田氏の誤読である。原文では、この部分に続いて「歌曰」として、実際の歌の内容が引用してある。その中には「倭」という表記があるのであるから、こちらが当時の用語であることは明らかである。古田氏が読み下し文中で『』で示した部分は、歌の原文ではなく、『三国遺事』の著者・一然の地の文(解説文)であり、十三世紀の表現であるから、「日本」が現れるのは当然なのである。〟

 187号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』187号の内容】
○九州王朝は「日本国」を名乗ったのか? 神戸市 谷本 茂
○戦中遣使と司馬仲達の称賛 渡邉義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』について たつの市 日野智貴
○「科野大宮社」に残る「多元」 上田市 吉村八洲男
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(下) 川西市 正木 裕
○『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」 京都市 古賀達也
○谷本茂氏、また多くの方との対話継続のために 世田谷区 國枝 浩
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2025年度会費納入のお願い
○メールアドレス登録のお願い
○編集後記(6/22出版記念講演会・会員総会の案内) 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3466話 2025/04/05

『東京古田会ニュース』221号の紹介

 『東京古田会ニュース』221号が届きました。拙稿「蝦夷国「会津高寺」への仏教伝来」を掲載していただきました。同稿は、近年わたしが取り組んでいるテーマ「古代日本列島の三国時代」、すなわち倭国(九州王朝)、日本国(大和朝廷)と蝦夷国(日高見国)の三国鼎立という多元史観研究の一環として、九州王朝から蝦夷国への仏教伝来史料を紹介したものです。

 残念なことに、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派に於いても蝦夷国研究は他の二国と比べて研究が遅れており、中には七世紀段階でも律令制国家の倭国や近畿天皇家よりも、蝦夷国を一段と劣る〝部族連合〟のような捉え方をする論者も見かけます。これは学界にはびこる一元史観の延長で蝦夷国を捉えたものであり、やはり蝦夷国に対しても多元史観による実証的な研究が必要です。この取り組みの一つとして、仏教受容という切り口で蝦夷国の実体に迫りたいと思い、同稿を著したものです。

 『東京古田会ニュース』には他紙には見られない特徴的な連載があります。同会々長の安彦克己さんによる「和田家文書備忘録」です。当号で11回目を迎え、今回のテーマは「安東船と宗任」。宗任(むねとう)とは安倍宗任のことで、前九年の役で敗れた安倍貞任と息子の千代童丸は自刃し、宗任は九州に流されます。わたしも三十年前に和田家文書に記された宗任配流記事と九州に遺っている宗任伝承の一致について論文を書いたことがあり、とても懐かしいテーマです。

 このような和田家文書に記された記事について、安彦さんは備忘録として連載しています。こうした基礎研究に当たる作業は、後学による和田家文書研究に大いに役立つことと思います。5月末頃に八幡書店から刊行が予定されている『東日流外三郡誌の逆襲』にも安彦さんの下記の研究論文が収録されます。

第四部 和田家文書から見える世界 扉
第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って—

 同書や会紙の安彦さんの論考により、和田家文書研究が大きく前進することを願っています。


第3445話 2025/03/10

『多元』186号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』186号が届きました。同号には拙稿〝飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土〟を掲載していただきました。同稿は、2023年11月に報道された飛鳥宮第一期(舒明天皇の飛鳥岡本宮)遺構(塀跡)発見の紹介と、同遺構の火災の痕跡が『日本書紀』記事「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。〔舒明八年〕」と一致することについて考察したものです。そして、次のように論じました。

 「九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきだ。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを今回の出土は示唆している。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応することは、『日本書紀』当該記事の信頼性を高めており、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければならない。」

 同号の一面には、和田事務局長による「安藤哲朗前会長を悼む」が掲載されていました。古田先生や古田説のことをよく知る古田史学第一世代の物故が続き、わたしも心が痛みます。生前、安藤さんから預かっていた未発表原稿は遺稿となりましたが(注)、多元的古代研究会で発行される論集に収録していただけるとのこと。十数年、大切に保管していてよかったと思いました。

 和田さんの追悼文には、わたしが知らなかった次の逸話が記されていました。

 〝安藤さんは「動より静の人」でした。発言はつねに必要にして最小、率先して人の先に立つことはまれでした。初代の高田カツ子会長が急逝された際にも、会長職を固辞され、古田先生が懸命に説得されたとも聞きました。〟

 今頃は冥界で、遺稿に示された古田説とは異なる自説を、もの静かに古田先生に語られているような気がします。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3418話(2025/01/30)〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟