古田史学会報一覧

第3028話 2023/06/01

『東京古田会ニュース』No.210の紹介

 『東京古田会ニュース』210号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の考古学」を掲載していただきました。拙稿は福島城跡(旧・市浦村)の創建年次などについて論じたものです。東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城(旧・市浦村)は東京大学による調査(注①)により、14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました(注②)。ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。この事実は東日流外三郡誌偽作説を否定するものとなりました。
当号には注目すべき論稿がありました。橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)による「古代史エッセー73 マクロ的に見た史観の推移」です。【皇国史観】【津田史学の登場】【皇国史観に対する津田の立場】【古田武彦の津田史学批判】【津田説から古田説へ】という小見出しからもわかるように、戦前から戦後、そして現在に至る日本古代史学の思潮を概説した好論です。特に津田史学の解説は興味深く拝読しました。
津田史学の特筆すべき業績に、皇国史観による『日本書紀』の解釈を否定したことがあります。戦前戦中は非難の対象となった津田史学でしたが、戦後は一転して評価されます。しかし、神話などを学問(史料批判)の対象から除外するという、行き過ぎた古代史学や戦後教育を生み出す一因にもなりました。こうした津田史学の影響を学問的に乗り越えたのが古田史学であり、フィロロギー(注④)という学問でした。
古田史学の歴史的意義を論じた橘高稿を読み、古田先生亡き後、改めて先生の学問やその方法、歴史的位置づけを確認することが、今日の古田学派にとって重要ではないかと考えさせられました。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古田武彦「アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。初出は『古代に真実を求めて』第二集、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」1370話(2017/04/15)〝フィロロギーと古田史学〟
茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古代に真実を求めて』22集、2019年。初出は『古田史学会報』147号、2018年。


第3007話 2023/05/05

『多元』No.175の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.175が届きました。同号には拙稿「古代貨幣の多元史観 ―和同開珎・富夲銭・無文銀銭―」を掲載していただきました。同稿は、本年一月の「多元の会」主催リモート研究会で清水淹さんが発表された「謎の銀銭」に啓発されて、投稿したものです。そのなかで、藤原宮から出土した地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が使用されていたのは、九州王朝(9本の水晶)を同じく9枚の富夲銭で封印するという、新王朝(日本国)の国家意思を表現したものとする仮説を発表しました。
当号冒頭に掲載された黒澤正延さん(日立市)の「推古朝における遣唐使(一) ―小野妹子と裴世清―」は、推古紀に見える遣唐使の小野妹子は九州王朝が派遣したとする研究です。意表を突く仮説であり、その当否はまだ判断できませんが、わたしは注目しています。今後の検証と論争が期待されます。


第2994話 2023/04/23

『九州倭国通信』No.210の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.210が届きました。同号には拙稿「巨勢楲田朝臣の灌漑伝承 ―新撰姓氏録の中の九州王朝―」を掲載していただきました。拙稿は、『新撰姓氏録』「右京皇別 上」に見える、巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそん)による七世紀中頃の灌漑事業記事(注①)を、浮羽郡における九州王朝系伝承としたものです。「九州古代史の会」は福岡県を中心として活動する団体ですので、わたしはなるべく九州地方に関係した論稿の投稿を心がけています。
当号には兼川晋さんのご逝去(本年二月五日没)を悼む記事が掲載されており、同氏が亡くなられたことを知りました。兼川さんは福岡市のテレビ局(テレビ西日本)で活躍され、「九州古代史の会」の前身「市民の古代研究会・九州支部」創設者のお一人です。古くからの古田先生の支持者で、古代史の本の編訳(注②)もされています。「市民の古代研究会・九州支部」はわたしが「市民の古代研究会」事務局長時代に創設されたこともあり、古田先生をお招きして創立記念講演会を福岡市で開催したことは懐かしい思い出です。
古くからの古田史学支持者や古田ファンが次々と物故され、寂しい限りです。残された者の使命として、古田先生の学問・学説、そしてその学問精神を過たず後世に伝えなければと、改めて決意しました。兼川さんのご冥福をお祈り申し上げます。

(注)
①『新撰姓氏録』右京皇別上に次の記事が見える。
「巨勢楲田朝臣
雄柄宿禰四世孫稻茂臣之後也。男荒人。天豊財重日足姫天皇〔諡皇極〕御世。遣佃葛城長田。其地野上。漑水難至。荒人能解機術。始造長楲。川水灌田。天皇大悦。賜楲田臣姓也。日本紀漏。」
②李鍾恒著・兼川晋訳『韓半島からきた倭国』新泉社、1990年。


第2984話 2023/04/12

『古田史学会報』175号の紹介

 『古田史学会報』175号が発行されました。一面には拙稿「唐代里単位の考察 ―「小里」「大里」の混在―」を掲載して頂きました。『旧唐書』倭国伝の「去京師一萬四千里」や同地理志に見える里程記事は実際距離との整合が難しく、実測値から換算した一里の長さもバラバラです。この「一萬四千里」が短里なのか唐代の長里なのかなど、京師(長安)から倭国までの距離について諸説が出されています。本稿では、諸説ある唐代の里単位について考察し、『旧唐書』に「小里」(約430m)と「大里」(約540m)が混在していることを論じました。

 谷本稿は、『古田史学会報』173号の大原稿「田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察」への批判論文で、史料の解釈上の問題点と田道間守の持ち帰った橘をバナナとする西江碓児説の有効性についての指摘です。谷本さんらしい、厳密な史料読解と諸仮説への慎重な姿勢を促す論稿と思われました。

 日野稿は倭国における名字の発生や変遷について論じたもので、古田先生も古田学派内でもあまり論じられてこなかったテーマです。日本史上で使用されてきた「姓(かばね)」「本姓」「氏」「名字」などの定義(注①)とその変遷の煩雑さ・重要さを改めて考えさせる論稿でした。

 大原稿は関西例会でも発表されたもので、三内丸山遺跡の六本柱〝高層建築物(高さ20m)〟の復元が誤っているとするものです。同復元作業における様々な疑問点を指摘し、実際はもっと低い建物と考えざるを得ないとされました。吉野ヶ里遺跡の楼観についても疑義を示されており(注②)、今後の検証が期待されます。

 今号には2023年度の会費振込用紙が同封されています。「古田史学の会」の各種事業は皆様の会費・ご寄付に支えられていますので、納入をよろしくお願い申し上げます。

175号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。
【『古田史学会報』175号の内容】
○唐代里単位の考察 ―「小里」「大里」の混在― 京都市 古賀達也
○常世国と非時香菓について 神戸市 谷本 茂
○上代倭国の名字について たつの市 日野智貴
○三内丸山遺跡の虚構の六本柱 大山崎町 大原重雄
○「壹」から始める古田史学・四十一
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅲ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2023年度会費納入のお願い
○編集後記

(注)
①ウィキペディアでは「姓氏」「名字」について、次の説明がなされている。(以下、転載)
姓氏(せいし)とは、「かばね(姓)」と「うじ(氏)」、転じて姓や名字(苗字)のこと。
名字または苗字(みょうじ、英語:surname)は、日本の家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏(民法750条、790条など)、通俗的には姓(せい)ともいう。
日本の名字は、元来「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった。以下の文では表記を統一するため固有名、法令名、書籍名を除き「名字」と記載する。
「名字」と「姓」又は「氏」はかつては異なるものであった。たとえば清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が「名字」、「次郎三郎」が「通称」、「源」が「氏(うじ)」ないし「姓(本姓)」、「朝臣」が「姓(カバネ)」(古代に存在した家の家格)、「家康」が「諱(いみな)」(本名、実名)となる。
②吉野ヶ里遺跡の「環濠」や「土塁・柵」の疑義について、大原氏の次の論稿がある。
大原重雄「弥生環濠施設を防衛的側面で見ることへの疑問点」『古田史学会報』149号、2018年。


第2976話 2023/03/29

『東京古田会ニュース』No.209の紹介

 『東京古田会ニュース』209号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を掲載していただきました。同稿は3月11日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマで、30年ほど前に行った『東日流外三郡誌』の存在を昭和三十年代頃から知っていた人々への聞き取り調査の報告です。当時、証言して頂いた方のほとんどは鬼籍に入っておられるので、改めて記録として遺しておくため、同紙に掲載していただいています。次号には「『東日流外三郡誌』の考古学」を投稿予定です。
当号には特に注目すべき論稿二編が掲載されていました。一つは、同会の田中会長による「会長独言」です。今年五月の定期総会で会長職を辞されるとのこと。藤澤前会長が平成28年(2016)に物故され、その後を継がれて、今日まで会長としてご尽力してこられました。
当稿では、「高齢化の波は当会にも及んでおり、会員の減少だけでなく、月例学習会への結集も低迷が続いています。」と、高齢化やコロナ過による例会参加者数の低迷を吐露されています。これは「古田史学の会」でも懸念されている課題です。日々の生活や目前の関心事に追われるため、わが国の社会全体で〝世界や日本の歴史〟を顧みる国民が減少し続けていることの反映ではないでしょうか。そうした情況にあって、例会へのリモート参加が高齢化の課題解決に役立っているのではないかと、田中会長は期待を寄せられています。わたしも同感です。この方面での取り組みを、わたし自身も始めましたし(古田史学リモート勉強会)、「古田史学の会」としても同体制強化を進めてきました。関係者のご理解とご協力を得ながら、更に前進させたいと願っています。
注目したもう一つの論稿は新庄宗昭さん(杉並区)の「小論・酸素同位体比年輪年代法と法隆寺五重塔心柱594年の行方」です。奈文研による年輪年代法が、西暦640年以前では実際よりも百年古くなるとする批判が出され、基礎データ公開を求める訴訟まで起きたことは古代史学界では有名でした。そうした批判に対して、奈文研の測定値は間違っていないのではないかとする論稿〝年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―〟をわたしは『東京古田会ニュース』200号で発表しました。今回の新庄稿ではその後の動向が紹介されました。
奈文研の年輪年代のデータベース木材をセルロース酸素同位体比年輪年代法で測定したところ、整合していたようです。その作業を行ったのは、「古田史学の会」で講演(2017年、注①)していただいた中塚武さんとのこと。中塚さんはとてもシャープな理化学的論理力を持っておられる優れた研究者で(注②)、当時は京都市北区の〝地球研(注③)〟で研究しておられました。氏の開発された最新技術による出土木材の年代測定に基づいた、各遺構の正確な編年が進むことを期待しています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1308話(2016/12/10)〝「古田史学の会」新春講演会のご案内〟
②同「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟で、中塚氏との対話を次のように紹介した。
「中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。
「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」
中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。」
③総合地球環境学研究所。地球研は略称。


第2957話 2023/03/03

『多元』No.174の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.174が届きました。同号には拙稿「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」を掲載していただきました。同稿は〝物部氏は九州王朝の王族ではなかったか〟とする作業仮説に基づき、物部氏系の代表的古典である『先代旧事本紀』の史料批判を試みたものです。とりわけ、『記紀』に記された〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、なぜ『先代旧事本紀』には記されていないのかに焦点を絞って論じました。まだ初歩的な「予察」レベルの論稿ですが、筑紫物部と大和物部という多元的物部氏の視点が物部氏研究には不可欠であるとしました。本テーマについて引き続き考察を深めたいと考えています。
当号に掲載された新庄宗昭さん(杉並区)の「随想 古代史のサステナビリティ」は、法隆寺五重塔心柱などの年輪年代測定値が間違っているとして訴訟にまで至った事件を紹介し、これをセルロース酸素同位体比年輪年代測定で検証すべきとされており、我が意を得たりと興味深く拝読しました。
というのも、セルロース酸素同位体比年輪年代測定の研究者、中塚武さん(当時、総合地球環境学研究所教授)とは、九州王朝説の是非を巡って論争したことがあり(注①)、「古田史学の会」講演会で同測定法について講演して頂いたこともあったからです(注②)。
更には、奈文研の年輪年代測定値が間違っており、年代によっては史料記載年代よりも百年古く出ているとする鷲崎弘朋説に対して、前期難波宮水利施設出土木材や法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値は妥当とする異論を唱えたこともありました(注③)。
「洛中洛外日記」(注④)でも紹介したことがありますが、セルロース酸素同位体比年輪年代測定とは、次のようなものです。

〝酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。〟

この方法なら原理的に1年単位で木材の年代決定が可能です。新庄さんが言われるように、同測定方法で年輪年代測定値をクロスチェックすべきだと、わたしも思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟
②同「洛中洛外日記」1322話(2017/01/14)〝新春講演会(1/22)で「酸素同位体比測定」解説〟
③同「年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―」『東京古田会ニュース』200号、2021年。
④同「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
同「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟


第2952話 2023/02/26

『東日流外三郡誌』真実の語り部たち

昨日、安彦克己さん(東京古田会・副会長)からお電話をいただき、1月、3月に続いて5月も和田家文書研究会での発表の要請を受けました。三十年前に古田先生と行った和田家文書調査の記録を『東京古田会ニュース』に掲載していただいており、それと併行してリモートでも発表させていただくことにしたものです。
1月は「和田家文書調査の思い出」(注)、3月11日(土)のテーマは「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」で、早くから和田家文書や『東日流外三郡誌』の存在を知る次の方々の証言を紹介します。

佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職・青森県仏教会々長)
松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司・洗磯崎神社宮司)
白川治三郎(元市浦村々長)
藤本光幸氏(北方新社版『東日流外三郡誌』編集者)
和田喜八郎氏(和田家文書所蔵者)
和田章子氏(喜八郎氏の長女)
※肩書きは当時のもの。和田章子さん以外は故人。

5月の和田家文書研究会では、考古学的出土事実と『東日流外三郡誌』の整合について報告をします。青森県弘前市の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんもリモートで聴講されており、同会との交流を深めるため、久しぶりに津軽を訪問できればと願っています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2917話(2023/01/15)〝「和田家文書調査の思い出」を発表〟


第2946話 2023/01/16

『古田史学会報』174号の紹介

 『古田史学会報』174号が発行されました。一面には日野智貴さんの論稿「菩薩天子と言うイデオロギー」が掲載されました。近年の『古田史学会報』に掲載された論稿としては、政治思想史を主題としたもので異色、かつ優れた仮説です。

 九州王朝の天子、阿毎多利思北孤を〝海東の菩薩天子〟と古田先生は述べられましたが、なぜ多利思北孤が「菩薩天子」として君臨したのかを政治(宗教)思想から明らかにしたのが日野稿です。すなわち、天孫降臨以降、日本列島各地に侵出割拠した天孫族(天神の子孫)に対して、多利思北孤は菩薩戒を受戒することにより、仏教思想上で「天神」よりも上位の「菩薩天子」として、全国の豪族を統治、君臨したとするもので、独創的な視点ではないでしょうか。

 当号には、もう一つ注目すべき論稿が掲載されています。正木さんの〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟です。同稿は、大宰府政庁Ⅰ期とⅡ期の成立年代について、文献史学と考古学のエビデンスに基づく編年を提起したものです。太宰府の成立年代としては北部の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも南部の条坊造営が先行し、両者の創建時期を八世紀初頭と七世紀末とする井上信正説(注①)が最有力視されていますが、観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学のエビデンス(注②)と整合していませんでした。

 正木稿では、飛鳥編年に基づく太宰府の土器編年が不適切として、政庁Ⅱ期を670年頃、政庁Ⅰ期を前期難波宮と同時期の七世紀中頃、そして条坊都市の中心にある通古賀(王城神社)が多利思北孤と利歌彌多弗利時代の遺構として「太宰府古層」と命名し、条坊造営と同時期の七世紀前半成立としました。この正木説は有力と思われます。

 拙稿〝九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―〟も大宰府政庁遺構の造営尺と造営時期を論じていますので、併せてお読み頂ければと思います。
上田稿〝九州王朝万葉歌バスの旅〟は『古田史学会報』デビュー作、白石稿〝舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地〟は久しぶりの投稿です。

 174号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』174号の内容】
○菩薩天子と言うイデオロギー たつの市 日野智貴
○九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」― 京都市 古賀達也
○舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地 今治市 白石恭子
○九州王朝万葉歌バスの旅 八尾市 上田 武
○「壹」から始める古田史学・四十
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度会費未納会員へのお願い
○『古代に真実を求めて』26集発行遅延のお知らせ
○編集後記

(注)
①井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
②古賀達也「観世音寺考」119号、2013年。


第2933話 2023/02/01

『東京古田会ニュース』No.208の紹介

『東京古田会ニュース』208号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』」を掲載していただきました。同稿は本年1月14日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマに対応したものです。同紙にはこのところ和田家文書関連論稿を掲載していただいています。次の通りです。

206号 和田家文書に使用された和紙
207号『東日流外三郡誌』公開以前の史料
208号『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―

209号には「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を投稿しました。併行して、東京古田会主催の和田家文書研究会にもリモートで研究発表をさせていただいています。今月に続いて3月11日(土)も発表予定です。この機会に、三十年前に古田先生と実施した津軽行脚の記録を整理・紹介したいと考えています。
拙稿の他に皆川恵子さん(松山市)の「田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その3 前編」が掲載されています。秋田孝季と同時代の江戸期の史料『赤蝦夷風説考』工藤平助著などが紹介されており、勉強になりました。


第2919話 2023/01/17

『九州倭国通信』No.209の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.209が届きました。同号には拙稿「『ヒトの寿命』は38歳、DNA研究で判明」を掲載していただきました(注①)。拙稿は、二倍年暦の傍証になりそうな理系研究の紹介を主内容としているため、当初から横書き掲載を想定して執筆したものです。というのも、わたしの英文論文“A study on the long lives described in the classics”(注②)を紹介するので、横書きにせざるを得ませんでした。

 今回の209号は、横書きの論稿が拙稿や表紙を含め7.5頁を占め、全14頁の過半数を超えています。『九州倭国通信』は横書き主流の新時代に入ってきたようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2839話(2022/09/18)〝「ヒトの寿命」は38歳、DNA研究で判明〟
②http://www.furutasigaku.jp/epdf/phoenix1.pdf


第2917話 2023/01/15

「和田家文書調査の思い出」を発表

昨日の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただきました。当テーマは、和田家文書偽作キャンペーンが激しくなった、今から三十年程前に実施した、古田先生との津軽行脚の報告と和田家文書の史料情況について解説したものです。当発表は注目されていたようで、青森県弘前市からも「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さん約20名がリモート参加されていました。
今回の報告の主目的は、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書が昭和四十年代に和田喜八郎氏により偽作されたとする偽作説への反証として、津軽行脚での調査成果の紹介でした。当時の関係者のほとんどが物故されており、わたしの記憶が鮮明なうちに和田家文書研究者に伝え、偽作説が誤りであることを明確にすることでした。
当時(1996年8月)の聞き取り調査のうちで最も有力な証言は、北海道松前町阿吽寺で偶然にお会いした永田富智さん(当時、松前町史編纂委員。故人)によるものでした。その要旨は次の通りです。

(1) 津軽で貴重な文書が出たことを知り、当時、関わっていた北海道史の編纂に役立つかもしれないと思い、昭和46年に市浦村を訪問した。
(2) そのとき、同村役場で『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を見た。
(3) 文書に使用されている紙は、明治の末頃に流行した機械梳きの和紙であった。
(4) 文字や墨の色も古く、戦後のものではありえず、明治の末頃のものと思われた。

この証言は決定的です。永田さんは中近世史研究の専門家で、数多くの古文書を見てきたプロフェッショナルです。その専門家が『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を昭和46年に実見し、それらが明治の末頃のもので、決して戦後に作られたものではないと証言されのです。このときの証言はビデオ録画されており、証拠能力も申し分ありません。
このような報告をしたのですが、質疑も活発で時間不足のまま終わりました。主催された安彦克己さん(東京古田会・副会長)から、三月と五月の研究会での継続発表をご要請いただきました。ありがたいことですので、当時の調査資料の整理を兼ねて、準備したいと思います。


第2904話 2022/12/31

『多元』No.173の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.173が届きました。同号には拙稿「宮名を以て天皇号を称した王権」を掲載していただきました。同稿は、『東京古田会ニュース』二〇六号(二〇二二年九月)に掲載された橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」での重要な指摘を受けて著したものです。それは次の指摘です。

「(古田説によれば、船王後墓誌に見える)宮は天皇ごとに違うので、九州王朝は国王が変わるたびに中心となる宮の場所が変わる制度をもっていたことになるわけです。国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。『天皇の坐す宮』と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか」 ※()内は古賀による補記。

この橘高さんの問題提起を受けて、九州王朝(倭国)が七世紀前半頃に恒久的都城・宮として「太宰府」条坊都市(名称はおそらく「倭京」)を造営した後、そこで即位・君臨した天子は何と呼ばれたのかについて考証したものです。関東の研究者たちとの学問的交流により、わたしの問題意識が深められました。
当号には和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)による「一年を顧みて」が掲載されています。そこで七世紀の太宰府の編年研究について次のように述べています。

 「太宰府は九州王朝の首都の有力候補地と考えられます。しかし、その首都機能の成立年代はなかなか確定しません。(中略)新たな論拠、新たな物証が見つかった時点で議論を前に進めることが賢明なのではないかと愚考します。」

太宰府成立研究におけるエビデンス(出土物など)に基づく新たな研究を示唆されたものです。既存エビデンスの精査をはじめ、新たなエビデンスや視点に基づいた研究を進めたいと思います。