古代に真実を求めて一覧

第1719話 2018/08/11

『発見された倭京』出版記念講演会の準備

 9月には『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会を東京(9/01、東京家政学院大学千代田キャンパス)と大阪(9/09、i-siteなんば)で、10月14日(日)には久留米大学(御井キャンパス)で開催します。東京講演会は講師の肥沼孝治さん・山田春廣さん、そして正木裕さん(古田史学の会・事務局長)により、講演で使用するパワーポイントの準備やレジュメの作成が着々と進められています。
 大阪ではわたしも講演しますので、その準備を進めています。36枚のシートを使用して太宰府と前期難波宮について、全国支配に必要な規模と様式を持つ都城という視点で発表します。かなり完成度の高い研究発表になりそうです。多くの皆さんのご参加をお願いします。

9月1日『発見された倭京』東京講演会済み

9月9日『発見された倭京』大阪講演会済み

10月14日『発見された倭京』九州講演会済み


第1684話 2018/06/04

「実証と論証」茂山さんからのメール

 「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡典嗣先生が言われたこの言葉の意味や、それを受け継がれた古田先生の学問の方法についてより深く学びたいとわたしは願ってきました。
 そこで、フィロロギーの創始者であるアウグスト・ベークの著書『解釈学と批判 -古典文献学の精髄-』にまで遡っての解説を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)にお願いして始まった「フィロロギーと古田史学」と題した関西例会での11回に及んだ講義もこの五月で最終回を迎えました。毎回、資料を作成して難解なベークの著書を解説していただいた茂山さんに深く感謝いたします。
 その終了後に、「学問は実証よりも論証を重んずる」に絞ってご意見をまとめて欲しいと更にお願いしていたところ、メールで「実証と論証について」という御論稿をいただいたのですが、わたし一人のものとするのはもったいないと思い、茂山さんのご了解をいただいて、転載することにしました。
 茂山さんは哲学を専攻されたとのことで、難解なベークの著作を深く考察され、そのエッセンスをわたしたちに教えていただきました。このテーマは奥が深く、まだまだこれからも勉強しなければならないと考えていますが、今回いただいた茂山さんの論稿はよく納得できるもので、学問の方法を身につけるためにもこれからの指針にしていきたいと思っています。

【以下、メールを転載】
古賀 様
          2018.5 茂山憲史

 村岡典嗣氏の「学問は実証より論証を重んじる」という言葉を理解するためには、村岡氏が自らの学問を「アウグスト・ベークのフィロロギーに基づいています」と公言していたのですから、ベークのフィロロギーからこの言葉を理解しなければならないように思います。
 ベークのフィロロギーについて1年にわたって報告してきたことを踏まえると、村岡氏の「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉は、具体的には多くの意味を内蔵していて、「肯定してもよい部分」と「容認してはいけない部分」があるように思います。

 肯定できるのは、
「事実を示すことが実証だと勘違いしてはいけません」
「実証にも常に論証が含まれていなければ、つまり、事実の理解と主張についての論証がなければ、学問的とは言えません」
「論証抜きの事実だけを根拠に、ひとの論証を否定することはできません。ひとの論証を否定できるのは、さらなる論証によってのみです」
という意味に理解することです。

 一方、容認できないのは
「実証の証明力(信頼度)よりも論証の証明力(信頼度)の方が、より大きい」
「実証と論証の結果が対立したときは、論証の方が正しいと結論するべきです」
「論証が完全であれば、実証の作業は必要ありません」
などと理解することです。

 村岡氏が言及していない方法論上の問題を、論理学とベークのフィロロギーから追加するなら
「仮説は論証されるべきものです」
「事実と合わない、という理由だけで仮説を葬り去ることはできません」
「文献学における論証は、かならず事実から出発しなければなりません」
「したがって、自ずとその論証は実証でもあり、実証がないという批難は当たりません」
「個別部分的に実証がないという批判はできますが、それを理由に仮説や論証の全体を葬り去ることはできません」
「実証より論証を重んじるからといって、論証にあぐらをかき、論証に緻密さや論理性を欠くようでは学問とは言えません」
などでしょうか。

 ベークは「未完成は欠陥ではない」といっていました。「未完成」ですから「証明できた」ということでないのは、当然なのです。ここで重要なのは、それが「欠陥ではない」ということです。「その仮説を捨て去ってしまってはいけませんよ」と言ってくれているのです。「未完成」ということは「否定の論証」も完成していないのですから、何も決まっていません。


第1643話 2018/04/07

九州王朝「北陸道」の問答

 『発見された倭京』で九州王朝の「東山道」15国を比定し、古代官道が太宰府を起点に展開されているとした西村秀己さんの論理的仮説を実証的に検証された山田春廣さんが、ブログにおいて太宰府起点の「東山道」「東海道」そして「北陸道」の地図を発表されています。山田さんは「妄想」と謙遜されていますが、そういうことはなく、なかなか優れた仮説(地図)と思います。
 その山田さんのブログ上で「北陸道」について、わたしと問答(学問的対話)を続けていますが、面白い展開を見せつつありますので、「洛中洛外日記」に転載させていただきました。皆さんも是非「問答」にご参加下さい。

【わたしからの質問】
山田様
 貴ブログの「北陸道」地図をわたしのfacebookに転載させていただきました。なかなかよい仮説(地図)と思いました。「北陸道」については次の疑問を抱いているのですが、山田さんのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

1.他は「海道」「山道」なのに、なぜここだけ「北陸道」と命名したのか。あるいは、九州王朝は別の名称だったのでしょうか。「北海道」が別ルートとしてありますから、仕方なく「北陸道」と命名したのでしょうか。

2.筑前から東山道の山口県部分を飛び越えて、山陰ルートに向かいますが、やや不自然のような気がします。

 以上、ご教示ください。なお、この疑問は山田説を否定するという趣旨のものではありませんので、ご理解ください。

【山田さんからの応答】
 まず、「「九州王朝の北陸道」十二國」は西村さまの「五畿七道の謎」に沿って東・西・南・北海道を比定し、そこに私が比定した「東山道十五國」を重ねると、残りが「北陸道」だという理屈だけで想定したものですので、「東山道十五國」の比定も含めて批判されて然るべきものと考えています。ですから、古代官道の諸国について私の想定図とは異なる比定があってしかるべきと思っております。
 倭国(九州王朝)の古代官道については、西村仮説「五畿七道の謎」(「九州王朝(倭国)の首都大宰府」「太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道」)のガイドラインに沿ってさえいれば、もっと様々な比定がなされてしかるべきで、それによってさらに議論が深められていくものと考えております。
 さて、古賀さまがご疑問に思われたことがらについて、私なりに考えてみました(根拠は示せませんので妄想ということです)。

1.「北陸道」という命名は確かに不審です。海に面している(実際も海路が主ではないかと思う)のに「陸」というのが納得できないところです。よって、これは「北海道」ではなかったかと考えています(西村さまとは少し異なる考えになりますが)。
 「北海道」は倭の五王時代にあった壱岐・対馬・金海(きむへ、南朝鮮)へ向かう海道であったわけですが、倭国(九州王朝)が朝鮮半島の版図を失い、海峡国家でなくなって以降の時代に、何時の時代かわかりませんが、博多湾を出て令制では「山陰道」と呼ばれている諸国沿いの海路が「北海道」と改称され、さらに「北陸道」と改称されたのではないかと妄想しています。

2.上記の妄想から、「北陸道」が「北海道」を改称した「海路」ということであれば、長門(山口県)を飛び越えて行くのもありと考えます。また、別の考え方として、「北陸道」が長門国の北部を通っている(長門を二道が通る)ということも考えられます。しかし、「官道」を「軍管区」と考えると、一国を二分するというのは不自然ですので、「北陸道」は「陸路」ではなく「海路」だった(後の時代に「北海道」を「北陸道」と改称した)という考えの方に今の段階では魅力を感じています。

 古賀さまのご疑問にお答えできたとは思いませんが、とりあえず考え(妄想)を述べさせていただきました。


第1638話 2018/04/01

百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)

 太宰府市の観世音寺創建年次について、『発見された倭京』(古田史学の会編、明石書店。2018.03)収録の拙稿「太宰府都城の年代観 近年の研究成果と -九州王朝説-」で次のように記しました。

 「3.観世音寺の造営(六七〇年)
〔根拠〕①出土創建瓦老司Ⅰ式の編年が川原寺の頃と考えられる。②『二中歴』年代歴に白鳳年間の創建と記されている。③『日本帝皇年代記』に白鳳十年(六七〇)の創建と記されている。④『勝山記』に白鳳十年(六七〇)の創建と記されている。⑤『続日本紀』和銅二年(七〇九)二月条に、天智天皇が斉明天皇のために創建したとある。」(85頁)

 観世音寺の創建年は従来から諸説あり、一元史観においても安定した通説は見られませんでした。しかし、最終的な伽藍の完成年は8世紀前半とされてきました。考古学的にも創建年を特定できるほどの出土土器が少なく、出土瓦などの編年によっていました。
 他方、九州王朝説の視点から、わたしは創建瓦の老司Ⅰ式を従来の考古学編年に基づいて、川原寺系のもので藤原宮式よりも古い(7世紀後半)とする見解を支持してきました。更に文献史料に白鳳年間(661〜683)や白鳳十年(670)とするものを複数発見し、観世音寺創建を670年としました。
 この観世音寺創建670年説は揺るがないと考えているのですが、その結果、別の問題が発生し、解決できずに残されたままになっていました。観世音寺の本尊である百済伝来の丈六金銅阿弥陀如来像は、観世音寺創建までどこの寺院に安置されていたのかという問題です。(つづく)


第1637話 2018/03/31

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(4)

 『発見された倭京 太宰府都城と官道』には特集以外の一般論文も収録しています。特集テーマではないが、『古田史学会報』等に掲載された論文のうち、書籍として後世に残し、広く読者や研究者に紹介するべきものと編集部が判断した次の論文です。

【一般論文】
倭国(九州)年号建元を考える 西村秀己
前期難波宮の築造準備について 正木 裕
古代の都城 宮域に官僚約八千人 服部静尚
太宰府「戸籍」木簡の考察 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也
【フォーラム】
九州王朝の勢力範囲 服部静尚

 これらの論文の中でも、西村稿「倭国(九州)年号建元を考える」と服部稿「古代の都城 宮域に官僚約八千人」はその進歩性において際だっていたので、採用を決めました。
 西村稿は、最初の九州年号を「継躰」とする『二中歴』の「善記」年号の細注記事「善記以前武烈即位」を根拠に、九州年号の建元は「善記」であり、そのとき「継躰」を遡って追号したとするものです。論理性にのみ支えられたといっても過言ではない論証方法であり、わたしとしてはそこまで言い切ってよいものかと、結論には直ちに賛成できませんでしたが、なぜ『二中歴』以外の九州年号史料に「継躰」がないのかという疑問への一つの「回答」であることを評価しました。更に九州年号原型論にとどまらず、九州王朝(倭国)がどの時点でどのような事情により中国南朝の冊封体制から離れ、自らの年号を建元したのかという研究分野においても、新たな展開を期待させる学問上の進歩性を有した論文です。
 服部稿は七世紀における九州王朝の都城論において、律令国家としての九州王朝(倭国)の首都の行政規模を具体的に計算し、八千人の官僚群が必要であることを明らかにしたものです。従って、服部論文以後の九州王朝都城論はこの大量の官僚群の収容が可能かどうかを無視して論じることができなくなりました。その意味で古田学派の都城研究の学問水準を引き上げるという業績を有しており、学問研究に寄与するという進歩性が明確です。
 このように、編集部では論文の採用選考において、その論文が持つ新規性と進歩性を重要な判断基準の一つとしています。(おわり)


第1636話 2018/03/30

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(3)

 『発見された倭京 太宰府都城と官道』の主テーマは太宰府条坊都市とそれを守る水城や大野城などの防衛施設ですが、併せて古代官道も特集しました。本書に古代官道特集を加えた理由について説明します。
 九州王朝説による古代官道論については合田洋一さんや肥沼孝治さんによる先駆的研究がありましたが、特集のきっかけとなったのは補完的で際立った二つの論文の出現でした。ひとつは西村秀己さんの「五畿七道の謎」、もうひとつは山田春廣さんの「『東山道十五國』の比定-西村論文『五畿七道の謎』の例証」です。
 西村論文は発表前に西村さんからその概要はお聞きしていました。五畿七道に「北海道」が無いことを指摘され、壱岐・対馬へと続く海路こそ九州王朝の「北海道」であったとされ、その他の東海道や北陸道なども、本来は九州王朝の都(筑前)を起点としていたとする仮説です。西村さんらしい骨太な論証で注目していたのですが、その具体的な例証を提示されたのが山田論文です。
 山田さんは『日本書紀』景行紀に見える不思議な記事「東山道十五国」について、一元史観では東山道には十五国もなく説明つかないが、九州王朝説によれば筑前を起点として東北地方までの経過国数がぴったり十五国であることを見いだされ、西村仮説が成立することを見事に論証されました。
 この二つの論稿を契機に、九州王朝官道論と太宰府都城論を並べることにより、九州王朝の勢力範囲や権力構造を多面的に把握することができるはずと思いました。そのような判断から、第二特集として「九州王朝の古代官道」を加えました。両論文は古田説・九州王朝説を発展させた論証重視の秀逸の研究成果です。(つづく)


第1634話 2018/03/29

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(2)

 『発見された倭京 太宰府都城と官道』は各執筆者の論稿により成り立っていますが、その論稿執筆過程では古田学派研究者のサポートや先駆的研究に支えられていることも特長の一つです。たとえば次のような記述が論稿中に見えます。

○古賀達也「太宰府都城と羅城」
 「筑紫野市で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会が十二月三日に開催され、参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から報告メールと写真が送られてきました。」(11頁)
○古賀達也「太宰府都城の年代観」
 「久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)よりいただいた『第9回 西海道古代官衙研究会資料集』(西海道古代官衙研究会編、二〇一七年一月二二日)に前畑遺跡筑紫土塁の盛土から出土した炭片の炭素同位体比年代測定値が掲載されていました。」(75頁)
 「久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を何度も熟読しています。同書は二〇一七年二月十八〜十九日に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集で、久富さんがわざわざ参加されて入手された貴重なものです。」(79頁)
○西村秀己「南海道の付け替え」
 「筆者は三年ほど前に古田史学の会・四国の例会で今井久氏(愛媛県西条市・本会会員)から本稿と同様の内容の話をお伺いしたことがある。その際今井氏のお話の出典がよくわからなかったのだが、今回別役政光氏(高知県高知市・本会会員)との対話中に『続日本紀』に見いだしたものである。従って『南海道の付け替え』の功績は今井氏に帰することを明記する。」(152頁)
○肥沼孝治「古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」
 「これらの道が軍用道路といってもいいと多元的『国分寺』研究サークルで共同研究して下さっている山田春廣さんからアドバイスをいただいた。(中略)同サークルの川瀬健一さんより、仮説(3)の問題点も指摘していただき、このように直してみた。」(174頁)

 更に表紙の写真は「古田史学の会」会員の茂山憲史さん(水城)と犬塚幹夫さん(前畑遺跡・筑紫土塁)の撮影によるものです。四隅の絵は原幸子さん(古田史学の会・会員)が描かれました。改めて御礼申し上げます。(つづく)


第1633話 2018/03/28

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(1)

 発刊されたばかりの「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』を読んでいます。収録論稿の採用や編集に関わったわたしが言うのもなんですが、かなりの学問水準に達した一冊となっています。「古田史学の会」も古田先生亡き後、「弟子」らによってようやくこのレベルの論集を出せるようになったのかと思うと、感無量です。そこで、同書の収録論文について、わたしの感想や評価点を「書評」として連載したいと思います。
 本書には太宰府条坊や水城の編年等に関する拙稿も何編か収録されたのですが、直近のものでも執筆後一年近くを経ており、その後に増えた知見や深まった認識により、現時点では不十分で「腰が引けた」表現もあります。これは日々進化発展するという学問が有する性格上仕方がないことであり、ある意味では当然発生することでもあります。そうした一例を紹介します。
 拙稿「太宰府条坊と水城の造営時期」の最末尾に次の一文を記しました。

 「サンプルの資料性格から考えると、年輪数が少ない敷粗朶の測定値が木樋より適切であり、しかも発掘条件の良さから、最上層の敷粗朶の年代中央値六六〇年を最も重視すべきと思います。そうすると水城の造営年代は七世紀後半頃となり、『日本書紀』の天智三年(六六四)造営記事も荒唐無稽とはできず、九州王朝説の立場から再検討する必要があります。」(72頁)

 古田説では水城の築造を白村江敗戦(663年)よりも前とするのが常でした。わたしもそうした見解に立っていたのですが、同論稿執筆のために水城関連の発掘調査報告書を精査した結果、白村江戦後の水城完成もありうるのではないかと考えるようになりました。そうしたときに記したのがこの一文でした。しかし、その時点ではそれ以上の考察には至っていませんでした。そして、最近発表した「洛中洛外日記」1627・1629・1630話(2018/03/13〜03/18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1)〜(3)」に至り、ようやく水城完成を『日本書紀』に記された白村江戦後の天智三年(六六四)の完成の方がより適切とする認識に到達できました。もちろん、その当否は古田学派内での論争や検討を経て確認されることになりますが、現時点ではわたしはそのように考えています。
 こうした見解の変更や認識の進展は、仮に誤っていたとしても学問研究に貢献することができますので、わたし自身は良いことと思っています。(つづく)


第1631話 2018/03/24

『発見された倭京 太宰府都城と官道』発刊

 「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』が明石書店から発刊されました。「古田史学の会」2017年度賛助会員へは明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員は書店やアマゾンでお取り寄せください。「古田史学の会」でも会員特価販売しますので、注文方法等については『古田史学会報』4月号をご参照ください。
 ご参考までに、同書「巻頭言」を転載します。

〔巻頭言〕
真実は頑固である
      古田史学の会・代表 古賀達也

 「真実は頑固である」。恩師、古田武彦先生が生前に語っておられた言葉だ。その意味するところは明確である。いかなる権力者であっても、あるいは学界の権威とされる学者であろうとも、歴史の真実を隠し通すことはできない。失われたかに見える歴史の真実は、姿や場所を変えながらも、時を得て、人々の眼前に復活する。古田先生はかたくそう信じておられた。わたしも信じている。
 たとえば、『日本書紀』。養老四年(七二〇)に近畿天皇家が自らの歴史的正統性を宣言した「史書」だ。いわく、わが王朝は天孫降臨に淵源を持ち、初代の神武天皇は奈良の橿原宮で天下に君臨した、とする。しかし、その内実は先在した九州王朝(倭国)の存在を隠し、自らが神代の時代から日本列島内唯一無二の王朝であるという歴史造作の「史書」であった。この歴史の真実を隠蔽した「史書」の目的は達成されたかに見えた。その歴史観が千数百年の永きにわたり日本古代史の「真実」とされてきたからだ。
 それでも、真実は頑固である。古田武彦という希代の歴史学者の登場により、『日本書紀』が隠し通そうとした九州王朝(倭国)の真実の姿が明らかにされたのである。そして、古田先生が没した翌年の二〇一六年、九州王朝の都(太宰府)を防衛する巨大羅城(筑紫土塁)がその片鱗を現した。当地では平野部を横断する水城、国内最大の山城である大野城を始め基肄城や阿志岐山城の存在が知られていた。いずれも太宰府防衛のための軍事施設である。これだけの巨大防衛施設群に囲まれた都城は、日本列島内では太宰府だけだ。もちろん、近畿天皇家が居した大和からは、このような巨大防衛施設は発見されていない。太宰府が九州王朝(倭国)の首都であることを、これら巨大遺跡は示し続けていたのだ。そして今回の筑紫土塁の出現は、歴史の真実を隠し通すことは不可能であることを改めて示したものといえよう。
 他方、人間はときに愚かである。九州王朝実在の歴史的証言者たる筑紫土塁は、こともあろうに九州王朝の末裔ともいえる当地の行政(筑紫野市)により破壊される運命となった。わたしたちは歴史の証言者(筑紫土塁)を護ることができなかった。真実を愛する後世の人々に対して、このことをわたしたちの世代は恥じねばならず、土塁を築いた古代の筑紫の人々に対して詫びなければならない。無念である。
 しかし、それでもいう。真実は頑固である。破壊された筑紫土塁になり代わって、その存在と土塁が護ろうとした九州王朝(倭国)の都、太宰府都城の真実を解明し、後世に語り継ぐべく、一冊の書籍をわたしたちは世に残した。それが本書『発見された倭京 太宰府都城と官道』である。本書には「古田史学の会」の研究者により著された「太宰府新論」とも言うべき論稿を収録した。それは従来の大和朝廷支配下の一地方都市としての「大宰府」論ではない。日本列島の代表者として紀元前から七世紀末まで中国の歴代王朝と交流した九州王朝(倭国)の首都としての太宰府の真実を明らかにするべく著された研究論文群である。
 更に、その太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道に関する先駆的かつ秀逸の論稿も収録し得た。これら多元的古代官道研究の進展により、九州王朝研究の裾野は広がりを持ち、その権力範囲や統治機構についても立体的に把握することが可能となるであろう。
 この真実の歴史の証言である一冊を、現代と後世の古代史ファンと研究者に贈りたい。そして、「真実は頑固である」との古田武彦先生の言葉が“嘘”ではなかったことを読者は知るであろう。わたしたち多元史観・古田学派の研究者は、これからも真実に頑固であり続けたいと願っている。(平成三十年一月二八日、筆了)

〔追補〕「太宰府」の表記については、現地地名の「太宰府」と『日本書紀』の「大宰府」があるが、本書においては、どちらの表記を使用するかは各執筆者の判断に委ねた。古田学派としては、古田武彦氏の使用例に倣い、九州王朝(倭国)の都を意味する場合は「太宰府」を用いることが慣例である。


第1591話 2018/01/29

『古代に真実を求めて』21集の目次

 『古代に真実を求めて』21集のタイトルを「発見された倭京 太宰府都城と官道」とすることに決定しました。現在、校正と編集作業が進められています。順調にいけば三月末頃には発刊できる見通しです。「古田史学の会」2017年度賛助会員には1冊進呈いたします。大手書店やアマゾンでも購入できます。
 目次は下記の通りで、優れた論文や興味深いコラムなどが収録されています。多元的太宰府研究と九州王朝官道研究の最新論文集です。お楽しみに。

古代に真実を求めて第二十一集

発見された倭京

発見された倭京
–太宰府都城と官道

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

巻頭言 「真実は頑固である」  古賀達也
 
Ⅰ「九州王朝説による太宰府都城の研究」

太宰府都城と羅城        古賀達也
倭国の城塞首都「大宰府」    正木 裕
都督府の多元的考察       古賀達也
大宰府の政治思想        大墨伸明
太宰府条坊と水城の造営時期   古賀達也
太宰府都城の年代観(近年の研究成果と九州王朝説) 古賀達也
太宰府大野城の瓦        服部静尚
条坊都市の多元史観―太宰府と藤原宮の創建年― 古賀達也
観世音寺の「碾磑」について   正木 裕
よみがえる「倭京」大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言― 正木 裕

【コラム】「竈門山旧記」の太宰府
 【コラム】三山鎮護の都、太宰府
 【コラム】『養老律令』の中の九州王朝
 【コラム】太宰府条坊の設計「尺」の考察
 【コラム】牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市
 【コラム】太宰府政庁遺構の字地名「大裏」

Ⅱ「九州王朝の古代官道」

五畿七道の謎          西村秀己
「東山道十五国」の比定     山田春廣
南海道の付け替え        西村秀己
風早に南海道の発見と伊予の「前・中・後」 合田洋一
古代官道―南海道研究の最先端(土佐国の場合)― 別役政光
  古代官道は軍事ハイウェイ  肥沼孝治

 【コラム】東山道都督は軍事機関
 【コラム】長宗我部地検帳に見る「大道」
 【コラム】九州王朝は駅鈴も作ったか

一般論文

倭国(九州)年号建元を考える  西村秀己
前期難波宮の築造準備について  正木 裕
古代の都城―宮域に官僚約八千人― 服部静尚
太宰府「戸籍」木簡の考察 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也

【フォーラム】
九州王朝の勢力範囲       服部静尚

古田史学の会・会則
全国世話人・地域の会名簿
編集後記 


第1442話 2017/07/04

古田先生による「倭国年号」の使用例

 おかげさまで『古代に真実を求めて』20集の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は初版印刷部数も増え、「古田史学の会」で引き取った分も完売できました。「古田史学の会」会員やお買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。
 今回、今まで使い慣れていた「九州年号」という学術用語ではなく、敢えて「倭国年号」をタイトルに採用するにあたり、編集部では時間をかけて検討を続けました。その結果、先のタイトルを決定したのですが、それに至る経緯や理由について説明します。
 『古代に真実を求めて』の発行部数や販売部数が伸び悩んでいたこともあり、その打開策として特別企画を中心に編集し、タイトルもそれにあわせて個性的なものにするというリニューアルを18集(『盗まれた「聖徳太子」伝承』)から行いました。その編集方針が当たり、発行部数も販売部数も増加し、そして書店の取り扱いにも良い変化が起こりました。
 ご存じのように、近年は書籍通販が増え、多くの書店が閉鎖に追い込まれています。そして残った大型書店でも歴史や古代史コーナーの縮小が続いています。ですから、よほど売れる本か、売れ筋のテーマを取り扱った本しか棚に並べてもらえないのです。そのため、以前に発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)のような専門書的なタイトルでは書棚に並べてもらえなくなったのです。
 そうしたことも一因として、編集部ではタイトルを今まで以上に重視し、「地方史」扱いされかねない「九州年号」から、より一般的な「倭国年号」を採用することにしたのです。しかしそれでは「倭国年号」が大和朝廷の年号と受け止められますので、そうではないことを明確にするため、「大和朝廷以前」の一語を付記しました。
 もちろん「倭国年号」という用語が学術的に適切であることも十分に検討し確認しました。このことをご理解いただくために、古田先生が著作でどのように「倭国年号」という用語を理解されていたのかをご紹介しましょう。それは古田先生の初めての通史となった『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社刊。後にミネルヴァ書房から復刊)において、13回にわたり「倭国年号」という用語を使用され、中でも次のようにその妥当性を強調されています。3例のみ紹介します。

○初版本57頁 復刊本46頁
 (前略)「九州年号」、正確には「倭国年号」(あるいは「イ妥国年号」)の実在を前提にせずしては、『隋書』イ妥国伝をまともに読みこなすことは不可能だったのである。

○初版本66頁 復刊本54頁
 (前略)この点、「九州年号」とは、「九州を都とした権力のもうけた年号」の意であって、「九州だけに用いられた年号」の意ではない。この点からいえば、「倭国年号」の称が一段とふさわしいかもしれぬ。

○初版本67頁 復刊本55頁
 (前略)この問題は、九州年号=倭国年号に関する最深の箇所へと、わたしたちを否応なくおもむかせる。

 以上のように古田先生は「倭国年号」という用語が「正確には『倭国年号』」「一段とふさわしいかもしれぬ」とまで評価されているのです。こうした古田先生による「倭国年号」の使用例も確認し、編集部はタイトルに「倭国年号」の採用を決定しました。なお、「倭国年号」の使用は、古田学派の研究者により論文などに昔から使用されており、そのことが問題視されることもありませんでした。古田先生も使用されていたのですから、当然です。
 もちろん、「九州年号」という学術用語の使用に何ら問題はありませんし、「古田史学の会」や編集部が「九州年号」の使用をやめたり、「使用禁止」などできるはずもありません。編集部は本のタイトルに「倭国年号」という用語を採用することは「適切」と判断したに過ぎないのですから。このことについては同書「巻頭言」でわたしが次のように記しており、曲解や誤解無きようお願いします。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
      古田史学の会・代表 古賀達也

(前略)
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
(後略)


第1426話 2017/06/19

『古代に真実を求めて』21集の原稿募集

 昨日の午前中に『古代に真実を求めて』編集会議を開催しました。2018年3月発刊予定の21集のタイトルや特集企画などを決定しました。
 昨年末から筑紫野市前畑土塁の発見などが続く九州王朝の都(倭京)太宰府を中心テーマにすることとし、書名を『よみがえる倭京《大和朝廷以前》』(仮称)としました。最終的には出版元の明石書店と相談の上、決定します。
 特集企画はより多くの会員が「参加」しやすいよう、二つとしました。次の通りです。

特集企画Ⅰ 九州王朝説による太宰府都城研究
特集企画Ⅱ 九州王朝の古代官道研究

 この特集企画にふさわしい原稿を募集します。応募資格は「古田史学の会」会員であることです。論文とは別に企画に沿った短編のコラム記事も受け付けます。
 また、特集企画以外の一般原稿も受け付けますので、ご投稿をお待ちしています。投稿方法や要項については『古田史学会報』8月号をご参照ください。投稿締め切りは本年10月末です。
 おかげさまで特集企画を前面に打ち出したことが成功したようで、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の売れ行きも好調のようです。