古代に真実を求めて一覧

第1631話 2018/03/24

『発見された倭京 太宰府都城と官道』発刊

 「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』が明石書店から発刊されました。「古田史学の会」2017年度賛助会員へは明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員は書店やアマゾンでお取り寄せください。「古田史学の会」でも会員特価販売しますので、注文方法等については『古田史学会報』4月号をご参照ください。
 ご参考までに、同書「巻頭言」を転載します。

〔巻頭言〕
真実は頑固である
      古田史学の会・代表 古賀達也

 「真実は頑固である」。恩師、古田武彦先生が生前に語っておられた言葉だ。その意味するところは明確である。いかなる権力者であっても、あるいは学界の権威とされる学者であろうとも、歴史の真実を隠し通すことはできない。失われたかに見える歴史の真実は、姿や場所を変えながらも、時を得て、人々の眼前に復活する。古田先生はかたくそう信じておられた。わたしも信じている。
 たとえば、『日本書紀』。養老四年(七二〇)に近畿天皇家が自らの歴史的正統性を宣言した「史書」だ。いわく、わが王朝は天孫降臨に淵源を持ち、初代の神武天皇は奈良の橿原宮で天下に君臨した、とする。しかし、その内実は先在した九州王朝(倭国)の存在を隠し、自らが神代の時代から日本列島内唯一無二の王朝であるという歴史造作の「史書」であった。この歴史の真実を隠蔽した「史書」の目的は達成されたかに見えた。その歴史観が千数百年の永きにわたり日本古代史の「真実」とされてきたからだ。
 それでも、真実は頑固である。古田武彦という希代の歴史学者の登場により、『日本書紀』が隠し通そうとした九州王朝(倭国)の真実の姿が明らかにされたのである。そして、古田先生が没した翌年の二〇一六年、九州王朝の都(太宰府)を防衛する巨大羅城(筑紫土塁)がその片鱗を現した。当地では平野部を横断する水城、国内最大の山城である大野城を始め基肄城や阿志岐山城の存在が知られていた。いずれも太宰府防衛のための軍事施設である。これだけの巨大防衛施設群に囲まれた都城は、日本列島内では太宰府だけだ。もちろん、近畿天皇家が居した大和からは、このような巨大防衛施設は発見されていない。太宰府が九州王朝(倭国)の首都であることを、これら巨大遺跡は示し続けていたのだ。そして今回の筑紫土塁の出現は、歴史の真実を隠し通すことは不可能であることを改めて示したものといえよう。
 他方、人間はときに愚かである。九州王朝実在の歴史的証言者たる筑紫土塁は、こともあろうに九州王朝の末裔ともいえる当地の行政(筑紫野市)により破壊される運命となった。わたしたちは歴史の証言者(筑紫土塁)を護ることができなかった。真実を愛する後世の人々に対して、このことをわたしたちの世代は恥じねばならず、土塁を築いた古代の筑紫の人々に対して詫びなければならない。無念である。
 しかし、それでもいう。真実は頑固である。破壊された筑紫土塁になり代わって、その存在と土塁が護ろうとした九州王朝(倭国)の都、太宰府都城の真実を解明し、後世に語り継ぐべく、一冊の書籍をわたしたちは世に残した。それが本書『発見された倭京 太宰府都城と官道』である。本書には「古田史学の会」の研究者により著された「太宰府新論」とも言うべき論稿を収録した。それは従来の大和朝廷支配下の一地方都市としての「大宰府」論ではない。日本列島の代表者として紀元前から七世紀末まで中国の歴代王朝と交流した九州王朝(倭国)の首都としての太宰府の真実を明らかにするべく著された研究論文群である。
 更に、その太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道に関する先駆的かつ秀逸の論稿も収録し得た。これら多元的古代官道研究の進展により、九州王朝研究の裾野は広がりを持ち、その権力範囲や統治機構についても立体的に把握することが可能となるであろう。
 この真実の歴史の証言である一冊を、現代と後世の古代史ファンと研究者に贈りたい。そして、「真実は頑固である」との古田武彦先生の言葉が“嘘”ではなかったことを読者は知るであろう。わたしたち多元史観・古田学派の研究者は、これからも真実に頑固であり続けたいと願っている。(平成三十年一月二八日、筆了)

〔追補〕「太宰府」の表記については、現地地名の「太宰府」と『日本書紀』の「大宰府」があるが、本書においては、どちらの表記を使用するかは各執筆者の判断に委ねた。古田学派としては、古田武彦氏の使用例に倣い、九州王朝(倭国)の都を意味する場合は「太宰府」を用いることが慣例である。


第1591話 2018/01/29

『古代に真実を求めて』21集の目次

 『古代に真実を求めて』21集のタイトルを「発見された倭京 太宰府都城と官道」とすることに決定しました。現在、校正と編集作業が進められています。順調にいけば三月末頃には発刊できる見通しです。「古田史学の会」2017年度賛助会員には1冊進呈いたします。大手書店やアマゾンでも購入できます。
 目次は下記の通りで、優れた論文や興味深いコラムなどが収録されています。多元的太宰府研究と九州王朝官道研究の最新論文集です。お楽しみに。

古代に真実を求めて第二十一集

発見された倭京

発見された倭京
–太宰府都城と官道

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

巻頭言 「真実は頑固である」  古賀達也
 
Ⅰ「九州王朝説による太宰府都城の研究」

太宰府都城と羅城        古賀達也
倭国の城塞首都「大宰府」    正木 裕
都督府の多元的考察       古賀達也
大宰府の政治思想        大墨伸明
太宰府条坊と水城の造営時期   古賀達也
太宰府都城の年代観(近年の研究成果と九州王朝説) 古賀達也
太宰府大野城の瓦        服部静尚
条坊都市の多元史観―太宰府と藤原宮の創建年― 古賀達也
観世音寺の「碾磑」について   正木 裕
よみがえる「倭京」大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言― 正木 裕

【コラム】「竈門山旧記」の太宰府
 【コラム】三山鎮護の都、太宰府
 【コラム】『養老律令』の中の九州王朝
 【コラム】太宰府条坊の設計「尺」の考察
 【コラム】牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市
 【コラム】太宰府政庁遺構の字地名「大裏」

Ⅱ「九州王朝の古代官道」

五畿七道の謎          西村秀己
「東山道十五国」の比定     山田春廣
南海道の付け替え        西村秀己
風早に南海道の発見と伊予の「前・中・後」 合田洋一
古代官道―南海道研究の最先端(土佐国の場合)― 別役政光
  古代官道は軍事ハイウェイ  肥沼孝治

 【コラム】東山道都督は軍事機関
 【コラム】長宗我部地検帳に見る「大道」
 【コラム】九州王朝は駅鈴も作ったか

一般論文

倭国(九州)年号建元を考える  西村秀己
前期難波宮の築造準備について  正木 裕
古代の都城―宮域に官僚約八千人― 服部静尚
太宰府「戸籍」木簡の考察 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也

【フォーラム】
九州王朝の勢力範囲       服部静尚

古田史学の会・会則
全国世話人・地域の会名簿
編集後記 


第1442話 2017/07/04

古田先生による「倭国年号」の使用例

 おかげさまで『古代に真実を求めて』20集の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は初版印刷部数も増え、「古田史学の会」で引き取った分も完売できました。「古田史学の会」会員やお買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。
 今回、今まで使い慣れていた「九州年号」という学術用語ではなく、敢えて「倭国年号」をタイトルに採用するにあたり、編集部では時間をかけて検討を続けました。その結果、先のタイトルを決定したのですが、それに至る経緯や理由について説明します。
 『古代に真実を求めて』の発行部数や販売部数が伸び悩んでいたこともあり、その打開策として特別企画を中心に編集し、タイトルもそれにあわせて個性的なものにするというリニューアルを18集(『盗まれた「聖徳太子」伝承』)から行いました。その編集方針が当たり、発行部数も販売部数も増加し、そして書店の取り扱いにも良い変化が起こりました。
 ご存じのように、近年は書籍通販が増え、多くの書店が閉鎖に追い込まれています。そして残った大型書店でも歴史や古代史コーナーの縮小が続いています。ですから、よほど売れる本か、売れ筋のテーマを取り扱った本しか棚に並べてもらえないのです。そのため、以前に発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)のような専門書的なタイトルでは書棚に並べてもらえなくなったのです。
 そうしたことも一因として、編集部ではタイトルを今まで以上に重視し、「地方史」扱いされかねない「九州年号」から、より一般的な「倭国年号」を採用することにしたのです。しかしそれでは「倭国年号」が大和朝廷の年号と受け止められますので、そうではないことを明確にするため、「大和朝廷以前」の一語を付記しました。
 もちろん「倭国年号」という用語が学術的に適切であることも十分に検討し確認しました。このことをご理解いただくために、古田先生が著作でどのように「倭国年号」という用語を理解されていたのかをご紹介しましょう。それは古田先生の初めての通史となった『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社刊。後にミネルヴァ書房から復刊)において、13回にわたり「倭国年号」という用語を使用され、中でも次のようにその妥当性を強調されています。3例のみ紹介します。

○初版本57頁 復刊本46頁
 (前略)「九州年号」、正確には「倭国年号」(あるいは「イ妥国年号」)の実在を前提にせずしては、『隋書』イ妥国伝をまともに読みこなすことは不可能だったのである。

○初版本66頁 復刊本54頁
 (前略)この点、「九州年号」とは、「九州を都とした権力のもうけた年号」の意であって、「九州だけに用いられた年号」の意ではない。この点からいえば、「倭国年号」の称が一段とふさわしいかもしれぬ。

○初版本67頁 復刊本55頁
 (前略)この問題は、九州年号=倭国年号に関する最深の箇所へと、わたしたちを否応なくおもむかせる。

 以上のように古田先生は「倭国年号」という用語が「正確には『倭国年号』」「一段とふさわしいかもしれぬ」とまで評価されているのです。こうした古田先生による「倭国年号」の使用例も確認し、編集部はタイトルに「倭国年号」の採用を決定しました。なお、「倭国年号」の使用は、古田学派の研究者により論文などに昔から使用されており、そのことが問題視されることもありませんでした。古田先生も使用されていたのですから、当然です。
 もちろん、「九州年号」という学術用語の使用に何ら問題はありませんし、「古田史学の会」や編集部が「九州年号」の使用をやめたり、「使用禁止」などできるはずもありません。編集部は本のタイトルに「倭国年号」という用語を採用することは「適切」と判断したに過ぎないのですから。このことについては同書「巻頭言」でわたしが次のように記しており、曲解や誤解無きようお願いします。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
      古田史学の会・代表 古賀達也

(前略)
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
(後略)


第1426話 2017/06/19

『古代に真実を求めて』21集の原稿募集

 昨日の午前中に『古代に真実を求めて』編集会議を開催しました。2018年3月発刊予定の21集のタイトルや特集企画などを決定しました。
 昨年末から筑紫野市前畑土塁の発見などが続く九州王朝の都(倭京)太宰府を中心テーマにすることとし、書名を『よみがえる倭京《大和朝廷以前》』(仮称)としました。最終的には出版元の明石書店と相談の上、決定します。
 特集企画はより多くの会員が「参加」しやすいよう、二つとしました。次の通りです。

特集企画Ⅰ 九州王朝説による太宰府都城研究
特集企画Ⅱ 九州王朝の古代官道研究

 この特集企画にふさわしい原稿を募集します。応募資格は「古田史学の会」会員であることです。論文とは別に企画に沿った短編のコラム記事も受け付けます。
 また、特集企画以外の一般原稿も受け付けますので、ご投稿をお待ちしています。投稿方法や要項については『古田史学会報』8月号をご参照ください。投稿締め切りは本年10月末です。
 おかげさまで特集企画を前面に打ち出したことが成功したようで、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の売れ行きも好調のようです。


第1373話 2017/04/22

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』読後感

 今春3月に発行した『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集』を何度も読み返しています。収録した論稿は選び抜かれたものですから、いずれも読み応えがありますが、下記の目次を見ていただければ気づかれると思いますが、これら論稿の掲載順序や配置・分類に工夫がなされ、読み進めることにより九州年号や九州王朝の理解が進むように編集されています。また専門的な論文の間には、読みやすく面白いコラム記事が適宜挿入されています。服部静尚編集長の編集力が光っています。
 今後の改良点として、もう少し写真や図表を増やすことや、巻末に収録した資料写真を巻頭か関連論文の近くに掲載すれば良かったかなと思いました。次号に反映させたいと思います。
 本書の発刊記念講演会を東京・大阪・福岡で開催予定ですので、別途、ご案内します。

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
          古田史学の会編
 A5判 192頁 定価2200円+税
 明石書店から3月刊行

 『日本書紀』『続日本紀』等に登場しない年号――それは大和朝廷(日本国)以前に存在した九州中心の王朝(倭国)が制定した独自の年号であり、王権交代期の古代史の謎を解く鍵である。九州王朝を継承した近江朝年号など倭国年号の最新の研究成果を集める。

〔巻頭言〕九州年号(倭国年号)から見える古代史 古賀達也

【特集】失われた倭国年号《大和朝廷以前》

Ⅰ 倭国(九州)年号とは
初めて「倭国年号」に触れられる皆様へ 西村秀己
「九州年号(倭国年号)」が語る「大和朝廷以前の王朝」 正木 裕
九州年号(倭国年号)偽作説の誤謬―所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判―    古賀達也
九州年号の史料批判―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―    古賀達也
『二中歴』細注が明らかにする九州王朝(倭国)の歴史    正木 裕
訓んでみた「九州年号」    平野雅曠
『書紀』三年号の盗用理由について 正木 裕

コラム① 九州王朝の建元は「継体」か「善記」か 古賀達也
コラム② 『二中歴』九州年号細注の史料批判    古賀達也
コラム③ 「白鳳壬申」骨蔵器の証言 古賀達也
コラム④ 同時代「九州年号」史料の行方 古賀達也
コラム⑤ 九州年号「光元」改元の理由 古賀達也
コラム⑥ 「告期の儀」と九州年号「告貴」 古賀達也
コラム⑦ 「元号の日」とは 合田洋一

Ⅱ 次々と発見される「倭国年号」史料とその研究    
九州年号「大長」の考察    古賀達也
「近江朝年号」の研究 正木 裕
九州王朝を継承した近江朝廷―正木新説の展開と考察―    古賀達也
越智国・宇摩国に遺る「九州年号」 合田洋一
「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書― 前垣芳郎
納音付き九州年号史料の出現―熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介―    古賀達也
納音付き九州年号史料『王代記』    古賀達也
兄弟統治と九州年号「兄弟」    古賀達也
天皇家系図の中の倭国(九州)年号 服部静尚
『日本帝皇年代記』の九州年号(倭国年号) 古賀達也
安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した倭国年号 服部静尚

コラム⑧ 北と南の九州年号(倭国年号) 古賀達也
コラム⑨『肥後国誌』の寺社創建伝承    古賀達也
コラム⑩ 「宇佐八幡文書」の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑪ 和歌木簡と九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑫ 日本刀と九州年号 古賀達也
コラム⑬ 神奈川県にあった「貴楽」年号 冨川ケイ子
コラム⑭ こんなところに九州年号! 萩野秀公
コラム⑮ 東北地方の九州年号(倭国年号)    古賀達也

○資料『二中歴』『海東諸国紀』『続日本紀』
○「古田史学の会」会則、全国世話人名簿、「地域の会」名簿、友好団体名簿。
○編集後記


第1345話 2017/03/02

【巻頭言】

九州年号(倭国年号)から見える古代史

 今朝は久しぶりに仕事で和歌山市に向かっています。和歌山には化学工場が多く、化学メーカー同士で競合したり協力したりと、そのビジネス環境は複雑です。
 今月末頃に発行される『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(「古田史学の会」編、『古代に真実を求めて』20集)の宣伝も兼ねて、わたしが執筆担当した「巻頭言」を転載紹介します。なぜタイトルに従来の「九州年号」ではなく「倭国年号」を選んだのかの説明や本書の研究史的位置づけなどを記しています。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
         古田史学の会・代表 古賀達也

 古代の中国史書に記された日本列島の代表国家「倭国」がいわゆる大和朝廷ではなく、北部九州に都を置いた九州王朝であることを古田武彦氏(平成二七年〔二〇一五〕没、享年八九歳)は名著『失われた九州王朝』(昭和四八年〔一九七三〕、朝日新聞社刊。ミネルヴァ書房より復刻)で明らかにされた。
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
 倭国(九州王朝)が制定した倭国年号(九州年号)は継躰元年(五一七)に始まり、大長九年(七一二)まで続いたと考えられている。他方、倭国(九州王朝)から王朝交代し、列島の代表者となった近畿天皇家(日本国)は初めての年号「大宝」(七〇一)を「建元」したことが『続日本紀』に見える。この時期に倭国から日本国へと、列島の中心権力が交代したことが、これら両国の年号からもうかがえ、その時代の日本列島のことを記した中国の史書『旧唐書』に「倭国伝」「日本国伝」が別国表記(日本国は倭国の別種)されていることとも見事に対応しているのである。さらには考古学的出土事実(木簡等)においても、倭国内の行政単位「評」が七〇一年から全国一斉に「郡」に代わったことも、この九州王朝から大和朝廷への王朝交代を反映していると考えざるを得ないのである。
 古田学派における倭国年号(九州年号)研究は、古田武彦氏の九州王朝説の提唱以来、全国各地の研究者により活発に進められてきた。その第一段階は諸史料に残された九州年号の調査探索であり、その集大成として『市民の古代』第十一集(市民の古代研究会編、新泉社。一九八九年)が「特集『九州年号』とは何か」として発刊された。次いで第二段階では九州年号の「年号立て(各年号の正しい順番と文字。暦年との対応など)」、すなわち原型論についての研究がなされた。その結論として、九州年号群史料としては現存最古の『二中歴』「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いとする説が最有力となり、さらに『二中歴』から漏れた「大長」年号が七〇一年以後に実在したことも明らかとなった。そして第三段階では、九州年号と九州年号史料に基づく九州王朝史研究へと発展した。その成果がミネルヴァ書房から刊行された『「九州年号」の研究 ー近畿天皇家以前の古代史ー』(古田史学の会編、二〇一二年)として結実したのであるが、本書はその続編あるいは姉妹編に相当する。
 本書は近年の九州年号研究の最先端論文を収録するにとどまらず、コラムとして各地の研究者による様々な九州年号関連記事も掲載した。この狙いは読んで面白いというだけではなく、読者にも九州年号研究の一翼に加われるという思いを共有していただける様々な切り口紹介という側面も有している。
 本書中、出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新たな概念である。江戸期成立の諸史料に、天智天皇の時代の年号として「中元(六六八〜六七一年)」「果安(六七二年)」が散見されるのだが、従来は九州年号と見なされることはなく、言わば誤伝あるいは後世の創作の類ではないかとされ、九州年号研究者から取り上げられることもほとんどなかった。わたしの知るところでは、二〇一一年五月の「古田史学の会・関西例会」で竹村順弘氏(古田史学の会・事務局次長)が「天智の年号ではないか」と指摘されたくらいであった。
 その詳細は当該論文を読んでいただくこととして、この新概念は九州年号研究の延長線上で生まれたものであり、六〜七世紀の日本列島の古代の真実を探る上で有力な視点となる可能性を秘めている。中でも九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への中心権力の移行(王朝交代)の実体を研究するうえで、貴重な仮説と言わざるを得ない。まだ検証過程の「未証仮説」でもあり、読者からのご批判を待ちたい。
 以上のように、本書は倭国年号(九州年号)研究を新次元に引き上げるべく、野心的な論稿を収録した。「古田史学の会」が全ての日本古代史研究者や歴史ファンに是非を問う一冊なのである


第1342話 2017/02/27

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の目次

 今春発行予定の『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集』の目次が服部静尚さんから送られてきましたので、ご紹介します。「古田史学の会」2016年度賛助会員には1冊進呈します。お楽しみに。

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
          古田史学の会編
 A5判 192頁 定価2200円+税
 明石書店から3月中旬刊行
 ISBN978-4-7503-4492-8 C0321-E

 『日本書紀』『続日本紀』等に登場しない年号――それは大和朝廷(日本国)以前に存在した九州中心の王朝(倭国)が制定した独自の年号であり、王権交代期の古代史の謎を解く鍵である。九州王朝を継承した近江朝年号など倭国年号の最新の研究成果を集める。

〔巻頭言〕九州年号(倭国年号)から見える古代史 古賀達也

【特集】失われた倭国年号《大和朝廷以前》

Ⅰ 倭国(九州)年号とは

初めて「倭国年号」に触れられる皆様へ    西村秀己
「九州年号(倭国年号)」が語る「大和朝廷以前の王朝」    正木 裕
九州年号(倭国年号)偽作説の誤謬―所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判―    古賀達也
九州年号の史料批判―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―    古賀達也
『二中歴』細注が明らかにする九州王朝(倭国)の歴史    正木 裕

失われた倭国年号

失われた倭国年号
《大和朝廷以前》

訓んでみた「九州年号」    平野雅曠
『書紀』三年号の盗用理由について    正木 裕

コラム① 九州王朝の建元は「継体」か「善記」か    古賀達也
コラム② 『二中歴』九州年号細注の史料批判    古賀達也
コラム③ 「白鳳壬申」骨蔵器の証言    古賀達也
コラム④ 同時代「九州年号」史料の行方    古賀達也
コラム⑤ 九州年号「光元」改元の理由    古賀達也
コラム⑥ 「告期の儀」と九州年号「告貴」    古賀達也
コラム⑦ 「元号の日」とは    合田洋一

Ⅱ 次々と発見される「倭国年号」史料とその研究
    
九州年号「大長」の考察    古賀達也
「近江朝年号」の研究    正木 裕
九州王朝を継承した近江朝廷―正木新説の展開と考察―    古賀達也
越智国・宇摩国に遺る「九州年号」    合田洋一
「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書―    前垣芳郎
納音付き九州年号史料の出現―熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介―        古賀達也
納音付き九州年号史料『王代記』    古賀達也
兄弟統治と九州年号「兄弟」    古賀達也
天皇家系図の中の倭国(九州)年号    服部静尚
『日本帝皇年代記』の九州年号(倭国年号)    古賀達也
安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した倭国年号    服部静尚

コラム⑧ 北と南の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑨『肥後国誌』の寺社創建伝承    古賀達也
コラム⑩ 「宇佐八幡文書」の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑪ 和歌木簡と九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑫ 日本刀と九州年号    古賀達也
コラム⑬ 神奈川県にあった「貴楽」年号    冨川ケイ子
コラム⑭ こんなところに九州年号!    萩野秀公
コラム⑮ 東北地方の九州年号(倭国年号)    古賀達也

資料『二中歴』『海東諸国紀』『続日本紀』


第1157話 2016/03/29

古田武彦は死なず

古田武彦は死なず

好評『古田武彦は死なず』の目次紹介

 この度、明石書店から発刊された『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)はご好評をいただき、「古田史学の会」内外からたくさんご注文をいただいています。「古田史学の会」2015年度賛助会員(年会費5000円)の方へは、明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員の皆さんも、お近くの書店などでお買い求めいただければ幸いです。
 同書の目次を紹介します。ご覧のように古田先生の追悼特集にふさわしい内容とすることができました。また、優れた研究論文も収録しています。おかげさまでとても良い本となりました。今は亡き古田先生にも喜んでいただけるものと思います。

『古田武彦は死なず』 目次

○巻頭言
二〇一五年、慟哭の十月  古田史学の会代表 古賀達也
古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦氏  古田史学の会全国世話人・事務局長 正木 裕

○追悼メッセージ
古代史学の「天岩戸」を開いた古田先生を讃える  荻上紘一
弔意  創価学会インターナショナル会長 池田大作
古田武彦先生を悼む  東北大学教授 佐藤弘夫
古田武彦さんを悼む  学校法人旭学園理事長、考古学者 高島忠平
古田武彦さんを忘れない  中山千夏
古田先生を悼む  桂米團治
追悼 古田武彦先生  森嶋瑤子
同志、古田武彦先生を悼む  明石書店代表取締役会長 石井昭男
古田武彦先生を偲んで  古田武彦と古代史を研究する会会長 藤沢 徹
追悼  多元的古代研究会会長 安藤哲朗
古田先生と齋藤史さん  古田史学の会まつもと 北村明也
古田先生との思いで  古田史学の会・北海道代表 今井俊圀
古田武彦先生への追悼文  古田史学の会・仙台会長 原 廣通
古田武彦という人をどこまでも愛して  古田史学の会・東海会長 竹内 強
古田史学とわたし  水野孝夫
古田先生をしのぶ  古田史学の会・四国会長 阿部誠一
古田武彦先生 追悼文  久留米地名研究会(編集長) 古川清久
「倭人伝」のご返事-古田先生の書簡のご紹介-  野田利郎

○特別掲載 古代史対談
      桂米團治・古田武彦・古賀達也
     (KBS京都ラジオ「本日、米團治日和。」の妙禄。茂山憲史氏による)

○〔再録〕古田武彦先生の記念碑的遺稿
村岡典嗣論 -時代に抗する学問-  古田武彦
アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉  古田武彦
真実と歴史と国家 -二十一世紀のはじめに-  古田武彦

○論説・古田史学 〔資料 古田武彦研究年譜〕
古田武彦先生の著作と学説  古賀達也
学問は実証よりも論証を重んじる  古賀達也
「言素論」研究のすすめ  古賀達也
資料 古田武彦研究年譜  西村秀己

○研究論文
孫権と俾弥呼
 古田武彦氏の「俾弥呼の魏への戦中遣使」論証を踏まえて  正木 裕
四天王寺と天王寺  服部静尚
盗用された「仁王経・金光明経」講説
 -古田武彦氏の「持統吉野行幸の三十四年遡上」論証を踏まえて-  正木 裕
鞠智城神籠石山城の考察  古賀達也
「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 -古田武彦氏の『隋書』イ妥国伝、「釈迦三尊光背名」の解釈を踏まえて-  正木 裕
九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎  合田洋一
『日本書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城
 -古田武彦氏の『書紀』斉明紀の解明を踏まえて-  正木 裕
「唐軍進駐」への素朴な疑問  安随俊昌
倭国(九州王朝)遺産一〇選  古賀達也
「坊ちゃん」と清  西村秀己

○古田史学の会・会則
○「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
○編集後記  服部静尚
○二十一集投稿募集要項
○古田史学の会 会員募集


第1121話 2016/01/12

古田先生追悼講演会、迫る! 済み

 大阪府立大学i-siteなんばでの古田武彦先生追悼講演会(17日)が迫ってきました。当日、ご披露させていただく各界からの追悼メッセージや先生の著作目録を収録した案内パンフレットももうすぐ完成します。このパンフレットは当日来場者に無料で進呈いたします。
 追悼会に先だって、追悼文を送っていただいた方々のお名前をご紹介します。(順不同)

荻上紘一様(大妻女子大学学長・新東方史学会会長)
池田大作様(創価学会インターナショナル会長)
高島忠平様(旭学園理事長・考古学者)
佐藤弘夫様(東北大学教授・日本思想史学会前会長)
中山千夏様(作家・タレント)
桂米團治様(落語家)
森嶋瑤子様(経済学者森嶋道夫氏夫人)

 この方々の追悼メッセージは『古代に真実を求めて』19集(明石書店より今春発行)に掲載します。
 追悼会では友好団体の東京古田会の藤沢会長、多元的古代研究会の安藤会長からもご挨拶をいただきます。主賓としてミネルヴァ書房の杉田社長からは弔辞を賜ります。「古田史学の会」の地域の会などの代表からもご挨拶いただきます。わたしからは、古田先生の代表的著作と業績について解説させていただきます。ご遺族を代表され古田光河様からも最後にご挨拶していただく予定です。
 追悼会の後に新井宏先生(韓国国立慶尚大学招聘教授)のご講演「鉛同位体比から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」となります。鉛同位体分析による銅鏡分析の最新研究成果をお話しいただけるとのことで、わたしも楽しみにしています。
 講演会終了後は会場の近くのレストラン(オルケスタ)で懇親会(有料)を催し、古田先生を偲びたいと思います。多くの皆様のご参加をお願い申しあげます。
 ※会場などの詳細は「古田史学の会」ホームページ掲載の案内をご覧ください。


第1104話 2015/12/10

佐藤弘夫先生からの追悼文

 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。

 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」

 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。その佐藤先生からいただいた追悼文を来年1月17日の古田先生追悼講演会でご披露し、『古代に真実を求めて』19集に掲載します。ご期待ください。佐藤先生、立派な追悼文をありがとうございました。


第1087話 2015/11/03

慟哭の10月

 今日は会社で『フリードランダー』(FRIEDLANDER  FORTSCHRITTE DER TEERFARBEN-FABRIKATION 1887-1890)を書庫から探し出して読みました。同書はドイツの有機合成化学の論文集で、現在進めている開発案件が暗礁に乗り上げたため、もう一度古典的合成ルートから確認する必要を感じて読んだものです。表紙もかなり痛んでいる貴重書で、国内で所蔵しているところはかなり珍しいでしょう。
 Dr.Rudolf Nietzki による1890年の論文を探すのが目的でした。日本で言えば明治時代の論文なのですが、今から120年以上も前にドイツではこれだけの化学研究水準だったのかと感動しました。その一部は今でも実際に工業的に使われている化学反応ですから、当時のドイツの工業力や化学技術力はすごいものです。これでは欧米列強により日本以外の有色人種の国々が植民地となり、奴隷状態におかれたのも残念ながらよく理解できます。本当に明治維新による近代化が間に合って、日本国民は幸福でした。
 同書はドイツ語で書かれていますから、最初はほとんど理解できませんでしたが、読んでいるうちに40年前に学校で習ったドイツ語(工業ドイツ語)の単語が少しずつよみがえり、何とか目的の論文であるかどうかは判断できるようになりました。10代の頃習ったドイツ語が還暦になって役立つとは、不思議な感じです。

 10月14日に古田先生が亡くなられ、「慟哭の10月」となりました。「慟哭」の出典は『論語』です。

 「顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有りしか。夫(か)の人の為に慟するに非ずして、誰が為にかせんと。」
              『論語』先進第十一

 「夫(か)の人」最愛の弟子、顔淵の死に、孔子が慟哭したというものです。わたしは尊敬する師を失い、「慟哭の10月」でした。

 その「慟哭の10月」に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される会員は担当(竹村順弘事務局次長)まで、メールでお申し込みください。

10月の「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2015/10/03 王仲殊さんご逝去
2015/10/10 映画「図書館戦争」(テレビ録画)の感想
2015/10/11 五戸弁護士からのお礼状
2015/10/13 金沢大学4年生、Kさんからのメール
2015/10/14 『歴史読本』休刊と出版事業の課題
2015/10/17 各界・各氏から弔意のお電話とメール来信
2015/10/22 学士会館での三団体協議
2015/10/27 学士会館での懇談余話
2015/10/31 フェスタ’15 JTCC近畿で講演


第1080話 2015/10/23

古田先生からいただいた宝物

 わたしが31歳のとき、古田先生に初めてお会いしたのですが、先生からはいくつかの「宝物」をいただきました。今回はその中の一つをご紹介します。
 それは2000年5月26日にいただいた、古田先生の自筆原稿「村岡典嗣論 -時代に抗する学問-」です。古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣先生を学問的に乗り越えるべく執筆された記念碑的論稿と言ってもよいでしょう。同論文は『古田史学会報』38号(2000年6月)に掲載されましたが、その自筆原稿をわたしにくださったのです。それには次の一文が付されていました。

 「この『村岡典嗣論』わたしにとって記念すべき論稿です。お手もとに御恵存賜らば終生の幸いと存じます。
  二〇〇〇 五月二十六日  古田武彦 拝
 古賀達也様」

 古田先生ご逝去により、『古代に真実を求めて』19集を追悼号としますが、この古田先生自らが「記念すべき論稿」として託された自筆原稿を巻頭写真に掲載し、同論稿を再録したいと思い、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)に検討を要請しました。この自筆原稿をいただいてから15年も経つのかと思うと、感無量です。もう一度、しっかりと読み直したいと思います。