古田史学の会一覧

第688話 2014/04/02

『古田史学会報』121号の紹介

 『古田史学会報』121号が発行されましたので、ご紹介します。アクロス福岡での古田先生の講演要旨などを掲載しました。掲載稿は次の通りです。西村稿は3月の関西例会で発表されたテーマで、もっとも好評だったものです。

〔『古田史学会報』121号の内容〕
○筑紫舞再興30周年記念
「宮地嶽 黄金伝説」のご報告
 古田武彦講演要旨・他(文責:古賀達也)
○一元史観からの太宰府「王都」説
  — 井上信正説と赤司善彦説の運命 京都市 古賀達也
○神代と人代の相似形?
 もうひとつの海幸・山幸  高松市 西村秀己
○『三国志』の「尺」  姫路市 野田利郎
○納音(なっちん)付き九州年号史料の出現
 -熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介-  京都市 古賀達也
○『倭人伝』の里程記事は正しかった
  — 「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算 川西市 正木裕
○2014年度会費納入のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第686話 2014/03/30

『古田史学会報』120号の紹介

 本年2月に発行された『古田史学会報』120号を遅くなりましたがご紹介します。新年賀詞交換会での古田先生の講演要旨を掲載しました。
 編集後記で西村秀己さんが書かれているように、投稿原稿が「帯に長く襷にも長いものばかり」となっています。また、「古田史学の会・四国」の阿部誠一副会長(今治市)からは、会報の内容が難しい、とのご批判もいただいています。是非、短くわかりやすく面白い原稿を送ってください。会報は皆さんの原稿で成り立っています。ご協力のほど、よろしくお願いします。長文の原稿は『古代に真実を求めて』へご投稿ください。

〔『古田史学会報』120号の内容〕
○「古田史学の会」新年賀詞交換会
 古田武彦講演会・要旨 2014年1月11日 i-site なんば
○「よみがえった筑紫舞30年記念イベント」
 古田武彦講演会のお知らせ
 2014年3月2日(日) アクロス福岡イベントホール
○九州年号「大長」の考察  京都市 古賀達也
○「末廬国・奴国・邪馬壹国」と「倭奴国」
 −何故『倭人伝』に末廬国の官名が無いのか−  川西市 正木裕
○「天朝」と「本朝」
 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 下  札幌市 阿部周一
○「ウィキペディア」の史料批判  京都市 古賀達也
○万葉歌「水鳥のすだく水沼」の真相  川西市 正木裕
○年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 水野孝夫
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第682話 2014/03/22

「日蓮遺文」の二倍年暦

 今から十数年前、わたしは二倍年暦(1年を2年とする暦法、1年で2歳と年齢を計算する「二倍年齢」)の研究に集中して取り組んでいました。その結果、東西の古典に二倍年暦による記述や痕跡が残されていることを発見し、『新・古代学』7集、8集に「新・古典批判 二倍年暦の世界」「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」として発表しました(新泉社、2004年・2005年)。更に英文論文「A study on the long lives described in the classics」も国際人間観察学会の機関誌『Phoenix』(No,1 2007年)に発表しました。本ホームページから閲覧可能ですので、ご覧ください。
 これらの研究により、古代において世界各地で二倍年暦が存在していたことを基本的に論証し得たと考え、その後は別の研究テーマ(九州年号の研究など)に没頭しました。ただ、やり残した課題として、二倍年暦から一倍年暦への移行の時期や状況、暦法は一倍年暦になったあと年齢のみを「二倍年齢」とした可能性についてなどが残されていました。更には、古代史料に残された二倍年暦による記述を、二倍年暦が忘れ去られた後代において、一倍年暦表記と認識して「再記録」されたケースなども気になったままで放置していました。
 そのようなおり、最近、「日蓮遺文」の『崇峻天皇御所』に長寿の表現として「120歳」とする次の記事があることに気づきました。

「人身は受けがたし爪の上の土。人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(『崇峻天皇御所』)

 日蓮は若い頃に比叡山延暦寺などで研鑽を積み、とても博学な人物ですが、この「120歳」という長寿の年齢表記も仏典から得たものと推測しています。たとえば「新・古典批判 二倍年暦の世界」で紹介しましたが、『長阿含経』には仏陀の最後の弟子、須跋(すばつ)のことが次のように記されています。

「是の時、狗尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(巻第四、第一分、遊行経第二)

 仏陀の最後の弟子で最長寿の須跋の年齢記事は『長阿含経』以外にもありますが、そうした仏典を日蓮は読んでいて、120歳という長寿表記を一倍年暦として認識し、『崇峻天皇御所』に記したのではないでしょう。ただ単に一般的な長寿年齢の表記であれば、きりの良い100歳でも、当時としては長寿であった還暦の60歳としてもよかったはずです。120歳と記したのは、やはり日蓮の認識や教養に仏典中の「120歳」という記事に基づいた可能性が高いと思われるのです。


第680話 2014/03/17

織田信長の石山本願寺攻め

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、織田信長の摂津石山本願寺攻めが舞台となって展開中です。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。大阪歴史博物館の窓からは大阪城と難波宮址の両方が展望できますので、お勧め観光スポットです。
 石山本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、10年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要衝の地であり難攻不落であったかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
 先日の関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに何年もかかり、秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その意見を聞いて、わたしは「なるほど、これはわかりやすい説明だ」と感じました。わたしがなかなかうまく説明できなかったことを、見事な例で言い当てられたのです。まさに「我が意を得たり」です。
 関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
 7世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能ではないでしょうか。
 同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖の東岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
 同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」も防衛上の問題があります。考古学的調査はなされていませんが、もし九州王朝のある時代の「首都・王宮」であったとすれば、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありません。北方に永納山神籠石はありますが、離れていますから王宮防衛の役割は期待できそうにありません(せいぜい「逃げ城」か)。しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
 難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための「地理的中心地」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮しているシーンを見るにつけ、こうした確信が深まっています。


第679話 2014/03/15

討論「言素論」

 本日の関西例会では古田先生が提唱されている「言素論」をテーマに討議などが行われました。これは古田学派の研究者間で行われていたメールでの意見交換・討議を、せっかくだから関西例会で論争していただき、他の会員にも聞いていただいてはどうかという、わたしからの提案を受けて行われたものです。思いのほか、多くの参加者から意見が出され、関西例会らしく活発で学問的な討論となりました。
 不二井さんからは語学から見た「言素論」の画期性を評価する報告がなされ、西村さんからは「言素論」には賛成だが、他の仮説の論証に使用する場合は注意(論理的な限界に対する留意)が必要という見解が示されました。わたしも、古代史研究において方法論上の可能性を有した仮説とする意見を述べました。
 この他には、服部さんから発表された「雷山千如寺法系霊簿」に関する考察は、わたしが20年ほど前に発表した論文「倭国に仏教を伝えたのは誰か」(『古代に真実を求めて』1集所収)への批判も含まれたもので、とても懐かしく思いました。20年前の研究が再検証されることは、研究者冥利につきます。3月例会の報告は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
①雲南の少数民族(木津川市・竹村順弘)
②雷山千如寺法系霊簿(八尾市・服部静尚)
③劉仁軌伝から白村江の戦いを推測する(八尾市・服部静尚)

【「言素論」の討議】
④語構成の研究(明石市・不二井伸平)
⑤「言素論」の使い方(高松市・西村秀己)

⑥三国志での「推量の可」の用法(姫路市・野田利郎)
⑦『倭人伝』の里程記事は正しかった
 ー「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算ー(川西市・正木裕)
⑧『古事記』真福寺本の「八千弟」と「ヤチホコ」(川西市・正木裕)
⑨「ニギハヤヒ」を追う(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・古田先生福岡講演の報告・大和舞と筑紫舞は親類関係・言語は国家より古い(古田武彦)・宮地嶽神社への書籍献呈・神宮文庫『太神宮諸雑事記』古写本の閲覧・葛継勇「祢軍の倭国出使と高宗の泰山封禅」(『日本歴史』2014年3月号)・その他

参考

「古田史学」の理論的考察 (「論理的考察」 は誤植) 古田武彦(会報116号)
「いじめ」の法則 — 続、「古田史学」の理論的考察 古田武彦(会報117号)
古田史学の真実 — 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 — 切言 古田武彦(古田史学会報119号)


第677話 2014/03/13

『松前史談』第36号を読む

 『松前史談』第36号(平成26年3月)が合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)から送られてきました。「松前」と書いて「まさき」と読みます。郷土史の研究会誌らしく、地元の義農・作兵衛など郷土の偉人をテーマとした論稿に混じって、合田さんの講演録「天武天皇の謎 『万世一系』系図作成の真相」が掲載されていました。
 その内容は、古田説に依拠して、天武天皇(大皇弟)は九州王朝の天子(斉明)の弟であるとする仮説で、近年、合田さんが取り組んでこられた研究テーマです。なお、松前史談会副会長の大政就平さんは「古田史学の会」会員で、先日のアクロス福岡での古田先生講演会のおり、九州国立博物館でもお会いしました。『古田史学会報』の内容が難しすぎるので、もっとわかりやすい論文や記事を掲載してほしいと、ご要望もいただきました。ありがとうございます。
 「古田史学の会」会員や古田学派の研究者が各地の郷土史会などで古田説の紹介や研究発表をされることは、古田史学を世に広める上でとても良いことです。わたしも、5月4日(日)に熊本県玉名郡和水町で講演することになりました。地元の菊水史談会の主催です。同地からは「納音(なっちん)付き九州年号」史料が最近発見されましたが、それら発見された古文書(石原家文書)調査も兼ねて同地を訪問します。詳細が決まりましたら改めて御報告いたします。


第662話 2014/02/15

「納音(なっちん)」付
・九州年号史料の紹介

 本日の関西例会で、わたしは熊本県玉名郡和水町で発見された「納音(なっち ん)」付・九州年号史料を紹介しました。九州年号の善記元年(622)から始まる納音付きの不思議な九州年号史料ですので、そのコピーを例会参加者に配り、何のために作られた史料かわからないので、是非、皆さんのご協力を得たいとお願いしました。
 同史料は30種の「納音」が上段に記されているのですが、五行説の「木・火・土・金・水」の順番も乱れており、インターネットなどで出ている「納音」とも文字や順番も一致しておらず、とても理解に苦しむ史料状況を見せています。記されている九州年号も、最も原型に近いと考えている『二中歴』とは異なり、 わたしの知見の範囲では『如是院年代記』に記されている九州年号の内容に近いように思われました。引き続き検討したいと思います。
 例会後の懇親会には張莉さんも参加され、白川漢字学など興味深い研究をお聞かせいただけました。関西例会は研究発表だけでなく、二次会でも学問的に触発される貴重な一日となっています。2月例会の報告は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
1). 天之日矛と秋山之下氷壯夫、春山之霞壯夫(高松市・西村秀己)
2). 孔子の弟子の倭人の概論(中国曲阜市・青木英利、代読:竹村順弘)
3). 内倉武久著『熊襲は列島を席巻していた』を読んで(木津川市・竹村順弘)
4). 「納音」付・九州年号史料の紹介(京都市・古賀達也)
5). 万葉集九番歌の解読の紹介(京都市・岡下英男)
6). 「東京新聞文化部御中」(「東京新聞」1月14日付「名著の衝撃」への批判文)安彦克彦(代読:明石市・不二井伸平)
7). 白村江の大義名分(八尾市・服部静尚)
8). 亡国の天子薩夜麻(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・奈良市奈良豆彦神社に伝わる「翁舞」・昭和初期に宮地岳で舞った「乙訓の伊東さん」調査・神宮文庫で『太神宮諸雑事記』古写本の閲覧・大下氏による古賀説への反論・その他


第661話 2014/02/11

武田邦彦さんの学問論

 中部大学教授の武田邦彦さんのブログをときおり紹介していますが、学問や学説について自然科学の分野を例にあげて、考えさせられる持論を展開されていますので、ご紹介したいと思います。
 新説が世に受け入れられるのに何故時間がかかるのかという問題を、学問や人間の本質にまで踏み込んで考察されており、古田史学を世に認めさせるという 「古田史学の会」の使命を考える上でも刺激的な見解です。賛否は別にしても、皆さんも一緒に考えていただければと思います。以下、全文を転載させていただ きます。

 学問・芸術と報道「査読委員はわかってくれない」
                  武田邦彦
              (平成26年2月10日)

 暗い話題では「現代のベートーベン」と囃した作曲家が実は作曲をしていなかったという事件があり、明るいほうでは若い女性が新しい万能細胞で画期的な業績を上げたことが伝えられていた。
 その若い女性が「論文を査読した学者が、『300年にわたる細胞の歴史を冒とくしている』と理解してくれなかった」と言っていた。これについてテレビでもコメントを求められたが、「普通にあることです」と答えました。
 学問というのは相反する2つの側面がある。一つは「これまで築き上げてきた知識と学問体系を大切にする」ということであり、もう一つの活動が「今まで築き上げてきたことが間違いであることを発見する」ということだ。
 この2つは全く違う概念で相互に矛盾しているが、それでも両方とも学問としては欠かすことができない。最近ではもう一つ「役に立つ、あるいはお金になる活動」というのが学問の中に混入してきて学会は混乱している。
 学問は一つ一つの事実や理論を慎重に積み上げてきて、人間の知恵の集積を行う。それが役に立つかどうかはやがてわかることで、学問が体系化の作業をしているときには「役に立つかどうか」を考えることはできない。
 学問が新しい分野を拓いたり、新しい進歩がもたらされても、それが社会で活用されるまでには平均的に30年、ものによっては80年ぐらいかかる。それは 当たり前のことで、発見された時にそれが社会にどのように役立つかわかるようなら、「新しい分野」とは言えないからだ。
 それはともかくとして、女性の研究者の論文に対して、実験で観測された事実を拒絶した査読委員は、第一の立場(これまで築かれてきた学問体系を大切にする)に立っているからだ。それが間違っているかというとそうでもない。
 学問の世界は「正しいこと」がわからない。これまでの学問を覆すようなことは極端に言うと日常的に起こる。たとえば「エネルギーが要らない駆動装置」という発明は膨大にあるが、これまではすべて「間違い、錯覚、サギ」の類だった。それでも、テスト方法や実験結果がきれいに整理されている論文がでる。
 でも、「間違い、錯覚、サギ」を見分ける唯一の方法は、「新しいことはまず拒絶してみる」という手法である。この手法が適切かどうかは不明だが、人間の頭脳で真偽を判別できないのだから、それしかないという感じだ。論文審査は書面だけだからである。
 もし、新しい発見が本当のことだったら、本人もあきらめないし、どこかで同じ結果が得られるので、徐々にそれが真実であることがわかる。学者はそんなことは十分に知っているので、論文をだし、罵倒されても、「それはまだ証明が不足しているな」と考えて、またアタックする。学問は新しいことを目指すがゆえにそれは宿命と言っても良い。


第653話 2014/01/29

「古田史学の会」の名称

 今日は快晴の東京に来ています。今年最初の関東出張です。車窓から見える東京タワーや東京スカイツリーが青空に映えてきれいです。

 関東には「古田史学の会」の「地域の会」はありませんが、これは「古田史学の会」設立の事情から意識的にそうしたためです。「市民の古代研究会」が分裂し、「古田史学の会」は全国におられる「市民の古代研究会」会員の受け皿として、全国組織として立ち上げたのですが、関東と九州には「多元的古代研究会」がそれぞれ発足されたので、その地域では「古田史学の会」が受け皿となる必要性がなかったのです。
 また、最古参である「東京古田会」をはじめ、「多元的古代研究会」や「古田史学の会」が互いに協力しあい、切磋琢磨することで、よりよい効果が発揮できると考えていました。ですから、関東や九州に「古田史学の会」の組織を作ることは考えていませんでした。「古田史学の会」発足当時、関東にも「古田史学の会」の組織を作りたいと申し出られた方もありましたが、丁重にお断りしたほどです。
 何よりも、わたしと水野さんには「市民の古代研究会」での経験から、無理な会員拡大を行ってもろくなことにはならないという「暗黙の合意」がありまし た。「組織論」的には正しくないのかもしれませんが、その意識は今も引き継がれています。「トラウマ」と言われても仕方がないのかもしれません。マネージメント論でいうならば、「組織の規模と形態、活動方法は目的(使命・ミッション)に従う」ということにつきますが、このことについては別の機会に触れたい と思います。
 「会」設立にあたり、人事とともに「会名」を検討したのですが、「古田史学」の4文字を入れることと、「○○研究会」という名称にはしないことを、わたしは決めていました。「会」の使命(ミッション)を明確にするために「古田史学」の4文字を冠することを古田先生に御了解いただきましたが、たとえば「古田史学研究会」という名称にはせずに、「古田史学の会」としたのには理由がありました。
 「市民の古代研究会」の理事会変質の過程で、研究会なのだから「研究者」が上で、「古田ファン」は下と、主に研究者で構成されていた理事会が古田ファンの会員を無意識のうちに見下していた可能性がありました。こうしたことが、たとえ無意識であっても二度と起こらないよう、「○○研究会」という名称にはしないことにわたしはこだわり、最終的に「古田史学の会」としたのでした。
 このように、ことあるごとに「古田史学の会」の使命(ミッション)を明確にしてきたにもかかわらず、「古田史学の会」発足の数年後には、熱心に研究発表されていたある会員から、「古田武彦も会員も研究者として平等なのだから、会誌・会報に古田さんの論文を優先的に掲載するのはやめるべき」という声が出たことがありました。わたしは、「古田史学の会」の使命(古田先生や古田史学への支持協力)を説明し、その申し入れを拒絶しました。結局その方は「古田史学の会」を離れられ、別の団体で「活躍」されておられるようです。
 使命を見失った組織の末路は哀れです。「市民の古代研究会」のようになるだけです。この「使命」に関しては、わたしはこれからも微塵も妥協するつもりはありません。もちろん、時代や環境の変化にあわせて「古田史学の会」が進化することは大切ですが、使命を絶対に見失ってはならない。このことをこれからも 繰り返し言い続けていくつもりです。(つづく)


第652話 2014/01/28

「古田史学の会」の創立と使命

 わたしが「市民の古代研究会」の事務局長を辞任し、退会せざるを得なかった経緯をのべてきましたが、一連の状況を理事会の外から見てこられた山崎仁禮男さんによる「私の選択 なぜ古田史学の会に入ったか」が『古田史学会報』創刊号 (1994.06)に掲載されていますので、是非ご一読下さい。
 「市民の古代研究会」を退会するにあたり、わたしは共に戦ってくれた少数の古田支持の理事に、電話で「市民の古代研究会」を退会することと新組織を立ち 上げる決意を伝えました。中村幸雄さん(故人)からは、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人ら(反古田派理事)とは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一からやり直したらええ」と励ましていただきました。水野さんにも行動を共にしてほしいとお願いしたところ、「古賀さんと進退を共にすると、わたしは言ったはずだ」と快諾していただきました。
 そして古田先生にも会を乗っ取られたお詫びと事情を説明しました。古田先生からは「藤田さんはどうされますか」と聞かれ、「行動を共にされます」と返答したところ、「それはよかった」と安心しておられました。何故、会が変質したのか、どうすれば変質しない会を作れるのか悩んでいることを先生に打ち明けた ところ、「7回変質したら、飛び出して8回新しい会を作ったらよいのです」と叱咤激励していただき、わたしは決意を新たにしました。
 「古田史学の会」設立に当たり、最初に決めたのが水野さんを会代表とする人事と、会の目的(使命)でした。それは次の4点です。

1.古田武彦氏の研究活動を支援協力する。
2.古田史学を継承発展させる。
3.古田武彦氏の業績を後世に伝える。
4.会員相互の親睦と研鑽を深め、楽しく活動する。

 特に4番目は古田先生からのアドバイスを受けて取り入れました。先生らしい暖かいご配慮でした。そして次に取りかかったのが「会の運営方法とかたち」を決める、会則作りでした。(つづく)


第651話 2014/01/26

「古田史学の会」誕生前夜

 「市民の古代研究会」理事会の中で少数派で孤軍奮闘していたわたしを支えていたのは、古田支持を明確にしていた関東支部と九州支部からの応援でした。しかし、状況を打開するために理事会や臨時会員総会を開催したものの、「市民の古代研究会」を古田支持の本来の姿に戻すことは絶望的と思われ、両支部は「市民の古代研究会」からの離脱の方向に進んでいました。藤田会長からは、関西と並んで多数の会員がいる関東支部の離脱だけは思いとどまらせるよう指示されていました。しかし、それはもはや不可能でした。反古田派の理事からも「事務局長として、関東と九州の離脱を止めろ」という何とも無責任で身勝手な電話もかかってきました。
 そして、関東支部からのただ一人の理事だった高田かつ子さん(故人)から一枚のファックスが届きました。それには、理事会が反古田派に牛耳られていることは明らかで、なまじ古賀さんが理事会に残ることにより、古田先生は講演に行かなければならず、「人寄せパンダ」として利用されるだけの古田先生のことを思うと胸がつぶれそうです、という高田さんの切々たる心情が吐露されていました。
 その夜、わたしは一晩中考え続けました。そして、「市民の古代研究会」を退会し、古田先生と古田史学を支持支援する新組織を創立することを決意しました。翌日、藤田会長に事務局長の辞任と退会の意志を告げ、行動を共にするよう要請し、一緒に新組織を創立することにしました。その後、関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」を離脱し、「多元的古代研究会・関東」「多元的古代研究会・九州」として再出発されました。
 理事会を頂点とする「市民の古代研究会」という組織の中枢を反古田派に乗っ取られ、変質していく過程を内部から見てきたわたしは、責任を痛感し、自らの非力を悔やみ、何が間違っていたのか、どうすれば変質しない会にできるのかを「市民の古代研究会」退会後も考え続けました。(つづく)


第650話 2014/01/25

「市民の古代研究会」の分裂

 反古田派と古田支持派が対立を深める「市民の古代研究会」理事会の「融和」に腐心されていた藤田友治会長に、このままでは関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」から離脱すると、わたしは反古田派と断固として戦う決意を求めてきましたが、事態は悪化の一途をたどりまし た。
 理事会では、「古田支持で会員を募集しておきながら、『古田離れ』を会員にわからないように画策するのは会と会員に対する背信行為である」と孤軍奮闘するわたしに対して、反古田派の理事からは「病院に行ってはどうか」とまで言われました。わたしは少数派に陥ったこと、もはや形勢を挽回できないことを悟りました。しかも、会の機関紙『市民の古代ニュース』の編集部は反古田派理事に握られており、こうした理事会の内情を全国の会員に知らせることもできませ ん。
 そして勢いにのった「多数派」理事から、わたしの事務局長解任動議が出されました。解任の理由は、わたしが地方支部に対して「多数派工作」をしたことでした。ある地方支部選出の理事が「反古田派」だったため、わたしからの古田支持協力要請が筒抜けになっていたのでした。事務局長解任動議に対して、「わたしは会員総会で事務局長に選ばれたのであり、理事会の決議で解任することはできない」と抵抗しました。そしてこうも付け加えました。「わたしは藤田会長に請われて事務局長を引き受けたのであり、もし藤田会長が古賀は事務局長にふさわしくないと言われるのであれば、会員総会の決議を待つまでもなく辞任する」 と述べました。この発言の真意は、古田支持のわたしと反古田の「多数派理事」のどちらをとるのかの決断を藤田会長に迫ったものでした。その結果、藤田会長は最後までわたしの解任に同意されず、わたしは事務局長のまま「会長預かり」という訳の分からない「処分」となりました。この「処分」は親しかった中間派理事から出された妥協案でした。「会長預かり」でも従来通り事務局長の仕事は続けるとわたしは宣言したものの、もはや少数派になった事務局長にできることは限られており、敗北を痛感しました。
 ちょうどそのときです。それまで沈黙を守っておられた水野さん(現「古田史学の会」代表)がすくっと立ち上がり、「わたしは古賀さんと進退を共にする」 と言われたのです。この水野さんの発言に、それまで騒然としていた理事会が静まりかえりました。わたしと水野さんとは研究分野が異なることもあって(わた しは九州年号研究、水野さんは中国古典研究)、それほど親しいおつきあいはなかったのですが、このときわたしは水野さんを深く信頼するに至り、その関係は20年たった今日まで続いています。こうして、「市民の古代研究会」は分裂に向けて決定的な瞬間を迎えることとなります。(つづく)