糸島市出土「硯」の学問的意義
糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。
「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
「銀印青綬を仮し」
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
「檄を以て壹与を告喩す。」
倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数
これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。