法隆寺一覧

第2299話 2020/11/19

新・法隆寺論争(8)

法隆寺金堂の「薬師如来像」釈迦仏説

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表(注①)された法隆寺金堂の「薬師如来像」釈迦仏説は始めて聞くものであり、驚きました。その主たる根拠は薬師如来像光背に装飾されている「七仏」です。同様の「七仏」は釈迦三尊像光背にもあり、これは「釈迦七仏」と呼ばれているものです。同様に「薬師七仏」もあるのですが、その日本への伝来は七世紀後半か八世紀以降と考えられることから、光背銘の文(注②)に従って薬師如来像とされてきたこの像は釈迦像であり、銘文は薬師如来信仰が盛んになった後代に彫られたものとされました。たしかに、薬師如来像は釈迦三尊像によく似ており、光背銘がなければ釈迦像とされたと思われます。
 上原和さんが『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注③)で、「薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。」と指摘されていることも、服部説に通じそうです。
 さらに上原さんは次のような興味深い見解を述べられています。

 「現在の法隆寺金堂にある薬師像は、白鳳の擬古作である。だから、薬師像の銘文は、すべて嘘である、といってしまうのは、いささか短絡にすぎる。なぜなら、ここで重要なのは、あえて一時代前の、すなわち推古朝下の止利様式に倣って本尊が造られたという、そのまぎれもない事実にある。(中略)法隆寺の再建ということになって、かつての金堂とともに焼失してしまった旧本尊の復原が意図されるのは、当然ではないか。その復原された旧本尊に、造像銘も、以前のように、追刻される。しかし、その追刻された造像銘が、かならずしも、完全な復刻となりえなかったことは、一見本尊のその像容が、止利風、あまりにも止利風に見えながら、そのかたちの性質のうえには、どうしようもなく当代の、初唐の表現感覚が現れ出ているのと、まったく同様であり、銘文の文体も内容も、時代の影響から完全にまぬがれることはできなかったのではないだろうか。少なくとも、銘文の和訓化された漢文は、推古期の文体とは云い難い。
 (中略)様式のうえからいうと、旧本尊の復原に際して倣った止利様式は、東西魏のものにもっとも近い。東西魏において、いちばん熱烈に、信仰されたのも、この釈迦・彌勒であった。除災招福にも、延命長寿にも、衆生斯福にも、亡父母・亡夫・亡妻のための追善供養にも、おしなべて、釈迦・彌勒の像が、ついで観音像が造像されていた。では、創建時の法隆寺の本尊は、釈迦か彌勒か、何れかということになると、私は、おそらく釈迦の坐像であろうと想像する。そして、その像容は、おそらく、現在、私たちが法隆寺金堂の右正面に見ている薬師坐像と、同じかっこうのもので、右手を挙げ、左手を膝上に置いたに相違ない。釈迦仏の右手施無畏の説法印である。」(注④)

 上原さんは薬師如来像は焼失前の法隆寺本尊の釈迦仏に倣ったものとされており、服部説と相通じるものがあります。そして、それではなぜ釈迦仏を銘文では薬師仏としたのかという新たな疑問が服部説には発生します。服部説の詳細はいずれ論文として発表されると思いますので、従来にない新説として注目したいと思います。と同時に、古田旧説を支持するとしたわたしの理解にも見直しが迫られているようです。(つづく)

(注)
①服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。
②法隆寺金堂「薬師如来像銘文」
 池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時 歳
 次丙午年 召於大王天皇與太子而誓願賜我大
 御病太平欲坐故 将造寺薬師像作仕奉詔 然
 當時 崩賜造不堪 小治田大宮治天下大王天
 皇及東宮聖王 大命受賜而歳次丁卯年仕奉
③上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
④同③。143~145頁。


第2298話 2020/11/18

新・法隆寺論争(7)

法隆寺金堂の「薬師如来像」白鳳仏説

 法隆寺は古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要寺院です。その代表例が九州王朝の天子(阿毎多利思北孤)のために造られた釈迦三尊像と近畿天皇家の「天皇」のために造られた薬師如来像の存在です。
 釈迦三尊像が七世紀前半の仏像であることに異論はほとんど見られないのですが、薬師如来像は七世紀前半の「推古仏」とする説の他に、七世紀後半の白鳳仏とする説があります。当初、古田先生は前者の立場に立たれ、光背銘に見える「天皇」号を根拠に、近畿天皇家は七世紀初頭頃からナンバー2としての「天皇」号を称していたとされました(注①、古田旧説)。もちろん、ナンバー1は九州王朝(倭国)の天子です。なお、古田先生は晩年に、近畿天皇家が「天皇」号を称したのは王朝交替後の701年から(古田新説)と自説を変更されています(注②。わたしは古田旧説を支持してきました)。
 この薬師如来像を白鳳仏とする見解を二つ紹介します。一つは小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(注③)で、次のように述べられています。

 「銘文については、推古三十一年の釈迦三尊像の造像銘が完全な漢文で書かれているのにたいして、それより十五年あまりもさきの、この銘文が日本化した漢文体で書かれていること、はっきり薬師像をつくると記しているが、病気の平癒を祈願して薬師像をつくることは白鳳以前には例がなく、また天皇と書かれているのも推古十五年(六〇七)当時のものとしてはおかしいということなどから、推古十五年に書かれたものとは次第に考えにくくなったのである。
 つぎに様式上はどうかというと、写真を比較してもわかるように、飛鳥時代の仏像に釈迦三尊におけるように顔の面長であるのが特徴だが、この像では頬にはりがでてきて、丸顔に近くなってきていること、杏仁形を特徴とする目も、下瞼の線のカーブがゆるく直線的になってきていること、また衣文の線条もやわらかみを加えており、釈迦三尊像では強く末広がりに張っていた裳掛が、この像では比較的垂直にたれ下がってきていること、などがあげられる。これらの要素は視覚的には平面的から深奥的への深まりを示し、次期白鳳期の仏像様式につながるものをもってきているのである。
 これらの点から、この像は、推古十五年につくられた最初の法隆寺とその本尊が天智天皇のころに焼失したのち、法隆寺の再建に当って、飛鳥時代の様式をできるだけ忠実に追いつつ、つくられたものではないかと想像される。」同書45~46頁

 次に、上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注④)の記事を紹介します。

 「しかし、ここで、この薬師像の銘文をよく読んでみると、いろいろ疑問が生じてくる。(中略)それに、用明が亡くなって二十年以上もすぎてからの追善供養に、薬師像が造られるということも、常識的に考えてみて、いかにもおかしいし、だいいち薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。もっとも、いちばん早い遺作例としては、竜門石窟の古陽洞に、北魏の孝昌元年(五二五)銘のある薬師像が見られるが、これは、きわめて希有の遺例であって、竜門石窟の場合、その後、唐の儀鳳三年(六七八)に至るまで、一世紀半あまりの間、まったくその例を見ることはない。
 それに、なによりも決定的なことは、この法隆寺金堂の薬師像は、一見、止利仏師の作風に似通うものを思わせるのであるが、仔細に見るとそのかたちの性質は、すなわち、その表現様式は、まぎれもない、七世紀後半の白鳳時代のものであり、明らかに、法隆寺の再建された時点で止利様式に倣った擬古作であることを示している点である。試みに、現在、法隆寺の大宝蔵にある橘夫人厨子内の阿弥陀三尊像と比較するがいい。かたちの性質が、まったく同じであることに、読者は一驚するはずである。」同書142~143頁

 このように、薬師如来像を白鳳仏とする見解が以前からありました。ところが、昨日、京都市で開催された講演会(注⑤)で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、同薬師如来像を釈迦像とする驚くべき仮説が発表されました。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、2014年)
③小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(芸艸堂、1976年)
④上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
⑤服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。


第2296話 2020/11/16

古代日本の和製漢字

     (国字)法隆寺「多聞天光背銘」

 わが国最初の国字とみなされることもある例が『文字と古代日本 5』に紹介されていました(注①)。それは、やはり「聖徳太子」と関わりがある法隆寺金堂の「四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕という字です。同書では次のように解説されています。

 〝白雉元年(六五〇)「法隆寺金堂四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の名に含まれる「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕は、最初の国字とみなされることがあるが〔杉本つとむ―一九七八〕(注②)、朝鮮、日本でも見られた中国製字体(「門」→「˥」)に、日本化字体(「才」→「手」)が重なった「閉」の異体字であると考えられる。「玉門」「陰門」のように、「門」を女陰にあてる引伸義を、さらに応用したもので、読みが近世以来説かれている「まら」だとすれば、日本製字義(国訓)である可能性があり、その最古の例となるが、「へ」という音仮名という可能性も残されている。〟284頁

 冒頭に「白雉元年(六五〇)」とあるのは、同四天王の広目天像光背銘に見える「山口大口費」が『日本書紀』白雉元年是年条に見える「漢山口直大口、詔を奉(うけたまわ)りて、千仏の像を刻る。」の「山口直大口」と同一人物と考えられ、広目天像もこの頃に造られたとされていることによります。
 法隆寺の「観音像造像記(銅板)」の銘文中の「鵤」、伊予温湯碑文中の「*峠」〔山偏を口偏に換えた字体〕、『法華義疏』の国字に加えて、法隆寺金堂多聞天像の「*閉」など、いずれも「聖徳太子」(九州王朝の多利思北孤)に関係する文物に「国字」が見えることは、九州王朝による「新字」作成説の傍証となりそうです。(つづく)

(注)
①笹原宏之「国字の発生」『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
②杉本つとむ『異体字とは何か』桜楓社、1978年。


第2295話 2020/11/15

古代日本の和製漢字(国字)『法華義疏』

 今朝の八王子も快晴で、絶好の勉強日和となりました。昨晩は、わたしの部屋で安彦さん(東京古田会・副会長)らと夜遅くまで和田家文書研究について意見交換・情報交換を行いました。今日は古代戸籍における二倍年暦について研究発表します。今日も一日、勉強漬けです。大学セミナーハウスは学問や勉強をするにはとてもよい環境です。

 上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)に触発されて、九州王朝「新字」というテーマへと進んできました。そして、国字として法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」の銘文中(注②)の「鵤」、伊予温湯碑文中の「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕を紹介しました。いずれも九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤との関係がうかがえることから、多利思北孤時代(六世紀末から七世紀初頭頃)の九州王朝「新字」誕生という作業仮説を導入し、検証を続けました。
 先行研究を学ぶために読んでいる『文字と古代日本 5』に興味深い指摘がありました(注②)。七世紀前半頃に「聖徳太子」が撰した『三経義疏』に国字が多く見られるとして、自筆本とされる『法華義疏』(皇室御物)中の国字研究(注③)が紹介されていました。たぶんJIS高水準にもないような特殊字体で紹介しにくいのですが、次の偏旁を付加・置換した字例が示されていました。

○「慚」字の下部に「心」を付加した字体。
○「嬉」字の「喜」の下部に「心」を付加した字体。
○「指」字の手偏を「骨」に置換した字体。
○「戯」字を女偏が付いた「虚」とした字体。

 古田説では、『法華義疏』冒頭に付記されている「大委国上宮王」を多利思北孤の自署名とされており、九州王朝の多利思北孤による「新字」の誕生を示す有力史料ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②笹原宏之「国字の発生」『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
③花山信勝「聖徳太子御製法華義疏の研究」『東洋文庫論叢』18-1・3、1933年。


第2294話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

     「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕

 上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫と前話で述べたように、「鵤」以外にも「聖徳太子」伝承と関係する国字の存在に気づかせていただきました。それは、九州王朝の天子、多利思北孤の年号「法興六年(596)」銘(注②)を持つ伊予温湯碑文中の文字です。
 同碑文には「臨朝(あした)に鳥啼きて戯れさえずる」という文章があり、この「さえずる」という字(動詞)に「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕という国字が使用されています。同碑は行方不明となっており、『風土記』逸文などに碑文が遺されていることから、厳密にいうと、その逸文執筆者が碑文の字体を正確に書き写しているということが、六世紀末の法興六年と同時代の字体とするための必要条件です。しかし、「さえずる」という別の字が、書写者により「*峠」という珍しい字に書き換えられたとは考えにくいのではないでしょうか。原碑文にその字があったので、そのまま書き写され、その後も書写されたと考える方が穏当と思われるのです。
 以上の理解が間違っていなければ、「*峠」という国字が六世紀末までに成立していたことになり、それはまさしく九州王朝「新字」の誕生となるわけです。そうすると、法隆寺「観音像造像記銅板」銘文中に見える「甲午年」も、通説の694年(持統八年)だけではなく、その60年前の「甲午年(634)」の可能性が復活します。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②正木裕氏(古田史学の会・事務局長)は、「法興」は仏門に入った多利思北孤の「法号」であり、それを「年号」のように使用したとする説を発表されている。
 正木裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年6月。


第2293話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

    「天武十一年条の『新字』」

 今朝は〝八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー2020)〟に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。新幹線に乗るのは今年八月のリタイア以来のことです。現役中は週に何度も新幹線のお世話になっていました。まだ四ヶ月も経っていないのに、車窓から見える風景が懐かしく、「帰省列車」のような気分です。もちろん座席は富士山を観賞できる、いつものE席です。

 今、拝読している上原和さん(1924~2017)の『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫です。その中から生まれた新テーマ「古代日本の国字」を続けます。
 国字について勉強するために読んでいるのが『文字と古代日本 5』(注②)です。全5巻で、古代日本の文字に関する論文が網羅されており、各専門家による優れた著述と思われました。幸い、岡崎の京都府立図書館(拙宅から自転車で10分)に置いてあり、精読中です。
 同書中の論文笹原宏之「国字の発生」によれば、国字発生の研究史について次のように説明されています。

 「古代における国字の実態については、近世以来、伴直方『国字考』など諸書において論考があり、春日政治〔春日―一九三三〕や橋本進吉〔橋本―一九四九〕などにも言及があるが、その後には国字は九世紀末まで存在しなかったという意見まで見られる」同書284頁(注③)

 このような意見の影響を受けてか、私も「国字は九世紀末まで存在しなかった」と思っていた時期もありました。そして、笹原稿の結論として次のように締めくくられています。

 「国字とみなしうる確例はほとんどすべてが天武朝以降に現れているということは、『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月に記されている、境部連石積らに命じて、はじめて造らせたという「新字」四四巻を想起させる。その内容については諸説あり、そもそも中国の史書を模倣した記述であり、日本の史実であったかも疑わしい。しかし、時期の符合は、これ以前に残存文字史料自体が少ないことを差し引いても、何らかのできごとを反映した記事であったと考えられる。
 (中略)これらは、次の奈良時代に合意の国字や合字となっていくものである。国字の活動はもはや止められない時代となっていたのである。」同書296頁

 天武紀に見える「新字」記事(注④)を国字の発生と関連付ける笹原さんの指摘は刺激的です。この見解が正しければ、「観音像造像記銅板」銘文中に見える「鵤」という国字の発生は天武期以降となり、その「甲午年」も通説の694年(持統八年)でよいとなるからです。(つづく)

〔後記〕八王子の大学セミナーハウスに着きました。八王子は快晴でぽかぽか陽気。「本日、勉強日和」です。

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
③春日政治「仮名発達史序説」『岩波講座 日本文学』五 岩波書店、1933年。
 橋本進吉『文字及び仮名遣の研究』岩波書店、1949年。
④『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月条に次の記事が見える。
 「丙午(13日)、命境部連石積等、更肇俾造新字一部四四巻。」


第2292話 2020/11/13

古代日本の和製漢字(国字)「鵤(いかるが)」

 「洛中洛外日記」で連載中の〝新・法隆寺論争〟執筆のため、通説における法隆寺や聖徳太子の研究史を勉強しています。今、読んでいる本が上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)で、40年以上前の本ですがなかなかの名著と思いました。もちろん学問的には一元史観に立っており、批判的に読まなければなりませんが、その博識には学ぶことが多々ありました。
 その中で触発されたことのひとつが和字「鵤(いかるが)」の指摘でした。「洛中洛外日記」2274話(2020/10/26)〝新・法隆寺論争(3) 法隆寺持統期再興説の根拠〟で紹介した、法隆寺に伝わる「観音像造像記(銅板)」の銘文(注②)に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、この中の「鵤」という字が和製漢字(国字)であることが、『斑鳩の白い道のうえに』に記されていたのです。わたしは国字の存在は知っていましたが、その発生が7世紀まで遡るとは思ってもいませんでした。
 この銘文の「甲午年」は六九四年(持統八年)とされていますが、干支一巡前の六三四の可能性もあるかもしれないと思うのですが、本体の仏像は不明で、仏像の様式による編年ができません。そこで銘文の文章や字体から編年できないものかと思案していましたので、「鵤」という字が国字であれば、国字の成立時期がヒントになるのではないかと考えました。そこで、国字成立に関する研究論文が収められている『文字と古代日本 5』(注③)を読んでみました。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②「観音像造像記銅板」銘文
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓
③『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。


第2287話 2020/11/09

新・法隆寺論争(6)

九州王朝鎮魂の寺

法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)と国家(近畿天皇家)による官寺とする田中嗣人さんの説(注②)を紹介しましたが、両者とも天平年間以降は国家の特別な庇護を受けたとする点では共通しています。『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された、「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に行われるなど、この時期から大和朝廷による施入が顕著になっていることなどが根拠となっています。
 わたしも同様の施入記事に基づき、拙稿「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(注③)において、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に見える「上宮法皇」の命日〝法興三十二年(622年)二月廿二日〟は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日〝推古二九年(621)二月五日〟とは異なることから、両者は別人です。また、同光背には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されていますが、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。ですから、この「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平八年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者たちがそのことを誰も知らなかったとは考えられません。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院・仏像であることをわかったうえで、当時、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝(九州王朝・倭国)の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。古田説では、この釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとされています(注④)。
 通説では、光背に記された〝法興三十二年(622年)二月廿二日〟を「聖徳太子」の没年月日としますが、それではなぜ『日本書紀』の記述と異なるのかについて合理的な説明ができません。田中さんの官寺説では、同じく官製史書『日本書紀』の記述と異なる理由が、ますます説明困難となります。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集所収(明石書店、2012年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2281話 2020/11/02

新・法隆寺論争(5)

法隆寺私寺説と官寺説の論理と矛盾

 法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)は『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』や『日本書紀』『続日本紀』などを史料根拠として成立しています。
 他方、国家(近畿天皇家)による官寺説に立ち、若井さんの私寺説を批判した田中嗣人さんによる、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)という見解も納得できます。
 確かに現法隆寺(西院伽藍)の金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像の素晴らしさは、国家レベルの最高水準の技術・芸術力を背景として成立したと考えざるを得ません。このように一元史観では、両者の相反する「合理的」結論を説明できません。
 ところが、古田史学・九州王朝説から両者の見解をみたとき、現法隆寺は九州王朝系寺院を移築(注③)したものであり、釈迦三尊像は「法興」年号を公布した九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとする古田説(注④)により一挙に解決します。田中さんが主張された「当時の技術の最高水準」とは、近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)ではなく、それに先立つ別の国家(九州王朝・倭国)によるものであり、近畿天皇家側の史料に〝法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない〟とする若井さんの主張にも整合するのです。
 更にいえば、法隆寺が近畿天皇家(大和朝廷)から特別待遇を受けるのは、701年の王朝交替後(九州王朝・倭国→大和朝廷・日本国)の、天平年間頃からとする若井説にも古田説は整合します。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2280話 2020/11/01

新・法隆寺論争(4)

法隆寺私寺説の概要と根拠

 田中嗣人さんが「鵤大寺考」(注①)で激しく批判された、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする若井敏明さんの「法隆寺と古代寺院政策」(注②)を繰り返し拝読しました。そこには極めて興味深い問題が提起されており、一元史観の矛盾や限界が示されていました。若井さんの法隆寺私寺説の概要とその根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは(注③)、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げています。こうした若井説に対して、田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注④)と批判されています。
 両者の主張にはいずれも一理あり、この問題の〝解〟が古田先生の九州王朝説にあることは自明でしょう。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
③『日本書紀』は、「聖徳太子」の没年を推古二九年(621)二月五日とする。
④同、①。


第2274話 2020/10/26

新・法隆寺論争(3)

法隆寺持統期再興説の根拠

 法隆寺の再興時期について、和銅年間とする説や持統期には再建されていたとする説があります。持統期での再建あるいは移築説の根拠とされる金石文に、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」があります。その銘文は次の通りです。

「観音像造像記銅板」
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓

 この「甲午年」は六九四年(持統八年)とされています。この銘文中に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、これは法隆寺・片岡王寺・元興寺のこととされています。ですから、六九四年(持統八年)には法隆寺(鵤大寺)が存在していたと考えられます。これら三つのお寺の筆頭に記され、しかも法隆寺(鵤大寺)だけが「大寺」とされていますから、比較的大規模な有力寺院と理解せざるを得ません。
 この銘文などを根拠として、持統期での法隆寺再興説に立たれている論者に田中嗣人さんがおられます。田中さんの論文「鵤大寺考」(注①)によれば、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする法隆寺私寺説(注②、若井敏明説)への反論として、この「鵤大寺」の「大寺」という表記は「官寺」を指すとして、次のように述べられています。

 「本銘文中に法隆寺のことを鵤大寺と表現していることは重要であって、再興法隆寺が官寺の扱いを受けていた良き傍証となりうるのである。(中略)
 まず大寺の意味であるが、一般的には、構造や僧侶数など規模の大きな寺院を意味し、『おおでら』などと称しているが、我が国上代では極めて限定された意味に用いられており、大寺とは官寺を指すことにほかならないのである。」8頁(同、注①)

 また、冒頭の「甲午年」についても六九四年(持統八年)とされ、その理由に次の点を指摘されている。

 「八世紀以前の金石文を検討すると、一般に干支のみで年号を記載するのと、日付記載が文頭にくる例は、大宝(七〇一~三)以前に限られ、また裏面の『此土王姓』を百済王姓の意に解すると、『続日本紀』(以下、『続紀』)天平神護二年(七六六)六月壬子条の百済王敬福の卒伝に、その曽祖父百済王禅広が日本に帰化した事情を述べ、(中略)百済王賜姓が持統朝に行われたことが知られるので、その頃の干支で甲午年は持統八年以外にはありえないので、本造像記が持統八年に記されたことが知られる。」6頁(同前)

 このように田中さんは手堅く論証を進められており、この金石文の存在により、法隆寺の再興が持統期になされたとする見解が有力なものであることを知りました。なお、この田中稿は法隆寺私寺説に対する批判を目的としたものなので、次にその批判の対象とされた若井敏明さんの論稿を読んでみました。そこにはとても興味深い指摘がなされていました。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。


第2267話 2020/10/21

新・法隆寺論争 (2)

「法隆寺移築年代の考察と課題」

 若草伽藍の発掘により、法隆寺の再建・非再建論争に決着がついたことは有名です。しかし、非再建説の根拠とされた金堂や五重塔などの様式の古さという建築史上の諸問題は残されたままでした。それを解決したのが、古田史学の研究者、米田良三さんによる法隆寺移築説でした(注①)。すなわち、創建法隆寺(若草伽藍)が天智九年(670)に全焼(注②)した後、6世紀初頭に建立された別の寺院が移築されたものが現・法隆寺とする法隆寺移築説です。
 現在ではこの移築説を示唆する論者もおられるようですが、学界内では米田さんの先行研究が触れられることもなく、この状況は学問的にアンフェアではないでしょうか。わたしはこれからも米田さんの業績(プライオリティ)を訴え続けるつもりです。
 この法隆寺の移築元の寺院名や原所在地は不明ですが、移築時期については和銅年間頃とする説や持統期には再建されていたとする説があります。これまでわたしは、和銅年間での移築再建と考えてきましたが(注③)、それを否定する金石文があることに気づき、よくよく検討しなければならないと思うようになりました。その金石文とは、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」です。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
②『日本書紀』天智九年四月条に次の記事が見える。
 「夏四月の癸卯の朔壬申(.付箋文三十日)に、夜半之後に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘(あま)ること無し。」
③古賀達也「法隆寺移築考」(『古田史学会報』92号、2009年)
 古賀達也「法隆寺の菩薩天子」(『古田史学会報』97号、2010年)