法隆寺一覧

第2281話 2020/11/02

新・法隆寺論争(5)

法隆寺私寺説と官寺説の論理と矛盾

 法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)は『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』や『日本書紀』『続日本紀』などを史料根拠として成立しています。
 他方、国家(近畿天皇家)による官寺説に立ち、若井さんの私寺説を批判した田中嗣人さんによる、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)という見解も納得できます。
 確かに現法隆寺(西院伽藍)の金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像の素晴らしさは、国家レベルの最高水準の技術・芸術力を背景として成立したと考えざるを得ません。このように一元史観では、両者の相反する「合理的」結論を説明できません。
 ところが、古田史学・九州王朝説から両者の見解をみたとき、現法隆寺は九州王朝系寺院を移築(注③)したものであり、釈迦三尊像は「法興」年号を公布した九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとする古田説(注④)により一挙に解決します。田中さんが主張された「当時の技術の最高水準」とは、近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)ではなく、それに先立つ別の国家(九州王朝・倭国)によるものであり、近畿天皇家側の史料に〝法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない〟とする若井さんの主張にも整合するのです。
 更にいえば、法隆寺が近畿天皇家(大和朝廷)から特別待遇を受けるのは、701年の王朝交替後(九州王朝・倭国→大和朝廷・日本国)の、天平年間頃からとする若井説にも古田説は整合します。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2280話 2020/11/01

新・法隆寺論争(4)

法隆寺私寺説の概要と根拠

 田中嗣人さんが「鵤大寺考」(注①)で激しく批判された、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする若井敏明さんの「法隆寺と古代寺院政策」(注②)を繰り返し拝読しました。そこには極めて興味深い問題が提起されており、一元史観の矛盾や限界が示されていました。若井さんの法隆寺私寺説の概要とその根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは(注③)、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げています。こうした若井説に対して、田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注④)と批判されています。
 両者の主張にはいずれも一理あり、この問題の〝解〟が古田先生の九州王朝説にあることは自明でしょう。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
③『日本書紀』は、「聖徳太子」の没年を推古二九年(621)二月五日とする。
④同、①。


第2274話 2020/10/26

新・法隆寺論争(3)

法隆寺持統期再興説の根拠

 法隆寺の再興時期について、和銅年間とする説や持統期には再建されていたとする説があります。持統期での再建あるいは移築説の根拠とされる金石文に、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」があります。その銘文は次の通りです。

「観音像造像記銅板」
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓

 この「甲午年」は六九四年(持統八年)とされています。この銘文中に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、これは法隆寺・片岡王寺・元興寺のこととされています。ですから、六九四年(持統八年)には法隆寺(鵤大寺)が存在していたと考えられます。これら三つのお寺の筆頭に記され、しかも法隆寺(鵤大寺)だけが「大寺」とされていますから、比較的大規模な有力寺院と理解せざるを得ません。
 この銘文などを根拠として、持統期での法隆寺再興説に立たれている論者に田中嗣人さんがおられます。田中さんの論文「鵤大寺考」(注①)によれば、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする法隆寺私寺説(注②、若井敏明説)への反論として、この「鵤大寺」の「大寺」という表記は「官寺」を指すとして、次のように述べられています。

 「本銘文中に法隆寺のことを鵤大寺と表現していることは重要であって、再興法隆寺が官寺の扱いを受けていた良き傍証となりうるのである。(中略)
 まず大寺の意味であるが、一般的には、構造や僧侶数など規模の大きな寺院を意味し、『おおでら』などと称しているが、我が国上代では極めて限定された意味に用いられており、大寺とは官寺を指すことにほかならないのである。」8頁(同、注①)

 また、冒頭の「甲午年」についても六九四年(持統八年)とされ、その理由に次の点を指摘されている。

 「八世紀以前の金石文を検討すると、一般に干支のみで年号を記載するのと、日付記載が文頭にくる例は、大宝(七〇一~三)以前に限られ、また裏面の『此土王姓』を百済王姓の意に解すると、『続日本紀』(以下、『続紀』)天平神護二年(七六六)六月壬子条の百済王敬福の卒伝に、その曽祖父百済王禅広が日本に帰化した事情を述べ、(中略)百済王賜姓が持統朝に行われたことが知られるので、その頃の干支で甲午年は持統八年以外にはありえないので、本造像記が持統八年に記されたことが知られる。」6頁(同前)

 このように田中さんは手堅く論証を進められており、この金石文の存在により、法隆寺の再興が持統期になされたとする見解が有力なものであることを知りました。なお、この田中稿は法隆寺私寺説に対する批判を目的としたものなので、次にその批判の対象とされた若井敏明さんの論稿を読んでみました。そこにはとても興味深い指摘がなされていました。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。


第2267話 2020/10/21

新・法隆寺論争 (2)

「法隆寺移築年代の考察と課題」

 若草伽藍の発掘により、法隆寺の再建・非再建論争に決着がついたことは有名です。しかし、非再建説の根拠とされた金堂や五重塔などの様式の古さという建築史上の諸問題は残されたままでした。それを解決したのが、古田史学の研究者、米田良三さんによる法隆寺移築説でした(注①)。すなわち、創建法隆寺(若草伽藍)が天智九年(670)に全焼(注②)した後、6世紀初頭に建立された別の寺院が移築されたものが現・法隆寺とする法隆寺移築説です。
 現在ではこの移築説を示唆する論者もおられるようですが、学界内では米田さんの先行研究が触れられることもなく、この状況は学問的にアンフェアではないでしょうか。わたしはこれからも米田さんの業績(プライオリティ)を訴え続けるつもりです。
 この法隆寺の移築元の寺院名や原所在地は不明ですが、移築時期については和銅年間頃とする説や持統期には再建されていたとする説があります。これまでわたしは、和銅年間での移築再建と考えてきましたが(注③)、それを否定する金石文があることに気づき、よくよく検討しなければならないと思うようになりました。その金石文とは、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」です。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
②『日本書紀』天智九年四月条に次の記事が見える。
 「夏四月の癸卯の朔壬申(.付箋文三十日)に、夜半之後に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘(あま)ること無し。」
③古賀達也「法隆寺移築考」(『古田史学会報』92号、2009年)
 古賀達也「法隆寺の菩薩天子」(『古田史学会報』97号、2010年)


第2265話 2020/10/18

新・法隆寺論争 (1)

古田先生と家永先生の

   『聖徳太子論争』『法隆寺論争』

 「市民の古代研究会」時代に、わたしたちは『市民の古代・別冊』として、古田先生と家永三郎さんによる論争本を二冊刊行しました。『聖徳太子論争』(1989年、新泉社)と『法隆寺論争』(1993年、新泉社)で、法隆寺の釈迦三尊像を通説通り「聖徳太子」の為のものか、九州王朝の多利思北孤の為のものかを争点とした両氏の論争が収録されています。今でも学問的価値は高く、研究者には是非読んでいただきたい基本文献です。
 法隆寺と同寺の釈迦三尊像は、古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要テーマの一つです。古田学派からも多くの研究論文・著作が出されており、古田先生の研究業績(注①)を筆頭に、学界に先駆けて法隆寺移築説を発表された米田良三さんの『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)など優れた研究がありました。わたしも若干の研究(注②)を近年発表してきましたが、定年退職したこの機会に、これまでの法隆寺研究を復習し、問題点の指摘や可能であれば新仮説の提起などを試みたいと考えています。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
 古田武彦『古代は沈黙せず』(駸々堂出版、1988年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年)
 古賀達也〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)~(7)〟(「洛中洛外日記」1864~1875話(2019/03/28~04/14)


第2254話 2020/10/07

法隆寺釈迦三尊像「周半丈六佛」の先行説

 このところ研究テーマが続出し、多方面の史料調査を行っていますが、「洛中洛外日記」1875話(2019/04/14)〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)〟で提唱した法隆寺の釈迦三尊像を「周半丈六佛」とする拙論に先行説がありましたので報告します。
 同「洛中洛外日記」で、わたしは次のように述べました。

〝佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。〟

 ところが、昭和25年(1950)の『佛教藝術』7号に掲載されている藪田嘉一郎氏(1905-1976)の「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」に、次の記述がありました。

〝(前略)そして施入の對象となった丈六像こそ彼の釈迦像ではないか。しかし釈迦像は普通概念によると丈六像とは言われぬ小像で所謂「尺寸王身」の等像身である。しかるに、これを「丈六分」の丈六に當てる理由は如何。今この像の實測高は二尺八寸五分を算するという。天平の當用尺では二尺九寸を超え三尺に近い。周半丈六の坐像は三尺という説があり、之に近いから、一に「丈六」の名を以て呼偁したのではあるまいか。〟(96頁)

 わたしの仮説が高名な先学と同じであったことはうれしいのですが、先行説の存在に気づかなかったことを研究者として恥じ入るばかりです。しかも、藪田さんの同論文をわたしは20年ほど前に読んでおり、コピーまでしていました。ですから、この論文の内容を失念していたわけですが、当時は「丈六」問題にまで関心が及ばなかったものと思います。
 恥ずかしながら、このことを報告させていただき、畏敬する先学へのお詫びに代えたいと思います。なお、わたしの法隆寺研究は新たなテーマへ展開しそうであり、先行研究などを精査しているところです。


第2201話 2020/08/10

滋賀県甲良町西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」

 本日の京都新聞web版によると、滋賀県甲良町の古刹西明寺本堂(国宝、鎌倉時代)の柱に書かれていた菩薩立像が飛鳥時代(592―710)に描かれたもので、国内最古級の絵画であることが判ったとのこと。湖東の甲良町には天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良大社の神を勧請したとされる高良神社(御祭神は武内宿禰)があり、以前から注目してきたところです(「洛中洛外日記」147話 2007/10/09〝甲良神社と林俊彦さん〟参照)。
 湖東には九州王朝との関係をうかがわせる旧跡や伝承(「洛中洛外日記」2014/10/25 〝湖国の「聖徳太子」伝説〟参照)があり、近年は創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕に焼失)と同范瓦(忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦)が栗東市の蜂屋遺跡から出土しています(「洛中洛外日記」~80話 2018/11/03-4 滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦1-2参照)。
 今回「発見」された仏画が九州王朝の時代である七世紀に遡るのであれば、九州王朝や多利思北孤との関係を考えてみる必要がありそうです。

【転載】京都新聞社 2020/08/10 16:57
1300年以上前の絵画を「発見」、日本最古級か
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認 滋賀・甲良の寺

 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)は9日、絵は飛鳥時代(592―710)に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、描式から日本最古級の絵画とみられると発表した。834年とされる同寺の創建前で、創建時期が大きくさかのぼる可能性があるとも指摘した。
 菩薩立像は、本堂内陣の本尊・薬師如来像前にある西柱と南柱に描かれていた。柱は黒くすすけ、これまで何が描かれているのか分からなかったが、昨年6月、周囲の仏像を移動させ、高さ3~4メートルに描かれた絵を赤外線で撮影することができた。
 分析の結果、両柱(直径約45センチ)には、菩薩立像が4体ずつ描かれていた。薬師如来像をたたえるように力強い筆致で、背景には雲塊や唐草文もある。青や緑、朱などの顔料が使われ、当時は極彩色だったという。
 安嶋教授によると、像は長身で細面で線が太い。耳の中や手のひらの描き方は単調で、隋代(581-618)の描法の特徴を表している。飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似しているといい、「絵画としては日本最古級」とした。寺周辺には東大寺の彩色を担当した渡来系の画工集団・簀秦画師(すのはたのえし)が居を構えていたことから、「彼らによる仕事では」とも推測した。
 西明寺の中野英勝住職は「本堂自体が国宝だが、絵画にも注目してほしい」と話した。


第1875話 2019/04/14

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)

 『法隆寺縁起』に記された献納品に付記された「丈六分」や「佛分」について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から貴重なご意見をいただきました。それは次のような内容でした。

① 「丈六分」とあるからには、高さが丈六の佛像と考えるべきで、釈迦三尊像では寸法があわない。丈六佛が当時は存在していたのではないか。
② 経典に釈迦のことを「佛」と記す例は多く、「佛分」とあるのが釈迦三尊像を指すのではないか。
③ 光明皇后による「二月廿二日」の施入の目的や法隆寺の性格は古賀説(多利思北孤鎮魂の寺)でよい。

 この加藤さんのご意見は有力で、わたしも同様の可能性について考えました。しかし『法隆寺縁起』の他、当時の史料から法隆寺に丈六佛があったとする痕跡が見つからないことと、伝染病(天然痘)の猛威という国家的災難に対して、「二月廿二日」に施入していることから、法興32年(622)「二月廿二日」に崩御した上宮法皇をモデルとした「等身佛(尺寸の王身)」との銘文を持つ釈迦三尊像こそ施入対象の冒頭に記された「丈六分」と解さざるを得ないと考えたからです。
 そこで問題となるのが、加藤さんも指摘されたように「丈六」という仏像の高さを示す表記をどのように考えるのかということでした。当初、わたしは「丈六」というのは釈迦の身長を意味し、「丈六」という言葉そのものに「釈迦像」という意味を有していたと考えました。ところが、正木さんから釈迦三尊像は「丈六佛」ではなく「等身佛」であるとのご指摘を受けて深く考え、改めて調査したところ、同釈迦像は「周半丈六佛」であることに気づきました。
 佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。
 以上のようにわたしは考えていますが、この場合、「周半丈六」という言葉や概念が7世紀前半頃に存在していたことを証明しなければなりませんが、今のところ史料根拠を発見できていません。ですから、このわたしの仮説は不安定なものです。先の加藤さんのご意見とどちらが良いのか、あるいはもっと優れた仮説があるのかを考えたいと思います。なお、同釈迦像を「周丈六像」とする見解を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のホームページ「sanmaoの暦歴徒然草」(2019.04.12)で詳しく発表しておられましたので、意を強くしました。(つづく)


第1870話 2019/04/06

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(6)

 釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの正木さんからの指摘に答える前に、なぜわたしは『法隆寺縁起』に記された「丈六」を釈迦三尊像のことと理解したのかについて説明します。
 『法隆寺縁起』に記されたほとんどの献納品は、たとえば「丈六分」の他には「佛分」「薬師佛分」「弥勒佛分」「観世音菩薩分」「法分」「聖僧分」「塔分」「通分」などのように何に対しての施入かが記されています。そしてその順番を見ると、「丈六分」は先頭に記されています。たとえば次のようです(「丈六分」そのものが含まれていない施入例もあります)。

 「(前略)
  合香鑪壹拾具
   丈六分白銅単鑪壹口
  佛分参具
  彌勒佛分白銅壹具
 法分白銅弐具
   塔分赤銅壹具
   通分白銅弐具
 (中略)
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城
 宮皇后宮者」

このように天平八年二月二十二日に光明皇后らから施入された献納品の筆頭の多くは「丈六分」とされており、この「丈六」を「二月廿二日」に没したことが記された唯一の仏像である釈迦三尊像と理解する他ないのです。『法隆寺縁起』には「薬師佛分」「彌勒佛分」「観世音菩薩分」とかの仏像は見えるのですが、釈迦三尊像を示す「釈迦分」という表記がないことも、「丈六」を釈迦三尊像のこととするわたしの理解を支持しています。
 『法隆寺縁起』の最初の方には当時の法隆寺にあった仏像について「合佛像弐拾壹具」とあり、その二十一体の仏像について記されています。最初の一体は「金埿銅薬師像壹具」でこれは光背銘を持つ有名な薬師如来像です。二番目に釈迦三造像が「金埿洞(ママ)釈迦像壹具」とあり、それ以外に光明皇后が「丈六分」として「二月廿二日」に大量の施入をするような発願者名などが特筆された仏像は見当たりません。こうした理由から、わたしは「丈六」を釈迦三尊像と理解しました。この二十一体の他にも献納された諸仏像が記されていますが、やはり「丈六」に相応しい仏像の記録はありません。
 他方、これは正木さんから教えていただいたのですが、法隆寺の西円堂には文字通りの丈六(座像で像高246.3cm)の薬師如来像が安置されています。寺伝では養老二年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願により行基が建立したとされていますが、仏像史研究によればこの薬師如来像は八世紀後半頃のものとされていますから、光明皇后らが施入した天平八年(736)の頃には西円堂の薬師如来像はまだ存在していなかったと思われます。
 更に『法隆寺縁起』には、養老六年(722)にも「平城宮御宇天皇(元正天皇)」による「丈六分」とする施入記事があることから、やはりこの「丈六」を八世紀後半頃と編年されている西円堂の薬師如来像とすることは困難と思われます。もし養老二年頃に西円堂が建立され、本尊の薬師如来像が安置されたのであれば、そのこと自体が『法隆寺縁起』に記されるはずですが、そのような記事は見えません。
 なお付言すれば、同薬師如来像の編年が八世紀初頭頃まで遡るとなれば、「丈六」の有力候補となります。この点、仏像史研究を調べてみたいと思います。(つづく)


第1869話 2019/04/03

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(5)

西村秀己さんに続いて、本連載を読まれた正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)からもまたまた鋭いご指摘をいただきましたので、ちょっと寄り道をしてご紹介します。
 拙論では、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝(倭国)や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、病没した上宮法皇(多利思北孤)の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したと指摘しました。その一例として『法隆寺縁起』の次の献納記事を紹介しました。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

 施主の「平城宮皇后」とは聖武天皇の后で藤原不比等の娘、光明皇后のことで、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入していることも紹介しました。この「丈六」を法隆寺の釈迦三尊像のこととし、その光背銘に記された上宮法皇の命日「二月廿二日」に施入したと説明したのですが、正木さんよりこの釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの指摘がありました。
  確かに、銘文には「造釋像尺寸王身(尺寸の王身の釈像を造る)」とあり、文字通り上宮法皇と寸分違わず作製された釈迦像と考えざるを得ません。どんなに誤差を想定しても「丈六」(一丈六尺=約4.85m。座像の場合は半分の2.43m)ではありません。言われてみればその通りで、意表を突かれた指摘でした。(つづく)


第1867話 2019/03/31

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(4)

 「洛中洛外日記」1866話〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)〟を読まれた西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、高松市)から重要なご質問メールをいただきました。それは、大宝元年(701)の王朝交替の80年も前に没した「上宮法皇」が大和朝廷に祟ったなどと大和の人々が考えるだろうかという疑問です。まことにもっともな疑問です。これに対して、わたしは次のような理由から、大和朝廷は天然痘の流行を九州王朝やその天子「上宮法皇」(古田説によれば『隋書』に見える阿毎多利思北孤のこと)の祟りと考えたのではないかと思います。

① 天智9年(670)に全焼した法隆寺(若草伽藍)の跡地に、王朝交代後の和銅年間に大和朝廷は多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院(場所や名称は不明。古田学派内でも諸説ある)とその本尊(釈迦三尊像)を移築している(現・法隆寺西院伽藍)。移築の痕跡は米田良三著『法隆寺は移築された』に詳しい。その寺院・仏像を簒奪した〝後ろめたさ〟を大和朝廷は抱いていたものと思われる。
② 光背銘によれば、九州王朝(倭国)王家の人々が相次いで没している。次の通りだ。

 法興31年(621)12月   鬼前太后
法興32年(622)2月21日 干食王后
 法興32年(622)2月22日 上宮法皇

 死因は「上宮法皇、枕病してよからず。干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。」とあり、病没である。王家の人々が次々と没していることから、おそらく伝染病が倭国王家を襲ったものと思われ、この事実は一大事件として倭国内で伝承されていたことを疑えない。もちろん近畿天皇家にも伝わっていたであろうし、何よりも法隆寺に伝わった光背銘文に記されており、王朝交代後の大和朝廷の人々の目にも触れていた。
 こうした経緯から、同じく伝染病(天然痘)の脅威にさらされた大和朝廷にとって、病没した多利思北孤ら倭国王家の怨念を沈める必要を感じたのではあるまいか。
③ そして何よりも大和朝廷中枢を襲った天然痘が九州(大宰府官内)から発生したものであり、これを自らが滅ぼした「九州王朝の祟り」と考えても不思議ではない。
④ 他方、大和朝廷は未服従の九州王朝残存勢力を「隼人」討伐と称して、養老4年(720)まで南九州への軍事侵攻を続け、九州の人々の恨みをかってきた。

 以上のような理由により、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、多利思北孤の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したとする仮説をわたしは発表したのでした。(つづく)


第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)