新撰姓氏録一覧

第2478話 2021/06/03

渡来系古代氏族「赤染氏」の末裔

 「古田史学の会」会員の日野智貴さん(たつの市)がFaceBookで興味深い新聞記事(2017年4月19日、西日本新聞筑豊版)を紹介されています。日野さんによれば、『三国志』時代の公孫淵の子孫が日本列島に渡来し赤染氏を名のっており、福岡県田川市の香原神社宮司が赤染さんとのこと。そして、渡来系古代氏族と九州王朝との関係を示唆されました。
 日野さんの紹介文の一部を転載させていただきます。

【以下、転載】
 『三国志』で有名な・・・と、思っているのは相当なマニアではあるが、マニアの間では著名な燕王公孫淵の子孫が、豊前におられたようだ。(中略)
 私が関心を持ったのは、この公孫淵の子孫と言う赤染氏が、九州にいるという事実である。彼らは『新撰姓氏録』によると近畿にいたらしいが、記録はほとんど残っていない。
 むしろ九州の方が本家なのではないか、と言う感じもする。燕との関係は九州王朝にとっても重要な問題であったはずである。(後略)
【転載おわり】

 古代において日本列島へは多くの渡来があり、それら渡来人は古代氏族として倭国や日本国の要職に就いたことが知られています。『新撰姓氏録』にもそうした氏族が多数収録されています。例えば、赤染氏と同族とされる常世氏は次のように記されています。

 「常世連
   出自燕國王公孫淵也。」『新撰姓氏録』「右京諸蕃上」

 「洛中洛外日記」でも九州王朝の家臣「大蔵氏」のことを調査・論究(注)したことがありますが、渡来人の多くは九州王朝(倭国)の時代に渡来していますから、それら渡来系氏族を調べれば九州王朝史研究に役立つことと思います。この度、赤染氏の存在を知り、『新撰姓氏録』や古代氏族系図研究の重要性を改めて認識しました。ご教示いただいた日野さんに感謝いたします。

(注)
「洛中洛外日記」2326話(2020/12/18)〝九州王朝の家臣「千手氏」調査〟
「 同   」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟
「 同   」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟
「 同   」2331話(2020/12/23)〝阿智王伝承と阿智使主伝承〟
「 同   」2333話(2020/12/29)〝「秋月系図」に見る別伝承習合の痕跡〟
「 同   」2358話(2021/01/25)〝『嘉穂郡誌』の「天智天皇」伝承〟
「 同   」2359話(2021/01/26)〝『朝倉風土記』の「天智天皇」伝承〟


第2448話 2021/05/04

「倭王(松野連)系図」の史料批判(11)

 – 松野氏の濃密分布地、岐阜県瑞穂市

 「倭王(松野連)系図」には、古代から室町時代頃(注①)までの人物名が記されています。その中にいくつか注目すべき傍注があり、同系図の信憑性を計る手がかりとできそうです。中でも十世紀頃の「宅成」という人物の傍注に「左小史」「子孫在美濃国」とあり、松野宅成の子孫が「美濃国」(岐阜県)にいるとされています。この傍注が記された時期は不明ですが、web調査によると、松野姓が現在も岐阜県に濃密分布していることがわかりました。従って、同傍注は信頼できることとなり、系図の中近世部分の信頼性は高いのではないかと思われます。
 「日本姓氏語源辞典」(注②)によれば、「松野」姓の分布状況は次の通りです。

【県別分布順位】
1 神奈川県(約3,100人)
2 大阪府 (約3,000人)
3 東京都 (約2,800人)
4 岐阜県 (約2,700人)
5 愛知県 (約2,300人)
6 静岡県 (約2,000人)
7 兵庫県 (約2,000人)
8 北海道 (約1,900人)
9 熊本県 (約1,700人)
10 千葉県 (約1,600人)

【市町村別分布順位】
1 岐阜県 瑞穂市(約1,000人)
2 岐阜県 岐阜市(約800人)
3 静岡県 浜松市(約800人)
4 熊本県 熊本市(約600人)
5 新潟県 上越市(約400人)
6 香川県 高松市(約400人)
7 長崎県 長崎市(約300人)
8 山梨県 甲府市(約300人)
9 大阪府 堺市 (約300人)
10 大阪府 松原市(約300人)

 また、松野姓の発祥地として次の説が紹介されていました。

①静岡県富士市南松野・北松野発祥。平安時代に記録のある地名。東京都千代田区千代田が政庁の江戸幕府の幕臣に江戸時代にあった。同幕臣に伝承あり。
②栃木県那須郡那珂川町松野発祥。戦国時代に記録のある地名。
③熊本県球磨郡球磨村神瀬松野発祥。同地に分布あり。
④新潟県上越市牧区東松ノ木発祥。江戸時代に記録のある地名。地名はマツノキ。同地に分布あり。
⑤合略。赤松と浅野の合成。広島県広島市中区基町が藩庁の広島藩士に江戸時代にあった。同藩士は赤松姓の「松」と軍功により浅野氏から賜った「野」からと伝える。推定では安土桃山時代。赤松アカマツ参照。浅野アサノ参照。
⑥地形。松と野から。鹿児島県いちき串木野市冠嶽に江戸時代にあった門割制度の松野之屋敷から。屋敷による明治新姓。善隣。大阪府泉南市鳴滝に分布あり。
※呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。

 この中で、「倭王(松野連)系図」の松野氏に関係すると思われるのは、次の二つです。

 「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野発祥。同地に分布あり。」
 「呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。」

 「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野」発祥説は「倭王(松野連)系図」の傍注(注③)に見える「火国」(肥後国)との関係がうかがわれます。「呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。」も「呉系」という点が系図と一致しています。
 「筑紫前国夜須郡松狭野」に住し、「松野連」姓を名のったという系図の記事とは異なりますが、呉から肥後(火国)に渡り、球磨郡球磨村神瀬松野に土着した一族が「松野」を名のったという可能性もあります。筑後国夜須郡に「松野」地名が現存していないという状況を考えると、「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野」発祥説の方が有力と考えるべきかもしれません。
 なお、岐阜県に濃密分布する松野氏については解説がありませんが、先の系図傍注記事にあるように、京都で宮仕えしていた松野氏の分派(松野宅成の子孫の一部)が岐阜県(美濃国)に移転したのではないでしょうか。そうすると、岐阜県の松野家(注④)に「倭王(松野連)系図」が今も伝わっている可能性がありそうです。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)所収の「倭王系図(松野連)」によれば、同系図末尾(同書68頁)から三代目の「久世」という人名の傍注に「応永三十二(1425)正三位(後略)」とある。
②日本姓氏語源辞典 https://name-power.net/
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図』所収「倭王系図(松野連)」(63頁)の「宇也鹿文」の傍注に「火国菊池評山門里」が見え、同「市鹿文」の傍注には「同時賜火国造」とあり、呉王夫差の子孫が火国(肥後)に移り住んだとしている。
④岐阜県瑞穂市出身の有力者に、岐阜県知事や衆議院議員を歴任した松野幸泰氏(1908-2006)がいる。同家は松野連(呉王夫差・倭国王)の末裔ではあるまいか。調査したい。


第2442話 2021/04/26

「倭王(松野連)系図」の史料批判(8)

  — 始祖「太伯」説の史料と論理

 『記紀』神話とは異なり、九州王朝・倭王の始祖を周の太伯やその子孫の呉王夫差とする伝承は、国内史料としては「倭王(松野連)系図」の他に、その一端を示す『新撰姓氏録』があります。また中国史料としては、『翰苑』や『翰苑』に引用された『魏略』があり、正史の『晋書』『梁書』もあります。次の通りです。

○「松野連 出自呉王夫差也」『新撰姓氏録の研究』右京諸藩上
○「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
○「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
○「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
○「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 ここで注目されるのが、中国側史料すべてに倭人の風俗として「文身」(いれずみ)が見えることです。特に『翰苑』に引用された『魏略』の記事は重要です。
 『魏略』は『三国志』と同時期に成立した史書であることから、両書は倭国を訪問した魏使の報告書に基づいて記されたと考えられます。そうすると、『三国志』倭人伝には倭王の始祖伝承は記されず、『魏略』は太伯を始祖とする倭人の伝承を記したということになります。これは両書の編纂方針の差によると考えざるを得ませんが、それが何なのかは未詳です。もしかすると、『三国志』の著者陳寿は、倭人の始祖伝承を信ずるに足らずとして、採用しなかったのかもしれません。
 しかし、『魏略』に採用された倭人の始祖伝承は、史実かどうかは別にしても、当時の倭国がそのように認識しており、そのことを魏使に伝えたということは否定し難いのではないでしょうか。わたしは、この始祖伝承は歴史的背景を持つもので、一定の真実を秘めているのではないかと考えています。(つづく)


第2435話 2021/04/15

「倭王(松野連)系図」の史料批判(3)

  — 庚午年籍と松野連(まつのむらじ)

 鈴木真年氏が収集した「倭王(松野連)系図」は、通常「松野連系図」と呼ばれています。今回は松野連について検討します。同系図では松野連の始祖を呉王夫差としますが、9世紀初頭に成立した『新撰姓氏録』(注①)の「右京諸藩上」には、松野連について次の様に記されており、自らを呉王夫差の末裔とする松野連が古代に於いて存在していたことは確かなようです。

 「松野連 出自呉王夫差也」(『新撰姓氏録の研究 本文篇』295頁)

 同系図(注②)によれば、「倭の五王」の「武」の後に「哲」(傍注「倭国王」)、次に「満」と〝中国風一字名称〟の人物が続き、その後に「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」へと続きます。ここで注目されるのが次の傍注です。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
 「津萬呂」《甲午籍負松野連姓》
  ※《》内が傍注。「大野」「廣石」には傍注なし。

 これらの傍注が系図原文にあったものか、鈴木真年氏による付記なのかという問題はありますが、「牛慈」が夜須評督になったこと、「長堤」が「筑紫前国夜須郡松狭野」に住んでいたこと、「津萬呂」が甲午籍により「松野連」姓になったことを示しています。この傍注から次のことが想定できます。

①夜須評督になった「牛慈」は評制が施行された7世紀中頃の人物と思われる。「金刺宮御宇」とは欽明期を意味するが、これは『日本書紀』の認識に基づき、後世になって付記されたものである。
②「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるい「松野という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。
③筑前国を「筑紫前国」と古い表記が使用されており、この部分は系図原文にあったと考えられる。それとは逆に、「夜須郡」という表記は「評」が「郡」に書き換えられたもので、本来は「夜須評」だったと思われる。「小治田朝」も推古期を意味するが、これも『日本書紀』成立以降の後代に付記されたと考えられる。
④「津萬呂」が「甲午籍」により「松野連」姓をもらったとあるが、「甲午」は694年だが、この年に造籍があったとする史料痕跡はない。同音の「庚午」(670年)の年に造籍された庚午年籍があり、「甲午」は「庚午」の誤写と考えるのが妥当である。
⑤以上のことから、「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」は7世紀の人物であると推定できる。

 なお、『埋もれた古代氏族系図』2頁掲載の〝稿本〟(注③)には「大野」は見えず、7頁の別筆跡の〝稿本〟(注④)では、「大野」が割り込み加筆された跡があり、このことから「大野」は鈴木真年氏とは別人(注⑤)による加筆と思われます。従って、本来形では「牛慈」「長堤」「廣石」「津萬呂」の四代が7世紀の人物と考えられます。(つづく)

(注)
①佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』吉川弘文館、1962年。
②尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年。(64~65頁)
③「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」との表記がある。
④「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」との表記がある。
⑤『埋もれた古代氏族系図』(34頁)によれば、鈴木真年の協力者として親交のあった中田憲信(よしのぶ)の名前をあげており、『諸系譜稿』(国立国会図書館所蔵)に収録された「松野連倭王系図」は、中田が「鈴木の蒐集本をさらに筆写したもの」とする。


第2331話 2020/12/23

阿智王伝承と阿智使主伝承

 『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)には、阿智王と阿智使主、高尊王・高貴王と阿多倍のように、同一人物に複数の名前があることから、「洛中洛外日記」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟において、〝名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。〟と指摘しました。この問題について検討したところ、本来は別伝承であった「阿智王伝承」と「阿智使主伝承」が〝習合〟されていた可能性が高まりました。
 阿智王や阿智使主に関する伝承はいくつかの史料(注②)に見えますが、主には次のような差異があります。

(1)代表的な始祖の名前が「阿智王(あちおう)」と「阿智使主(あちのおみ)」
(2)その子供の名前が「阿多倍」と「都賀使主(つがのおみ)」
(3)来日の時期が「孝徳期」と「応神期」
(4)来日した人物が「阿智王・阿智使主」と「阿多倍」
(5)帰化した類族数が「十七縣」と「七縣」

 これらの差異が史料毎に様々なバリエーションで伝承されており、一見すると整合性や規則性はありません。しかし、この中で決定的な差異は(3)の来日年代です。孝徳期(七世紀中頃)と応神期(『日本書紀』紀年では三世紀後半頃)ですから、誤記誤伝のレベルではありませんので、本来は別々の伝承があったと考えざるを得ないのです。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②管見では、阿智王・阿智使主を始祖とする伝承記事が次の史料にある。『日本書紀』(応神紀二十年条)、『新撰姓氏録』、『続日本紀』(光仁紀・宝亀三年条、桓武紀・延暦四年条)、「大蔵氏系図」、「坂上系図」、「秋月系図」、「田尻系図」。


第2054話 2019/12/11

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(3)

 三宅利喜男さんは「市民の古代研究会」時代からの古田先生の支持者で、優れた古代史研究を発表されてきました。「古田史学の会」創立後には、反古田に変質した「市民の古代研究会」に見切りをつけて、「古田史学の会」へ参加されました。また、小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)のお話では、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りハイキングの第1回目からの参加者(案内役)だったとのことです。
 三宅さんの研究論文で、最も衝撃を受けたものが「『新撰姓氏録』の証言」(『古田史学会報』29号、1998年12月)でした。『新撰姓氏録』に記された古代氏族の祖先が、特定の天皇に集中していることを指摘された論稿で、古田先生も天孫降臨の時代を推定する上で、優れた研究と評価されていました。
 こうした三宅さんの研究業績を埋もれさせることなく、この機会に顕彰したいと考え、インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)に相談したところ、下記のように「三宅利喜男論集」をホームページ「新・古代学の扉」内に開設していただきました。是非、皆さんも見てみて下さい。

暫定リンク版【三宅利喜男論集】

1.「新撰姓氏録」の証言
『古代に真実を求めて』第三号(二〇〇〇年十一月)より現在編集中、本人の了解が取れれば発行します。
 要旨は、『古田史学会報』二十九号「『新撰姓氏録』の証言」と、『古田史学会報』四十七号「続『新撰姓氏録』の証言 — 神別より見る王権神話の二元構造」に記載されています。

2.小林よしのり作 漫画『戦争論』について
『古田史学会報』二十九号(一九九九年二月)

3.『播磨国風土記』と大帯考
『市民の古代』第十三集(一九九一年)

4.九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証
『市民の古代』第十五集(一九九三年)

5.続『日本書紀』成書過程の検証 — 編年と外交記事の造作
『市民の古代』第十六集(一九九四年)

【書誌目録】

1.続『新撰姓氏録』の証言〔古代史の海(26), 59-61, 2001-12〕

2.音韻と区分論(特集 渡部正理氏の「『日本書紀の謎を解く』への疑問」)〔古代史の海(24), 13-15, 2001-06〕

3.『新撰姓氏録』の証言 三宅利喜男〔古代史の海(22), 31-36, 2000-12〕

4.「日本書紀」書き継ぎ論–『古事記』未完論に寄せて〔古代史の海(12), 60-69, 1998-06〕

5.主神論〔古代史の海(9), 42-47, 1997-09)

6.『日本書紀』に現れる古代朝鮮記事〔古代史の海(4), 55-59, 1996-06〕

7.倭の五王は大阪に眠る(越境としての古代3 , 2005-05)

他の書誌および『市民の古代研究』などは、後日確認いたします。


第922話 2015/04/14

『新撰姓氏録』「佐伯本」と学問の方法

 20年ほど昔のことですが、わたしが『新撰姓氏録』の研究をするためにどのテキストを使用するべきか、古田先生にご相談したことがあります。比較的手に入りやすく、各写本や版本の解説がある佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館)を用いようとしたのですが、そのとき古田先生から文献史学にとってとても大切なことを教えていただきました。
 それは、同書は各写本・版本間に文字の異同などがある場合、佐伯さんの判断でそれぞれの諸本から取捨選択されており、言わば『新撰姓氏録』「佐伯本」ともいうべきものであり、文献史学における史料批判の基本から見ればテキストとして使用すべきではないと指摘されたのです。すなわち、文献史学において諸本間に文字や記述の異同がある場合は、現代人の認識や判断で取捨選択するのではなく、史料批判や論証の結果、最も原文に近いと判断できる写本・版本をテキストとして依拠しなければならないという学問の基本姿勢について注意されたのでした。
 わたしはこのとき古田史学の学問の方法で最も大切なことの一つである史料批判について学んだのです。このことは、後の研究にも役立ちました。一例をあげれば、数ある九州年号群史料の中で、最も原型に近いと判断される『二中歴』を重視するということも、このときの経験によるものでした。初期の九州年号研究において、なるべく多くの史料を集め、その中で最も多い年号立て、あるいは最大公約数的な年号立てを九州年号の原型と見なすという手法が盛んに行われましたが、古田先生は終始この方法を批判され、史料批判に基づいて最も成立が早く、原型を保っている『二中歴』に依拠すべきとされたのです。すなわち、学問は多数決ではなく、論証に依らなければならないのです。そして、このことが正しかったことは、現在までの九州年号研究の成果により確かめられています。
 思えば古田先生は『「邪馬台国」はなかった』のときから、この立場に立たれていました。『三国志』版本の中で紹煕本が最も原型を保っていることを論証され、その紹煕本に基づいて研究をされたことは、古田学派の研究者や読者であればよくご存知のはずです。『万葉集』でも同様で、「元暦校本」を最良のテキストとして古田先生は研究に使用されています。
 たとえば『三国志』倭人伝の原文が、「邪馬台国」と「邪馬壹国」のどちらであったのかを論じる場合、国会図書館の蔵書中の表記を全て数え、多数決で決めるという方法が非学問的であることはご理解いただけるでしょう。それと同様に、現存する九州年号史料をたくさん集め、その多数決で九州年号の原型を決めるという方法も非学問的なのです。20年前の古田先生の教えを、今回『新撰姓氏録』を再読しながら懐かしく思い起こしました。
 「必要にして十分な論証を抜きにして、安易な原文改訂にはしってはならない」という古田先生の教えとともに、この史料批判に対する姿勢についても忘れないようにしたいと思います。


第921話 2015/04/12

『新撰姓氏録』の「光井女」

 『筑後志』三潴郡の「威光理明神」は神武記に見える「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった今回の探索は、伊勢神宮にまで行き着きついたのですが、伊勢神宮末社の伊我理神社の御祭神が伊我理比女命という女性であったことに、ちょっとおどろきました。というのも、かなり昔に『新撰姓氏録』の研究を行ったとき、次のような記事があり、よく理解はできませんでしたが、当時から注目していました。『新撰姓氏録』「大和国神別」に見える「吉野連」の次の記事です。

 「神武天皇が吉野へ行幸し、神の瀬に至り、水汲みに人を派遣した。帰った来た使者が言うには、光井女がいたと。天皇が召し出して名を尋ねたところ、わたしは天降り来た白雲別神の娘で、名前は豊御富ですと答えた。そこで天皇は水光姫と名付けた。今、吉野連が祭る水光神とはこのことである。」(古賀訳)

 この『新撰姓氏録』の記事は、当時の吉野連の伝承と記紀に見える「井氷鹿」「井光」記事から成立したものと思いますが、「光井女」と女性の伝承となっています。ちなみに記紀の記事からは性別はわかりません。伊勢神宮の末社に祭られた伊我理比女と『新撰姓氏録』の「光井女」(豊御富・水光姫)記事はともに女性の伝承としていますから、もしかすると三潴郡の威光理明神も女性かもしれませんが、今のところ判断できません。
 なお、佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究』(吉川弘文館)によれば、『新撰姓氏録』の諸版本には「井光女」とあり、諸本には「光井女」とあるとのこと。(つづく)


第236話 2009/11/22

「米良」姓の分布と熊野信仰

 昨日の関西例会は初参加の方が3名あり、遠く長野県からの参加者もおられ、いつものように活発な質疑応答が交わされました。いずれの発表も貴重な研究で触発されるものでした。
 例会の休憩時間に、第234話で触れた日向米良修験道の「米良」姓の分布調査を西村さん(本会全国世話人)に依頼したところ、ご自慢の携帯電話で電話帳 検索をまたたくまの間にしていただけました。その結果は私の予想以上のもので、とても驚きました。
 「米良」さんの県別分布は宮崎県の286件をトップに、何と2位が大都市の東京(31件)大阪(39件)を倍近く抜いて千葉県の64件だったのです。ち なみに有名な那智勝浦の熊野大社のある和歌山県は7件で、その内6件が那智勝浦に集中していました。やはり熊野信仰と米良氏は関係の深いことが推察されま した。これは私の予想していたとおりでしたが、千葉県の64件は全く「想定外」だったのです。しかも、千葉県の米良さんも勝浦に集中しているのです。米良 さんが集中している千葉県勝浦と和歌山県那智勝浦、そして米良さん最多集中の宮崎県は黒潮で結ばれた「熊野信仰圏」ではないでしょうか。
 もしそうだとすると、その方向は宮崎から和歌山そして千葉へ。このように考えざるを得ません。そして、その移動の時代が古代まで溯る可能性大ではないで しょうか。
 しかもその淵源は菊池氏・天氏となりますから、熊野信仰の淵源は九州王朝となります。なお、千葉県勝浦の近傍には「天津」「天津小湊」「天面(あまつら)」という興味深い地名もあります。
 以上、例会の休憩時間を利用した初歩的で簡単な調査と推論ではありますが、とても魅力的かつ雄大なスケールを持つ研究テーマと言えそうです。どなたか本格的に米良氏と熊野信仰を研究されてはいかがでしょうか。
 11月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「蒔かぬ種」「蒔いた種」・他(豊中市・木村賢司)
2). 大湖望での短里実験(交野市・不二井伸平)
3). 万葉集第304番歌の作歌場所(京都市・岡下英男)
4). 新撰姓氏録の人口分布(木津川市・竹村順弘)
5). 命長改元と「大宰府政庁」について(川西市・正木裕)
6). 一切経写経と利歌弥多弗利そして『十七条憲法』(川西市・正木裕)
○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・巻向出土遺跡現地説明会報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)