難波朝廷(難波京)一覧

第187話 2008/08/30

大化改新と前期難波宮

 最近、大化改新の研究に没頭しているのですが、通説を調べていて面白いことに気づきました。

  岩波の『日本書紀』解説にも書かれているのですが、大雑把に言えば、大化二年の改新詔を中心とする一連の詔は、歴史事実であったとする説と、「国司」など の大宝律令以後の律令用語が使用されていることから、『日本書紀』編纂時に創作された虚構とする説、その中間説で大宝律令や浄御原令の時の事績を孝徳期に遡らせたものとする説があります。そして、孝徳期にはこのような改新は無かったとするのが学界の大勢のようなのです。
   ところが、孝徳期に大化改新詔のような律令的政治体制は無かったとする学界の大勢には、大きな弱点、目の上のたんこぶがあったのです。それは前期難波宮の存在です。
 大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、どう見ても律令体制を前提とした宮殿様式です。それは、後の藤原宮や平城京と比較しても歴然たる事実です。この事実が今も大和朝廷一元史観の歴史家たちを悩ませているのです。
   たとえば、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)にも如実に現れています。そこには、次のような記述があります。

 右のような「大化改新」への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。 もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、「現御神天皇」統治体制への転換を成し遂げた「大化改新」は、全く以て疑 う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。(同誌11頁)

 このように、大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られているのです。
 ようするに、学界の大勢を占める大化改新虚構説は前期難波宮の存在の前に、論理上屈服せざるを得ないのですが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に立て ば、この問題は氷解します。すなわち、650年頃、前期難波宮に於いて九州王朝が評制を中心とする律令的政治体制を確立したと考えれば、前期難波宮の見事 な朝堂院様式の遺構は、従来の考古学編年通り無理なく説明できるのです。(つづく)


第175話 2008/05/12

再考、難波宮の名称

 163話で、 前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていたとする考えを述べましたが、4月の関西例会で正木裕さん(本会会員、川西市)から、孝徳紀白雉元年と二年条に見える味経宮(あじふのみや)が前期難波宮ではないかとの異論が出されました。その主たる根拠は、白雉二年に味経宮で僧侶2100余人に一切経を読ませたり、2700余の燈を燃やしたりという大規模な行事が行えるのは、前期難波宮しかない。更にそこで読まれた安宅・土側経は、翌年完成する難波宮の地鎮に相応しい経典であるというものでした。
 この説明を聞いて、成る程と思いました。というのも、わたし自身も味経宮は前期難波宮ではないかと考えた時期があったからです。ただ、孝徳紀を読む限り、白雉改元の儀式が味経宮でのこととは断定できず、『続日本紀』に見える「難波宮」説を採ったのでした。
 しかし、正木さんの異論を聞いて、再考したところ、『万葉集』巻六の928番歌にある

「味経の原に もののふの 八十伴の男は 庵して 都なしたり」

が、聖武天皇の時代の後期難波宮を示していることから、後期難波宮が「味経の原」にあったこととなり、同じ場所にあった前期難波宮も味経の原にあった宮、すなわち味経宮であるという理解が可能となることに、遅まきながら気づいたのです。なお、この歌には「長柄の宮」という表現もあり、難波宮は「長柄の宮」とも呼ばれていたようです。
 そして、ここでは「長柄豊碕宮」と呼ばれていないことが注目されます。前期と後期難波宮は「長柄豊碕宮」とは別であるということは、この歌からも言えるのではないでしょうか。ちなみに、この歌を笠朝臣金村が読んだのは、『日本書紀』成立直後の頃と推定できますから、孝徳紀の「難波長柄豊碕宮」という記事を知っていた可能性、大です。それにもかかわらず、「難波長柄豊碕宮」とはしないで、「味経の原」「長柄の宮」と読んでいることは同時代史料として、重視しなければなりません。
   以上のことから、正木さんの異論、「前期難波宮の名称は味経宮」説は検討されるべき有力説と思われます。


第173話 2008/05/02

「白鳳以来、朱雀以前」の新理解

 九州年号の白鳳と朱雀が聖武天皇の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に、次のように記されていることは著名です。

「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦、所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、よりて公験(くげん)を給へ」

 これは治部省からの問い合わせに答えたもので、養老4年(720)に近畿天皇家として初めて僧尼に公験(証明書、登録のようなもの)を発行を始めたのですが、戸籍から漏れていたり、記載されている容貌と異なっている僧尼が千百二十二人もいて、どうしたものかと天皇の裁可をあおいだことによります。
 しかし、その返答として、いきなり「白鳳以来、朱雀以前」とあることから、そもそもの問い合わせ内容に「白鳳以来、朱雀以前」が特に不明という具体的な時期の指摘があったと考えざるを得ません。というのも、年代が玄遠というだけなら、白鳳以前も朱雀以後も同様で、返答にその時期を区切る必要性はないからです。
 にもかかわらず「白鳳以来、朱雀以前」と時期を特定して返答しているのは、白鳳から朱雀の時期、すなわち661年(白鳳元年)から685年(朱雀二年)の間が特に不明の僧尼が多かったと考えざるをえませんし、治部省からの問い合わせにも「白鳳以来、朱雀以前」と時期の記載があったに違いありません。
 この点、古田先生は『古代は輝いていたIII』で、「年代玄遠」というのは只単に昔という意味だけではなく、別の王朝の治世を意味していたとされました。九州王朝説からすれば一応もっともな理解と思われるのですが、わたしは納得できずにいました。何故なら、別の王朝(九州王朝)の治世だから不明というならば、白鳳と朱雀に限定する必要は、やはりないからです。朱雀以後も九州王朝と九州年号は朱鳥・大化・大長と続いているのですから。

 このように永らく疑問としていた「白鳳以来、朱雀以前」でしたが、疑問が氷塊したのは、前期難波宮九州王朝副都説の発見がきっかけでした。既に発表してきましたように、九州王朝の副都だった前期難波宮は朱雀三年(686)に焼亡し、同年朱鳥と改元されました。もし、九州王朝による僧尼の公験資料が難波宮に保管されていたとしたら、朱雀三年の火災で失われたことになります。『日本書紀』にも難波宮が兵庫職以外は悉く焼けたとありますから、僧尼の公験資料も焼亡した可能性が極めて大です。従って、近畿天皇家は九州王朝の難波宮保管資料を引き継ぐことができなかったのです。これは推定ですが、難波宮には主に近畿や関東地方の行政文書が保管されていたのではないでしょうか。それが朱雀三年に失われたのです。
 こうした理解に立って、初めて「白鳳以来、朱雀以前」の意味と背景が見えてきたのです。九州王朝の副都難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成し、その後白鳳十年(670)には庚午年籍が作成されます。それと並行して九州王朝は僧尼の名籍や公験を発行したのではないでしょうか。そして、それらの資料が難波宮の火災により失われた。まさにその時期が「白鳳以来、朱雀以前」だったのです。
 以上、『続日本紀』の聖武天皇詔報は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説によって、はじめて明快な理解を得ることが可能となったのでした。


第171話 2008/04/27

九州王朝の白鳳六年「格」

 大和朝廷に先だって九州王朝が律令を制定していたことを古田先生が指摘されていますが(「磐井律令」)、それであれば律令体制下の行政命令に相当する「格 きゃく」も存在していたものと推定されます。大和朝廷の史料では、『類従三代格』などが著名ですが、九州王朝系の「格」の痕跡をこの度「発見」することができました。
 4月の関西例会でも発表したのですが、『日本後紀』延暦十八年(799)十二月条に、亡命百済人等の子孫による賜姓を請う記事があり、その中で祖先が百済から亡命した際、当初、摂津職(難波)に安置され、その後の「丙寅歳正月廿七日格」にて甲斐国に移住を命じられたと述べています。この丙寅歳は666年に相当し、九州年号の白鳳六年のことです。この時代は九州王朝の時代ですから、「丙寅歳正月廿七日格」は九州王朝が発した「格」ということになります。
 更に言うならば、最初に留めおかれた所が「摂津職」とありますから、大和朝廷の『養老律令』などで規定された「摂津職」は、その淵源が九州王朝律令にあったこととなります。従来は、難波宮があったため大和朝廷は摂津を「国」ではなく、「職」にしたと理解されてきましたが、九州王朝の時代から既に「摂津職」とされていたことは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対応しており、思いがけない発見となりました。すなわち、九州王朝は副都がある摂津を「職」と命名位置づけていたことになるのです。『日本後紀』の九州王朝「格」記事は、摂津職の淵源まで、明らかにしてくれたのでした。


第166話 2008/03/23

副都の定義

 わたしが提唱している前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生より「副都」の定義をはっきりさせるようにとの、ご指摘をいただきました。そこで、わたしがイメージしている「副都」について、考えを述べたいと思います。

 副都とは首都に対応する概念であり、前期難波宮の場合、具体的には7世紀における九州王朝の首都「太宰府」に対する副都ということになります。「副」とは言え、「都」ですから、天子とその取り巻きだけが居住できればよいというものではありません。天子以外の国家統治の為の官僚機構や行政機構が在住でき、その生活のための都市機能も必要です。すなわち、天子と文武百官が行政と生活が可能な宮殿と都市があって、初めて副都と言えるのです。
   この点、天子とその取り巻きだけが居住できる行宮や仮宮とは、規模だけではなく本質的に機能が異なります。そして、一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際、統治機構がそのまま移動し、統治行政が可能となる都市こそ副都と言えるのです。
 おおよそ、以上のように副都の定義をイメージしています。そして、7世紀において、太宰府に代わりうる「首都機能」を有す様式と規模をもっていたのが、前期難波宮なのです。それでは、太宰府が首都として機能している期間は、前期難波宮は無人の副都だったのでしょうか。わたしは、そのようには考えていません。『日本書紀』孝徳紀に盗用された、大がかりな白雉改元儀式は前期難波宮で行われたと思われますので、もしかすると九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。
  (補記)
   第163話「前期難波宮の名称」において、前期難波宮跡が長柄の豊碕の地とは異なることを西村秀己さんからご指摘いただいたことを紹介しましたが、古田先生も以前から同様の問題に気づいておられたとのこと。ここに明記しておきます。


第163話 2008/02/24

前期難波宮の名称

 通説では孝徳天皇が遷都した難波長柄豊崎※宮が前期難波宮とされていますが、長柄の現在地は法円坂の難波宮跡ではなく、そのかなり北方に位置しており、あきらかに場所が異なります。このことを指摘されたのは、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)です。そうすると、『日本書紀』大化元年条にある難波長柄豊崎宮への遷都記事は、前期難波宮ではないのではないか。わたしの前期難波宮九州王朝副都説からすれば、これは当然の帰結です。前期難波宮は孝徳の宮殿ではなく、九州王朝の副都とするのですから。
 それでは前期難波宮は何と呼ばれていたのでしょうか。それは、おそらく単に「難波宮」と呼ばれていたのではないでしょうか。九州王朝の首都太宰府と区別するにあたり、はるか遠くの近畿地方に位置する副都であれば、「難波宮」とよべば事足りるからです。太宰府と同じ筑前にあるのならば、より具体的な地名を付した宮名が必要ですが、近畿の難波であれば、「難波宮」で十分なのです。
 その証拠に、『日本書紀』でも「難波宮」だけの表記も散見されますし、前期難波宮焼失後、全く同じ場所に造られた後期難波宮も、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記され、難波長柄豊崎宮とはされていません。
 すなわち、難波宮は長柄とは別の場所にあるという事実は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に大変都合の良い事実なのです。西村さんのご指摘に感謝したいと思います。
  ※崎:『日本書紀』では石へんに奇


第161話2008/02/10

難波宮炎上と朱鳥改元

 『日本書紀』によれば前期難波宮は652年に完成しています。この年に九州年号は白雉と改元されているのですが、『日本書紀』ではその2年前の650年に白雉改元記事が挿入されています。すなわち、九州王朝と『日本書紀』では白雉が2年ずれているのです。もちろん、九州王朝の652年白雉改元が史実ですが、そうするとこれは前期難波宮完成を記念した改元と考えられます。なぜなら、わたしの研究によれば太宰府建都を記念して九州年号は倭京(618)と改元された前例があるからです(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号、2002年6月)。同様に前期難波宮という副都建設を記念して改元するのは不思議とするにあたりません。

 さらに、前期難波宮は天武15年(686)1月に原因不明の出火により炎上したとあるのですが、この年は九州年号の朱雀三年に相当し、火災後の7月には朱鳥と改元されます。これも偶然の改元ではなく、難波副都炎上を理由とした改元ではないでしょうか。従来から、九州年号の朱雀は2年間しか続いておらず(同3年に改元)、この時期の他の九州年号に比較して短期間であったことが不可解でした。しかし、難波副都炎上という突発的な凶事による改元と考えれば、この疑問がうまく説明できるのです。
 このように、前期難波宮は完成と滅亡の年のどちらも九州年号が改元されているのですが、この事実も前期難波宮九州王朝副都説を支持するものです。九州年号に基づいて『日本書紀』を読み直すと、様々な新発見があり、今後の研究が楽しみです。


第160話 2008/02/09

天武の副都建設宣言

 今日の京都は朝から一日中雪が降り続き、とても寒い一日でした。そんなわけで、外出もしないで、午前中は韓国KBSテレビからの電話取材を受けただけで、午後はずっとカルロス・クライバー指揮、バイエルン国立管弦楽団演奏のCD(1982年、ミュンヘン)、ベートーベンの7番を繰り返し聴いています。
 カルロス・クライバー指揮による7番は、勤務先の同僚のOさんのおすすめで購入したのですが、確かに力強くハイテンションのライブ演奏で、とても気に入っています。ちなみにOさんは彦根市のオーケストラでオーボエを吹いておられ、クラシックに造詣が深く、ノーベル賞学者の野依教授のお弟子さんでもあります。
 さて、前回に続き、難波宮のことについて触れたいと思います。『日本書紀』天武12年条(683)に不思議な記事があります。

「又、詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先ず難波に都造らむと欲す。是をもって百寮の者、各往りて家地を請はれ。」

 必ず都を二つ三つ作れ。先ず難波に造れという詔勅ですが、この時既に難波には国内最大級の宮殿である前期難波宮が存在しているのに、矛盾しています。通説では難波宮の「増改築」と理解されていますが、ここでは明らかに建都の命令であり、「増改築」ではありません。
 この記事に一つの解明を与えたのが、本会会員の正木裕さんでした。『古田史学会報』82号(2007/10)の「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」という論文で、この記事は天武の詔勅ではなく、34年遡った649年の九州王朝による難波副都建設の詔勅を盗用したものとされたのでした。ちなみに、この34年遡り現象は、持統紀の吉野詣でが34年遡った白村江戦以前の九州王朝の記事の盗用であるとする、古田先生の研究を援用発展させたもので、説得力があります。
 前期難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成したと思われますが、その三年前に副都建設を命じた詔勅とすれば、時期的にぴったり一致します。もちろん、大和朝廷ではなく、九州王朝の詔勅です。このように、正木さんの研究からも前期難波宮九州王朝副都説は強く支持されることになりました。


第159話 2008/02/05

太宰府と前期難波宮

 前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの説に対して、難波宮からは九州の土器などの考古学的痕跡がないと、古田先生からご批判をいただいているのですが、1月19日の新年講演会にて古田先生から興味深い話がありました。それは、太宰府の宮殿様式は中国の北朝系様式であるとする指摘です。すなわち、北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する太宰府「政庁跡」は北朝系の様式であるというものです。
 この指摘の意味するところは重大です。なぜなら北側に正殿を有し、その南側に朝堂院や京域がある難波宮もまた北朝系様式の宮殿となるからです。そうすると、前期難波宮にも天子がいたことになり、九州王朝説の立場からするならば、それは九州王朝の天子と見なさざるを得ないのです。
 そうではなく、『日本書紀』の記述通り、「大和朝廷」が前期難波宮を造ったとするならば、九州王朝は天子の居宮と同様式の、しかも太宰府「政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を、臣下である「大和朝廷」が造ることを九州王朝は黙認したこととなり、これは何とも不可解なことです。
 太宰府と同様式の前期難波宮の遺構そのものが、最高の九州王朝の考古学的痕跡となるのではないでしょうか。やはり、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説と思われるのです。


第154話 2007/12/08

難波宮跡に立つ

 先日、用事で大阪に行ったおり、難波宮跡に寄りました。難波宮跡にはいつでも行けるという気持ちから、今まで行ったことがなかったのですが、近年、どうしても行かなければならないという思いが強くなっていました。というのも、前期難波宮は九州王朝の副都であるという仮説を関西例会などで発表していたからです。
 九州王朝の宮殿である太宰府政庁と比較してもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、その当時の大和朝廷の宮殿様式や発展史と比較しても全く異質で、大規模です。この事実は大和朝廷一元史観では説明がつかず、困っているのです。
 また、『日本書紀』によれば白雉改元の儀式が難波宮で行われており、その完成にともない、九州年号は白雉と改元され、焼失した年には朱鳥と改元されていることも、難波宮と九州王朝との深い関係をうかがわせています。
 こうした事実や、『日本書紀』『万葉集』の中の不可解な記事が、前期難波宮九州王朝副都説によりうまく説明できることなどから、わたしはこの仮説に至りました。今回、難波宮跡に立って、この上町台地の地が、地勢や規模の面からも九州王朝副都にふさわしいものであることを確信できたのでした。

第159話 2008/02/05太宰府と前期難波宮 へ

第160話 2008/02/09 天武の副都建設宣言 へ

第161話 2008/02/10難波宮炎上と朱鳥改元 へ

第163話 2008/02/24前期難波宮の名称 へ

第166話 2008/03/23副都の定義 へ

第173話 2008/05/02 「白鳳以来、朱雀以前」の新理解 へ

第175話 2008/05/12 再考、難波宮の名称 へ

第187話 2008/08/30 大化改新と前期難波宮 へ

第202話 2008/12/30 「白雉改元儀式」 盗用の理由 へ

第242話 2010/01/31 太宰府と前期難波宮
— 九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究(まとめとして)


第140話 2007/08/26

「天下立評」

 8月の関西例会で、わたしは「平安時代の「評制」文書─『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』の史料批判─」というテーマを発表しました。延暦23年 (804)に成立した、伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、しかも同文書は太政官に提出された解文、いわば公文書であることを紹介しました。すなわち、平安時代の近畿天皇家内部の公文書に九州王朝の制度であった「評」が記されていることを指摘しました。

 たとえば『日本書紀』はおろか、延暦16年(797)に成立した『続日本紀』でも、700年以前の「評」を「郡」に改竄されているのですが、ほぼ同時期に解文として提出された『皇太神宮儀式帳』には「天下立評」や「評督」という記述が使用されており、近畿天皇家のとった九州王朝隠滅方針にも、内部では温度差のあったことがうかがえます。
  さらに、「難波朝廷天下立評給時」という記事は、九州王朝が評制を施行した時期を難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃であるとするもので、評制開始時期を記した現存する唯一の史料でもあり、貴重です。この頃、太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮が完成しており、このこと と「天下立評」とは何かしら関係しているのではないかと想像しています。この件、今後も研究していきたいと思っています。


第95話 2006/08/22

白雉改元と前期難波宮

 昨年から今年にかけて、私は『日本書紀』白雉改元記事の史料批判から、あるいは前期難波宮の規模や様式などから、この難波宮を九州王朝の副都とする仮説を展開してきました。19日の関西例会でも最新の発見について報告しましたが、そのおり竹村順弘さんから、兵庫県南部に白雉年間創建の寺院が多いことを教えていただきました。この事実も難波宮建設と関連が深いと思われますが、「元壬子年」木簡の出土地も芦屋市だったことを考えると、なかなか興味深い現象です。
 今回の例会もバラエティーに富んだ内容で、毎回充実した例会となっています。例会後の二次会も参加者が多く賑やかですが、最近では三次会も参加者が多く場所探しが大変でした。また、二次会から参加される「熱心」な方もおられ、驚かされます。例会の内容は次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「海の道」
○研究発表
1. 孔明「出師の表」と岳飛・『なかった─真実の歴史学』創刊号を見て・守備範囲外(豊中市・木村賢司)
2. 「速吸門」についての若干の整理(川西市・正木裕)
3. サヌカイトと屋島訪問ー古田武彦先生同行記ー(豊中市・大下隆司)
4. 続・白雉改元の史料批判(京都市・古賀達也)
5. 熊本県浄水寺の平安時代石碑2(相模原市・冨川ケイ子)
6. さ迷える五十鈴の宮(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・阿胡根能浦は鹿児島県阿久根市か・他(奈良市・水野孝夫)