難波朝廷(難波京)一覧

第203話 2008/12/31

2009年新年賀詞交換会済み

 202話を書き終わってから気がついたのですが、孝徳紀の白雉改元儀式はかなり詳細に記述されています。当初は、九州王朝系史書をからの盗用かなと考えていたのですが、もしかすると孝徳自身が九州王朝の臣下の一人として列席していたのではないかと思うようになりました。

   場所も大阪ですから大和からもそう離れてはいませんし、『日本書紀』の記載するところでは、孝徳の宮殿を難波長柄豊碕宮としていますから、おそらく前期難波宮の北方に位置する長柄に自らの宮殿を構えていたのではないでしょうか。
  九州王朝による白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われることになり、孝徳は臣下ナンバーワンとして列席した可能性大です。ですから、孝徳や「大和朝廷」の官僚達はその見事な宮殿と絢爛たる改元儀式を実際に参加し、実見したため、『日本書紀』に詳しく掲載できたのではないでしょうか。ただし、主客を置き換え、前期難波宮を自らの宮殿であるかのような記述にして。
    前期難波宮九州王朝副都説は万葉集の史料批判にも有効のようで、このことについてもいつか述べたいと思います。
 さて、2009年1月10日、古田史学の会では古田先生のご自宅近くの向日市物集女公民館にて、古田先生をお迎えして新年賀詞交換会(参加無料)を開催します。詳細は次の通りです。終了後、近くの焼き肉やさんで懇親会(有料、定員あり)も開催します。ちょっと交通の便は不便ですが、古田先生にお会いできる数少ない機会です。ふるってご参加下さい。
    それでは皆さん、良いお年をお迎え下さい。
 
日時 2009年1月10日(土)午後1時〜3時
場所 向日市物集女公民館(向日市物集女中条26)電話075−921−0048
   阪急らくさい口駅 西へ徒歩約13分
※会場はややわかりにくい場所ですので、事前に地図などで調べてからおこし下さい。


第202話 2008/12/30

「白雉改元儀式」盗用の理由

 拙論「白雉改元の史料批判」(『古田史学会報』 No.76、2006年10月)において、『日本書紀』孝徳天皇白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式記事は、本来九州年号白雉元年に当たる孝徳紀白雉三年(652)二月条から切り取られたものであることを論証しました。すなわち、『日本書紀』の白雉改元儀式は九州王朝で行われたものであるとしたのです。そして、この論文末尾に改元儀式が行われたのは、孝徳紀白雉三年(652)九月に完成した前期難波宮はなかったかと示唆しました。

 それまでは太宰府政庁跡がその舞台ではと考えたこともあったのですが、『日本書紀』に記された大規模な儀式の場としては、太宰府政庁跡は規模が小さいように思えていました。ところが、前期難波宮であれば太宰府よりもはるかに大規模な朝堂院様式の宮殿でもあり、規模的には全く問題ありません。

 考古学的にも「戊申年」(648)木簡の出土など、年代的にも矛盾はありませんし、「その宮殿の状(かたち)、ことごとく論(い)ふべからず」(『日本書紀』白雉三年九月)と、その威容も記されているとおりの規模です。更には、天武紀朱鳥元年(686)正月条の難波の大蔵省からの失火で宮室が悉く焼けたという記事と対応するように、前期難波宮址には火災の痕跡があり、『日本書紀』の記述と考古学的状況が見事に一致しています。

 これらの事実や大和朝廷の宮殿様式の変遷の矛盾などから、わたしは前期難波宮九州王朝副都説へと進んだのですが、30個近くある九州年号から、何故白雉だけが改元儀式を『日本書紀』編者は盗用したのだろうかと考えていました。大化や朱鳥も『日本書紀』に盗用されてはいますが、改元儀式まで盗用されているのは白雉だけなのです。

 大和朝廷や『日本書紀』編纂者にとって、白雉改元儀式そのものも盗用しなければならなかった理由があったと考えさせるを得ません。そうでなければ、存在を消したい前王朝の年号や改元儀式など自らの史書『日本書紀』に記す必要など百害有って一利無しなのですから。

 こうした視点から『日本書紀』を読み直しますと、二つの理由が見えてきました。一つは、主客の転倒です。白雉を献上された孝徳天皇を主とし、献上の輿をかついだ伊勢王(恐らくは難波朝廷で評制を施行した九州王朝の天子)を臣下とするためです。もう一つは、その舞台である前期難波宮を大和朝廷の宮殿と見せかけるためです。

 もし、前期難波宮が本当に孝徳の宮殿であり、白雉改元儀式が遠く九州の太宰府などで行われた儀式だとすれば、『日本書紀』に盗用しなければならない必要性など全くありません。こうした視点からも、前期難波宮九州王朝副都説は有効な仮説ではないでしょうか。すなわち、「それなら何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に応えられる仮説なのです。

 なお古田先生は、『なかった−真実の歴史学−』第五号(ミネルヴァ書房、2008年6月)所収「大化改新批判」において、「難波長柄豊碕宮」を福岡市の愛宕神社に比定されています。考古学的遺構など今後の展開が注目されます。


第196話 2007/11/16

「大化改新詔」50年移動の理由

 第140話 「天下立評」で 紹介しましたように、評制が難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃に施行されたことは、大和朝廷一元史観でも有力説となっています。これを多元史観の立場から理解するならば、九州王朝がこの頃に評制を施行したと考えられるのです。その史料根拠の一つである、延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の「難波朝廷天下立評給時」という記事から、それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。
 太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての「天下立評」を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。
 九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。
  このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。
 これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも 「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。
 しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。これからの研究課題にしたいと思います。


第189話 2008/09/14

「大化二年」改新詔の真実

 『日本書紀』の大化改新については、古田学派内でも早くから研究がなされてきました。特に、九州年号に大化があることから、『日本書紀』の大化改新は九州年号の大化年間(695〜703年、『二中歴』では695〜700年)における九州王朝による大化改新が年次を50年ずらして『日本書紀』に盗用されたものとする視点からの論説が多かったのですが、その可能性は高いと思われるものの、論証としては十分ではありませんでした。

 そこで大化改新研究に於いてわたしが着目したのが、大化二年(646年)の改新詔でした。そこには、改新詔を出した都を特定できる記述があるからです。 まず第一に、畿内の四至として東は名墾(なばり)、南は紀伊、西は赤石、北は近江とありますから、都はそれらの内側中心部分にあることとなります。第二に、京に坊長・坊令を置けと命じていますから、その都は条坊制都市であることが前提となっています。第三に「初めて京師を修め」とありますから、大和朝廷にとって初めての本格的都城であることがわかります。これら3条件を満たす都は、ただ一つ。藤原京(日本書紀では「新益京」と表記)しかありません。
 ご存じのように、孝徳朝の都は難波長柄豊碕宮とされていますが、難波京には条坊遺構が発見されていません。従って大和朝廷にとって初めての条坊都市は藤原京なのです。そして、持統が藤原宮に遷都したのが694年12月ですが、この大化二年の改新詔が九州年号の大化二年であれば696年のこととなり、遷都の翌々年であり、坊長・坊令を定める時期としてはぴったりですし、先の四至の中心地域にあることからも、大化二年改新詔の内容と見事に一致するのです。
 以上の論点から、『日本書紀』孝徳紀に記された大化二年改新詔(646年)は、実は九州年号の大化二年(696年)に藤原宮で出されたものであることが わかったのです。『日本書紀』編纂者は九州年号の大化を50年遡らせて盗用しただけではなく、その実態は大化二年改新詔を50年遡らせていたのです。
 そうすると、この改新詔に含まれている「建郡」の命令も、696年に藤原宮で出された詔勅となり、従来は、700年以前であるから、この「郡」を「評」 と読み替えていましたが、その必要性は全くありません。すなわち、696年に郡制施行命令を出し、その5年後にして、ようやく全国一斉に評から郡へと変更されたのです。この5年間はまさに郡制への移行準備期間だったのです。
 従来わたしは700年から701年にかけて全国一斉に評制から郡制に置き換わることに疑問を感じていました。九州王朝から大和朝廷へと列島の代表者が交代するにしても、木簡などに見られる見事な「全国同時変更」の裏に何があったのだろうかと不思議に思っていたのです。また、『続日本紀』に何故「廃評建郡」の詔勅がないのだろうかとも。しかし、今回の発見により、その謎がかなりわかってきました。すなわち、大化二年改新詔こそが「建郡」の詔勅そのものだったのです。その上で、大和朝廷は「廃評建郡」に五年の歳月をかけて周到に準備したのです。(つづく)

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第188話 2008/08/31

「大化改新」論争と西村命題

 第187話において、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)を紹介し、大化改新虚構説にとって前期難波宮の存在が致命傷となっていることを述べましたが、管見では1969年に発行された『シンポジウム日本歴史3 大化改新』(井上光貞司会、学生出 版)でも、井上光貞氏、門脇禎二氏、関晃氏、直木孝次郎氏という斯界の泰斗が、前期難波宮の存在を大化改新真偽論に関わる主要テーマの一つとして、繰り返し論争している様子が収録されています。

 また、1986年発行の『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)でも、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)と、前期難波宮の存在が大化改新論争のキーポイントであることが強調されています。
 前期難波宮が『日本書紀』の記述通り652年に造営されたことは考古学上、ほぼ問題ない事実であると思われるのですが、こうした考古学上の見解以外にも、大化改新虚構論や、山尾さんの天武期に前期難波宮が造営され、改新詔もその時期に出されたとする説には大きな欠点があります。それは西村命題(第184話参照)をクリアできないという点です。
 もし、山尾説のように天武が近畿では前例のない大規模な前期難波宮を造営し、改新を断行したのなら、天武の子供や孫達が編纂させた『日本書紀』にその通り記せばいいではないですか。何故、天武の業績を『日本書紀』編纂者たちが隠す必要があるのでしょうか。孝徳期にずらす必要があるのでしょうか。このように、山尾説は「それならば、何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に答えられないのです。(つづく)


第187話 2008/08/30

大化改新と前期難波宮

 最近、大化改新の研究に没頭しているのですが、通説を調べていて面白いことに気づきました。

  岩波の『日本書紀』解説にも書かれているのですが、大雑把に言えば、大化二年の改新詔を中心とする一連の詔は、歴史事実であったとする説と、「国司」など の大宝律令以後の律令用語が使用されていることから、『日本書紀』編纂時に創作された虚構とする説、その中間説で大宝律令や浄御原令の時の事績を孝徳期に遡らせたものとする説があります。そして、孝徳期にはこのような改新は無かったとするのが学界の大勢のようなのです。
   ところが、孝徳期に大化改新詔のような律令的政治体制は無かったとする学界の大勢には、大きな弱点、目の上のたんこぶがあったのです。それは前期難波宮の存在です。
 大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、どう見ても律令体制を前提とした宮殿様式です。それは、後の藤原宮や平城京と比較しても歴然たる事実です。この事実が今も大和朝廷一元史観の歴史家たちを悩ませているのです。
   たとえば、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)にも如実に現れています。そこには、次のような記述があります。

 右のような「大化改新」への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。 もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、「現御神天皇」統治体制への転換を成し遂げた「大化改新」は、全く以て疑 う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。(同誌11頁)

 このように、大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られているのです。
 ようするに、学界の大勢を占める大化改新虚構説は前期難波宮の存在の前に、論理上屈服せざるを得ないのですが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に立て ば、この問題は氷解します。すなわち、650年頃、前期難波宮に於いて九州王朝が評制を中心とする律令的政治体制を確立したと考えれば、前期難波宮の見事 な朝堂院様式の遺構は、従来の考古学編年通り無理なく説明できるのです。(つづく)


第175話 2008/05/12

再考、難波宮の名称

 163話で、 前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていたとする考えを述べましたが、4月の関西例会で正木裕さん(本会会員、川西市)から、孝徳紀白雉元年と二年条に見える味経宮(あじふのみや)が前期難波宮ではないかとの異論が出されました。その主たる根拠は、白雉二年に味経宮で僧侶2100余人に一切経を読ませたり、2700余の燈を燃やしたりという大規模な行事が行えるのは、前期難波宮しかない。更にそこで読まれた安宅・土側経は、翌年完成する難波宮の地鎮に相応しい経典であるというものでした。
 この説明を聞いて、成る程と思いました。というのも、わたし自身も味経宮は前期難波宮ではないかと考えた時期があったからです。ただ、孝徳紀を読む限り、白雉改元の儀式が味経宮でのこととは断定できず、『続日本紀』に見える「難波宮」説を採ったのでした。
 しかし、正木さんの異論を聞いて、再考したところ、『万葉集』巻六の928番歌にある

「味経の原に もののふの 八十伴の男は 庵して 都なしたり」

が、聖武天皇の時代の後期難波宮を示していることから、後期難波宮が「味経の原」にあったこととなり、同じ場所にあった前期難波宮も味経の原にあった宮、すなわち味経宮であるという理解が可能となることに、遅まきながら気づいたのです。なお、この歌には「長柄の宮」という表現もあり、難波宮は「長柄の宮」とも呼ばれていたようです。
 そして、ここでは「長柄豊碕宮」と呼ばれていないことが注目されます。前期と後期難波宮は「長柄豊碕宮」とは別であるということは、この歌からも言えるのではないでしょうか。ちなみに、この歌を笠朝臣金村が読んだのは、『日本書紀』成立直後の頃と推定できますから、孝徳紀の「難波長柄豊碕宮」という記事を知っていた可能性、大です。それにもかかわらず、「難波長柄豊碕宮」とはしないで、「味経の原」「長柄の宮」と読んでいることは同時代史料として、重視しなければなりません。
   以上のことから、正木さんの異論、「前期難波宮の名称は味経宮」説は検討されるべき有力説と思われます。


第173話 2008/05/02

「白鳳以来、朱雀以前」の新理解

 九州年号の白鳳と朱雀が聖武天皇の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に、次のように記されていることは著名です。

「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦、所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、よりて公験(くげん)を給へ」

 これは治部省からの問い合わせに答えたもので、養老4年(720)に近畿天皇家として初めて僧尼に公験(証明書、登録のようなもの)を発行を始めたのですが、戸籍から漏れていたり、記載されている容貌と異なっている僧尼が千百二十二人もいて、どうしたものかと天皇の裁可をあおいだことによります。
 しかし、その返答として、いきなり「白鳳以来、朱雀以前」とあることから、そもそもの問い合わせ内容に「白鳳以来、朱雀以前」が特に不明という具体的な時期の指摘があったと考えざるを得ません。というのも、年代が玄遠というだけなら、白鳳以前も朱雀以後も同様で、返答にその時期を区切る必要性はないからです。
 にもかかわらず「白鳳以来、朱雀以前」と時期を特定して返答しているのは、白鳳から朱雀の時期、すなわち661年(白鳳元年)から685年(朱雀二年)の間が特に不明の僧尼が多かったと考えざるをえませんし、治部省からの問い合わせにも「白鳳以来、朱雀以前」と時期の記載があったに違いありません。
 この点、古田先生は『古代は輝いていたIII』で、「年代玄遠」というのは只単に昔という意味だけではなく、別の王朝の治世を意味していたとされました。九州王朝説からすれば一応もっともな理解と思われるのですが、わたしは納得できずにいました。何故なら、別の王朝(九州王朝)の治世だから不明というならば、白鳳と朱雀に限定する必要は、やはりないからです。朱雀以後も九州王朝と九州年号は朱鳥・大化・大長と続いているのですから。

 このように永らく疑問としていた「白鳳以来、朱雀以前」でしたが、疑問が氷塊したのは、前期難波宮九州王朝副都説の発見がきっかけでした。既に発表してきましたように、九州王朝の副都だった前期難波宮は朱雀三年(686)に焼亡し、同年朱鳥と改元されました。もし、九州王朝による僧尼の公験資料が難波宮に保管されていたとしたら、朱雀三年の火災で失われたことになります。『日本書紀』にも難波宮が兵庫職以外は悉く焼けたとありますから、僧尼の公験資料も焼亡した可能性が極めて大です。従って、近畿天皇家は九州王朝の難波宮保管資料を引き継ぐことができなかったのです。これは推定ですが、難波宮には主に近畿や関東地方の行政文書が保管されていたのではないでしょうか。それが朱雀三年に失われたのです。
 こうした理解に立って、初めて「白鳳以来、朱雀以前」の意味と背景が見えてきたのです。九州王朝の副都難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成し、その後白鳳十年(670)には庚午年籍が作成されます。それと並行して九州王朝は僧尼の名籍や公験を発行したのではないでしょうか。そして、それらの資料が難波宮の火災により失われた。まさにその時期が「白鳳以来、朱雀以前」だったのです。
 以上、『続日本紀』の聖武天皇詔報は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説によって、はじめて明快な理解を得ることが可能となったのでした。


第171話 2008/04/27

九州王朝の白鳳六年「格」

 大和朝廷に先だって九州王朝が律令を制定していたことを古田先生が指摘されていますが(「磐井律令」)、それであれば律令体制下の行政命令に相当する「格 きゃく」も存在していたものと推定されます。大和朝廷の史料では、『類従三代格』などが著名ですが、九州王朝系の「格」の痕跡をこの度「発見」することができました。
 4月の関西例会でも発表したのですが、『日本後紀』延暦十八年(799)十二月条に、亡命百済人等の子孫による賜姓を請う記事があり、その中で祖先が百済から亡命した際、当初、摂津職(難波)に安置され、その後の「丙寅歳正月廿七日格」にて甲斐国に移住を命じられたと述べています。この丙寅歳は666年に相当し、九州年号の白鳳六年のことです。この時代は九州王朝の時代ですから、「丙寅歳正月廿七日格」は九州王朝が発した「格」ということになります。
 更に言うならば、最初に留めおかれた所が「摂津職」とありますから、大和朝廷の『養老律令』などで規定された「摂津職」は、その淵源が九州王朝律令にあったこととなります。従来は、難波宮があったため大和朝廷は摂津を「国」ではなく、「職」にしたと理解されてきましたが、九州王朝の時代から既に「摂津職」とされていたことは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対応しており、思いがけない発見となりました。すなわち、九州王朝は副都がある摂津を「職」と命名位置づけていたことになるのです。『日本後紀』の九州王朝「格」記事は、摂津職の淵源まで、明らかにしてくれたのでした。


第166話 2008/03/23

副都の定義

 わたしが提唱している前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生より「副都」の定義をはっきりさせるようにとの、ご指摘をいただきました。そこで、わたしがイメージしている「副都」について、考えを述べたいと思います。

 副都とは首都に対応する概念であり、前期難波宮の場合、具体的には7世紀における九州王朝の首都「太宰府」に対する副都ということになります。「副」とは言え、「都」ですから、天子とその取り巻きだけが居住できればよいというものではありません。天子以外の国家統治の為の官僚機構や行政機構が在住でき、その生活のための都市機能も必要です。すなわち、天子と文武百官が行政と生活が可能な宮殿と都市があって、初めて副都と言えるのです。
   この点、天子とその取り巻きだけが居住できる行宮や仮宮とは、規模だけではなく本質的に機能が異なります。そして、一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際、統治機構がそのまま移動し、統治行政が可能となる都市こそ副都と言えるのです。
 おおよそ、以上のように副都の定義をイメージしています。そして、7世紀において、太宰府に代わりうる「首都機能」を有す様式と規模をもっていたのが、前期難波宮なのです。それでは、太宰府が首都として機能している期間は、前期難波宮は無人の副都だったのでしょうか。わたしは、そのようには考えていません。『日本書紀』孝徳紀に盗用された、大がかりな白雉改元儀式は前期難波宮で行われたと思われますので、もしかすると九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。
  (補記)
   第163話「前期難波宮の名称」において、前期難波宮跡が長柄の豊碕の地とは異なることを西村秀己さんからご指摘いただいたことを紹介しましたが、古田先生も以前から同様の問題に気づいておられたとのこと。ここに明記しておきます。


第163話 2008/02/24

前期難波宮の名称

 通説では孝徳天皇が遷都した難波長柄豊崎※宮が前期難波宮とされていますが、長柄の現在地は法円坂の難波宮跡ではなく、そのかなり北方に位置しており、あきらかに場所が異なります。このことを指摘されたのは、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)です。そうすると、『日本書紀』大化元年条にある難波長柄豊崎宮への遷都記事は、前期難波宮ではないのではないか。わたしの前期難波宮九州王朝副都説からすれば、これは当然の帰結です。前期難波宮は孝徳の宮殿ではなく、九州王朝の副都とするのですから。
 それでは前期難波宮は何と呼ばれていたのでしょうか。それは、おそらく単に「難波宮」と呼ばれていたのではないでしょうか。九州王朝の首都太宰府と区別するにあたり、はるか遠くの近畿地方に位置する副都であれば、「難波宮」とよべば事足りるからです。太宰府と同じ筑前にあるのならば、より具体的な地名を付した宮名が必要ですが、近畿の難波であれば、「難波宮」で十分なのです。
 その証拠に、『日本書紀』でも「難波宮」だけの表記も散見されますし、前期難波宮焼失後、全く同じ場所に造られた後期難波宮も、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記され、難波長柄豊崎宮とはされていません。
 すなわち、難波宮は長柄とは別の場所にあるという事実は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に大変都合の良い事実なのです。西村さんのご指摘に感謝したいと思います。
  ※崎:『日本書紀』では石へんに奇


第161話2008/02/10

難波宮炎上と朱鳥改元

 『日本書紀』によれば前期難波宮は652年に完成しています。この年に九州年号は白雉と改元されているのですが、『日本書紀』ではその2年前の650年に白雉改元記事が挿入されています。すなわち、九州王朝と『日本書紀』では白雉が2年ずれているのです。もちろん、九州王朝の652年白雉改元が史実ですが、そうするとこれは前期難波宮完成を記念した改元と考えられます。なぜなら、わたしの研究によれば太宰府建都を記念して九州年号は倭京(618)と改元された前例があるからです(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号、2002年6月)。同様に前期難波宮という副都建設を記念して改元するのは不思議とするにあたりません。

 さらに、前期難波宮は天武15年(686)1月に原因不明の出火により炎上したとあるのですが、この年は九州年号の朱雀三年に相当し、火災後の7月には朱鳥と改元されます。これも偶然の改元ではなく、難波副都炎上を理由とした改元ではないでしょうか。従来から、九州年号の朱雀は2年間しか続いておらず(同3年に改元)、この時期の他の九州年号に比較して短期間であったことが不可解でした。しかし、難波副都炎上という突発的な凶事による改元と考えれば、この疑問がうまく説明できるのです。
 このように、前期難波宮は完成と滅亡の年のどちらも九州年号が改元されているのですが、この事実も前期難波宮九州王朝副都説を支持するものです。九州年号に基づいて『日本書紀』を読み直すと、様々な新発見があり、今後の研究が楽しみです。