難波朝廷(難波京)一覧

第295話 2010/12/04

平城宮大極殿に立つ

 先日、奈良の平城宮址に行ってきました。遷都1300年祭のイベントが終了した後だったので見物客もまばらで、復原された大極殿をゆっくりと見学することができました。
 平城宮址に行った目的の一つは大極殿の見学ですが、もう一つは先行して造られていた朱雀門を久しぶりに訪れることでした。というのも、この朱雀門建設の現場責任者で2009年1月に物故された飯田満麿さん(当時本会副代表・大林組OB)を偲ぶためでした。この大極殿完成を飯田さんも天国から喜んで見守って おられることでしょう。
 それではなぜわたしが大極殿を見たかったかというと、8世紀初頭における日本列島の代表者が君臨した宮殿と、中央集権的律令体制の官僚群が執務する朝堂の規模を体感したかったからなのです。
 710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
 このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
 このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。


第292話 2010/11/14

前期難波宮大規模官衙の論理

 前期難波宮九州王朝副都説について、この数年間わたしは繰り返しその論証や傍証について述べてきました。そしてこの説の当否が、九州王朝から大和朝廷へ の権力交代の研究にとって非常に重要な論点とならざるを得ないことも明白になってきたように思われます。7世紀後半の九州王朝の宮殿や王都を北部九州内に留まるものとするのか、あるいはわたしのように難波副都を含めたスケールで考えるのかで、その様相が大きく変わってくるからです。
 そこで、2011年は前期難波宮九州王朝副都説を考古学の面から検証すべく、『古田史学会報』に「ここに九州王朝ありき ー前期難波宮の考古学ー」という論文を連載しようと計画しています。
 その一論点は、九州王朝が全国に施行した評制による中央集権体制を支えた官僚組織とその役所である大規模官衙を有した宮殿は、7世紀中頃においては前期難波宮しかなく、その宮殿は「大宰府政庁」をはるかに凌駕し、更にその宮殿の西と東には大規模官衙群が出土しているという考古学事実こそ、ここが九州王朝副都であったと解する他無い論理性を有しているというものです。 評制を九州王朝の制度とする九州王朝説に立つ限り、その全国支配の為の行政施設遺構を提示できなければなりませんが、そのような大規模遺構は7世紀中頃の日本列島に於いて前期難波宮しかないのです。評制を施行し全国を統治した官僚群とその官衙が筑前や豊前にあったとしたい論者は、わたしが指摘するこの論理性をクリアできる考古学的事実を提示する学問的義務がありますが、それができた論者をわたしは知りません。


第279話 2010/09/11

難波京条坊の初確認

 9月1日から2日にかけての webや新聞紙上で、難波京に条坊跡が確認されたとのニュースが掲載されました。大阪文化財研究所の高橋工難波宮調査事務所長から発表されたもので、天王寺区上町遺跡で奈良時代の難波京の条坊に架かっていた橋の橋脚が発見され、条坊の痕跡と見られるという内容です。この発見により、難波京に条坊が存在していたことはほぼ確実と思われます。
 実は今回の新発見をわたしたちはマスコミ発表前に知っていました。8月の関西例会での特別講演として、高橋工氏が「古代の難波 — 発掘調査の最前線」というテーマで発表された中で、最大の眼目が今回の条坊痕跡の発見だったからです。高橋氏も、まだマスコミには発表していない最新のテーマと言われていまし た。
 マスコミへの発表前ということもあり、高橋氏にご迷惑をおかけしないよう配慮して「洛中洛外日記」でも今日まで触れずにきました。本当に画期的な発見だと思います。
 橋脚から出土した土器が8世紀前半のものとのことですので、この橋は聖武天皇による後期難波宮の時代の築造とされていますが、条坊も後期難波宮になって初めて造営されたのか、それとも前期難波宮(九州王朝の副都)時代に既に造営されていたのかという、重要な課題があり、今後も調査研究を深めていきたいと思っています。


第278話 2010/08/22

あおによし

 昨日はいつもの大阪駅前第2ビルではなく、大阪城や難波宮跡近くの大阪歴史博物館で関西例会が行われました。また、関西例会では初めての試みとして外部講師をお招きして特別講演もありました。
 その特別講演として、難波宮や難波京発掘責任者である高橋工氏(大阪市博物館大阪文化財研究所難波宮調査事務所長)から、「古代の難波 発掘調査の最前線」というテーマで御発表いただき、当日初めて外部発表されたという最新の発掘成果などを次々とうかがうことができました。
 更には、参加者からの質問にも丁寧にお答えいただき、本当に勉強になりました。私の前期難波宮九州王朝副都説を補強できるような内容もあり、このことは別の機会にご紹介します。
 会員の発表では、竹村さんが先月に続き、一気に5テーマを発表されました。パソコンを使用し日本書紀の膨大な干支記事データベース作成と解析を行われるなど、目をみはるものがありました。
 中でも意表を突かれたのが、有名な枕詞「あおによし」の問題提起でした。一般には奈良の都の青や赤の鮮やかな瓦の色から「青丹よし」と表現され、後に「なら」にかかる枕詞へ発展したと説明されているようですが、記紀や万葉集に奈良の都ができる以前(710年)の歌に「あおによし」という枕詞が使用され ている例を指摘されたのです。
 これらの史料事実から、「あおによし」という枕詞は奈良の都とは無関係にそれ以前に成立したと考えざるを得ません。わたしは、九州王朝下で「なら」と呼ばれたものに掛かる枕詞として「あおによし」は古くから成立していたのではないかと想像しています。それでは、その「なら」とは何かという問題が新たなテーマとして浮かび上がってきます。これからの楽しみなテーマではないでしょうか。それにしても、「常識」を覆す素晴らしい問題提起だと思いました。
 8月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 1300年余の洗脳・他(豊中市・木村賢司)
2). 古代歌謡「あおによし」の懐疑(木津川市・竹村順弘)
3). 日本書紀の朔日干支記事の分布(木津川市・竹村順弘)
4). 日本書紀の盗用記事挿入の遣り口(木津川市・竹村順弘)
5). ナラの音韻(木津川市・竹村順弘)
6). はるくさ木簡の用字(木津川市・竹村順弘)
7). 日本書紀年齢(向日市・西村秀己)
8). 古代大阪の難波津について(豊中市・大下隆司)
9). 『聖徳太子伝暦』の遷都予言記事(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『古事類苑』の古代逸年号データベース・他(奈良市水野孝夫)

○特別講演   古代の難波 発掘調査の最前線
 講師 高橋 工 氏(大阪市博物館大阪文化財研究所 難波宮調査事務所長)


第273話 2010/07/31

九州王朝の紫宸殿

 今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」された西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名について、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)が考察を進められています。今日も何度がお電話をいただき、九州王朝の紫宸殿についてわたしの見解を申し上げました。
 そこでの主なテーマは、九州王朝はいつから自らの天子の宮殿を紫宸殿と称するようになったか、ということでした。下限ははっきりしています。大宰府政庁跡に現存する字地名「紫宸殿」の時代です。大宰府政庁第2期遺構が九州王朝の紫宸殿に相当しますから、その時期は太宰府条坊成立よりも後の7世紀後半です。もう少し厳密に言うならば、老司1式瓦が出土した観世音寺創建よりもやや後れる頃、恐らくは白鳳年間(661−683)以後と推定しています(大宰府政庁2期は老司2式瓦が主)。『二中歴』によれば観世音寺の建立は白鳳期とされているからです。
 ですから、7世紀第4四半期頃には九州王朝は大宰府政庁遺構を紫宸殿と称していたと推定できます。それではそれ以前はどうだったのでしょうか。わたしが九州王朝の副都としている前期難波宮にも紫宸殿と呼ばれる宮殿があったのではないかと考えています。
 九州年号の白雉改元(652年)の儀式の様子が『日本書紀』では2年溯った650年に記されていますが、前期難波宮で行われたと考えられる白雉改元の儀式において、その宮殿の門が「紫門」と記されています。中国では天子の位を「紫宸」とし、その宮殿を紫宸殿とすることが『旧唐書』などに見えますから、「紫」は天子を表す色であり、「紫門」は天子の宮殿の門のことであり、とすればその奥にある天子の宮殿は紫宸殿と称された可能性が高いように思われます。
 更に言えば、前期難波宮は「難波京」の北端にあり「北闕」様式と呼ばれる宮殿様式です。大宰府政庁も条坊都市の北端にあり、同様に「北闕」様式の宮殿です。したがって、両者の宮殿は共に紫宸殿と呼ばれていたのではないでしょうか。都の中心に宮域を持つ『周礼』様式の藤原宮とは明らかに政治思想性が異なった様式なのです。
 このように、九州王朝の紫宸殿は副都である前期難波宮が初めてではないかと考えていますが、いかがでしょうか。


第268話 2010/06/19

難波宮と難波長柄豊崎宮

 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。
 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。


第248話 2010/03/13

法隆寺と難波

 『日本書紀』天智紀に記された法隆寺(若草伽藍)焼失後、和銅年間頃、跡地に移築された現法隆寺の移築元寺院の所在地や名称について、古田学派内で検討が進められてきましたが、未だ有力説が提示されていないように見えます。わたし自身も、倭国の天子である多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院ですから、九州王朝倭国の中枢領域にあったはずと考え、筑前・筑後・肥前・肥後を中心に調査検討を行ってきましたが、有力な手掛かりを見いだせずにきました。
 しかし、近年到達した前期難波宮九州王朝副都説により、摂津難波も九州王朝が副都をおけるほどの直轄支配領域であるという認識を持つに至ったことから、この地も法隆寺移築元寺院探索の調査対象に加えるべきではないかと考えています。
 前期難波宮が九州王朝の副都として創建されたのは652年、九州年号の白雉元年ですが、それ以前の七世紀前半から摂津難波が九州王朝にとって寺院建立の有力地であった史料根拠があります。それは現存最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』所収「年代歴」です。そこには、九州年号「倭京」の細注に次の記事があります。

「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)

 倭京二年に九州王朝の聖徳と呼ばれていた人物が難波に天王寺を建てたという内容ですが、当初わたしはこの記事の難波を博多湾岸の「難波」という地名と考え、その地に天王寺が建てられたと考えていました。しかし、筑前の「難波」であれば、九州王朝内部の記事ですから、単に天王寺を建てたとだけ記せば、九州王朝内の読者には判るわけですから、「難波」は不要なのです。しかし、あえて「難波天王寺」と記されているからには、筑前ではなく摂津難波の難波であることを特定するための記述と考えざるを得ません。
 たとえば、同じ『二中歴』「年代歴」の九州年号「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」と寺院建立記事がありますが、こちらには観世音寺の場所に関する記述がありません。それは観世音寺と言えば太宰府の観世音寺であることは九州王朝内の読者には自明なことであり、従って、わざわざ「筑紫観世音寺」などとは表記されなかったのです。ですから、「難波天王寺」とあれば、読者には摂津難波の天王寺と理解されるように記されたと考えるほかないのです。
 また、倭京二年の建立とされていますが、倭京は多利思北孤の時代の九州年号です。その二年に「聖徳」という人物が建てたというからには、これも同様に聖徳と記せばわかるほどの九州王朝内の有力者と考えられます。恐らく、多利思北孤の太子である利歌弥多弗利のことではないでしょうか。多利思北孤の太子である利歌弥多弗利が聖徳と称されていれば、文字通り「聖徳太子」となり、この利歌弥多弗利の伝承や業績が、『日本書紀』に盗用されたのものが、いわゆる聖徳太子記事ではないかと推察しています。
 このように、九州王朝は七世紀前半の倭京二年(619年)に、難波に天王寺を建立していた史料根拠があるのですから、天王寺以外にも多利思北孤自身が建立した寺院が摂津難波にあっても不思議ではないのです。地理的にも、遠く九州の寺院を移築するよりも、摂津難波の寺院を移築した方がはるかに容易ですから。
 このような認識の進展により、法隆寺移築元寺院の探索地に摂津難波を加えなければならないと考えています。更には、難波の四天王寺の調査研究も九州王朝との関係から再検討しなければならないと思っているのです。


第243話 2010/02/06

前期難波宮と番匠の初め

 第224話において、寺井誠氏の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会)を紹介しましたが、そこで指摘された前期難波宮から北部九州の須恵器が出土しているという考古学的事実が何を指し示すのか、どのような証明力を有するのかをずっと考えてきました。

 というのも、通説通り前期難波宮が孝徳の王宮であれば、その建設に北部九州の工人達も参加したということになり、前期難波宮が九州王朝の副都であったという特段の証明力にならないという反論が予想されたからです。しかも、前期難波宮からは北部九州以外の土器も出土していますから、尚更です。
 こうした学問上の論証力という視点から、寺井論文の持つ意味についてより深い考察が必要と考え続けてきたのです。そして、寺井論文を何度も熟読するうちに、やがて論点がはっきりと見えてきたのです。その結論は、寺井論文はわたしの前期難波宮九州王朝副都説を間違いなく証明する貴重な考古学的事実を指し示しているというものでした。
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは 王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。ここまで論証が進むと、前期難波宮九州王朝副都説は揺るぎなく確立された最有力説と思うのですが、いかがでしょうか。


第242話 2010/01/31

太宰府と前期難波宮

フレーム版 古賀達也の洛中洛外日記へリンクしました。

2月27日、東京で講演しました(多元的古代研究会主催・文京区民センター)。「太宰府と前期難波宮 ーー九州年号と考古学による九州王朝 史復原の研究」というテーマで、7世紀段階の九州王朝研究の成果をまとめた内容です。更には関西例会で報告された各氏の説も紹介させていただきます。これを期に、関西と関東の研究交流が進むことを願っています。
講演内容の項目は次の通りです。関東の皆さんのご参加をお待ちしております。

太宰府と前期難波宮
九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究
2010/02/27
古賀達也
1.白雉改元と前期難波宮
1).大和朝廷王宮編年の矛盾
2).『日本書紀』白雉改元記事の2年移動 652年→650年
3).史料と考古学の一致 「天下立評」「律令体制」と7世紀中頃の「朝堂院」

2.九州年号と遷都遷宮
【資料】正木 裕 九州王朝の改元と『書紀』等の遷都遷宮関連記事の対応
2009/11/21 古田史学の会・関西例会

3.前期難波宮の土器
【資料】寺井 誠 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会
4.前期難波宮と藤原宮木簡
【資料】田中 卓 「古事記における国名とその表記」
『古典籍と資料 田中卓著作集10』国書刊行会 平成5年
5.太宰府条坊と政庁
【資料】井上信正 「大宰府条坊区画の成立」
『考古学ジャーナル』No.588 平成21年7月号
6.九州王朝王宮・王都の変遷
古賀旧説:太宰府政庁第II期(条坊都市・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)
古賀新説:太宰府条坊(通古賀王城宮・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)→太宰府政庁第II期(条坊拡張)
7.「白雉二年九月吉日」奉納面の発見(西条市丹原町福岡八幡神社蔵)
【資料】大下隆司 「白雉二年銘奉納面」について
2009/08/15 古田史学の会・関西例会
8.九州王朝王族の探索
【資料】西村秀己 「橘諸兄・考」 2009/12/19 古田史学の会・関西例会


第226話 2009/09/22

難波宮の仮説と考古学

 前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生は九州の土器など考古学的痕跡の必要性を指摘されたのですが、この「仮説と考古学の一致」の問題は大変重要な指摘です。特に、『日本書紀』孝徳紀に記された「なにわの宮」の所在地に関する仮説にとって、それが仮説として成立する上で、次の諸点の提示は絶対条件です。

 1.七世紀中頃の大規模な宮殿遺構という考古学的事実が存在すること。
 2.その規模は、『日本書紀』に記されたような白雉改元儀式が可能な規模であること。
 3.評制を施行した「難波朝廷」に相応しい大規模な官衙跡(官僚機構)が存在すること。

 などです。これらの存在、すなわち考古学的出土事物の提示が仮説成立の絶対必要条件なのです。いわゆる孝徳紀の「なにわの宮」の所在地を筑前や筑後、あるいは豊前とする仮説を提起したいのであれば、この提示が必要不可欠なのです。
 ところが、これら諸条件を満足している仮説は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説だけです。しかも、「なにわ」という地名も現存しています。第225話で触れた前期難波宮東方官衙の大規模遺跡の発見も、前期難波宮九州王朝副都説をますます確かなものにしたと言えるのではないでしょうか。


第224話 2009/09/12

「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」

 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。

 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたと する。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないで しょうか。」と好意的に記されていました。
 この佐藤稿を読んで、わたしが小躍りして喜んだことはご理解いただけると思います。そしてすぐに、京都の資料館や図書館に『九州考古学』第83号があるかどうか調べたのですが、残念ながらありませんでした。そこで、知人にメールで調査協力を要請したところ、正木裕さん(古田史学の会会員)が同論文を入手され、送っていただきました。有り難いことです。
   同論文を一読再読三読したわたしは、この論文が大変優れた研究報告であることを理解しました。大和朝廷一元史観に立ってはいるものの、考古学者らしい実証的な調査と自ら確認した情報に基づいて論述されていたからです。(つづく)


第220話 2009/08/10

条坊都市太宰府と前期難波宮

 九州王朝の首都太宰府に対して、前期難波宮を九州王朝の副都とする仮説をわたしは提案していますが、実はこの仮説にも弱点がありました。それは、礎石を持つ瓦葺きの太宰府政庁(2期)に対して、その後(九州年号の白雉元年、652年)に造られたとした前期難波宮が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きであるという点でした。これは宮殿様式の発展から見て、ちょっとアンバランスかなという思いがあったのです。

 しかしこの問題も井上氏の研究成果により発展解消できそうなのです。新たな仮説によれば、九州王朝の宮殿様式の発展が次のような順序になるからです。まず、7世紀初頭(九州王朝の倭京元年、618年)に、通古賀地区の字扇屋敷を宮域とする初期太宰府の宮殿、仮に同地にある王城神社にちなんで「王城」宮と呼んでおきますが、この「王城」宮を中心とする条坊都市初期太宰府が建都され、九州年号の白雉元年(652年)に前期難波宮(朝堂院様式・堀立柱)を副都として創設、その後に太宰府政庁(2期、朝堂院様式・礎石造り)が新設されるという順序です。

 これですと、最も新しい王宮となる太宰府政庁(2期)が朝堂院様式と礎石を持っていることになり、前期難波宮がまだ礎石造りでないこととうまく整合するのです。なお、初期太宰府の「王城」宮がどのような様式であったかは不明ですが、この発展史からすれば、掘立柱の板葺きであった可能性が大です。今後の考古学的調査の結果や研究を待ちたいと思います。
   さらにこの宮殿発展史にはもう一つの視点が重要です。それは、条坊都市中の宮殿の位置です。(つづく)