難波朝廷(難波京)一覧

第700話 2014/04/26

学術論文の「画像」切り張りと修正

 今回はSTAP論文騒動で「研究不正」行為とみなされている、学術論文での「画像」切り張り・修正について考えてみました。マスコミや「学者」の発言を聞いていると、何か本質とはかけ離れた自分たちの「村のおきて」が、「正義」であるかのように主張されており、学問研究の本質からは間違っているような気がしたためです。
 わたし自身の例を紹介しますと、前期難波宮九州王朝副都説の論文において、7世紀中頃において前期難波宮の規模・様式(朝堂院様式・八角殿・14朝堂) が突出していることをわかりやすく比較するために、前期難波宮の他、大宰府政庁跡や藤原宮・飛鳥板葺宮跡・平城宮などの王宮の平面図を他の書籍からコピーして切り張りしました。これは読者に自説を説明する上で、理解しやすいように行った善意による「画像」の切り張りです。その際、各図面の縮尺を統一するために一部の図面複写にコピー機の拡大・縮小機能を利用しました。これもまた善意による「画像」の修正です。もちろん、こうした図面を掲示しなくても、前期難波宮九州王朝副都説という仮説は成立しており、「画像」の切り張り・修正行為そのものは仮説成立の当否とは直接関係ありません。いわば、読者への便宜をはかった善意の画像掲載なのです。
 ところが、今回のSTAP論文騒動では、小保方さんの善意による「画像」切り張り・修正と単純な画像取り違えが、「悪意・不正・捏造」と理研により判断され、マスコミや多くの評論家や「学者」までもが、同様に小保方さんへのバッシングを続けました(2枚の画像取り違えは、小保方さん自身が気づき、マスコミから指摘される前に理研に訂正を申し入れています)。そのあげく、理研の調査委員会トップの過去の論文にも同様の行為があったとされ、当人は調査委員長を辞任するという「オチ」までつきました。いったい、いつから読者への便宜をはかる目的での善意の「画像」切り張りや修正までもが一律に「悪意・不正・捏 造」とされるようになったのでしょうか。そもそも、そうした学問的定義が、いつ誰によりなされ、学界や法律上でも合意したのでしょうか。マスコミや評論家・御用学者などによる「村のおきて」ではなく、学問上・法律上の厳密な定義の合意について、どのような論議・検討がいつ誰によりなされたのでしょうか。 ご存じの方がおられたら、教えていただきたいと思います。
 わたしが学んだ学問研究の方法や論文発表における「画像」使用の目的から考えれば、無いものをあったかのようにする、事実とは異なることを事実であるかのようにする、という悪意のある意図的な「画像」切り張りや修正は絶対に許されませんが、読者への便宜をはかる、あるいは仮説をよりわかりやすく丁寧に説 明するための善意による「画像」切り張り・修正はまったく問題のない行為です。従って、今回の騒動におけるマスコミや評論家・「学者」による小保方さんへ のバッシングは、かなり悪意のある行為としか、わたしには見えないのです。


第684話 2014/03/28

条坊都市「難波京」の論理

 「洛中洛外日記」683話などで繰り返し述べてきたことですが、これだけ考古学的根拠が発見されると、「難波京」は条坊都市であったと考えてよいと思います。しかし、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って7世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。


第683話 2014/03/26

難波京からまた条坊の痕跡発見

 今日は一日中、雨の中を兵庫・大阪へと出張しました。明日からは北陸(小松市・能美市・福井市)出張で、開発したばかりの近赤外線反射染料を代理店やお客様に紹介します。夏の太陽に照らされても、従来品よりも熱くならないウェアをつくれるという優れものです。何年もかけて新製品を開発できても、通常は売る方がもっと困難で、採用まで更に何年もかかります。おそらくこの新染料を使用した衣服が百貨店や量販店に並ぶのは、わたしの定年後かもしれません。
 古代史研究なども同様で、新説に至る研究期間よりも、その新説が世に受け入れられるにはその何倍もの時間が必要です。とりわけ、古田史学のように従来の一元史観を根底から覆す多元史観は、その画期性(インパクト)が大きいだけに余計に時間がかかるとも言えるでしょう。そのためにも、わたしたち「古田史学の会」は、古田先生への支持・支援をはじめ、長期に及ぶであろう試練に耐え、古田史学を世に広める体制作りと、多元史観による研究成果をあげ続けることを可能とする層の厚い古田学派研究陣の創出を目指したいと願っています。

 さて、「洛中洛外日記」第664話「難波京に7世紀中頃の条坊遺構(方格地割)出土」でも紹介しましたが、難波京からまた新たに条坊の痕跡が発見されました。大阪文化財研究所が発行している『葦火』168号(2014年2月)掲載の「四天王寺南方で見つかった難波京条坊跡」(平田洋司さん)によりますと、昨年夏に天王寺区大道2丁目で行われた発掘調査により、南北方向の道路側溝とみられる溝が発見されました。その位置や方位は、現在の敷地や自然地形の方位とも異なる正南北方向であり、この位置には難波京朱雀大路から西に2本目の南北道路(西二路)が推定されていることから、条坊道路の東側の側溝と考えられると説明されています。更に、その条坊道路の幅は14mと推定されています。溝の幅は1.1〜1.5mでもっとも深い部分で約60cmですが、上部が削られていますので、本来の規模はもう少し大きかったようです。
 溝からは瓦を主体とする遺物が見つかり、もっとも新しいものは9世紀代の土器で、そのほとんどは奈良時代以前のものとのこと。従って、溝の掘削は奈良時代以前に遡り、平安時代になって埋没したとされています。
 今回の発見により、難波京で発見された条坊の痕跡は管見では3件となります。次の通りです。

1.天王寺区小宮町出土の橋遺構(『葦火』No.147)
2.中央区上汐1丁目出土の道路側溝(『葦火』No.166)
3.天王寺区大道2丁目出土の道路側溝跡(『葦火』No.168)

 以上の3件ですが、いずれも難波宮や地図などから推定された難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの遺構発見により難波京に条坊が存在したと考古学的にも考えられるに至っています。とりわけ、2の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層の溝は前期難波宮造営の頃のものと判断されていることから、7世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます。もちろん、上町台地の地形上の制限から、太宰府や藤原京などのような整然とした条坊完備には至っていないと思われます。今後の発掘調査により、条坊都市難波京の全容解明が更に進むものと期待されます。
 それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次のような批判を避けられないでしょう。古田先生の文章表現をお借りして記してみます。 
 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、中央区上汐1丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、天王寺区大道2丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのです。
 しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。


第680話 2014/03/17

織田信長の石山本願寺攻め

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、織田信長の摂津石山本願寺攻めが舞台となって展開中です。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。大阪歴史博物館の窓からは大阪城と難波宮址の両方が展望できますので、お勧め観光スポットです。
 石山本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、10年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要衝の地であり難攻不落であったかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
 先日の関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに何年もかかり、秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その意見を聞いて、わたしは「なるほど、これはわかりやすい説明だ」と感じました。わたしがなかなかうまく説明できなかったことを、見事な例で言い当てられたのです。まさに「我が意を得たり」です。
 関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
 7世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能ではないでしょうか。
 同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖の東岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
 同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」も防衛上の問題があります。考古学的調査はなされていませんが、もし九州王朝のある時代の「首都・王宮」であったとすれば、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありません。北方に永納山神籠石はありますが、離れていますから王宮防衛の役割は期待できそうにありません(せいぜい「逃げ城」か)。しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
 難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための「地理的中心地」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮しているシーンを見るにつけ、こうした確信が深まっています。


第675話 2014/03/09

前期難波宮の「シュリーマンの法則」

 古田先生の「学問の方法」で最も有名なものの一つに「シュリーマンの法則」と いうものがあります。古田学派の研究者や読者であればよくご存じのことと思います。文字史料や伝承などの記録と考古学的事実が一致する場合、それは歴史的事実である可能性が高いと判断するというものです。ギリシア神話の「トロイ木馬」伝承を歴史事実の反映と考えたシュリーマンがヒッサリクの丘からトロイ遺跡を発見し、その神話伝承が歴史事実であったことを証明したことに由来する 「学問の方法」です。具体的には『真実の東北王朝』(ミネルヴァ書房。20132年3月刊行、古代史コレクション10)の「第五章 東日流外三郡誌との出会い」で次のように古田先生は記されています。

 「記・紀の表記の厳密な理解と考古学的出土分布とは一致する。これを『シュリーマンの法則』と呼ぶ。」(同書、152頁)
 「人々は、従来の慣例やゆきがかり上、冷淡や無視や反発をくりかえしつつ、結局、「シュリーマンの法則」をうけ入れさるをえなくなるであろう。 ーー『神話・伝承と考古学的出土分布との一致』がこれである。」(同書、153頁)

 今回は、この「シュリーマンの法則」で前期難波宮を考察してみることにします。まず考古学的事実の要点は次のようでしょう。

1.7世紀中頃の宮殿遺構であり、当時としては日本列島内最大規模である。
2.日本列島初の朝堂院様式の大規模宮殿遺構である。
3.朝堂の数は14堂で、後の藤原宮や平城宮の12堂よりも多い。
4.その周囲(東西)に大規模な官衙遺構を持つ。
5.火災による消失跡がある。
6.その遺構の上層には聖武天皇による「難波宮」(後期難波宮)遺構がある。

 以上の考古学的事実に対応する文献史料には次のようなものがあります。

1.『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年、九州年号では白雉元年に相当)に、「秋九月に、宮造ることすでに終わりぬ。その宮殿の状(かたち)ことごとくに論(い)うべからず。」(たとえようのない見事な宮殿が完成した)という記事があります。
2.『日本書紀』には上記の記事の他、天武11年九月条「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」のように「難波朝廷」という記事もあり、「朝堂院様式」の宮殿を表す「朝廷」という記載が対応しています。
 『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)にも「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に「難波朝廷」が天下に評制を施行したことが記されています。この「朝廷」という表記も、7世紀中頃の朝堂院様式の前期難波宮遺構に対応した表現です。
3.上記の1と2が対応します。
4.7世紀中頃に全国に「評」が創設されたとする多くの記録(先の「天下立評」など)があり、それら評制を施行し、管理するのに必要な「朝廷」の官衙群に対応します。
5.『日本書紀』天武紀朱鳥元年条(684年)に難波の宮殿が火災で焼失したという記事に対応しています。
6.『続日本紀』の聖武紀に見える「難波宮」に対応します。

 以上のようですが、こうして見ると『日本書紀』の記述と前期難波宮遺構がよく対応していることがわかります。すなわち、前期難波宮には「シュリーマンの法則」が成立しており、その結果、この大規模な宮殿を誰の宮殿とするのかが問われるのですが、九州王朝説論者の皆さん、どのようにこの問いに答えますか。わたしの「前期難波宮九州王朝副都」説以外に、九州王朝説を支持する誰もが納得できる仮説はあるでしょうか。ちなみに、近畿天皇家一元史観からの答えは簡単です。「『日本書紀』の記述通り、孝徳天皇が全国に評制を施行した宮殿である」と答えられるのです。古田学派の皆さん、 「シュリーマンの法則」が指し示す仮説を是非考えてみてください。


第674話 2014/03/08

前期難波宮の

  考古学的「実証」と「論証」

 「洛中洛外日記」667話で紹介しました、難波宮跡出土の木柱が7世紀前半(最も外側の年輪が612年、583年)のものとした「年輪セルロース酸素同位体比法」の結果が何を意味するのか、どのような展開を見せるのかを考えてきました。その結果、前期難波宮の考古学的「実証」により、次のような「論証」が成立することを改めて確信しました。

 大阪市中央区法円坂から出土した巨大宮殿遺構は主に前期と後期の二層からなっており、下層の前期難波宮は一元史観の通説では孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」とされています。少数意見として、天武朝の宮殿とする論者もありますが、今回の出土木柱の年代が酸素同位体比法により、7世紀前半のものとされたことから、前期難波宮造営を7世紀中頃(孝徳期)とする説が更に有力になったと思われます。

 これまでも紹介してきたことですが、前期難波宮の造営年代の考古学的根拠とされてきたものに、今回の木柱を含めて次の出土物があります。

1.「戊申」年木簡(648年)
2.水利施設木枠の年輪年代測定(634年伐採)
3.木柱の酸素同位体比法年代測定(612年、583年)
4,前期難波宮整地層出土主要須恵器(杯H・G)が藤原宮整地層出土主要須恵器(杯B)よりも1~2様式古く、天武期に造営開始された藤原宮よりも前期難波宮の方が古い様相を示している。

 以上のように少なくともこれら4件の考古学的事実からなる「実証」が、いずれも前期難波宮造営を7世紀中頃とする説が有力であることを指示しています。それでも天武期造営説を唱える人は、

(1)「戊申」年木簡は偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(2)木枠の年輪年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(3)木柱の酸素同位体比法年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(4)整地層須恵器も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。

 というように4回も「偶然」や「間違い(無関係)」を無理矢理想定し、「信用しない」という「論法」を用いざるを得ないのですが、およそ4回の「偶然」や「間違い(無関係)」の「同時発生」を自説の根拠とするような方法は学問的判断とは言い難いものです。

 このようにどちらの説が有力かを比較論証する「学問の方法」を、わたしは古田先生から学びました。たとえば古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、1991年)で、「君が代」が糸島・博多湾岸の地名・神名を読み込んでこの地で成立したとするのは「偶然の一致」にすぎないとする批判に対して、次のような反証を古田先生はなされています。

 第一に、博多湾岸(福岡市)の「千代」が「君が代」の「千代」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第二に、糸島郡の「細石」神社が、「君が代」の「細石」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第三に、糸島郡の「井原(岩羅)」が、「君が代」の「岩を」(或は「岩秀〈ほ〉」)の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第四に、糸島郡の桜谷神社の祭神、「苔牟須売神」が、「君が代」の「こけのむすまで」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
右のように、四種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「『君が代』を『糸島・博多湾岸の地名』と結び付けるのは、学問的論証力を欠く」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのである。

しかし、自説の立脚点を「四種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができようか。わたしには、それを決して肯定することができぬ。
右によって、反論者の立場が、論理的に極めて脆弱であることが知れよう。(同書、97ページ)

 この『「君が代」うずまく源流』は、わたしにとって初めての著作であり、尊敬する古田先生との共著でもあり(古田先生、灰塚照明さん、藤田友治さんとの共著)、この論証方法は今でも印象深く記憶に残っています。この論証方法が前期難波宮の研究に役だったことは感慨深いものです。そして結論として、前期難波宮の造営を7世紀中頃とする説は不動のものになったと思われるのです。(つづく)


第672話 2014/03/05

酸素同位体比測定法の検討

 西井健一郎さん(「古田史学の会」全国世話人、大阪市)からお知らせいただいた「読売新聞」(2014.02.25)掲載の『難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定』に紹介された「年輪セルロース酸素同位体比法」という、 樹木の年代を測定する新技術について、何人かの方にご意見を求めたところ、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人、高松市)からは懐疑的な意見が出されました。そこで、四国出張のおりに高松市で西村さんと夕食をご一緒し、「年輪セルロース酸素同位体比法」について意見交換しました。
 西村さんが懸念されていたのは、地方によって同じ年でも降雨量が異なり、その結果、酸素同位体比に地域差が生じ、地域ごとの基礎データと、測定対象樹木の産地が確定できなければ、正確な年代測定は困難ではないかという問題でした。なるほどもっともなご意見でした。それに対して、わたしは次のような理由を あげて、信頼してもよい技術ではないかと返答しました。

1.木材の年輪中に固定されたセルロース分子内の酸素を分析対象としているため、外部からの不純物混入のリスクが少ないと思われる。
2.樹種を問わないので、基礎データとなる対象木材サンプル(年代が明確なもの)数が多く、安定したデータベース作成が可能できる。
3.古代においては、それほど遠隔地から木材が搬入使用されるとは考えにくいので、基本的に出土地近辺の木材データベースとの比較により、年代確定しても信頼性は高いと思われる。
4.前期難波宮の水利施設出土の木枠が年輪年代測定により7世紀前半(634年)の伐採が確定されており、その木枠の年輪セルロース酸素同位体比との比較、クロスチェックが可能であり、既に実施した上で発表したのであれば、今回の発表は信頼性が高い。

 概ね以上のような意見を述べ、4で述べましたように、前期難波宮水利施設出土の木枠の酸素同位体比測定が行われたうえでの結果であれば、クロスチェックを経たことになり信頼性が高いということで、西村さんと意見の一致をみました。3月15日午後1時半から、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で行われる成果報告会に参加される方がおられましたら、是非、この点を質問していただければ幸いです。


第669話 2014/03/01

前期難波宮「難波長柄豊碕」説の問題点

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。午後は九州国立博物館で古田先生や合田洋一さん(古田史学の会・四国)らと合流し、「国宝大神社展」を見学します。明日はアクロス福岡で古田先生の講演と筑紫舞を拝観します。納音(なっちん)付き九州年号史料をご紹介いただいた菊水史談会の前垣さん ともお会いする予定です。

 さて、第668話で紹介しました直木孝次郎さんの次の説ですが、

 「前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたの であろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。」

 とされたように、直木さんは白雉改元の宮殿を小郡宮とされ、『日本書紀』白雉元年条(650)に記されたその改元の儀式が可能な規模の宮殿であったとされています。従って、その小郡宮の造営などを背景にして更に大規模な前期難波宮が造営されたとし、「大和朝廷」の宮殿発展史の矛盾を解消されようとしたのです。
 直木さんをはじめ、通説派の論者が前期難波宮を難波長柄豊碕宮に比定したのは、『日本書紀』白雉三年条(652)に見える「たとえようのないほどの立派な宮殿が完成した」という記事にふさわしい大規模な宮殿が、法円坂から出土した前期難波宮しか難波にはなかったことによります。そうすると、今度は『日本 書紀』白雉元年条(650)の白雉改元の儀式を行った宮殿を前期難波宮以外(以前)に求めざるを得なくなったのです。そのため、直木さんはまだ発見もされ ていない「小郡宮」を白雉改元の宮殿と見なし、それは『日本書紀』に記されたような白雉改元の儀式が可能な規模の宮殿であったはずと、考古学的根拠もない まま主張されたのです。この点、他の通説派の論者も似たり寄ったりの立場です。
 この通説派の矛盾と限界の原因は、『日本書紀』の白雉年号が九州年号の白雉を二年ずらして盗用したことよります。『二中歴』などの九州年号「白雉」の元年は652年で、『日本書紀』の白雉元年は650年です。従って、本来は九州年号の白雉元年(652)に行われた大規模な白雉改元の儀式はその年に完成した「たとえようのないほど立派な宮殿」すなわち前期難波宮で行われていたとすればよかったのですが、白雉改元記事がその二年前に『日本書紀』に盗用挿入さ れたため、その記事(内容と年次)を信用する一元史観の通説派は白雉改元の宮殿を未完成の前期難波宮とするわけにはいかなくなったのです。かといって、九 州年号の白雉元年(652)に改元儀式が行われたことを認めれば、とりもなおさず九州年号と九州王朝を認めることになり、これもまた一元史観の通説派には 到底できないことなのです。ここに、通説派による無理・矛盾の根本原因があるのです。


第668話 2014/02/28

直木孝次郎さんの「前期難波宮」首都説

 大阪市中央区法円坂から出土した宮殿遺構「前期難波宮」を九州王朝の副都とする私に対して、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人)からは、 副都ではなく首都であると度々厳しいご批判をいただいています。西村さんの批判の根拠は、そこに天子がいて白雉改元の儀式をしているのだから、首都とみなすべきだというものです。正木裕さん(「古田史学の会」全国世話人)も一時は首都機能を持っていたという立場の説を発表されています。それは『日本書紀』で 「凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。」というのは、明確に「副都詔」と言えるからです。
 近畿天皇家一元史観では、前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」としていますから、前期難波宮は「大和朝廷」の首都と当然のように見なしています。この通説の「前期難波宮」大和朝廷首都説を、直木孝次郎さんはその宮殿の規模・様式を根拠に次のように主張されています。

 「周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、 一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八 堂に減省したのであろう。(中略)
 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。
 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。
 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑 を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう から、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)
 〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があるこ とが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕) という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。」 直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』(112ページ。吉川弘文館、1994年)

 この直木さんの文章は近畿天皇家一元史観の限界とともに重要な示唆を含んでいます。十二朝堂を持つ首都に対して、八朝堂の宮殿を副都とみなすという視点は注目されます。このことなどを理由に直木さんは前期難波宮を天武朝ではなく孝徳朝の首都とされているのですが、この問題を九州王朝説の視点から見れば、西村秀己さんや正木裕さんが主張されるように、前期難波宮は九州王朝の首都とする見解も有力と言わざるを得ません。
 近畿天皇家一元史観において、前期難波宮を孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と理解したときに避け難く発生する問題についても、直木さんは正直に「告白」されています。「孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれない」とされた箇所です。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったのです。
 近畿天皇家の宮殿の発展史からすると、前期難波宮の存在は説明困難な異常な状況なのです。皇極天皇の比較的小規模な明日香の宮殿から、次代の孝徳天皇がいきなり巨大な朝堂院様式の宮殿を造営し、その次の斉明天皇の時代にはまた小規模で朝堂院様式ではない明日香の宮殿に戻るという変遷が理解不能・説明困難となるのです。そのため直木さんは「長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう」と考古学的根拠 が皆無(子代離宮・小郡宮は発見されていない。この点、別に論じます)であるにもかかわらず、このような「言い訳」をせざるを得なくなっているのです。こ の点こそ、一元史観では説明困難な前期難波宮の「謎」なのです。(つづく)


第667話 2014/02/27

前期難波宮木柱の酸素同位体比測定

 西井健一郎さん(「古田史学の会」全国世話人、大阪市)から郵便物が届きました。表に「朗報・新聞在中」と書いてありましたので、なんだろうと思いながら開けてみますと、「読売新聞」(2014.02.25)が入っていました。『難波宮跡の柱「7世紀前半」・・・新手法で年代特定』という大きな見出しが目に飛び込み、記事を読んで驚きました。ちょうど当日は名古屋出張のため、新聞を見ていなかったので、大変ありがたい「朗報」でした。
 まずわたしが驚いたのは、「年輪セルロース酸素同位体比法」という、樹木の年代を測定する新技術でした。わたしは初めて知った技術です。インターネットでは次のように説明されています。転載します。

 酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。

 以上のような新技術ですが、たしかにこの方法なら原理的に1年単位で木材の年代決定が可能です。本当に科学技術の進歩はすごいですね。もちろん、 新技術には予期せぬ問題点の発生という、発展途上技術として避けられない「未完熟性」のリスクがありますので、今後のデータ蓄積や他の年代測定方法とのクロスチェックによる精度と信頼性の向上が待たれます。
 新聞報道によれば、難波宮から出土した柱を酸素同位体比法で測定したところ、7世紀前半のものとわかったとのこと。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点(直径約31センチ、長さ約126センチ)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28センチ、長さ約60センチ)は樹種不明。最も外側の年輪はそれぞれ612年、583年と判明しました。伐採年を示す樹皮は残っていませんが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられるとのことです。
 従来の年輪年代法は年輪幅のデータがそろっている杉、ヒノキにしか使えませんが、酸素同位体比法では樹種に関係なく、同年代なら同じ同位体残存率を示すことが確認されているそうです。
 3月15日午後1時半から、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で成果報告会が行われるとのことですが、残念ながら当日は関西例会と重なっているため、わたしは参加できません。どなたか参加されましたら、4月の関西例会で報告していただければありがたいのですが。今回、明らかとなった木柱の年代がどのような意味を持つのか、どのような展開をもたらすのかを、これから深く考えてみます。


664話 2014/02/20

難波京に7世紀中頃の
条坊遺構(方格地割)出土

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』166号(2013年10月)によると、難波京に7世紀中頃(孝徳朝)の条坊遺構(方格地割)が出土したことが報告されました(「孝徳朝難波京の方格地割か ~上本町遺跡の発掘から~」高橋工)。
 大阪市中央区法円坂にある宮殿遺構(前期難波宮と後期難波宮の二層からなる遺構)を中心とする難波京に条坊があったのかどうか、あったとすれば孝徳期 (7世紀中頃)の前期難波宮の頃からか、聖武天皇(8世紀初頭)の後期難波宮の頃からなのかという論争が続けられてきましたが、今回の発見で結論が出るかもしれません。
 ちなみに一元史観の通説では前期難波宮を「孝徳紀」に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」とされていますが、法円坂と長柄・豊碕(豊崎)は場所が異なっていることから、古田先生や西村秀己さんは前期難波宮は「難波長柄豊碕宮」ではないとされています。わたしもこの意見に賛成です(直線距離ではありません が、中央区法円坂と北区豊崎とは地下鉄の駅で5駅も離れています。中央線・谷町四丁目駅~御堂筋線・中津駅)。前期難波宮の上層遺構である後期難波宮は聖武天皇の宮殿で、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と記されており、「難波長柄豊碕宮」とは呼ばれていないという史料事実も、このことを支持していま す。
 わたしは、前期難波宮九州王朝副都説の立場から、前期難波宮の頃には部分的であるにせよ、条坊が造られたのではないかと考えてきました。何故なら、九州王朝は条坊都市「太宰府」を7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)に造営していますから、当然難波副都にも条坊を造るであろうと考えたからです。
 『葦火』166号で紹介された条坊遺構(方格地割)は二層からなっている「溝」の遺構で、条坊(方格地割)と位置が一致していることから条坊道路の側溝と見られています。遺構の概況は、下層の溝が埋められ、その盛土層を掘って上層の溝が造られています。出土土器の検討から、上層の溝からは8世紀の土器 が、盛土層からは7世紀後葉の特徴を持つ土器が出土しています。下層の溝の遺構からは時期を特定できる土器は出なかったそうですが、盛土層の土器より古い時代ですから、「孝徳朝難波京」の頃(7世紀中頃)と判断されました。結論として、「(下層の溝)は天武朝より古く、最初に難波宮が造られた孝徳朝に遡る 可能性が高いと考えられるのです。」とされています。
 詳細な報告書を待ちたいと思いますが、難波京が条坊都市であったとすれば、九州王朝の首都である条坊都市「太宰府」に対応した、副都にふさわしい規模と様式であると思われます。


第656話 2014/02/02

学問に対する恐怖

 最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この15年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
 良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という表現で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
 この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。 中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く 離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
 当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも、未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
 前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の2点について明確な回答を求めたいと思います。

 1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
 2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。

 この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えら れた九州王朝説論者を知りません。
 7世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実なのです。
 この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、 学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。