難波朝廷(難波京)一覧

第877話 2015/02/19

竜田関が守る都

 「前期難波宮」

 今日は朝から東京で仕事です。夕方までには仕事を終えて、名古屋に向かいます。今はお客様訪問の時間調整と休憩のため、八重洲のブリジストン美術館のティールーム(Georgette)でダージリンティーをいただいています。同美術館では五月からの改築工事を前にして「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というテーマで美術館所蔵名画の展覧会が開催されています。改築に数年かかるとのことで、このお気に入りのティールームともしばらくの間、お別れです。

 さて、古代の「関」で有名なものに「竜田関(たつたのせき)」があります。河内から大和に入るルートとして大和川沿いの道(竜田越)があるのですが、そこに設けられたのが「竜田関」です。その比定地は河内側ではなく大和側にあります(「関地蔵」が残っています)。ということは、関ヶ原と同様に、守るべき都から見て、峠の外側(下側)に「関」はあるはずですから、この竜田関は大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということになります。そして、河内方面にあった都とは「前期難波宮」しかありませんから、竜田関は前期難波宮防衛の為の施設であり、「外敵」として大和方面からの侵入者を想定していることになります。
 このことに気づかれたのが服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)です。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされたのです。
 この服部説には説得力があります。もし、前期難波宮が「大和朝廷」の都であったとしたら、自らの故地であり勢力圏でもある大和との間に「関」を造る必要性は低く、もし造るとしても河内方面からの大和への侵入を防ぐ位置、すなわち河内側に「関」を作るのが理の当然ですが、どういうわけか大和側に竜田関は造られたのです。従って、この竜田関の「位置」は「前期難波宮」九州王朝副都説を支持しているのです。少なくとも、大和朝廷一元史観では合理的な説明ができません。
 このような竜田関の位置関係から、次のように言えるでしょう。すなわち、九州王朝は副都「前期難波宮」の造営に伴って、大和からの侵入に備えたのです。このことから、九州王朝は「大和朝廷」を無条件で信頼していたわけではないこともわかります。
 この「関」についての服部論文が『古代に真実を求めて』18集に掲載されますので、是非、ご一読ください。


第876話 2015/02/18

雪の関ヶ原を通過して

 今日の午前中は京都市内の代理店を訪問し、今は新幹線で東京に向かっています。車窓の風景が急に吹雪に変わったので、どこらへんだろうかと注視すると関ヶ原でした。吹雪は一瞬だけで、関ヶ原を抜けると青空が見えてきました。
 ご存じのように関ヶ原は有名な合戦場で、石田三成率いる西軍は、徳川軍を大垣城で迎え撃つことをやめ、関ヶ原で迎え撃っています。関ヶ原という地名からもわかるように、古代から「関」(不破関・ふわのせき)が置かれていた要衝の地です。京都防衛のため峠の外(東)側に「関」はあったのではないでしょうか。東山道を東から京都へ攻め上る外敵を待ち受けるには、峠の上に布陣し、美濃平野から狭い関ヶ原に進む敵を上から攻撃するほうが有利だからです。
 明治時代にこの「関ヶ原の戦い」の布陣図を見たドイツ参謀本部のメッケルは西軍の勝利と判断したそうです。それほど有利な布陣を敷いて石田三成は徳川軍を待ち受けたのですから、勝利を確信していたのではないでしょうか。結果は小早川の「裏切り」やその他の「日和見」により東軍の勝利となったわけですから、徳川家康の方が一枚上手だったということです。ちなみにメッケルは明治政府の要請で日本陸軍参謀教育のために来日していました。後の日露戦争のとき、欧州では誰もがロシアの勝利を予想していましたが、メッケルだけは日本陸軍には自分が育てた優秀な参謀がいるから、日本が勝つと言っていたそうです。
 なお、「参謀本部」を最初に創設したのはナポレオンに負けたドイツ(プロイセン)でした。天才ナポレオン一人に対して多数の秀才参謀によるチームワークで戦うという方針のもとに、敗戦国ドイツは参謀本部(軍事の強化)とベルリン大学(自然科学の強化)を創設し、ナポレオンとの次の戦いに備え、普仏戦争やワーテルローの戦いで雪辱をはたしたことは有名です。
 このように守るべき都から見て、峠の外側に「関」を置くということは軍事上からも当然のことなのですが、服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)はこの「関」について大発見をされました。(つづく)


第871話 2015/02/14

難波宮遺構から「五十戸」木簡出土

 出張を終え、週末に帰宅したら古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人、枚方市)からお手紙が届いており、2月4日付「日経新聞」のコピーが入っていました。それほど大きな記事ではありませんが、「『五十戸』記す木簡出土」「改新の詔の『幻の単位』」という見出しがあり、木簡の写真と共に次のような記事が記されていました。

 大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。
日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。
しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。
同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。(以下略)

 そして、この「玉作」という地名が陸奥や土佐にあったと紹介され、ゴミ捨て場とされる谷からの出土とのことで、そこからは古墳時代から平安時代までの出土品があり、木簡の正確な年代決定は難しいようです。

 写真で見る限り、肉眼による文字の判読は難しく、「作」「戸」「俵」は比較的はっきりと読めますが、他の文字は実物と赤外線写真で判読しなければ読めないように思われました。記事で紹介されていた高橋さんの見解のように、簡単に説明はしにくいのですが、その書式や字体は確かに古いように感じました。

 「洛中洛外日記」552話、553話、554話で紹介しましたように、「五十戸」は後の「里」にあたり、「さと」と訓まれている古代の行政単位です。すなわち、「○○国□□評△△五十戸」のように表記されることが多く、後に「○○国□□評△△里」と変更され、701年以後は「○○国□□郡△△里」となります。

 今回の「五十戸」木簡が注目される理由は、この「五十戸」制が孝徳期まで遡る可能性を指し示すものであることです。わたしは「洛中洛外日記」553話で次のように指摘し、「五十戸」制の開始は評制と同時期で、前期難波宮造営と同年で九州年号の白雉元年(652)ではないかとしました。

 わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目しています。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないようですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(「洛中洛外日記」553話より抜粋)

 この「五十戸」木簡を自分の目で見て、更に論究したいと思います。それにしても難波宮遺跡や上町台地からの近年の出土品や研究は通説を覆すようなものが多く、目が離せません。


第867話 2015/02/10

尼崎市武庫之荘の

 大井戸古墳散策

 今日は仕事で尼崎市武庫之荘に来ています。当地は初めての訪問です。約束よりもちょっと早く着いたので、好天にも恵まれたこともあり、阪急武庫之荘駅の近くにある大井戸古墳を散策しました。大井戸公園内にある径13mほどの円墳で、あまり目立たないこともあり、公園内を探し回りました。
 案内版によると、1400年前の古墳時代後期の古墳で、群集墳が主流だった当時としては珍しく平地にある横穴式石室を持つ古墳とのこと。南側に入り口があり、花崗岩の天井石や須恵器が出土しています。
 この古墳以上にわたしが興味をひかれたのが「武庫之荘(むこのそう)」という地名です。「武庫」という地名から、古代律令制による武器庫があったのではないでしょうか。ところが有力説としては難波から見て「むこう」側にある地域なので「むこう」と言われ、「武庫」の字が当てられたとされています。しかし難波からは遠すぎるように思われますし、これほど離れた地域が難波から見て「むこう」と呼ばれたのであれば、大阪湾岸のあちらこちらに「むこう」という地名があってもよさそうですので、この難波の「むこう」という説にはあまり納得できません。もう少し考えてみたいと思います。


第848話 2015/01/03

金光元年(570)の「天下熱病」

 「洛中洛外日記」843話と844話で紹介した『王代記』の金光元年(570年、九州年号)に記された次の記事について、正木裕さんとメールで意見交換を続けています。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 当初、この記事の意味がよくわからなかったのですが、『善光寺縁起』に同様の記事があり、その大幅な「要約」であることに気づいたのです。
 概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする、仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたのですが、全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話しが、『善光寺縁起』では続きます。
 金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀には見えないこの事件や、発端となった「天下熱病」が歴史事実かどうか、正木さんとのメールのやりとりの中で気になり、考えてみました。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 他方、近畿天皇家では「天下熱病」に対して、百済からの如来像がもたらした災いとして鋳潰そうとしました。ともに金光元年の出来事ですから、この二つの事件を偶然の一致とするよりは、「天下熱病」という国家的災難の発生という共通の背景がもたらしたものとする理解、すなわち「天下熱病」を史実とするのが穏当と思われるのです。
 さらにここからは論証抜きの思いつき(作業仮説)ですが、百済からの如来像はたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝から送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、こうした事件が一因となって九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。
 以上の考察からも九州王朝と善光寺、そして難波・河内が「九州年号」や「聖徳太子」伝承とも関わり合いながら、密接な繋がりのあることがうかがえるのです。


第836話 2014/12/13

2014年の回顧

「前期難波宮」

 今年も12月半ばとなりました。2014年も「古田史学の会」では多くの研究がなされ、数々の学問的成果があがりました。そこで、本年を振り返り、特に印象に残ったことを記してみたいと思います。
 2005年10月の関西例会で、わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから、早いもので9年がたちました。今年もその前期難波宮遺構に関して重要な考古学的発見が発表されました。
 本年2月の新聞発表によれば、前期難波宮から出土した木柱の伐採年が「年輪セルロース酸素同位体比法」により、600年代前半であることが判明しました(「洛中洛外日記」667話にて紹介)。この発見により、前期難波宮遺構が7世紀中頃のものとする説が正しかったことが新たに証明されました。わたしは白雉改元(652年)の宮殿を前期難波宮としていましたから、この科学的測定結果と年代が一致しています。
 同じく2月に発行された『葦火』168号に、難波京の条坊跡(方格地割)の3例目となる遺跡(四天王寺南方)の発見が掲載されました(「洛中洛外日記」683話で紹介)。この発見などにより、前期難波宮が条坊都市であったことが、ほぼ確実と見なされるようになりました(条坊の全体像は不明)。
 今日までわたしは前期難波宮九州王朝副都説を論証する論文をいくつも発表してきましたし、考古学的出土事実もこの仮説に対応していました。実は、古田先生からは前期難波宮九州王朝副都説に対して、正面切っての批判などはありませんでしたが、講演会などでの質問に対して、否定的な見解を述べられてきました。
 ところが本年11月の八王子セミナーにおいて、わたしの知る限り、初めて古田先生は「検討しなければならない」と前期難波宮九州王朝副都説が検討に値する仮説であることを認められたのです。わたしが同セミナーでの古田先生のこの発言をお聞きして、どれほど嬉しく思ったかはご理解いただけることと思います。「前期難波宮九州王朝副都説は古田説とは大きく異なり、そのような研究を発表する古賀は古田史学の会の役員を辞めろ」という心ない非難もあびていましたので、なおさらでした。この先生の一言は、わたしにとっては2014年における最も貴重な学問的「成果」だったのです。
 わたしは30代の若い頃より、「師の説にな、なづみそ。本居宣長のこの言葉は学問の神髄です。」と古田先生から繰り返し教えられてきました。そしてその教えを実践してきました。それが間違いではなかったことを改めて確信できたのでした。


第821話 2014/11/15

服部さんの多元的「関」「畿内」研究

 本日の関西例会では服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者)から九州王朝による「関」と「畿内」の設立についての新説が発表されました。いずれも画期的な仮説で、このところ服部さんは絶好調です。
 『日本書紀』天武8年(679)条に見える竜田山と大坂山の関が飛鳥ではなく難波京を防衛する位置(大和からの侵入を防ぐ位置)にあり、難波京を九州王朝副都とする説に対応しているとのこと。
 更に、『日本書紀』大化2年(646)正月条の改新詔に見える畿内の四至(東西南北の先端地)の中心は藤原宮ではなく難波宮であることから、前期難波宮は九州王朝の第2都であり、そこを中心に畿内の範囲が、九州王朝の天子(利歌彌多弗利)により646年(命長7年)に提示された詔勅とする説を発表されま した。もし696年の詔勅であれば、近江京が畿外になってしまうが、この詔勅が近江大津宮造営前の646年に出されたのであれば、この問題がクリアできるとされました。
 大化2年の改新詔は九州年号の大化2年(696)に藤原宮で出された「建郡の詔勅」とするわたしの説を否定する説ですが、有力な仮説と思われました。この服部説に対して賛否両論が出されましたが、時間切れとなり、これからも論争が続くと思います。
 正木さん(古田史学の会・全国世話人)は6世紀を対象として『日本書紀』を精査され、欽明23年(562)に新羅から滅ぼされた任那が、推古8年(600)に新羅と交戦する記事があることなどに着目されました。その結果、干支が一巡する60年前の記事が推古紀に挿入されているとされました。同時に、こうした朝鮮半島での倭国の交戦記事などは九州王朝の事績を『日本書紀』編者が盗用したとする仮説を発表されました。なかなか説得力のある仮説でし た。
 11月例会の発表は次の通りでした。遠くは関東のさいたま市から参加された方もあり、有り難くもあり、そうした熱心な参加者に満足していただけるような例会であらねばならないと、決意を新たにしました。東京でも例会を開催してほしいというご意見も多数いただいており、使命の重さを受け止めています。

〔11月度関西例会の内容〕
1). 関から見た九州王朝(八尾市・服部静尚)
2). 畿内を定めたのは九州王朝か — すべてが繋がった(八尾市・服部静尚)
3). 「青竜三年」鏡(京都市・岡下英男)
4). ニギハヤヒを追う(東大阪市・萩野秀公)
5). 盗用された任那救援の戦い — 敏達・崇峻・推古紀の真実(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『百問百答+α』校正中、続著『真実の誕生 宗教と国家論』(仮題)、11/08八王子大学セミナーの報告、松本深志校友会誌への投稿書き上げ、『古代に真実を求めて』18集用「家永氏との聖徳太子論争をふりかえる」古田先生インタビュー12.09、新年賀詞交換会 2015.1.10、ギリシア旅行 2015.4.1~4.8)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説の系譜」執筆・古田先生依頼図書(『隋書』『時と永遠』)購入・京都市船岡山の建勲神社訪問・ニッペOB会・その他


第756話 2014/08/01

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(6)

 森郁夫さんの『一瓦一説』の「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)で紹介されている、法隆寺若草伽藍や四天王寺創建瓦と前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘について、九州王朝説の立場から考察してみます。
 森さんは同著で、前期難波宮下層遺構出土の瓦の方が創建四天王寺の瓦よりも古いとされました。その根拠は『扶桑略記』などの史料に見える四天王寺移転伝承によられたものです。当初、四天王寺は「玉造」(大阪城付近)に創建され、後に現在地(天王寺区)である「荒墓」に移転されたとする伝承が諸史料に見え、従来から注目されてきました。その伝承を根拠に、森さんは前期難波宮下層出土の同笵瓦を四天王寺出土同笵瓦よりも先と判断されたのです。
 それに反して、大阪歴史博物館の展示(大阪遺産難波宮展、本年6~8月)では、同笵瓦の文様のくずれ具合から、前期難波宮下層出土瓦よりも比較的くずれや変形が少ない四天王寺瓦の方がより古いとされています。すなわち、大阪歴博は考古学的出土事実に基づいて先後関係を判断し、他方、森さんは後代史料の伝承を優先されたのでした。
 そこでわたしは大阪歴博を訪問し、学芸員の李陽浩さんにこのことに関する見解をお聞きしました。李さんも森さんの『一瓦一説』の内容をよくご存じで、懇切丁寧に考古学者らしい論理的な解説をしていただきました。李さんの見解は次のようなものでした。

(1)同笵瓦の文様のくずれ具合から判断すれば、四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、前期難波宮下層出土瓦よりも古いと判断できる。
(2)この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
(3)しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
(4)史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。
(5)前期難波宮下層から出土する瓦は数が少なく、その地に寺院があったとするには問題が多い。別用途のために瓦が他から持ち込まれたとする可能性を排除できない。

 おおよそ、以上のような解説がなされました。わたしは学問的に誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。『二中歴』の倭京二年(619)難波天王寺創建記事とほぼ一致していることから、歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 ただ、(5)の出土瓦の少なさについては、四天王寺への移転のとき、距離的にも近いので瓦もそのまま再利用されたため、という可能性も考えておいた方が良いのではと思います。
 四天王寺瓦の編年により四天王寺創建が620年頃とされたことにより、『二中歴』「年代歴」の九州年号細注にある「倭京二年(619)に難波天王寺を聖徳が建てる」という記事との一致が注目されます。すなわち、考古学と文献の一致から、創建年や『二中歴』の記事が歴史事実であったと考えられ、この論理性は同時に九州年号(倭京)の存在が歴史事実であることも指し示します。更に、「難波天王寺」の「難波」が摂津難波の「難波」であることも当然の帰結となる でしょう。そして、九州王朝に「聖徳」と呼ばれた有力者がいたということも示しています。『二中歴』には天王寺を造営したと記されており、移転・移築とは考えにくいので、九州王朝が造営したのが天王寺(現・四天王寺の場所)であり、玉造に造営されたとされる「四天王寺」とは別ではないかと、今のところ考え ています。
 これらの論理的帰結として、7世紀初頭の難波は九州王朝の有力者(聖徳)が寺院(天王寺。現・四天王寺)を建立するほどの九州王朝と深い関係(直轄支配領域)を有す地域ということが言えるでしょう。こうしたことが背景となって、652年(九州王朝の白雉元年)には副都(前期難波宮)を造営するに至ったと思われます。


第700話 2014/04/26

学術論文の「画像」切り張りと修正

 今回はSTAP論文騒動で「研究不正」行為とみなされている、学術論文での「画像」切り張り・修正について考えてみました。マスコミや「学者」の発言を聞いていると、何か本質とはかけ離れた自分たちの「村のおきて」が、「正義」であるかのように主張されており、学問研究の本質からは間違っているような気がしたためです。
 わたし自身の例を紹介しますと、前期難波宮九州王朝副都説の論文において、7世紀中頃において前期難波宮の規模・様式(朝堂院様式・八角殿・14朝堂) が突出していることをわかりやすく比較するために、前期難波宮の他、大宰府政庁跡や藤原宮・飛鳥板葺宮跡・平城宮などの王宮の平面図を他の書籍からコピーして切り張りしました。これは読者に自説を説明する上で、理解しやすいように行った善意による「画像」の切り張りです。その際、各図面の縮尺を統一するために一部の図面複写にコピー機の拡大・縮小機能を利用しました。これもまた善意による「画像」の修正です。もちろん、こうした図面を掲示しなくても、前期難波宮九州王朝副都説という仮説は成立しており、「画像」の切り張り・修正行為そのものは仮説成立の当否とは直接関係ありません。いわば、読者への便宜をはかった善意の画像掲載なのです。
 ところが、今回のSTAP論文騒動では、小保方さんの善意による「画像」切り張り・修正と単純な画像取り違えが、「悪意・不正・捏造」と理研により判断され、マスコミや多くの評論家や「学者」までもが、同様に小保方さんへのバッシングを続けました(2枚の画像取り違えは、小保方さん自身が気づき、マスコミから指摘される前に理研に訂正を申し入れています)。そのあげく、理研の調査委員会トップの過去の論文にも同様の行為があったとされ、当人は調査委員長を辞任するという「オチ」までつきました。いったい、いつから読者への便宜をはかる目的での善意の「画像」切り張りや修正までもが一律に「悪意・不正・捏 造」とされるようになったのでしょうか。そもそも、そうした学問的定義が、いつ誰によりなされ、学界や法律上でも合意したのでしょうか。マスコミや評論家・御用学者などによる「村のおきて」ではなく、学問上・法律上の厳密な定義の合意について、どのような論議・検討がいつ誰によりなされたのでしょうか。 ご存じの方がおられたら、教えていただきたいと思います。
 わたしが学んだ学問研究の方法や論文発表における「画像」使用の目的から考えれば、無いものをあったかのようにする、事実とは異なることを事実であるかのようにする、という悪意のある意図的な「画像」切り張りや修正は絶対に許されませんが、読者への便宜をはかる、あるいは仮説をよりわかりやすく丁寧に説 明するための善意による「画像」切り張り・修正はまったく問題のない行為です。従って、今回の騒動におけるマスコミや評論家・「学者」による小保方さんへ のバッシングは、かなり悪意のある行為としか、わたしには見えないのです。


第684話 2014/03/28

条坊都市「難波京」の論理

 「洛中洛外日記」683話などで繰り返し述べてきたことですが、これだけ考古学的根拠が発見されると、「難波京」は条坊都市であったと考えてよいと思います。しかし、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って7世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。


第683話 2014/03/26

難波京からまた条坊の痕跡発見

 今日は一日中、雨の中を兵庫・大阪へと出張しました。明日からは北陸(小松市・能美市・福井市)出張で、開発したばかりの近赤外線反射染料を代理店やお客様に紹介します。夏の太陽に照らされても、従来品よりも熱くならないウェアをつくれるという優れものです。何年もかけて新製品を開発できても、通常は売る方がもっと困難で、採用まで更に何年もかかります。おそらくこの新染料を使用した衣服が百貨店や量販店に並ぶのは、わたしの定年後かもしれません。
 古代史研究なども同様で、新説に至る研究期間よりも、その新説が世に受け入れられるにはその何倍もの時間が必要です。とりわけ、古田史学のように従来の一元史観を根底から覆す多元史観は、その画期性(インパクト)が大きいだけに余計に時間がかかるとも言えるでしょう。そのためにも、わたしたち「古田史学の会」は、古田先生への支持・支援をはじめ、長期に及ぶであろう試練に耐え、古田史学を世に広める体制作りと、多元史観による研究成果をあげ続けることを可能とする層の厚い古田学派研究陣の創出を目指したいと願っています。

 さて、「洛中洛外日記」第664話「難波京に7世紀中頃の条坊遺構(方格地割)出土」でも紹介しましたが、難波京からまた新たに条坊の痕跡が発見されました。大阪文化財研究所が発行している『葦火』168号(2014年2月)掲載の「四天王寺南方で見つかった難波京条坊跡」(平田洋司さん)によりますと、昨年夏に天王寺区大道2丁目で行われた発掘調査により、南北方向の道路側溝とみられる溝が発見されました。その位置や方位は、現在の敷地や自然地形の方位とも異なる正南北方向であり、この位置には難波京朱雀大路から西に2本目の南北道路(西二路)が推定されていることから、条坊道路の東側の側溝と考えられると説明されています。更に、その条坊道路の幅は14mと推定されています。溝の幅は1.1〜1.5mでもっとも深い部分で約60cmですが、上部が削られていますので、本来の規模はもう少し大きかったようです。
 溝からは瓦を主体とする遺物が見つかり、もっとも新しいものは9世紀代の土器で、そのほとんどは奈良時代以前のものとのこと。従って、溝の掘削は奈良時代以前に遡り、平安時代になって埋没したとされています。
 今回の発見により、難波京で発見された条坊の痕跡は管見では3件となります。次の通りです。

1.天王寺区小宮町出土の橋遺構(『葦火』No.147)
2.中央区上汐1丁目出土の道路側溝(『葦火』No.166)
3.天王寺区大道2丁目出土の道路側溝跡(『葦火』No.168)

 以上の3件ですが、いずれも難波宮や地図などから推定された難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの遺構発見により難波京に条坊が存在したと考古学的にも考えられるに至っています。とりわけ、2の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層の溝は前期難波宮造営の頃のものと判断されていることから、7世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます。もちろん、上町台地の地形上の制限から、太宰府や藤原京などのような整然とした条坊完備には至っていないと思われます。今後の発掘調査により、条坊都市難波京の全容解明が更に進むものと期待されます。
 それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次のような批判を避けられないでしょう。古田先生の文章表現をお借りして記してみます。 
 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、中央区上汐1丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、天王寺区大道2丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのです。
 しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。


第680話 2014/03/17

織田信長の石山本願寺攻め

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、織田信長の摂津石山本願寺攻めが舞台となって展開中です。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。大阪歴史博物館の窓からは大阪城と難波宮址の両方が展望できますので、お勧め観光スポットです。
 石山本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、10年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要衝の地であり難攻不落であったかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
 先日の関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに何年もかかり、秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その意見を聞いて、わたしは「なるほど、これはわかりやすい説明だ」と感じました。わたしがなかなかうまく説明できなかったことを、見事な例で言い当てられたのです。まさに「我が意を得たり」です。
 関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
 7世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能ではないでしょうか。
 同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖の東岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
 同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」も防衛上の問題があります。考古学的調査はなされていませんが、もし九州王朝のある時代の「首都・王宮」であったとすれば、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありません。北方に永納山神籠石はありますが、離れていますから王宮防衛の役割は期待できそうにありません(せいぜい「逃げ城」か)。しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
 難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための「地理的中心地」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮しているシーンを見るにつけ、こうした確信が深まっています。