難波朝廷(難波京)一覧

第1268話 2016/09/07

九州王朝の難波進出と狭山池築造

 わたしのfacebookに下記の記事を掲載しましたが、読者からの興味深いコメントも寄せられましたので、転載します。

九州王朝の難波進出と狭山池築造の作業仮説(思い付き)

 巨大な狭山池を見て、誰が何の目的でこれだけの規模の灌漑施設を築造したのだろうかと、この二日間ほど考えてみました。もちろん水田用の灌漑が目的であることは明白ですが、それにしても規模が大きすぎると思いました。相当な食糧増産の必要性に迫られた権力者でなければ、このような巨大土木事業は行わないのではないでしょうか。そこで次のような作業仮説(思い付き)に至りましたが、いかがでしょうか。

1.7世紀初頭、「河内戦争」(冨川ケイ子説)に勝利した九州王朝はその地に進出した。
2.多くの戦死者を出し、当地の人民からも恨まれたであろう九州王朝は難波天王寺を建立し、敵味方なく犠牲者の菩提を弔った。(619年、九州年号の倭京二年。『二中歴』による)
3.難攻不落の地勢を持つ上町台地への副都建設を想定して、その手始めに、急速に増加するであろう副都の官僚や家族、その他の人々のために食糧増産に迫られた。
4.そこで狭山池を築造し、水田面積を増やすべく西河内の灌漑施設を整備した。(616年)
5.隋や唐の脅威が迫った首都太宰府の防備を固めると同時に、全国に軍事的中央集権体制の評制を施行し(648年頃)、全国支配のための副都前期難波宮と役所群を造営した。(652年、古賀説)
6.条坊も造営整備し、副都防衛のため、関や羅城も造営した。(服部静尚説)

 以上のようなストーリーを思い付きました。今後、学問的検証を進め、仮説として成立するか検討してみます。みなさんの御意見・ご批判をお願いします。《古賀達也》

【写真】狭山池の航空写真と狭山池博物館に掲示されていた当地方の地図です。狭山池の巨大な規模と、それによる灌漑対象地域の広さがわかります。

〔寄せられたコメント〕

冨川ケイ子さん:大和国に基盤を置く勢力にとって、前期難波宮とそこで宣言された評制が非常に脅威だったこと、8世紀以後に権力を握った時に評制を歴史的に抹殺したくなる理由もよくわかります。しかし、そうすると、壬申の乱に難波宮が関わらなかったのはなぜなのか、ちょっと悩ましいです。

西村秀己さん:難波京が副都ではなく首都であったなら、倭京=難波京であったかも・・・

古賀:倭京はやはり大宰府でしょう。難波京の成立は日本書紀によれば652年(九州年号の白雉元年)ですし、九州年号の倭京元年は618年ですから、時期が離れています。

西村秀己さん:九州年号の倭京はもちろん太宰府。ここで言っている倭京は日本書紀の壬申の乱に登場する倭京のことです。

古賀:なるほど。微妙な問題ですね。日本書紀の再史料批判が必要です。

冨川ケイ子さん:私の論文「河内戦争」はほとんどが日本書紀の記述の分析ですが、ちょっとだけ考古学からの指摘に触れました。たとえば広瀬和雄氏に「畿内の古代集落」という長大な論文があって(『国立歴史民俗博物館研究報告第22集』所収)、そこでは畿内(大和・摂津・河内・和泉・山城)における7〜9世紀の集落遺跡が分析されています。集落の構成要素、建物群の類型、首長層の居宅、集落の景観・構成・消長、集落と集落の関係、古代の集団構造といった目次が示すように指摘されている点は多いのですが、私はその末尾の記述に注目しました。
 すなわち、「畿内の古代集落の変遷にはふたつの画期がみとめられることを指摘しておいた。それはそのまま集団関係における画期でもあった。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭、第2の画期が8世紀初頭。」「第1に、7世紀初頭を前後する時期に、あらたにはじまる集落の多いことを述べた。いっぽうではこの時期に終焉をむかえる集落も顕著であった。(中略)すなわち、畿内各地を対象に広範におこなわれた計画的大開発が、伝統的な集団関係を改変し、それをあらたに再編成した。すなわち、耕地の開発を契機とした集落の成立、勧農を目的とした開墾、その権力による奨励が集落変遷における第1の画期の背景にある歴史的動向であった」「第2に、7世紀後半には畿内の有力首長層は寺院の建立をはじめ、そののち8世紀初頭ごろになると居宅に官衙風配置を採用するにいたる。」
 画期が2つあると言いながら、第2の画期は第1の画期が基盤になっていることは明白だと思います。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭に始まっているということは、畿内では律令制的な農村が、文献史学が示すよりも早くスタートしていることを意味するでしょう。その画期は、6世紀末の「河内戦争」がきっかけでもたらされた、と考えます。


第1256話 2016/08/16

難波朝廷の官僚7000人

 難波宮址からは次々と考古学的発見が続いています。正木裕さんの説明によると、前期難波宮の宮域北西の谷から7世紀代の漆容器が3000点以上出土しているとのこと。しかも驚いたことに、平安京では宮域の北西地区に大蔵省があり、その管轄である「漆室」が隣接していました。前期難波宮においても宮域北西地区に「大蔵」と推定される遺構が出土しており、その北側の谷に大量の漆容器が廃棄されていたのです。この出土事実によれば、前期難波宮と平安京において律令官制に基づいた宮域内の同じ位置に同じ役所(大蔵省・漆室)が存在していたこととなります。
 こうした説明を聞き、わたしは驚愕しました。もし前期難波宮の時代の「九州王朝律令」と大和朝廷の『養老律令』(その基となった『大宝律令』)が類似していたとすれば、前期難波宮の宮域で勤務する律令官僚は7000人(服部静尚さんの調査による)ほどとなるからです。これほどの官僚群が勤務し、その家族も含めて居住できる宮殿・官衙と都市は、7世紀において大和朝廷の藤原宮(藤原京)と前期難波宮(難波京)しかなく、飛鳥清御原宮や大宰府政庁では規模が小さく、大官僚群とその家族を収容できません。
 論理と考古学事実から、こうした理解へと進まざるを得なくなるのですが、そうすると前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都と考えなければなりません。この問題は重要ですので、引き続き慎重に検討したいと思います。なお、前期難波宮出土の木柱や漆容器について、8月20日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さんから詳細な報告がなされる予定です。


第1255話 2016/08/15

前期難波宮出土木柱は羅城跡か

 最近、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が精力的に取り組まれている「難波京の羅城」調査ですが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える「難波の羅城」造営記事は考古学的には未発見であったことから、記事の信憑性が疑われてきました。ところが「難波京羅城」が存在していた可能性が高まりつつあるようなのです。
 服部さんは「難波京羅城」の存在を、これまで地名や文献からその痕跡を関西例会で報告されてきたのですが、過日のミーティングでは、大阪府文化財センターの江浦洋さんから聞かれた前期難波宮出土木柱の出土状況について、次のような興味深い考古学的事実について、正木裕さんから説明がありました。

1.同木柱は年輪セルロース酸素同位体比年代測定により、7世紀前半のものであり、前期難波宮の北側の東西柵列から出土したものである。
2.直径は約30cmと太く、単なる柵ではなく、土塀の柱と考えられる。
3.柵列は高低差のある地表に沿って並んでいる。言わば万里の長城のよう。

 以上のような考古学出土事実から、この東西柵列こそ羅城の跡ではないかと正木さんは考えられるとのことなのです。しかも、柵列の外側(北側)は谷となっており、前期難波宮を防衛する羅城にふさわしい位置にあります。なお、服部さんは宮域を区画する柵の可能性もあるとされています。
 服部さんが調査された「羅城」地名といい、今回の考古学的痕跡といい、難波京に羅城があったとする有力な証拠が着々と発見されています。なお、正木説によれば、天武8年条(679)の羅城造営記事は34年遡り、実際は645年のこととなり、まさに前期難波宮完成(652年)の前となります。服部さんの研究の進展が期待されます。


第1254話 2016/08/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(15)

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)は、「古田史学の会」関西例会で発表されてきた研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を正しく認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が聞こえてきたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
 冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
 こうして6世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起されている新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
 このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる段階ではないと、わたしとしては考えていますが、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
 最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。(了)


第1252話 2016/08/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(14)

わたしが、九州王朝と摂津難波とは歴史的に関係が深いのではないかと気づいたのには、前期難波宮九州王朝副都説(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年4月)とは無関係に、次のような研究経緯があったからです。
2008年6月15日の「古田史学の会」関西例会で、わたしは「近江朝廷の正体 -壬申の乱の『符』-」という研究を発表しました。その目的は、2004年に『古田史学会報』61号で「九州王朝の近江遷都 -『海東諸国記』の史料批判-」という論文で、九州王朝が白鳳元年(661)に近江に遷都したとする仮説を発表したのですが、その仮説を傍証することでした。
『日本書紀』の「壬申の乱」の記事中に、近江朝廷側から「符(おしてふみ)」という上位者から下位者へ出す「命令書」が吉備や筑紫に発行されていることから、近江朝廷には筑紫や吉備よりも上位者がいたことになり、九州王朝説の立場からすれば、近江朝廷に九州王朝の有力者(筑紫や吉備よりも上位者)がいたことになり、この「符」という史料事実は九州王朝の近江遷都の傍証となり得るという研究発表でした。
その史料調査のとき、『日本書紀』中には「壬申の乱」以外には崇峻紀のみに「符」が現れることを知ったのです。それは「蘇我・物部戦争」の後に、河内で抵抗した捕鳥部萬(よろず)の遺骸を八つに斬れという何とも残酷な命令を「朝廷」が河内国司に出すという一連の記事中に「符」が現れます。先の近江朝廷の「符」が九州王朝からのものとすれば、この崇峻紀に見える「符」も九州王朝からのものとするのが、論理的一貫性と考えられ、いわゆる「蘇我・物部」戦争は九州王朝の命令により行われたのではないかと考えていました。
こうした研究経緯により、6世紀末頃に九州王朝は難波を制圧し、後に自らの直轄支配領域として天王寺を造営(倭京2年、619年)するに至ったと理解しました。そうした歴史的背景のもとに前期難波宮が副都として白雉元年(652)に造営されたものと思われます。このわたしの理解を強力に裏付ける衝撃的な論文が発表されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)です。(つづく)


第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)


第1236話 2016/07/20

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(12)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない課題が、なぜ九州から遠く離れた難波の地が副都造営の地に選ばれたのか、選ぶことができたのかという疑問に対する説明です。
 九州王朝説の立場から考えると、次の三つの理由があげられます。

1.唐や新羅との戦争に備えて、朝鮮半島から離れたより安全な難波に副都を造営した。
2.全国に評制を施行して中央集権的律令体制の行政拠点として、列島の中心に近い難波を副都とした。
3.難波は海運の便が良く、全国的流通(物資・防人)の拠点となる。

 一応こうした理由を挙げることができます。しかし問題はこの後です。九州から離れた、しかも近畿天皇家のお膝元(近隣)に副都など造営できるのかという問題です。この疑問・批判は大和朝廷一元論者のみならず古田学派内からも出されました。というよりも、この仮説を提起するとき、わたし自身が最も悩んだ問題でもあったのです。
 古田学派内からの批判に対しては「九州王朝は列島の代表王朝であり、支配領域内の難波に副都を造営することは可能」と反論してきましたが、実はこの返答は大和朝廷一元論者との「他流試合」では通用しません。
 余談ですが、古田学派の論者で自説の証明に、こうした「他流試合」では全く通用しない論法で事足りるとする方があります。古田先生なき今、「他流試合」をわたしたちが戦わなければなりませんから、こうした点、すなわち自分の説明や論証が「他流試合」に有効かどうかという視点も持っていただければ幸いです。
 こうして、「他流試合」でも通用するような論証や史料根拠を求めて、近年、「古田史学の会」関西例会では研究と報告が本格的に始められました。(つづく)


第1235話 2016/07/19

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(11)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する仮説として前期難波宮九州王朝副都説を苦悩の中から提起し、その後それを支持する研究や根拠(文献・考古学)が続出してきた経緯をご紹介してきました。ここから研究はいよいよ佳境に入ります。そこで、もう一度「三本の矢」を確認しましょう。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《三の矢》に対抗して提示した前期難波宮九州王朝副都説でしたが、この仮説研究の進展により、今まで難問だった《一の矢》《二の矢》に対する九州王朝説に立った説明ができそうな段階まで「古田史学の会」関西例会での論議は進んできたのです。その紹介の前に、前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない検討課題がありましたので、そのことをまず説明します。
 それは九州王朝はなぜ副都造営の地として難波を選んだのか、選べたのかというテーマです。難波が王都・王宮の地としてふさわしいことは、近畿天皇家も律令体制よる全国支配のための後期難波宮(朝堂院様式)を前期難波宮の真上に造営したという歴史事実、近世では豊臣秀吉が全国支配の拠点として大阪城を築城したことからもわかります。
 なお、前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者からは防衛上に難点があるとする批判意見も出されましたが、それならなぜ後期難波宮や大阪城がこの地に造営されたのかという歴史事実に基づく反論には答えられていません。聖武天皇や秀吉は防衛上不安定な地に王宮・王都や大阪城を造ったとでも言われるのでしょうか。(つづく)


第1232話 2016/07/15

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(10)

 正木裕さんに続いて、前期難波宮九州王朝副都説を支持する研究を発表されたのが、服部静尚さん(古田史学の会・編集長)です。服部さんの研究の中でも、わたしが特に注目しているのは「竜田の関」問題と「律令制官僚の人数と宮殿の規模」問題です。
 服部さんが指摘された「竜田の関」問題は意表をついたもので、大和川沿いに河内と大和を繋ぐ道に設けられた「竜田の関」は河内方面から大和盆地に進入する勢力から大和朝廷を防衛するためのものと考えられてきました。しかし、服部さんの調査によると、なんと「竜田の関」は大和盆地方面からの侵入に対して河内側を防衛する位置にあるとのこと。河内の先には前期難波宮があり、従って「竜田の関」は大和の近畿天皇家の勢力から前期難波宮を防衛するための関ということになります。
 確かに地図で確認すると、「竜田の関」があったとされる場所の地勢は、東側からの侵入を阻止するのに効果的な位置です。このことは大和朝廷一元論ではうまく説明できず、東の勢力(近畿天皇家等)から九州王朝の難波副都を防衛するための関という理解を支持します。近畿にある古代の関が九州王朝と関係していたという画期的な服部説ではないでしょうか。(つづく)


第1231話 2016/07/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(9)

 わたしが「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する、前期難波宮九州王朝副都説を唱えて大和朝廷一元論との「他流試合」に挑み、古田学派の中では「古田先生と異なる意見を述べるのはけしからん」という「批判」を浴びながら孤軍奮闘していたとき、「古田史学の会」関西例会でわたしの説を支持する研究が発表され始めました。
 まず最初に紹介するのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による九州年号史料『伊予三島縁起』に記されている「番匠の初め」記事の「発見」です。九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には九州年号の端政・金光・常色・白雉・大長などが用いられており、その内容から九州王朝系史料であることは疑えません。記事中には九州王朝の事績とみられるものが少なくありませんが、正木さんは次の記事に注目されました。

 「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」
 「孝徳天皇のとき、番匠がはじまる。常色二年戊申(648)に日本国を御巡礼される。

という記事です。この「番匠」とは『広辞苑』によれば、「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工(もく)寮で労務に服した木工。」とあります。『日本書紀』孝徳紀には見えない記事ですから、九州王朝が常色二年(648)頃に各地から番匠を集め、大規模な土木工事を行った記事と考えられます。前期難波宮の完成が九州年号の白雉元年(652)ですから、まさに常色二年(648)はその四年前に当たり、前期難波宮造営のための番匠として時期的に見事に一致します。九州年号で記された『伊予三島縁起』中の記事ですから、まさに九州王朝が前期難波宮を造営したとする、わたしの前期難波宮九州王朝副都説を支持する記事だったのです。『伊予三島縁起』を九州年号研究のため、わたしはこれまで何度も読んでいたのですが、この「番匠」記事の意味に気づきませんでした。
 正木さんの見解では、常色二年に九州王朝の天子(正木説によれば伊勢王)が前期難波宮造営のための筑紫の番匠を伴って、更に評制施行のために天下を巡行し、その途中に伊予に寄ったものとされました。前期難波宮から出土した「戊申年木簡」も、常色二年戊申の天下巡行と関係があるのではないかと、正木さんは考えておられます。わたしも両者の「戊申(648年)」は偶然の一致とは思えません。なお、この正木さんの研究は「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号、2008年4月8日。「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に収録)として発表されていますので、是非ご参照ください。とても刺激的な論文で、「番匠」問題以外にも重要な仮説や発見が記されています。(つづく)


第1230話 2016/07/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(8)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対して、前期難波宮九州王朝副都説という仮説を提起したのですが、この仮説を支持する考古学的事実、すなわち前期難波宮跡のある上町台地から北部九州(九州王朝中枢の筑前・筑後・他)の土器が出土していたことが寺井誠さん(大阪歴博)により報告されていました。「洛中洛外日記」224話(2009/09/12)に寺井論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)の存在を知ったいきさつを記していますので、ご参照ください。こうして、古田先生からのダメだしの一つ、前期難波宮遺構から九州の土器が出土しているのかという質問をクリアできたのでした。
 続いて、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)に記された大規模な白雉改元の儀式が、実は白雉二年二月条(652)からの切り貼りにより移動させられていたことを発見し、「白雉改元の史料批判」(『九州年号の研究』所収)として発表したのですが、652年は九州年号の白雉元年壬子の年に当たり、しかも『日本書紀』によればその年の秋には前期難波宮が完成しており、その前期難波宮であれば大規模な白雉改元の儀式が行えることに気づきました。
 通説では白雉改元の儀式は『日本書紀』の記述通り650年のこととされており、その結果、そのような儀式が行える大規模な宮殿は前期難波宮完成前の上町台地には存在しておらず、どこで行われたのかという説明に困っていました。
 この困惑は九州王朝説でも同様で、北部九州にもこの儀式が行えるような大規模宮殿跡は知られていません。古田先生もこの問題に気づいておられ、様々な試案を考えられていました。しかし、そうした大規模宮殿が北部九州に見つかっていないということは認識されていました。ですから、『日本書紀』に記されているような白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ないとする私の仮説に対して、最後は古田先生にも「検討すべき仮説」と認めていただいたわけです。
 九州年号の白雉改元の儀式を行うのは九州王朝であり、その儀式が行われたのは九州王朝の宮殿であることは当然でしょう。そしてそれが可能な規模の宮殿は日本列島内では、九州年号の白雉元年(652)に完成した前期難波宮だけです。これら考古学的根拠と文献史学の根拠と論理性により、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説へと発展していきました。こうしてようやく、大和朝廷一元論者からの《三の矢》に対抗しうる仮説をわたしたち古田学派は手にしたのでした。(つづく)

〔補論〕難波から九州王朝中枢領域である筑前・筑後の土器が出土していたことについて、それが何を意味するのかを指摘しておきたいと思います。
 この考古学的事実は前期難波宮造営時に、難波へ九州王朝中枢の土器を持った人々、すなわち九州王朝中枢地域の人々が訪れていたことを意味します。従って、九州王朝は国内最大規模の前期難波宮の造営を知悉していたことを疑えません。ということは、前期難波宮の造営を九州王朝が承認していたこともまた疑えません。
 こうした論理性からみて、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿とするのならば、九州王朝は自らの宮殿よりも何倍も巨大な宮殿を配下の豪族(近畿天皇家)が造営することを認めたということになりますが、九州王朝説に立つ限り、こうしたことを認めることはできないはずです。
 この点、大和朝廷一元論者であれば、何の迷いもなく、「前期難波宮は近畿の孝徳天皇の宮殿であり、孝徳天皇が全国に評制を施行し、全国支配をするにふさわしい規模と様式(朝堂院)を持つのは当然であり、だから九州王朝説など成立しない」と断言できます。このことの意味を九州王朝副都説に反対される九州王朝説論者は正しく深く認識していただきたいものです。そして「他流試合」の厳しさをご理解いただければ幸いです。


第1229話 2016/07/11

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(7)

 下記の「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の中でも「致命傷」になりかねない最も深刻で強力なものが《三の矢》でした。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《一の矢》と《二の矢》については、「お墓」や「お寺」の存在が必ずしも王朝の中枢を示すとは限らないという「強弁」も可能だったのですが、前期難波宮のような全国最大規模で中央集権的律令体制を前提とするようなわが国初の朝堂院様式の巨大宮殿の存在は、全国支配を前提とした王宮と見なさざるを得ないため、先の「強弁」や「わからない」という言い訳が大和朝廷一元論者に対しては通用しないのです。すなわち、「お墓」や「お寺」とはその遺構の存在目的が全く異なるため、わたしは何年も前期難波宮の存在を九州王朝説からどのように説明できるのかを考え続けたのでした。
 しかし、ひとたび「前期難波宮は九州王朝の宮殿(後に副都と理解した)」に至ると、そのことを支持する様々な痕跡(北部九州の土器出土、『日本書紀』の白雉改元儀式の場所など)の発見が続出したのです。もともとは大和朝廷一元史観において前期難波宮の存在を合理的に説明できないという問題点(近畿天皇家の宮殿様式の発展史からみて、前期難波宮は隔絶している)に基づく「消極的」理由を根拠に思い至った作業仮説だったのですが、その後の研究の進展により「九州王朝の王宮と見なければ説明できない」という「積極的」仮説へと変化しました。(つづく)