難波朝廷(難波京)一覧

第1226話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(6)

 わたしは「前期難波宮は九州王朝の副都」という論文を2008年に発表しました(『古田史学会報』85号、「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載)。九州王朝説に突き刺さった《三の矢》から九州王朝説を守るにはこの仮説しかないと、考え抜いた末の結論でした。

 しかし、古田先生からは賛同していただけない月日が永く続き、前期難波宮から九州の土器は出土しているのか、神籠石のような防御施設がない、副都の定義が不明確と次々とダメ出しをいただきました。また、各地で開催される講演会で、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」に対する見解を問う質問が参加者から出されるたびに、古田先生からは否定的見解が表明されるという状況でした。

 そうした中でわたしにできることはただ一つ、論文を書き続けることだけでした。もちろん古田先生に読んでいただくこと、そして納得していただきたいと願って研究と発表を続けました。次の論文がそうです。想定した第一読者は全て古田先生です。

《前期難波宮関連論文》※「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載
前期難波宮は九州王朝の副都(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)
「白鳳以来、朱雀以前」の新理解(『古田史学会報』八六号、二〇〇八年六月)
「白雉改元儀式」盗用の理由(『古田史学会報』九〇号、二〇〇九年二月)
前期難波宮の考古学(1)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇二号、二〇一一年二月)
前期難波宮の考古学(2)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇三号、二〇一一年四月)
前期難波宮の考古学(3)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)
前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)
続・前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)
七世紀の須恵器編年 ー前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁ー(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)
白雉改元の宮殿ー「賀正礼」の史料批判ー(『古田史学会報』一一六号、二〇一三年六月)
○難波と近江の出土土器の考察(『古田史学会報』一一八号、二〇一三年十月)
○前期難波宮の論理(『古田史学会報』一二二号、二〇一四年六月)
○条坊都市「難波京」の論理(『古田史学会報』一二三号、二〇一四年八月)

 論文発表と平行して「古田史学の会」関西例会でも研究報告を続けました。そうしたところ、参加者から徐々に賛成する意見が出され始めました。西村秀己さん、不二井伸平さん、そして正木裕さんは『日本書紀』の史料批判に基づいてわたしを支持する研究発表をされるようになり、近年では服部静尚さんも新たな視点(難波宮防衛の関)から前期難波宮副都説支持の研究を開始されました。

 そして2014年11月8日の八王子セミナーの日を迎えました。古田先生との質疑応答の時間に参加者からいつものように「前期難波宮副都説をどう思うか」との質問が出されました。わたしは先生を凝視し、どのような批判をされるのかと身構えました。ところが、古田先生の返答は「今後、検討しなければならない問題」というものでした。6年間、論文を書き続け、ついに古田先生から「否定」ではなく、検討しなければならないの一言を得るに至ったのです。検討対象としての「仮説」と認めていただいた瞬間でした。その日の夜は、うれしくて眠れませんでした。しかしその一年後、検討結果をお聞きすることなく、先生は他界されました。(つづく)

 


第1225話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(5)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に悩んでいたわたしは、難波宮に関する先行論文の調査を続けました。その過程で、大和朝廷一元史観内でも前期難波宮の隔絶した規模に困惑している状況があることを知りました。

 たとえば中尾芳治著『難波京』(ニュー・サイエンス社、昭和61年)では、前期難波宮がその前後の近畿天皇家の宮殿(飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮)とは規模も様式も隔絶していると指摘されています。

 「前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(p.93)

 そしてこの前期難波宮の朝堂院様式が前後の宮殿となぜ異なったのかという説明に非常に苦しんでいる様子が吉田晶著『古代の難波』(教育社、1982年)にも記されています。

 「残る問題は、その宮室構造と規模がその後の天智の大津宮や天武の飛鳥浄御原宮に継承されたとは考えがたいのに対して、持統朝に完成する藤原宮に継承関係がみられることを、どう説明するか、(中略)宮室構造と規模などはすぐれてイデオロギー的要素をふくむ政治的構造物であり、考古学上の遺物たとえば土器の編年と同様に考えることはできず、物自体については「後戻り現象」(横山浩一氏の表現)も生じうる。その意味で形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない。」(p.167〜168)

 わたしは大和朝廷一元論者の困惑したこれらの文章を見て驚きました。それにしても「後戻り現象」なる奇妙な解釈を持ち込んでまで「形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない」というに及んでは、これは「思考停止」であり、学問的敗北です。すなわち、彼らも前期難波宮の隔絶した規模と様式を、大和朝廷一元史観の中で処理(理解)できないことを「告白」しているのでした。

 この学問的状況を知ったとき、わたしの脳裏に、前期難波宮は大和朝廷ではなく九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)が稲妻のようにひらめきました。と同時に、古田学派にとってもあまりに常識から外れたこの新概念に、学問的恐怖を覚えました。こんな非常識な仮説を発表して、もし間違っていたらどうしようと、わたしは呻吟したのです。真っ暗闇の中で、誰も行ったことのない場所に一歩踏み出すという最先端研究が持つ恐怖にかられた瞬間でした。(つづく)


第1224話 2016/07/08

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(4)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の最後《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今から10年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が7世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積比だけでも前期難波宮は大宰府政庁の数倍は大きく、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。

  これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない普通の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実は九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。この悩みこそ、九州王朝説に突き刺さった《三の矢》なのです。

 古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は『日本書紀』に記されていない「近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。(つづく)


第1214話 2016/06/21

「須恵器杯B」発生の理由と時期

 今朝は朝一番の新幹線で九州に向かっています。熊本・島原・天草・鹿児島・宮崎・久留米・福岡とハードな行程が代理店により組まれました。熊本や天草は昨日からの大雨で被災している所もあり、やや心配です。

 「古田史学の会」関西例会では西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)が古代史関係の新聞記事の切り抜きコピー(古田史学の会・関西例会「古代史ニュース」)を配付されておられ、とても参考になります。先日の関西例会でもいただいたのですが、7世紀の土器の変化に関する興味深い記事があり、急遽、そのことに関して発表させていただきました(須恵器杯Bの発生事情と時期)。
 その記事は奈良文化財研究所研究委員の小田裕樹さん(35)へのインタビューコラム「テーブルトーク」(6月1日・朝日新聞夕刊)で、見出しに「土器が語る食卓の『近代化』」とあり、須恵器杯がH・GからBへ変化した理由と時期についてがテーマです。小田さんは7世紀の土器の変化について次のように語られています。

 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」

 小田さんのこの発言に続いて、次のように今井邦彦記者は解説しています。

 「そのきっかけは663年に日本の派遣軍が朝鮮半島で唐・新羅連合軍に敗れた『白村江の戦い』だったとみる。日本はその後、唐をモデルにして律令制を導入するなど『近代化』を急速に進めた。それが宮殿での食事のスタイルにも及んだようだ。」

 この記事にある「丸底の食器」とは、古墳時代からある須恵器杯H(蓋につまみがない)と近畿では7世紀前半から中頃に流行する須恵器杯G(蓋につまみがある)のことと思われます。「高台つきの食器」とは底に脚がある須恵器杯Bと思われ、その発生を天智・天武の頃(660〜680年頃)とされています。この編年はいわゆる「飛鳥編年」と呼ばれている土器編年に基づいており、奈良文化財研究所の研究員である小田さんはその立場に立っておられるようです。
 他方、前期難波宮整地層から出土した須恵器杯Bが7世紀中頃以前のものとする大阪歴博の考古学者による「難波編年」とは「飛鳥編年」が微妙に異なっていることから、両者のバトルはまだ続いているのかもしれません。わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。
 今回の記事でわたしが最も注目したのは、須恵器杯Bの発生理由として、中国(唐)文化の受容によるものとされた点です。確かに机の上に碗を置いてお箸を使って食事するのであれば、丸底丸底(須恵器杯H・G)よりも脚のある安定した須恵器杯Bの方が食べやすいのは当然です。そうした中国の文化を受容したという意見には説得力を感じるのですが、それなら白村江戦(663年)敗北後では遅すぎます。
 『隋書』にあるように7世紀初頭には倭国と隋は親密な交流を行っており、中国文化を真似て机の上で食べやすい須恵器杯Bを造るくらいは簡単なことです。また隋使は倭国(阿蘇山がある北部九州)を訪問しており、その隋使を饗応するさいに、丸底の碗で手づかみで食べろとは言わなかったと思います。国賓にふさわしい容器と豪華な食事でもてなしたはずです。それとも、法隆寺や金銅製の釈迦三尊像は造れても、須恵器杯Bは7世紀後半まで造れなかったとでもいうのでしょうか。わたしにはそのような見解は到底理解できません。
 以上のように、須恵器杯Bの発生理由を中国文化の受容とするのであれば、その時期は白村江戦後ではなく、遅くとも隋と交流した7世紀初頭頃であり、その交流主体であった九州王朝で近畿よりも先に発生したとするわたしの仮説を支持するのです。
 このような論理性と出土事実は九州王朝説とよく整合しますが、大和朝廷一元史観の呪縛から逃れられない真面目な論者は、これからも須恵器杯Bの編年に苦しみ続けることになるのではないでしょうか。

 今、列車は山口県内を走っています。あと30分ほどで博多駅に到着です。


第1205話 2016/06/07

「須恵器杯B」は畿内より筑紫が早い

 一元史観でも編年が揺らいでいる「須恵器杯B」の成立年代をなるべく正確に判断する必要があるため、比較的安定した考古学的史料事実に基づいて考察してみます。

 最も編年の信頼性が高いのが前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」です。木簡(「戊申」年、648年)や自然科学的年代測定(年輪セルロース酸素同位体測定、年輪年代測定)というクロスチェックを経ていますので、遅くとも650年頃以前の「須恵器杯B」と考えられます。しかし、前期難波宮の水利施設造営時の地層から大量に出土した須恵器は「須恵器杯G」と呼ばれるタイプで、蓋につまみがあり、底に「脚」がない須恵器杯です。これは7世紀第2四半期頃と編年されており、前期難波宮が完成した652年(『日本書紀』による)と同時期かその直前であり、大阪歴博の考古学者はこの出土事実を前期難波宮孝徳期造営説の有力根拠の一つとしています。ですから、前期難波宮での7世紀第2四半期の流行土器は「須恵器杯G」であり、それに少数の「須恵器杯B」が混在していることとなり、「須恵器杯B」の近畿での発生時期がこの頃であったとする理解を支持します。なお畿内で「須恵器杯B」が主となって出土するのが藤原宮整地層(天武期)ですから、通説通り畿内での「須恵器杯B」の興隆時期は7世紀第4四半期(天武期・持統期)となります。わたしも畿内出土の「須恵器杯B」の発生と興隆の年代観はこれでよいと思います。

 他方、大宰府政庁遺構出土の「須恵器杯B」はⅠ期の整地層やⅠ期の時代の地層から、主流土器として出土しています(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号2002年所収、Facebookの写真参照)。このⅠ期は通説の編年でも天智期(660〜670年頃)からⅡ期が造営される8世紀初頭とされ、筑紫ではこの頃に「須恵器杯B」の興隆期を迎えていたことになり、畿内よりも興隆期が約20年ほど早くなるのです。一元史観に立ってもこれだけ「須恵器杯B」興隆期が揺らぐのですが、これに九州王朝説による修正を加えれば、「須恵器杯B」の筑紫での興隆時期は更に遡ることになります。(つづく)


第1203話 2016/06/06

大宰府政庁1期整地層出土の「須恵器杯B」

 7世紀第4四半期に編年されていた「須恵器杯B」が前期難波宮整地層から出土していたことから、その発生時期が約30年ほど早くなることに気付いたわたしは、大宰府政庁遺構の出土土器を調べてみました。
 大宰府政庁遺構は三期からなり、通説では最も下層のⅠ期は天智天皇の頃、Ⅱ期は8世紀初頭とされてきました。しかし、九州王朝説の立場から見ると、Ⅰ期は条坊都市が造営された7世紀初頭から前半、Ⅱ期は7世紀後半の白鳳10年(670)頃とわたしは考えてきました。
 そこで出土土器を調べてみたのですが、『西都大宰府』(昭和52年)に記された土器の解説を見ると、何と政庁Ⅰ期下層整地層から「須恵器杯B」が出土していたのです(FaceBookの写真参照 7,8の土器)。このことにとても驚きました。九州王朝説の立場から考えると7世紀初頭の頃には「須恵器杯B」が九州では発生していたこととなり、通説よりも、前期難波宮整地層の「須恵器杯B」よりも更に早くなるのです。いくらなんでも、これは早すぎると思われ、わたしの仮説が間違っているのかもしれません。
 『西都大宰府』の発行は昭和52年で一般向け書籍なので、掲示土器数も少ないため、比較的新しい学術論文を追跡調査しました。(つづく)


第1202話 2016/06/05

前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」

 「須恵器杯B」の年代観が七世紀の編年の揺らぎの一因になっているのですが、わたしがそのことを知ったのは小森俊寛さんの『京から出土する土器の編年的研究』(2005)によってでした。同書で小森さんは前期難波宮整地層から少数だが「須恵器杯B」が出土していることを根拠に、前期難波宮の創建時期を天武期とされ、孝徳期とする大阪歴博などの考古学者と論争が続けられました

 現在では戊申年(648)木簡や出土木柱のセルロース酸素同位体測定、水利施設出土木材の年輪年代測定の結果がいずれも七世紀前半を指し示すことなどから、通説通り七世紀中頃の創建とする意見が圧倒的多数意見となっています。わたしもこの科学的測定結果とクロスチェックを経た652年(九州年号の白雉元年)造営説でよいと考えています。

しかし、同時に従来は七世紀第4四半期と編年されてきた「須恵器杯B」の発生時期の編年が古くなったのですから、この事実は「須恵器杯B」が出土した他の遺跡編年にも再検討を迫ると考えています。鞠智城も例外ではなく、大宰府政庁遺跡も同様です。(つづく)


第1192話 2016/05/21

国家官僚群を収容できない「飛鳥京」

 本日の「古田史学の会」関西例会では、犬山市から参加されている掛布(かけの)さんが初発表されました。
 服部さんからは、律令体制の都における国家官僚の人数と生活に必要な家地の面積と条坊都市の面積の関係について論じられ、前期難波宮にいた国家官僚群を収容できる広さが「飛鳥京」(通説では前期難波宮から遷都した「倭京」を奈良の「飛鳥京」とする)にはないことを明らかにされました。
 正木さんからは、中国洛陽から発見された三角縁神獣鏡を調査実見された西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館)の講演内容について報告されました。とても興味深いのでしたので、西川さんに「古田史学の会」でも講演していただこうということになりました。ちなみに西川さんは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者ですが、「古田史学の会」で講演しても良いとのことです。また、奈良の龍田神や「風祭り」について、本来は肥後における阿蘇神(健磐龍命)の風祭りであったとする研究を発表されました。
 5月例会の発表は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
①古田武彦氏の廻心とわたしたちの結授によせて
 再び古田武彦氏の弟子となる意味を問う(東大阪市・横田幸男〔古田史学の会・インターネット事務局〕)
②宮年号の証明(犬山市・掛布広行)
③「京域と官僚」-藤原宮を中心に考察する(八尾市・服部静尚)
④洛陽から発見された三角縁神獣鏡について(川西市・正木裕)
⑤橿原市瀬田遺跡の円形周溝暮(川西市・正木裕)
⑥岡山県造山古墳訪問報告(川西市・正木裕)
⑦盗まれた風の神の祭り(川西市・正木裕)
⑧『後代の旧事記』(『先代旧事本紀』)の有効性を探る(東大阪市・萩野秀公)
⑨前期難波宮の内裏(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 「古田史学の会」活動報告・書籍出版販売状況・6/19会員総会と記念講演会(張莉さん・正木さん)の案内・「東京古田会」藤沢会長ご逝去・久留米大学公開講座で講演・7/02「古田史学の会・四国」正木氏講演会(松山市)の案内・6/24「古代史セッション」(森ノ宮)で古賀発表「古代染色技術と最先端機能性色素の歴史」の案内・7/16関西例会々場が大阪歴博に変更・その他


第1185話 2016/05/12

前期難波宮「内裏」の新説

 『大阪歴史博物館研究紀要 第14号』(平成28年3月)に収録されている佐藤隆さんの論文「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」を読みました。前期難波宮九州王朝副都説を唱えているわたしにとって、前期難波宮遺跡の北側にある大阪城の場所には前期難波宮時代に何があったのだろうかという疑問を永く持ち続けていましたので、強い関心を持って読みました。
 大阪城一帯が特別史跡に指定されているため、その下層の発掘調査はほとんど報告がなく、この佐藤論文は貴重です。須恵器杯Bの編年など、興味深い問題も記されているのですが、わたしがもっとも驚いたのが、現在の大阪城南部の本丸および二の丸から大手門に至る地域から、7世紀中頃の土器が出土したことなどを根拠に、その付近に前期難波宮の「内裏」があったのではないかとの新説を出されていることでした。掲載された図面によれば、その「内裏推定域」の位置は前期難波宮の北東にあたり、前期難波宮の中心軸からは200〜300mほど東にずれているのです。
 わたしは何となく、古代王都においては朝堂院の真北に内裏は位置すると考えていたのですが、今回の佐藤説に触れて、このような考え方もあるのだと驚いたのです。もちろん、それは佐藤さんの推定に過ぎませんが、わたしはあることを思い出しました。それは太宰府政庁2期の内裏(字、大裏)についてです。
 太宰府政庁の北側の遺構の規模は小さく、その後背地もそれほど広くないことから、本当にこんな狭い場所で九州王朝の天子(薩夜麻)は生活していたのだろうかと疑問視する声もあったからです(伊東義彰さんの意見)。ところが、太宰府政庁の北西に位置する「政庁後背地区」にも遺跡があり、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されています。それで、ここに内裏があったのではないかと考えていましたので、九州王朝王都にも朝堂院の真北に内裏が無いケースがあったことになり、前期難波宮の内裏も同様に朝堂院からずれていても問題ないと考えることができるのです(「洛中洛外日記」第982話 2015/06/16 大宰府政庁遺構の字地名「大裏」 をご参照ください)。
 佐藤さんの前期難波宮「内裏推定域」説が妥当かどうかは、今後の考古学的調査を待たなければなりませんが、広さやその位置が上町台地最高所であることなどから考えると、有力説ではないかと思えるのです。


第1163話 2016/04/05

『古田史学会報』133号のご案内

 『古田史学会報』133号が発行されましたので、ご紹介します。本号も岡下さんや正木さんらの好論が満載です。特に正木さんの「中元」「果安」を「近江朝」年号とする仮説は魅力的かつ衝撃的です(検証すべき疑問もありますが)。天智天皇の「不改常典」とも関わり合いそうなテーマですので、これからの論争や展開が楽しみです。
 わたしからは久しぶりに前期難波宮問題を取り上げた論稿「『要衝の都』前期難波宮」を発表しました。前期難波宮九州王朝副都説を提唱してから8年が過ぎましたが、九州王朝説論者からの反論がありますので、改めて説明と再反論を行いました。わたしは「学問は批判を歓迎する」(武田邦彦さんの言葉)と考えていますので、自説への批判は歓迎しますが、その上で、前期難波宮副都説を批判される方には、次の質問をすることにしています。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 この質問に対して、史料(あるいは考古学的)根拠を示して合理的に回答された九州王朝説論者をわたしは知りません。わたしの前期難波宮副都説はこの四つの疑問に答えるための数年に及ぶ苦心惨憺の中から生まれた説ですから、それを超える合理的な仮説があるのでしたら、是非お答えいただきたいと思います。
 133号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

 『古田史学会報』133号の内容
○「是川」は「許の川」  京都市 岡下英男
○「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕
○岡下論文『「相撲の起源」説話を記載する目的』の補遺としての考察 -筑前にも出雲があった-  福岡市 中村通敏
○「要衝の都」前期難波宮  京都市 古賀達也
○「善光寺」と「天然痘」  札幌市 阿部周一
○令亀の法  八尾市 服部静尚
○追憶・古田武彦先生(3)
 蕉門の離合の迹を辿りつつ  古田史学の会・代表 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅳ
 九州年号が語る「大和朝廷以前の王朝」 古田史学の会・事務局長 正木裕
○久留米大学公開講座のお知らせ 5月28日
 講師 正木裕 「聖徳太子」は久留米の大王だった
 講師 古賀達也 九州王朝の「聖徳太子」伝承
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2016年度会費納入のお願い


第1151話 2016/03/19

律令時代の中央職員数は九千人強

 本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)よりミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』の説明があり、会場で特価販売を行いました。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)も刊行され、2015年度賛助会員へは明石書店から順次発送されるとの報告がなされました。
 その服部さんから、古代律令時代の中央職員数に基づく考察が発表されました。養老律令によれば総勢九千人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとのこと。従って、7世紀中頃に九州王朝が評制による全国支配をしていた宮殿として、九千人が勤務したり、家族と共に生活できる都は前期難波宮か太宰府しかないとされました。一元史観の通説では孝徳天皇没後に前期難波宮から飛鳥宮へ遷都したとされていますが、九千人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も飛鳥宮にはありません。この矛盾を一元史観では全く説明できないのです。
 こうしたことから、前期難波宮が造営された難波には、職員やその家族が生活する「宅地分譲」のために条坊が同時に造営されたとする高橋工さん(大阪文化財研究所)の説を紹介されました。わたしもこの7世紀中頃の前期難波宮と条坊造営説に賛成ですので、服部さんの数字を示しての発表には説得力を感じました。
 3月例会の発表は次の通りでした。高知市から別役(べっちゃく)さん(古田史学の会・会員)が夜行バスで初参加されました。

〔3月度関西例会の内容〕
①「宮城と官僚」-難波宮・飛鳥宮・太宰府政庁・藤原宮・平城京(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(姫路市・野田利郎)
③中国風一字名称について -『二中歴』年代歴の「武烈」の理解-(高松市・西村秀己)
④定策禁中(京都市・岡下英男)
⑤弥生の硯が証明する古田論証(川西市・正木裕)
⑥ニギハヤヒを考える(東大阪市・萩野秀公)
⑦『日本書紀』の盗用手法について -大和中心にベクトルを転換-(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田光河氏より来信・史跡巡りハイキング(大東市立歴史民俗資料館)・ミネルヴァ日本評伝選『三好長慶』を読む・東大寺二月堂「お水取り」に関する水野説(長屋親王への慰霊)・TV視聴・その他


第1134話 2016/02/06

難波宮と真田丸

 今年は一大決心の末、NHK大河ドラマ「真田丸」を見ないことにしました。主役の堺雅人さんは好きな俳優さんなのですが、「古田史学の会」運営と古代史研究・原稿執筆のための時間を確保するため、日曜日の夜の貴重な約1時間をテレビに費やすことをやめることにしたのです。とはいえ、歴史ドラマは興味がありますから「真田丸」については上町台地の遺構として注目しています。
 というのも、昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんから教えていただいたことなのですが、難波宮がある上町台地北端は歴史的に見ても要害の地であり、たとえば大阪城は三方を海や川に囲まれており、南側からの侵入に備えればよい難攻不落の地であるとされています。わたしも全く同意見であり、そのことは「洛中洛外日記」680話でも指摘してきたところです。ですから豊臣秀吉はこの地に大阪城を築城したのであり、摂津石山本願寺との戦争(石山合戦)では織田信長をしても本願寺を落とすことがてきませんでした。そのような地だからこと、聖武天皇も後期難波宮を造営したのでしょう。こうした史実から、前期難波宮は近くに神籠石山城などがないことをもって防衛上に難点があるとする考えは妥当ではないことがわかります。
 今年の大河ドラマの「真田丸」ですが、大阪城の南側に位置し、南からの侵入に備えると同時に、南方面の敵を攻撃できる要塞でもあると説明されています。このことから思い起こされるのが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える次の記事です。

 「初めて関を龍田山、大坂山に置く。よりて難波に羅城を築く。」

 前期難波宮を防衛する「羅城」築造の記事ですが、李さんに「羅城」遺構は発見されていますかとお聞きしたところ、細工谷遺跡付近から「羅城」と思われる遺構が発見されているが、まだ断定はできないとのことでした。細工谷遺跡といえば、前期難波宮の南方にあり、「真田丸」付近に相当します。ネットで検索したところ、黒田慶一さん(大阪文化財研究所)の「難波京の防衛システム -細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽-」という論文がヒットしました。おそらく、李さんが言われていたのはこの黒田さんの説のようです。
 服部静尚さんの竜田関が大和方面の敵から難波を防衛する位置にあるとの説からも、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮が関や羅城で防衛された要害の地に造営されたことを疑えません。大河ドラマの「真田丸」もそのことを証明しているように思われるのです。