日本書紀一覧

第1384話 2017/05/06

飛鳥編年と難波編年の原点と論争

 このところ太宰府や北部九州の土器編年の勉強を続けていますが、それらが飛鳥編年に準拠しており、同編年の影響力の大きさを改めて感じています。
飛鳥編年の方法論と原点は、畿内の遺跡から出土した土器の相対編年を『日本書紀』の記事の暦年とリンクするというものです。それを基点に藤原京から出土した干支木簡などで追認されています。特に七世紀については須恵器の詳細な様式編年がなされており、土器により正確な暦年特定が可能と断定する論者もいます。すなわち、『日本書紀』の暦年記事は正しいとする立場(一元史観)です。

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を提起した後、難波編年について集中して勉強しました。特に大阪歴博の考古学者からは何度もご教示いただき、難波編年が文献(『日本書紀』孝徳紀、『二中歴』年代歴)との整合性もとれており、当初思っていた以上に正確であるとの印象を抱いたものです。その過程で、難波編年と飛鳥編年の考古学者間で激しい論争が続けられていることを知ったのです。

 それは前期難波宮整地層から極少数出土した須恵器(坏B)を根拠に、前期難波宮は天武期に造営された『日本書紀』に記録されていない宮殿であると、飛鳥編年に立つ研究者から批判が出され、それに対して難波編年に立つ研究者が出土事実(整地層や前期難波宮造営期の主要土器〔坏H、G〕、戊申年木簡〔648年〕の出土、前期難波宮水利施設からの出土木材の年輪年代〔634年〕、前期難波宮外周木柵の年輪セルロース酸素同位体比測定〔583年、612年〕など)を根拠に反論するという論争です。

 この論争経緯と内容を知ったとき、飛鳥編年により難波編年を批判する論者のご都合主義に驚きました。『日本書紀』の暦年記事を「是」として自らの飛鳥編年の正当性を主張しながら、前期難波宮整地層から自説に不都合な土器が出土したら、『日本書紀』孝徳紀の難波宮造営(652年)記事は誤りとするのです。理不尽(ダブルスタンダード)と言うほかありません。

 こうした理不尽な批判に対して、難波宮発掘を担当した考古学者は、『日本書紀』孝徳紀の記事を根拠に反論するのではなく、考古学者らしく出土事実と理化学的年代測定で反論を続けました。“孝徳紀の記事は間違っている”とする批判者に対して、“孝徳紀の記事は正しい”という反論では学問論争の体をなしませんから、考古学的事実の提示をもって反論するという大阪歴博等の考古学者の対応は真っ当なものです。ですから、わたしは彼らの方法や主張こそが学問的だと思いました。

 この論争はまだ水面下で続いているようですが、ほとんどの考古学者は大阪歴博が示した難波編年(前期難波宮の造営を7世紀中頃とする)を支持しているとのことです。もちろん、学問は多数決ではありませんが、この論争はどう贔屓目にみても難波編年がより正しいと言わざるを得ないのです。もし、難波編年が間違っているといいはりたいのなら、干支木簡でも年輪年代でも何でもいいですから、前期難波宮整地層や造営期の地層から明確に天武期とわかる遺物が出土したことを事実でもって示す必要があるでしょう。さらに指摘するなら、自らの飛鳥編年の根拠とした『日本書紀』の暦年記事は正しいが、孝徳紀の難波宮造営記事は誤りとする史料批判の根拠も示していただきたいものです。

 最後に、前期難波宮整地層出土の須恵器坏Bについてですが、大阪歴博の考古学者からお聞きした見解では当該須恵器は坏Bの原初的なタイプで、7世紀前半のものとみて問題ないとのことでした。報告書にもそのように記されていたと記憶しています。本年1月に開催した「古田史学の会・新春講演会」でも、講師の江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)におたずねしたところ、同須恵器は通常の坏Bよりも大型で、いわゆる坏Bとは見なせないとのご返答でした。坏Bについては大宰府政庁Ⅰ期からも出土しており、太宰府編年とも深く関わっていますので、只今、猛勉強中です。


第1343話 2017/02/28

続・「倭京」の多元的考察

 「洛中洛外日記」1283話で「倭京」の多元的考察について論じました。『日本書紀』の「倭京」が孝徳紀・天智紀・天武紀上の六五三〜六七二年の間(前期難波宮存続期間)にのみ現れるという不思議な分布状況を示していることから、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)のアイデア、すなわち「壬申の乱に見える倭京は前期難波宮・難波京のことではないか」は作業仮説として成立していると考えました。
 ちなみに『日本書紀』に見える「倭京」記事は次の通りです。

①六五三年  (白雉四年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②六六七年八月(天智六年八月条) 皇太子、倭京に幸す。
③六七二年五月(天武元年五月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
④六七二年六月(天武元年六月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑤六七二年七月(天武元年七月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑥六七二年九月(天武元年九月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 『日本書紀』には基本的に「倭」は奈良県の「やまと」として使用されているので、「倭京」とは明日香にあった近畿天皇家の宮の意味とされてきました。他方、「壬申の乱」に見える「倭京」は九州王朝「倭国」の「京(みやこ)」であった前期難波宮とするのが西村仮説なのですが、『日本書紀』の「倭京」記事が前期難波宮の存続期間(652〜686)にのみ見えることから、わたしは西村説が作業仮説として成立していると考えたわけです。
 とはいうものの、わたしはこの西村仮説が本当に成立するのか、『日本書紀』天武紀を精読する必要を感じていました。ようやく今週の日曜日に時間がとれましたので、天武紀を精読しました。西村仮説以外でも『日本書紀』の「倭京」出現期間を説明できる他の仮説がないか、西村仮説の論理展開上に不備がないのかをじっくりと考えてみました。その結果、前期難波宮存続期間と「倭京」記事の出現時期の一致について、西村仮説以外によっても説明可能であることに気づきました。それは次のようなケースです。

1.『日本書紀』編者は近畿天皇家の宮を規模や実体にかかわらず「京」と表現している。
2.近畿天皇家の宮殿が一カ所であれば、「京」や「都」「朝庭」と記せば、編年体史書なのでその時代の「天皇」がいた宮があった場所であることを特定できる。
3.ところがその時代に複数の「京」が併存していた場合、どちらなのかを具体的に区別して記す必要がある。
4.したがって、「倭(ヤマトの明日香)」以外に「京」が存在しており、『日本書紀』に両方の「京」を記述しなければならない場合、それらを区別するためにヤマトの「京」を「倭京」と表記するケースが発生する。
5.『日本書紀』で同時期に複数の「京」が存在したとされるのは、「難波朝庭」と「近江朝庭」の存在を記述した期間であり、それは前期難波宮造営の「孝徳紀白雉三年(652)」から、天智による近江遷都の期間(668〜672)を含み、前期難波宮が消失した「天武紀朱鳥元年(686)」までである。
6.この期間であれば『日本書紀』編者は、複数の「京」を区別するため、ヤマトの明日香の「京」を「倭京」と表記することが考えられる。
7.この理解に立てば、『日本書紀』の「倭京」出現期間が前期難波宮や近江朝庭存続期間と重なることを合理的に説明できる。

 以上の論理展開(論証)と西村仮説を支持する論理展開(論証)のいずれが妥当か、説得力があるのか、安定して成立している先行説との整合性があるのはどちらなのか、という検討が必要となりますので、引き続き深く考えていきます。
 なお付言しますと、研究者の中には自らの思いつきにとらわれ過ぎて、自説以外の「他説」の存在の有無の検討を怠ったり、自説に不利な史料事実や可能性を軽視・無視する論者が少なくありません(多元史観や古田説に対する一元史観の学界の対応はその典型です)。そうした態度は真理を見誤り学問的に危険です。もちろん「他説」や自説に不利な史料事実の存在に気づかないケースも残念ながらあります。ですから学問研究には批判や論争が必要です(「古田史学の会」関西例会はその役割の一端を担っています)。自説の発表は自由に行いたいが、自説への自由な批判は歓迎しないというのも学問的態度ではありません。このことを自戒を込めて記しておきます。


第1304話 2016/12/04

漢風諡号「孝徳」の出典

 『東京古田会ニュース』に『二中歴』関連研究の投稿原稿執筆のため、『二中歴』影印本を読み直したのですが、孔安国による「古文孝経序」が収録されていることに気づきました。孔安国は孔子十一世の子孫(前漢時代の学者。『孔子家語』の作者)とされる人物です。『古文孝経』には孔安国による「序」が付されていますが、その「古文孝経序」が『二中歴』「産所歴」冒頭の「読書」に収録されています。
 『二中歴』所収「古文孝経序」はわたしのfacebookに掲載していますのでご覧ください。その「古文孝経序」に「大化」と「孝徳」という文言があり、『日本書紀』孝徳紀に見える九州年号「大化」と、後に追号された漢風諡号「孝徳」と関係があるのではないかと思いました。「古文孝経序」の当該部分は次の通りです。

「上有明王則大化滂流充塞六合」(上に明王あれば則大化滂流し、六合に充塞す。)
「夫孝徳之本也」(それ孝は徳の本なり。)

 「古文孝経序」や『孝経』の内容や意味については触れませんが、もしこの「大化」「孝徳」の文字が『日本書紀』と偶然の一致でなければ、『日本書紀』に追記された漢風諡号を作成したとされる淡海三船(722〜785)は孔安国の「古文孝経序」を読んでいたことになります。そうであれば、淡海三船は『日本書紀』の「孝徳紀」に見える「大化」という年号と「古文孝経序」に見える「大化」を意識して、漢風諡号も「古文孝経序」にある「孝徳」を選んだということになります。
 以上、わたしの思いつきに過ぎませんが、『日本書紀』の漢風諡号の成立経緯や出典を考える上で、ヒントになるかもしれません。なお、この思いつきについて先行説があるかもしれません。ご存じの方はご教示ください。


第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)


第1209話 2016/06/16

古田先生の九州王朝系「近江令」説

 正木裕さんが提唱された九州王朝系「近江朝廷」という新概念について、「洛中洛外日記」で考察を加え、それをまとめて『古田史学会報』に発表したのですが、古田先生が既に「九州王朝系『近江令』」という視点に言及されていることを思い出しました。
 『古代は輝いていた・3』の第六部二章に見える「律令制の新視点」(ミネルヴァ書房版316頁)の次の記述です。

 「『日本書紀』の天智紀に「近江令」制定の記載はない。にもかかわらず、『庚午年籍』と一連のものとして、その存在は、あって当然だ。この点、『庚午年籍』が九州王朝の「評制」にもとづくとすれば、いわゆる「近江令」なるものの実体は、実は九州王朝系の「令」であった。そのような帰結へとわたしたちは導かれよう。」

 この古田先生の九州王朝系「近江令」という指摘は、その論理展開として、九州王朝系「近江令」を制定した「近江朝廷」も九州王朝系「近江朝廷」という正木新説への進展を暗示しています。古田先生の先見の明には驚かされるばかりです。(つづく)


第1176話 2016/04/30

白鳳大地震と朱雀改元

 このたびの九州の大地震のこともあって、古代における大地震として有名な筑紫大地震(678年)と白鳳大地震(684年)について調べてみました。筑紫大地震は『日本書紀』天武7年12月条や『豊後国風土記』に記されており、この地震により九州王朝の中枢は壊滅状態になったと思われます。

 「筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余条。百姓の舎屋、村毎に多くたおれやぶれたり。」『日本書紀』天武7年12月条
 「大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後国風土記』日田郡五馬山条

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の説によれば、この地震により九州王朝は前期難波宮(副都)に遷都しました。ところがそれに追い打ちをかけたのが白鳳大地震でした。この四国や近畿・東海を直撃した地震は東南海トラフによるものと考えられています。この年、天武13年(684)10月は九州年号の白鳳24年ですが、この地震により九州年号は朱雀に改元されたと正木裕さんは指摘されています(「隠された改元」『「九州年号」の研究』所収)。
 7世紀後半に発生した二つの巨大地震により九州王朝は大きく疲弊し、滅亡に向かったとわたしは論じたことがあります(「朱鳥改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。筑紫大地震から6年後に白鳳大地震が発生したことから、もしかするとこの熊本・大分大地震の6年後に東南海大地震が発生するのではないかと思うと、ぞっとしました。テレビなどで地震学者は九州から更に東の中央構造線への地震には繋がらないと発言していましたが、学者の地震予知がこの38年間当たったことがないという事実を思い知らされていますから、御用地震学者の言うことは信用できません。
 わたしたちは歴史に学ぶために古代史を研究していますから、日本列島はどこでも大地震が発生するという覚悟で防災に取り組まなければと改めて考えさせられました。


第1173話 2016/04/22

「近江令」の官制

 正木説に従えば、九州王朝を継承した近江朝による「近江令」は九州王朝系のものとなりますから、その研究は九州王朝令制研究の重要テーマの一つと位置づけられます。「近江令」そのものは現存しませんから、『日本書紀』などに記された断片記事から推測するほかありません。『日本書紀』によれば近江朝の官制として、次の官職名が見えます。

○太政大臣(大友皇子)『日本書紀』初出
○左大臣(蘇我赤兄)
○右大臣(中臣金)
○御史大夫(蘇我果安・他)『日本書紀』初出

 このような官職名が『日本書紀』編者により脚色された可能性も考慮しなければなりませんが、天武天皇の立場を「正当」とするために編纂された『日本書紀』ですから、敵対した近江朝廷側を実際以上に美化・権威化する官職名を造作して天智紀を記述するとも考えにくいので、近江朝では実際にこうした官職名が採用され、「近江令」で規定されたと考えてよいと思います。
 正木説ではこれら官職名も九州王朝を継承するとした天智・大友による近江朝で採用されたことになりますから、九州王朝の官職研究のヒントになりそうです。さらに付け加えれば、わたしが九州王朝の副都とする前期難波宮において、既にこうした官職名は採用されており、近江朝においても継承されたとする可能性もあります。(つづく)


第1169話 2016/04/16

九州王朝の占星台

 昨日からの熊本・大分で発生した大地震の被災地のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。実家(久留米市)の母親に電話したところ、初めて経験するような大地震で、夜も眠れないと怯えていました。久留米市には水縄活断層が東西に走っており、連動して地震が発生することを恐れています。わたしも来月に予定していた鹿児島・熊本・長崎出張を取りやめました。

 本日の「古田史学の会」関西例会では、議論百出の新説が発表されました。中でも、岡下さんから前月に続いて発表された、『日本書紀』持統紀最末尾の一文「策定禁中」について、九州王朝天子薩夜麻没後の「天子不在」のタイミングになされた文武天皇即位の「策定」とする仮説は興味深いものでした。
 正木さんからは『日本書紀』天武4年条(675)の占星台造営記事を34年遡った舒明13年(641)のときのこととされ、九州王朝による占星台造営記事とされました。天武紀までの天文記事は正確なのに、持統紀になると当たらなくなることを示され、その理由として、九州王朝副都の前期難波宮の占星台で行われていた天体観測が朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡により停止され、近畿天皇家に天文情報が入らなくなり、持統紀の天文記事が当たらなくなったとされました。これも面白い仮説と思われました。
 服部さんからは、冨川ケイ子さんの「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)に基づいて、河内や泉州の大型前方後円墳は近畿天皇家の陵墓ではなく、河内の権力者のものとする理解が示されました。その当否はわかりませんが、恐ろしい仮説でした。これからの論争や検証が楽しみです。
 4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①東征勢力が畿内に併存した古墳時代(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(その2)(姫路市・野田利郎)
③新唐書・日本傳の史料価値の見直し(神戸市・谷本茂)
④定策禁中(再)(京都市・岡下英男)
⑤盗まれた九州王朝の占星台(川西市・正木裕)
⑥「阿蘇山噴火史要」(熊本測候所編、昭和6年11月)の紹介(川西市・正木裕)
⑦ニギハヤヒの正体(東大阪市・萩野秀公)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 遺跡巡りハイキング(近鉄名張駅近辺・夏見廃寺跡・同展示館)・朝日新聞3/24朝刊の駒野剛氏コラムへの批判・熊本県(天草)に多い神武天皇を祀る神社・その他


第1145話 2016/03/06

藤井政昭さんの「関東の日本武尊」

 先週末、東京出張から帰宅すると、友好団体の多元的古代研究会から同会機関紙「多元」No.132が届いていました。一面には1月17日に開催した大阪府立大学での古田先生追悼講演会の報告が掲載されていましたが、インフルエンザと思われる発熱のため、読む体力と気力がなく、ようやく今日になってざっと目を通すことができました。
 力作ぞろいの中でも、秩父市の藤井政昭さんが書かれた「関東の日本武尊」がとても好論でした。その要旨は、『日本書紀』景行40年条に見える日本武尊の「関東遠征記事」では、日本武尊の代名詞が「尊」ではなく全て「王」と称されていることから、これは日本武尊のことではなく、「関東の○○王」の伝承からの盗用とするものでした。
 論証の方法や史料根拠が明示されており、しかもそれが単純明快なことから、とてもわかりやすく好感を持って読むことができました。「ああも言えれば、こうも言える」という程度の「思いつき」ではなく、かつ、結論へと導く論理展開が恣意的でもなく、相対的に有力な仮説の提起に成功されているように思われました。これからの検証や論争を通じて、この藤井説の当否が確認されることを期待したいものです。わたしも体調が戻りましたら、改めて藤井稿を精読し、検討したいと思います。


第1134話 2016/02/06

難波宮と真田丸

 今年は一大決心の末、NHK大河ドラマ「真田丸」を見ないことにしました。主役の堺雅人さんは好きな俳優さんなのですが、「古田史学の会」運営と古代史研究・原稿執筆のための時間を確保するため、日曜日の夜の貴重な約1時間をテレビに費やすことをやめることにしたのです。とはいえ、歴史ドラマは興味がありますから「真田丸」については上町台地の遺構として注目しています。
 というのも、昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんから教えていただいたことなのですが、難波宮がある上町台地北端は歴史的に見ても要害の地であり、たとえば大阪城は三方を海や川に囲まれており、南側からの侵入に備えればよい難攻不落の地であるとされています。わたしも全く同意見であり、そのことは「洛中洛外日記」680話でも指摘してきたところです。ですから豊臣秀吉はこの地に大阪城を築城したのであり、摂津石山本願寺との戦争(石山合戦)では織田信長をしても本願寺を落とすことがてきませんでした。そのような地だからこと、聖武天皇も後期難波宮を造営したのでしょう。こうした史実から、前期難波宮は近くに神籠石山城などがないことをもって防衛上に難点があるとする考えは妥当ではないことがわかります。
 今年の大河ドラマの「真田丸」ですが、大阪城の南側に位置し、南からの侵入に備えると同時に、南方面の敵を攻撃できる要塞でもあると説明されています。このことから思い起こされるのが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える次の記事です。

 「初めて関を龍田山、大坂山に置く。よりて難波に羅城を築く。」

 前期難波宮を防衛する「羅城」築造の記事ですが、李さんに「羅城」遺構は発見されていますかとお聞きしたところ、細工谷遺跡付近から「羅城」と思われる遺構が発見されているが、まだ断定はできないとのことでした。細工谷遺跡といえば、前期難波宮の南方にあり、「真田丸」付近に相当します。ネットで検索したところ、黒田慶一さん(大阪文化財研究所)の「難波京の防衛システム -細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽-」という論文がヒットしました。おそらく、李さんが言われていたのはこの黒田さんの説のようです。
 服部静尚さんの竜田関が大和方面の敵から難波を防衛する位置にあるとの説からも、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮が関や羅城で防衛された要害の地に造営されたことを疑えません。大河ドラマの「真田丸」もそのことを証明しているように思われるのです。


第1028話 2015/08/17

「虎ノ門ニュース」で「二倍年暦」が話題に

 インターネットで無料視聴できるDHCシアター「虎ノ門ニュース、8時入り」(8:00〜10:00)に毎週月曜日は武田邦彦さん(中部大学教授)と半井小絵さん(気象予報士、和気清麿の御子孫)がコメンテーターとして出演されるので、夜に録画を見ているのですが、本日は司会の居島一平さんが本番前の雑談で「二倍年暦」の説明をされていました。
 居島さんは番組収録の前日に仕事で奈良に行かれ、そのときに開化天皇陵が近くにあったとのことです。それと関連して、番組で古代天皇の長寿について触れられ、それが「二倍年暦」によると説明されていました。ある歴史家の説として「二倍年暦」を紹介されていましたので、古田先生の著作を読んでおられることは間違いないと思いました。
 同番組で突然「二倍年暦」という言葉が出てきましたので、こんなところまで古田説は浸透しているのかと感慨深く拝見しました。ちなみに、今日のテーマは原発やシーレーン、防災など「日本の安全」についてでした。武田邦彦さんは科学者で、徹底してものごとを論理的に考えられる方で、とても勉強になり刺激を受けています。


第994話 2015/07/05

天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠

 『日本書紀』天武紀では壬申の乱の年(672年)を「天武元年」とし、「即位」記事は翌天武2年2月にあります。ところが、「東方年表」等では672年は「弘文天皇(大友皇子)」の即位年とされ、天武元年は翌年の673年(癸酉)とされています。このように、天武の元年に『日本書紀』とは異なる説があるのですが、学問である以上、そうした説を唱えるためには史料根拠が必要です。ということで、今日のテーマは天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠についてです。
 西ノ京の薬師寺東塔に次のような銘文があります。書き下ろし文で紹介します。

「維(こ)れ清原宮馭宇天皇の即位の八年、庚辰の歳、建子の月、中宮の不(忿)を以て、此の伽藍を創(はじ)む。(以下略)」
※(忿)の字は、「分」を「余」にしたもの。

 天武天皇が即位して八年、庚辰の歳(680)の11月、后(中宮、後の持統天皇)が病にかかったので、この伽藍を創建したという内容ですが、天武の八年が庚辰の歳とされていることから、即位年は673年癸酉の歳となり、天智没年(671)の翌々年に即位したことになります。従って、空白の一年間(672)が生じることになり、その一年間に大友皇子が即位したとする説の史料根拠とされているのです。
 この薬師寺東塔銘文はちょっと成立過程がややこしいのですが、薬師寺が完成する前に天武天皇は崩御し、持統天皇により完成されます。元々は藤原京にあったのですが(本薬師寺)、平城京遷都にともない、今の西ノ京の位置に移転されます。この銘文も藤原京の寺にあった銘文を平城京の薬師寺の東塔完成時(730年頃)に新しく刻んだと考えられています。
 730年頃といえば、すでに『日本書紀』は成立(720年)しています。すなわち天武元年を672年とする「公式見解」が成立していることから、それとは異なる内容が、天武や持統に縁が深い完成したばかりの薬師寺東塔に記されたことになります。なんとも不思議な現象(史料事実)と言わざるを得ません。わたしは『日本書紀』の天武2年条に見える「即位」記事から年数を数えれば、東塔銘のように「(天武)天皇即位八年庚辰」となりますから、同銘文作成者は『日本書紀』とは別の立場(認識)で年数表記したのではないかと考えています。
 ただ、この1年のずれについては、もう一つの可能性があります。それは干支が1年繰り上がった暦により年干支を記載した場合です。すなわち、干支が1年ずれた暦であれば、実際の年は『日本書紀』と同じ672年「壬申→癸酉」が天武元年となります。
 この干支が1年繰り上がった暦については拙論「二つの試金石 ー九州年号金石文の再検討ー」(『「九州年号」の研究』に収録)で触れていますが、九州年号金石文の一つ「大化五子年」土器は干支が1年繰り上がった暦によった干支表記となっています。すなわち、九州年号の大化5年(699)の干支は「己亥」で、翌700年の干支が「庚子」ですから、この土器は1年干支がずれた暦により表記されていると考えられます。
 これと同様に、薬師寺東塔銘の「(天武)天皇即位八年庚辰」も「庚辰」が1年繰り上がった干支表記であれば、679年のこととなり、『日本書紀』の天武8年と同年のこととなります。もっとも、近畿天皇家中枢の寺院で公認の暦と異なった暦の年干支を使用することは考えにくいので、可能性としてはきわめて低いと思います。
 いずれにしましても、九州王朝から大和朝廷への王朝交替時期に関わる金石文ですので、複雑な歴史背景がありそうで、九州王朝説多元史観による検討が必要です。