第994話 2015/07/05

天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠

 『日本書紀』天武紀では壬申の乱の年(672年)を「天武元年」とし、「即位」記事は翌天武2年2月にあります。ところが、「東方年表」等では672年は「弘文天皇(大友皇子)」の即位年とされ、天武元年は翌年の673年(癸酉)とされています。このように、天武の元年に『日本書紀』とは異なる説があるのですが、学問である以上、そうした説を唱えるためには史料根拠が必要です。ということで、今日のテーマは天武元年「癸酉(673年)」説の史料根拠についてです。
 西ノ京の薬師寺東塔に次のような銘文があります。書き下ろし文で紹介します。

「維(こ)れ清原宮馭宇天皇の即位の八年、庚辰の歳、建子の月、中宮の不(忿)を以て、此の伽藍を創(はじ)む。(以下略)」
※(忿)の字は、「分」を「余」にしたもの。

 天武天皇が即位して八年、庚辰の歳(680)の11月、后(中宮、後の持統天皇)が病にかかったので、この伽藍を創建したという内容ですが、天武の八年が庚辰の歳とされていることから、即位年は673年癸酉の歳となり、天智没年(671)の翌々年に即位したことになります。従って、空白の一年間(672)が生じることになり、その一年間に大友皇子が即位したとする説の史料根拠とされているのです。
 この薬師寺東塔銘文はちょっと成立過程がややこしいのですが、薬師寺が完成する前に天武天皇は崩御し、持統天皇により完成されます。元々は藤原京にあったのですが(本薬師寺)、平城京遷都にともない、今の西ノ京の位置に移転されます。この銘文も藤原京の寺にあった銘文を平城京の薬師寺の東塔完成時(730年頃)に新しく刻んだと考えられています。
 730年頃といえば、すでに『日本書紀』は成立(720年)しています。すなわち天武元年を672年とする「公式見解」が成立していることから、それとは異なる内容が、天武や持統に縁が深い完成したばかりの薬師寺東塔に記されたことになります。なんとも不思議な現象(史料事実)と言わざるを得ません。わたしは『日本書紀』の天武2年条に見える「即位」記事から年数を数えれば、東塔銘のように「(天武)天皇即位八年庚辰」となりますから、同銘文作成者は『日本書紀』とは別の立場(認識)で年数表記したのではないかと考えています。
 ただ、この1年のずれについては、もう一つの可能性があります。それは干支が1年繰り上がった暦により年干支を記載した場合です。すなわち、干支が1年ずれた暦であれば、実際の年は『日本書紀』と同じ672年「壬申→癸酉」が天武元年となります。
 この干支が1年繰り上がった暦については拙論「二つの試金石 ー九州年号金石文の再検討ー」(『「九州年号」の研究』に収録)で触れていますが、九州年号金石文の一つ「大化五子年」土器は干支が1年繰り上がった暦によった干支表記となっています。すなわち、九州年号の大化5年(699)の干支は「己亥」で、翌700年の干支が「庚子」ですから、この土器は1年干支がずれた暦により表記されていると考えられます。
 これと同様に、薬師寺東塔銘の「(天武)天皇即位八年庚辰」も「庚辰」が1年繰り上がった干支表記であれば、679年のこととなり、『日本書紀』の天武8年と同年のこととなります。もっとも、近畿天皇家中枢の寺院で公認の暦と異なった暦の年干支を使用することは考えにくいので、可能性としてはきわめて低いと思います。
 いずれにしましても、九州王朝から大和朝廷への王朝交替時期に関わる金石文ですので、複雑な歴史背景がありそうで、九州王朝説多元史観による検討が必要です。

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