史料批判一覧

第3592話 2026/02/12

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (3)

 『春秋左氏伝』の「東海」「東夷」

 國枝浩さんは「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」(注①)で、次のように論じています。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注②)は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 このうちの(a)については妥当な見解と思われますが、この『論語』の史料状況だけを根拠に、(b)~(d)が仮説としてただちに成立しうるとも思えません。そこで『論語』以外の周代史料を調べてみることにしました。幸い、周代の二倍年歴を研究したときに購入した『新釈漢文体系 春秋左氏伝』全四冊(注③)が書架にありましたので、あらためて精読しました。

 『春秋左氏伝』は孔子が制作した『春秋』を、孔子没後に左丘明が編纂した解釈書とされ、周代戦国期中葉の成立とする説が有力のようです(注④)。広く見ても、孔子の時代(周代春秋期)と秦代の間に成立したと考えて大過ないと思います。すなわち、司馬遷の『史記』よりも早い時代の成立です。
まず、『春秋左氏伝』では中国の周辺(東西南北)が、どのように認識されているかを調べてみました。その結果、次の記事が目にとまりました。

❶「卅一年、夏、齊候來獻戎捷、非禮也。凡諸侯有四夷之功、則獻于王。王以警于夷。」『春秋左氏伝 一』新釈漢文体系(以下同じ)、232頁
〔訳文〕齊候來たりて戎の捷を獻ずるは、禮に非(あら)ざるなり。凡そ諸侯、四夷の功有れば、則ち王に獻ず。王以て夷を警(いまし)む。
❷「賜我先君履、東至于海、西至于河、南至于穆陵、北至于無棣。」『春秋左氏伝 一』265~266頁
〔訳文〕我が先君に履(り)を賜ひ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣(むてい)に至る。
〔語釈〕穆陵:山東省臨胊県の南方の大峴山の上にある穆陵関。一説に楚地という。無棣:河北省無棣県。
❸「若出於東方、觀兵於東夷、循海而帰、其可也。」『春秋左氏伝 一』268頁
〔訳文〕若し東方に出(い)で、兵を東夷に觀(しめ)し、海に循ひて帰らば、其れ可ならん。
❹「六人叛楚卽東夷。」『春秋左氏伝 二』479頁
〔訳文〕六人、楚に叛(そむ)き東夷に卽(つ)く。
❺「秋、楚公子朱自東夷伐陳。」『春秋左氏伝 二』506頁
〔訳文〕秋、楚の公子朱、東夷より陳を伐(う)つ。
〔語釈〕東夷:もと陳の邑。後に楚の領地となる。陳・楚の東にあったので東夷と称したものという。
❻「蠻夷戎狄、不式王命。」『春秋左氏伝 二』701頁
〔訳文〕蠻夷戎狄、王命を式(もち)いず。

 これらの記事から次のことが判断できそうです。

(Ⅰ)❶の「四夷」という表現から、東西南北に「夷」と呼べる勢力があった。
(Ⅱ)❸❹❺に「東夷」という表記が見え、「夷」の中でも「東夷」が著名だったように思われる。ただし、その「東夷」は中国大陸内の「夷」であり、日本列島(倭国)を「東夷」とした明確な用例は『春秋左氏伝』には見えない。
(Ⅲ)中原から見て、四方の表記として❻「蠻夷戎狄」があるようだが、それぞれが南蛮・東夷・西戎・北狄と方角が限定されているようには見えない。
(Ⅳ)同じく、中原から見て、四方の領域名・地名として❷「東至于海、西至于河、南至于穆陵、北至于無棣。」が注目される。特に中国大陸の東側が「海」であると認識されていたことがわかる。
(Ⅴ)❸「若出於東方、觀兵於東夷、循海而帰、其可也。」とあり、「東方」の「東夷」への「觀兵」においては、「循海而帰」と海沿いに帰ることができるとしており、中国大陸の東が海であると認識していることを疑えない。

 今回、あらためて『春秋左氏伝』を読んでいて、「蠻夷戎狄」のうち、虫偏や獣偏の字が使用されている「蠻狄」、武器や軍事の意味を持つ「戎」とは異なり、「夷」は人名や動詞にも使用されており、それほど差別的な文字として認識されているようにも思えません。その為か、次のような記事もあります。

❼「廿七年、春、杞桓公來朝。用夷禮。」『春秋左氏伝 一』399頁
〔訳文〕廿七年、春、杞の桓公來朝す。夷の禮を用ふ。

 この記事によれば、「夷」には「禮」があったとされています。もちろん中華の「禮」とは異なっており、恐らくより低位の「禮」とされていたこととは思います。ここでは「東夷」とは書かれていませんから、中原内かその近辺の「夷」と思われますが、「蠻戎狄」と「夷」とでは漢字の用例や、記事中の扱いが明らかに異なるように感じました。(つづく)

(注)
①國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
③新釈漢文体系『春秋左氏伝 一~四』明治書院、1971年。
④鎌田正「春秋左氏伝解題」『春秋左氏伝 一』明治書院、1971年。


第3591話 2026/02/10

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (2)

 ―古田説誕生の発端、「中国海」―

 九州の片田舎の中学を卒業し、高専で有機合成化学を専攻したわたしは、恥ずかしいくらい古典・漢文について無知でした。高校・大学で学ぶような文系の素養がほとんど無かったのです。その不勉強さに、古田先生は何度もあきれかえられていました。今、思い出しても赤面する出来事が何度もありました。ですから、わたしの中国古典の知識は古田先生の著作から学んだものであるため、その基本理解は七十歳の今でも、古田史学・古田説により形成されています。なかでも最も影響を受けた著作の一つが『邪馬一国への道標』(注)です。同書は〝です・ます調〟で書かれており、初学者や一般読者が古田先生の史料批判や文献理解の方法を学ぶ上で、珠玉の一冊です。その冒頭に、同書の中心テーマを表す言葉として、「中国海」という造語が説明されています。

「中国海  そのとき、わたしは考えました。〝中国大陸と朝鮮半島と日本列島(九州と沖縄)に囲まれた海〟――これも「内海」ではないか、と。〔中略〕
ところが、この「内海」には、包括的(トータル)な名前がありません。北の方が渤海(ぼっかい)、真ん中が黄海、南の方が東シナ海。しかし、全体の名前がないのです。
そこで〝造る〟ことにしました。――「中国海」です。〔中略〕とすると、中国、朝鮮半島、日本列島の三つは、〝中国海を内海とする〟文明圏だ。」

 このことを裏付ける考古学的出土物に「玦(けつ)状耳飾り」があります。縄文早期末(約7000年前)の日本列島や中国浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5000~3000年)などからも出土しており、日本列島から長江沿岸地域を結ぶ文明圏の存在を示しています。また、縄文中期(紀元前3000~2000年)には縄文土器が太平洋を渡った痕跡として、南米ペルーのバルディビア遺跡出土の縄文土器が知られています。太平洋を渡れた倭人(縄文人)が東シナ海を渡れないはずはありません。

 『邪馬一国への道標』では文献史学の史料根拠として、王充(後漢代、一世紀の人物)の『論衡(ろんこう)』に記された、〝倭人の周代貢献〟記事が紹介されています。

○周の時、天下太平、越裳、雉を獻じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す。 (巻八、儒増篇)
○成王の時、越常、雉を獻じ、倭人暢草(ちょうそう)を貢ず。 (巻一九、恢国篇)

 王充は後漢の光武帝に仕えた官僚ですから、光武帝が倭人に金印(志賀島の金印)を与えたことを知っているはずです。ですから、『論衡』に記された「倭人」は、金印を与えられた日本列島の「倭人」であると認識していたことを疑えません。すなわち、後漢の天子や官僚たちが、周代における倭人の鬯艸貢献伝承を史実として、疑っていないのです。

 この周代(注②)の倭人貢献伝承が史実であれば、孔子もその伝承を知っていたはずとして、古田先生は〝孔子は東夷(倭国)を知っていた〟根拠の一つとしたわけです。この論理性(論証)により、古田説は仮説として成立しています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
②従来説によれば、周の第二代成王の年代を紀元前11世紀とする。わたしは二倍年歴による補正が必要であり、実際は数百年新しくなると次の拙稿で発表した。
「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2018年。
「二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』170号、2022年。
『二倍年暦』研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―」『古田史学会報』172号、2022年。
「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。


第3590話 2026/02/08

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (1)

 ―孔子は東夷(倭国)を知っていたか―

 衝撃的な論稿に接しました。國枝浩さんの「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」です。『東京古田会ニュース』226号(2026年)冒頭に掲載された同稿の主張は、二倍年歴研究において中国古典(周代史書など)から得た、わたしの認識とは全く異なるものだったからでした。

 國枝さんの主張の論点と史料根拠は次のようです。
(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注①)は『史記』(注②)に幻惑されたものであり成立しない。

 この國枝さんの主張は史料根拠や論理構造が明快であり、有力な仮説として成立していると思います。他方、論証の方法において不備があり、直ちに賛成できるものではありませんでした。それは次の理由からです。

(ⅰ)前漢代に成立した『史記』などに、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつける記事があるという史料事実は、前漢代の認識を示す史料根拠には使えても、〝周代にそうした認識はなかった〟とする根拠にはできない。
(ⅱ)孔子の認識を確認するためには、『論語』だけではなく、孔子と同時代(春秋期)か、せめてその直後(戦国期)の史料に基づくことが必要である。

 とは言え、國枝氏の論考は刺激的かつ有力です。そこで、わたし自身の認識を見直し、中国古典への理解を深めるためにも、周代史書と古田説の論理構造を再検討する必要を感じました。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
②國枝氏は『史記』「五帝本紀第一」を挙げる。そこには次の記事が見える。
「都を中心とする五千里四方のはて、すなわち荒服の地にまでいたった。南は交阯・北発、西は戎・析枝・渠廋・氐羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷を鎮撫し、四海のうちはみな帝舜の功業に浴した。」『史記』上、中国古典文学大系10、平凡社、1968年。


第3545話 2025/10/21

火山への畏怖と祭祀

―金井遺跡と『隋書』俀国伝―

 10月18日、「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。リモート参加は5名でした。11月例会の会場は大阪産業創造館(大阪市中央区本町)です。関西例会としては初めて使用する会場ですので、ご注意下さい(本稿末の案内参照)。

 今回の例会で最も刺激を受けたのが、二宮さんの発表「金井遺跡群と俀国」でした。群馬県渋川市の金井遺跡は、6世紀末から7世紀初頭にかけての榛名山噴火により厚い火山灰に覆われ、当時の社会の姿を伝える遺跡です。そこから出土した甲冑を着た武人(成人男子の人骨)のお辞儀しているような姿勢が注目され、「火山の怒りを鎮めるため、神意への畏怖・祈祷として武人が鎧を着て地面に伏して祈った」とする説も出されています。

 こうした遺物や見解を根拠として、多元史観・九州王朝説による新解釈、「金井遺跡群の居館は、統治拠点であると同時に、墳墓と結びつく権威の場であった。その主が甲冑武人であるならば、舟形石棺系前方後円墳の首長層の後継者として俀国の東国支配を担ったと考えられる」を二宮さんが発表しました。そこで指摘されたのが、『隋書』俀国伝に見える阿蘇山の噴火記事と「禱祭」でした。

 「有阿蘇山其石無故火起接天。者俗以爲異因行禱祭。」(『隋書』俀国伝)

 阿蘇山の噴火に畏怖したであろう九州王朝(主に肥後国)の人々による「禱祭」が、関東の榛名山噴火時でも行われたとする二宮さんの洞察に驚きました。統治の有力者が「俀国の東国支配を担った」と言い切るにはもっと傍証や出土物などの関係性を論じる必要はありますが、検証すべき仮説としてわたしは注目しています。

 もう一つ二宮さんの研究で驚いたのが、AIを駆使して多くの報告書や論文を要約されていたことです。AIの進歩は凄まじいもので、これだけの日本語論文・報告書を瞬時にこのレベルで要約できるようになったことを知りました。これからは歴史研究ツールとして誰もが普通にAIを使用し、そうして書かれた論稿が『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』に投稿されてくるのかと思うと、ぞっとします。投稿論文を査読し、採否決定する編集部にもAIの処理能力やアルゴリズムについての基本的な理解が必要となるからです。今回の二宮さんの研究に接し、「古田史学の会」もいよいよAI時代に入ったことを実感しました。

 10月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔10月度関西例会の内容〕
①鎌足=豊璋同一人物説 阿武山古墳の被葬者は鎌足との説明は不十分 (大山崎町・大原重雄)
②蘇我馬子と聖徳太子 ―その2― (姫路市・野田利郎)
③阿毎多利思北孤が蘇我馬子であることの検証 (茨木市・満田正賢)
④金井遺跡群と俀国 (京都市・二宮廣志)
⑤「倭京」・「古京」・「新城」について (東大阪市・萩野秀公)
⑥「履中・反正・允恭」の三兄弟と雄略帝 (大阪市・西井健一郞)
⑦{飛鳥浄御原宮は藤原の地にあった}という説の検討 (神戸市・谷本 茂)
⑧不改常典についての新解釈 (八尾市・服部静尚)
⑨長屋王が天皇になれなかった理由 (八尾市・服部静尚)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
11/15(土) 10:00~17:00 会場:大阪産業創造館 (大阪市中央区本町1-4-5)地下鉄中央線堺筋本町駅から東へ徒歩5分
12/20(土) 10:00~17:00 会場:大阪市立総合生涯学習センター  (大阪駅前第2ビル5階)

《写真解説》金井遺跡出土の甲冑を着た武人。噴火する阿蘇山。


第3535話 2025/09/26

盛岡と岡山は言語的には姉妹都市か

 今日は新幹線で青森県に向かっています。東京駅で東北新幹線はやぶさに乗り換え、車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。明日、弘前市で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)で講演します。

 現役時代は出張で東北新幹線や山形新幹線をよく利用していましたので、車窓から見える東北地方の山々の風景は懐かしいものです。西日本のなだらかな稜線とは異なり、東北や四国の山々には〝ぼた山〟のようにボコボコと盛り上がった形状の山が目につきますが、これは火山地帯特有の風景ではないでしょうか。

 ちなみに、東北や四国では、山(ヤマ)のことをモリ(森、盛)と称する例が少なくなく、この「○○モリ」という山名(動詞の「盛る」の名詞形か)はかなり古い時代(恐らく縄文時代)まで遡る言葉と思われます。青森県の最高峰、岩木山(1625m)も「阿蘇部(アソベ)の森」と呼ばれており、これは「阿蘇部山」と同義であり、共に火山である九州の阿蘇山との関係も興味深いものです。ちなみに、北海道には「○○モリ」という山名は見えません。沖縄には少しあるようです。
ここまで書いたら仙台駅を通過していました。「次は盛岡です」と車内アナウンスがあって気づいたのですが、この地名の盛岡の「盛(もり)」も「山」のことではないでしょうか。もしそうであれば、盛岡とは〝山と丘〟のこととなります。岡山県の岡山は〝丘と山〟のことでしょうから、盛岡市と岡山市は言語的には姉妹都市と言えそうです。

 この論理を突き詰めると、青森も「青山」であり、決して〝青い森(Blue Forest)〟のことではないことになります。そうすると、青森市付近に〝あおもり〟と呼ばれる(呼ばれた)山があるはずです。ご存じの方があればご教示下さい。なお、当地に〝青い森(Blue Forest)〟があったので、それを地名にしたという、後から取って付けたような説があることは知っていますが、わたしは納得していません。なぜなら、〝青い森〟のような林や森は青森市内に限らず全国各地にありますが、だからといって全国各地に「青森」という地名があるわけではないからです。おそらく、「青(あお)」もBlue の意味ではないと思います。言語本来の意味を解明する「言語考古学」の重要なテーマの一つと考えています(注)。

(注)古賀達也「『言語考古学』の成立(序説) ―「山」と「森」について―」『古田史学会報』22号、1997年。


第3521話 2025/08/24

地蔵盆行事でランドスケープ研究を聴講

 昨日は京都の伝統行事、地蔵盆が町内会で行われました。その行事の一つとして、今年は京都府立大学大学院で環境科学を専攻する竹田桃子さんの講演がありました。梶井町町内会としても初めての取組で、会場のクリエイション・コア京都御車(中小企業基盤整備機構)の会議室が満席となりました。
講演テーマは「近代・京都の鴨川西岸地区における公家町の景観変容について」で、明治維新以降の梶井町の成立と変遷についての歴史的研究です。住んでいる町の歴史をテーマとした研究発表を地蔵盆で聞けるのは京都ならではのことでしょう。

 わたしが住んでいる上京区梶井町は、江戸時代は梶井宮(常修院宮慈胤法親王・後陽成天皇の第十四皇子)の別邸があった所で、鴨川の西岸にあり、比叡山や大文字焼きで有名な如意ヶ嶽など東山三十六峰を一望できる、洛中でも有数の地域です。明治維新による東京遷都のときに多くの御公家衆が東京に転居し、明治四十年以降に梶井宮邸も大阪の実業家・藤田男爵(注①)や京都の有力者が買い取り、この地に別邸を造りました。戦後それら別邸跡地が分譲され、現在の町民の祖父の代に転居し、梶井宮跡が現在の梶井町になりました。そして、京都府立医科大、同付属病院、北村美術館、同志社女子大みぎわ寮、ドミニコ女子修道院などが町内に造られました。

 講演では、このような明治から現代までの梶井町の歴史と景観の変容がランドスケープ学(注②)の視点で紹介され、参加者もおじいさんたちから聞いた昔話に花が咲きました。ちなみに、この研究は竹田桃子さんの修士論文(2025年)のテーマで、東京大学本郷キャンパス安田講堂で開催された2025年度日本造園学会全国大会でもポスター発表されました。

 梶井町では現在も大原記念病院(リハビリ専門病院)とマクドナルドハウス(府立医大付属病院・京大病院に長期入院している子供たちの親の宿泊施設)の建設が行われており、町の景観も大きく変わり続けています。

 講演後に竹田さんの修士論文をいただきましたが、それには英文タイトル〝A study of the landscape transformation of a court noble town in the west bank area of the Kamogawa River in modern Kyoto〟が付されており、文系論文でも英文タイトル付記は常識となっているようです。『古代に真実を求めて』編集部でも掲載稿に英文タイトルを付記することを検討しています。古田史学を世界に発信するためには英文タイトル・アブストラクトの併記が必要です。同修士論文を読んで、まずは英文タイトルだけでも付記したいと思いました。

(注)
①藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日・天保12年~1912年・明治45年)は、日本の商人、実業家。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創始者。〔Wikipediaによる〕
②ランドスケープ学とは、自然環境と人との暮らしが調和した空間形成の知識・技術について研究する学問。都市設計において最初に検討すべき課題として重視されている。


第3470話 2025/04/10

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (8)

 ―フィロロギーによる論理考察―

 本テーマの最後に倭人伝研究における古田先生の学問の方法について要点を解説することにします。古田史学の際だった特徴は、フィロロギーという学問の方法を文献史学に意識的に徹底的に導入したことにあります。

 フィロロギーとは〝論理を愛する〟とでも言える方法論で、倭人伝研究では西晋の史官である陳寿の立場や人格なども含めて考察の対象とし、史料の一字一句の持つ意味を、著者陳寿の気持ちになって研究者が再認識するという方法論です。その場合、同じ人間として、理性に基づき論理的に記したであろうと、まずは考えます。そして、書かれている「史料事実」を「歴史事実」と見てよいのか、論理に矛盾はないのか、安定して成立している先行研究や関連諸学との関係性に問題はないのか、などを理詰めで考え抜きます。こうした姿勢を表したのが「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。(ソクラテス)」(岡田甫先生による)という言葉です。

 具体例で説明しますと、倭人伝行路里程記事について、古田史学・フィロロギーでは次のような論理考察が進みます。その一例を示します。

❶倭国に派遣された魏使や、20年にわたり倭国に滞在したとされる張政らの報告書に基づいて、陳寿は倭国への部分里程や総里程を記載できたと考える他ない。

❷この際、総里程を陳寿自身が計算したか、または報告書に記された総里程を採用したことになる。

❸どちらの場合でも、部分里程を合計した数値を総里程としたはずである(「部分の総和は全体」は今も昔も公理(理性の鉄則)であるため)。魏使の報告書に総里程があった場合、魏使が報告した部分里程の合計と一致するかどうかを、魏使の上司や陳寿、他の官僚は確認するはずだ。

❹陳寿の『三国志』は政敵がいた中で、優れた史書であることが認められて正史として西晋の天子に献上されている。従って、政敵からの厳しいチェックを経たはずである。

❺その上で『三国志』は正史として採用されており、ときの天子や官僚、史官等が読んでも問題ないと判断されたと考えられる。中でも倭人伝は夷蛮伝の最後を飾る伝で、一層の注目をあびたと思われる。

❻更に、現存『三国志』版本には後代(五世紀)の裴松之による検証を受けており、問題ありとされた箇所には裴松之の膨大な注(裴注)が付記されている。しかし、倭人伝行路里程記事部分については、注はなく、裴松之のチェックをクリアしたと考えられる。

❼以上の考察の結果、『三国志』の記事は当時の編纂者・読者の認識を正確に表していると考えられる。従って倭人伝の記事や文字を、現代人の認識(大和朝廷一元史観)や自説(「邪馬台国」畿内説)に不都合という理由で改定したり、「信用できない」として無視してはならない。それでも、原文が間違っている、信用できないとするのであれば、そう考える方に論証責任があり、その逆ではない。

 最後に古田先生の著書『九州王朝の歴史学』「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」の「あとがき」を転載します(注)。これからの倭人伝研究が真に学問的手続きを経たものとなることを願うばかりです。

【以下、転載】
従来の「邪馬台国」研究史上、さまざまの立論がなされてきた。そのさい、諸家必ずしも「行路里程記事」について議論せず、率爾として〝自家の邪馬台国〟を語るものも、少なしとしなかったのである。
ことに、考古学者などの場合、この記事のいかんに頓着せず、直ちに「邪馬台国」の所在を論ずる者、むしろ通例だったのである。これ、その「専門」上、止むをえぬところと見えるかもしれぬ。

 しかし、精思すれば判明するように、これはことの道理に反している。なぜなら、倭人伝中に実在するのは、「行路里程記事つきの中心国(邪馬壹国、いわゆる「邪馬台国」)」であって、決して「同記事抜きの中心国」ではない。しかるに、あたかも「後者」が倭人伝中の中心国の姿であるかのように、「同記事抜き」で、ただ「邪馬台国」という国名のみ抜き出して、処理しようとするのは不当である。
もちろん、弥生時代の日本列島において、A(九州)・B(近畿)等、各地における〝中心領域〟を指摘すること、考古学者たちの任務であること、言うまでもない。

 しかし、この弥生期日本列島中のいずれの地が、倭人伝内の中心国か、という比定作業にうつるさいは、必ず「行路里程記事つきの中心国」でなければならず、決して「右抜きの中心国」ではない。
すなわち、倭人伝内の中心国をとりあげるさい、肝心の「行路里程記事」を切り捨てて中心国名だけを抜き出して使用する、そのような権利は誰人にも存在しないのである。

 以上のように考えてくれば、本稿のしめした帰結は、考古学・文献学・民俗学等のいずれにおいても、倭人伝内の中心国名にふれようとする限り、万人に回避しえぬテーマであることが判明しよう。それはわが国の歴史学の新たな出発点となるであろう。
【転載、おわり】

 フィロロギーはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、古田先生の恩師、村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承されました。わたしたち古田学派はそれを受け継いでいます。(おわり)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)。


第3468話 2025/04/07

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (7)

 ―『穆天子伝』の部分里程と総里程―

 倭人伝のように部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先例『穆天子伝』を古田先生は見いだしました。同書は西晋朝のときに周墓から発見され、それは陳寿と同時代のことです。篆書で書かれた大量の竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わり、翻訳された『穆天子伝』を陳寿は読んだことでしょう。

 その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき叙述法が採用されていました。それは『穆天子伝』巻四に見える、穆天子西域巡幸の行路里程記事で、宗周から西王母の邦を経て大曠原に至り、周に帰還するまでの叙述です。そこに記された部分行路里程と総里程「各行兼数」の概略は次のようです(注)。

《『穆天子伝』巻四 西域巡幸の行路里数》
❶宗周のてん水より以て西し、河宗の邦・陽紆の山に至る 3400里
❷陽紆の西より西夏氏に至る 2500里
❸西夏より珠余氏に至り河首に及ぶ 1500里
❹河首の襄山より以て西南し、舂山の珠澤・崑崙の丘に至る 700里
❺舂山より以て西し、赤烏氏の舂山に至り 300里
❻東北、還りて羣玉の山截・舂山以北に至る ※里数値なし《700里》
❼羣玉の山より以て西し、西王母の邦に至る 3000里
※❻と❼は一文節。
❽(□)西王母の邦の北より曠原の野・飛鳥の其の羽を解く所に至る 1900里
❾(□)宗周、西北の大曠原に至る 14000里
❿乃ち還りて東南し、復び陽紆に至る 7000里
⓫還りて周に帰すること (3000里) ※周地に入ってからの行路であり、集計から除外してあるものと、見られる。
⓬各行兼数 35000里 ※「各行兼数」とは総里程のこと。

 ここに記された部分里程❶~❿の合計は34300里であり、総里程「各行兼数」35000里に700里足りません。そこで古田先生は行程記事を精査し、記された方角から見て、❹(西南へ700里)❺(西へ300里)❻(東北へ・無記載)が平行四辺形の3辺であり、そのため同数になる対面する2辺の里数の内、後の700里を「還りて~至る」として表現し(則地叙述法)、里数記載を省略したとしました(簡約叙述法)。これにより、部分里程の総和が総里程となったわけです。

 この則地叙述法と簡約叙述法が『穆天子伝』に採用され、それをお手本にして陳寿は『三国志』倭人伝を叙述したと古田先生はされました。それは公理(理性の鉄則)〝部分里程の総和は総里程〟を貫かれたことにより到達した仮説です。その際、現代人の認識や自説に基づく原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を「否」とする、古田先生の学問の方法が一貫していたことを忘れてはならないでしょう。

 なお、必要にして十分な論証抜きでの原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を排して、〝部分里程の総和は総里程〟が成立する古田説とは異なる解釈や仮説が新たに発表されれば、それも有力仮説の一つとして検証・評価しなければならないこと、言うまでもありません。(つづく)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)による。

〔補記〕
茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、古田先生の❻の訓みについて疑義が出され、次の読み下しが提起されたので紹介する。古田先生に書簡でこの読解を提案されていたとのことである。
「東北、羣玉の山に還り至るに、舂山以北を截(き)る。」
「中国哲学書電子化計画」(WEB)には句読点が次のように付され、茂山氏の訓みと対応している。
「東北還至于羣玉之山、截舂山以北。」


第3467話 2025/04/06

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (6)

―『穆天子伝』の発見―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて史書編纂者は記し、それを献上された天子を筆頭に官僚や読者もそのように理解するはずだとする、古田先生の学問の方法は、文献史学やフィロロギーでは極めて常識的なものです。その一点にこだわり抜いたことにより、古田先生は倭人伝の行路里程に記された対海国と一大国の島内陸行(島巡り半周読法)に相当する計千四百里を部分里程に含めると、部分里程の総和が総里程「万二千余里」になることを発見したわけです。

 他方、倭人伝の文面には「千四百里」という里数値が直接的に記載されているわけではないため、このような間接的に里程を読み取らなければならないような先行史料(先例)の提示は当初はできていませんでした。そのため、〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟という批判が出されることになったものと思われます。

 しかしながら、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)は『三国志』編纂当時も現代も周知のことであり、陳寿もそのことをわかった上で帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を行路記事中に書き続け、そして総里程も記してたわけです。ですから、部分里程が「千四百里」足らなければ、行路記事中のどこかに足し忘れた里程があるのではないかと考え続けたのが古田先生で、その他の論者はそのことについて〝思考停止〟してきたのが、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟論争でした。

 そのような状況が二十年ほど続いた後に、倭人伝と同様に、部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先行史料(先例)を古田先生は見いだしました。それが『穆天子伝』(五巻)です。同書は周の第五代の天子、穆(ぼく)王の業績を記した本で、三世紀、西晋朝のときに周の戦国期の王墓から発見されました。『三国志』の著者、陳寿の時代です。同墓から「数十車」にものぼる「竹書(竹簡)」が発掘され、その中に有名な『竹書紀年』と共に、『穆天子伝』もありました。先秦の文字(篆書)で書かれた竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わっていたことを疑えません、少なくとも翻訳完成した『穆天子伝』を陳寿は西晋の史官として読んでいたと考えるべきでしょう。その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき記述法が採用されていたのです。(つづく)


第3465話 2025/04/04

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (5)

 ―部分里程の総和は総里程―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて著者は記し、読者もそのように理解するはずだという、文献史学とフィロロギーの基本認識(学問の方法)を古田先生は尊重し、それまでどの論者も成し得なかった倭人伝の総里程「万二千余里」と一致する部分里程を初めて明らかにしました。そして、その先例である『史記』大宛列伝の里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟を紹介しました(注①)。当該部分は次のようです。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

 漢から大宛を経て大夏に至る里程記事で、❶「万里」+❷「二千余里」=❸「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっています。このケースは部分里程が具体的に記されて、総里程との一致が単純計算で得られますが、倭人伝では対海国「方四百里」と一大国「方三百里」とある数値に基づく「島巡り半周読法」という解釈に至ることが簡単ではありませんでした。

 しかしながら、倭人伝には対海国と一大国の様子を次のように記載(報告)しており、島内の「道路如禽鹿徑」を陸行したことを表しています。この陸行の「距離」を陳寿は「方四百里」「方三百里」から算出し、それを加えて総里程「万二千余里」にしたのではないかと古田先生だけが気づいたのです。

【対海国】「方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田食海物自活、乖船南北市糴。」
【一大国】「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」

 この「島巡り半周読法」という仮説を導入することにより、倭人伝の部分里程の総和が総里程「万二千余里」に一致し、魏西晋朝短里説(1里=約76m)とあわせることにより、邪馬壹国博多湾岸説が成立しました。この古田説は〝部分の総和は全体〟という公理(理性の鉄則)に適った初めてで唯一の説であり、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟とは異次元の学問レベルに達したもので、多くの古代史ファンや研究者の支持を得たことはご存じの通りです。

 他方、〝部分の総和が総里程にならなくてもよい〟と、明言はせずとも事実上そうしてきた従来説は説得力を失いました。しかし、古田説発表後も、日本古代史学界、特に畿内説論者からはこの公理(理性の鉄則)は無視されてきました。このような学界の状況を古田先生は嘆き、次のように注意喚起しています(注②)。

〝汗牛充棟の名をほしいままにすべき、わが国の倭人伝研究の中に、瞠目すべき一大欠落が存在する。それは次の一点の点検である。
「帯方郡より女王国に至る総里程(一万二千余里)と、各部分里程の総和が一致しているか否か」

 およそ“部分を足せば、全体になる”とは、贅言(ぜいげん)するまでもなく、古今不動の通軌にして理性の鉄則である。とすれば、倭人伝内に多くの部分里程が頻出すると共に、他面、帯方郡治と女王国の間の総里程が銘記されている以上、右の通軌・鉄則に照らして、必ず倭人伝内の文章を点検すべきこと、他のあらゆる揣摩(しま)憶測の諸説に奔る前に、先ず通過すべき学問的関門でなければならぬ。

 しかるに従来の諸氏万家、これを怠り、いたずらに中心国(邪馬壹国。諸家のいわゆる「邪馬台国」)の帰趨すべき到達点の論議にのみ焦点を求めてきたのは、学問の方法上、きわめたる遺憾の一事という他はなかったのである。
それゆえ筆者は、倭人伝内の中心国の所在を求めるにさいし、この一点の検証を出発点としたのであった。

 論文「続、邪馬壹国」及び『「邪馬台国」はなかった』における所論がそれである。しかるに、爾来、二十年。他の分野、たとえば「国名」問題、「里単位(短里)」問題等においては、幸いにも幾多の反論に恵まれたにもかかわらず、この枢要の一点に関しては、ほとんど反論に会わず、しかも学界がこれを“受け容れた”形跡もなく、不可解なる二十年を経験してきたのであった。

 今回、当問題のもつ不可避の論理性を“裏書き”する重要な新史料に遭遇した。よって江湖にこれを率直に報告し、学界の真摯なる注意を喚起したいと思い、この一文を草するのである。〟『九州王朝の歴史学』9~10頁。

 この古田先生が遭遇した重要な新史料とは『穆天子伝』のことです。(つづく)

(注)
①古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。
②古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』駸々堂、1991年。


第3463話 2025/03/31

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4)

「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

古田学派ではこの古田説が支持されていますが、古田説と異なる仮説が「古田史学の会」関西例会(2016年)で発表されました(注①)。野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の新説です。そのときの例会の様子を「洛中洛外日記」(注②)で次のように記しています。一部修正して転載します。

〝昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さんからなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

❶ 対海国の陸行     800里(島巡り半周読法により算出)
❷ 一大国の陸行     600里(島巡り半周読法により算出)
❸ 末廬国から女王国   600余里
❹ 女王国の東の対岸(四国)から侏儒国 3000余里
❺ 合計        5000余里

倭人伝の「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思えない里数値です。なお、❹3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識([周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。〟

古田説では「周旋五千余里」を狗邪韓国から女王国までの里程としますが、野田説では倭国内の陸行里程記事がある対海国から侏儒国までの陸地(倭地)行程の合計距離とします。どちらも「五千余里」となり、どちらの説がより正しいのか、今のところ判らずにいます。そこで、野田説を『邪馬壹国の歴史学』(「古田史学の会」編、2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ねることにしました。ちなみに、野田説が有力とされたのは下記の理由からです。

(1) 倭人伝には「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、「五千餘里」とは魏使が実際に「倭地を参問」した距離であり、女王国への行程距離とはされていない。また、「倭地」とあるからには、倭国内の陸上の里程と解される。海峡(海上)を「倭地」とは言い難い。

(2) 「或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、海中の島国(絶在海中洲島之上)である倭地は海で絶えたり、陸上では連なり、それら魏使が参問した倭地(陸路)の合計を「周旋可五千餘里」としている。他方、実際に倭人伝に記された陸路里程❶❷❸❹の合計❺は五千余里であり、「周旋可五千餘里」と一致する。

(3) 陸路(参問倭地)の合計を「五千余里」としてることから、対海国と一大国の島巡り半周読法(計千四百里)を採用していることになる。もし、それを足さなければ倭地参問里程は「三千六百余里」となり、「五千余里」とある里程記事の根拠を説明できない。従って、「五千余里」は概数ではなく、郡から邪馬壹国への総里程「万二千余里」と同様に、陳寿が魏使の報告書から算出した「倭地参問」総里程である。

(4) 『三国志』に記された「周旋」記事の中には、ある領域の端から端までを巡るという意味での使用例がある。従って、倭人伝に見える倭地の端(対海国)から端(侏儒国)までの陸地(倭地)行程のこととする野田説は成立し得る。

古田先生の見解でも、魏使の最終目的地を侏儒国としており、そこまでの陸路里程を「周旋可五千餘里」とする野田説も有力な解釈と思われるのです。(つづく)

(注)
①野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」954話(2015/05/17)〝倭人伝「周旋可五千余里」の新理解〟


第3461話 2025/03/29

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)

  『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算

〝一方、その大宛列伝をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。里程論 175頁。

とあるように、陳寿が参考にしたと思われる『史記』大宛列伝の数ある里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟は、「部分里程の和は総里程」という公理(理性の鉄則)に基づいています。当該部分を抜粋します。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

漢から大宛を経て大夏に至る里程記事ですが、❶西へ「万里」+❷西南へ「二千余里」=❸西南「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっていますし、方向も「西→西南=西南」と一致しています。これは倭人伝の里程記事、「帯方郡治から狗邪韓国まで七千余里」+「倭地周旋五千余里」=「帯方郡から邪馬壹国まで一万二千余里」の先行例です。陳寿が高名な司馬遷の『史記』を読んでいなかったとは考えにくく、むしろ西晋朝の高級史官として、『史記』などの先行史書を参考にして『三国志』を著したものと思われます。
この「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。なお、古田説とは異なる有力説が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から発表されています(注)。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

以上のように、『三国志』という同時代の史書を著述した西晋朝の高級史官である陳寿が、「部分の総和は全体」という公理(理性の鉄則)を知らなかった、あるいは無関心だったとは、わたしには到底思えません。また、当時の数学のレベルの高さは、『周髀算経』(成立は三世紀初頭)を見ても明らかです。ですから、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする見解には首肯できないのです。(つづく)

(注)野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。