古賀達也一覧

第1643話 2018/04/07

九州王朝「北陸道」の問答

 『発見された倭京』で九州王朝の「東山道」15国を比定し、古代官道が太宰府を起点に展開されているとした西村秀己さんの論理的仮説を実証的に検証された山田春廣さんが、ブログにおいて太宰府起点の「東山道」「東海道」そして「北陸道」の地図を発表されています。山田さんは「妄想」と謙遜されていますが、そういうことはなく、なかなか優れた仮説(地図)と思います。
 その山田さんのブログ上で「北陸道」について、わたしと問答(学問的対話)を続けていますが、面白い展開を見せつつありますので、「洛中洛外日記」に転載させていただきました。皆さんも是非「問答」にご参加下さい。

【わたしからの質問】
山田様
 貴ブログの「北陸道」地図をわたしのfacebookに転載させていただきました。なかなかよい仮説(地図)と思いました。「北陸道」については次の疑問を抱いているのですが、山田さんのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

1.他は「海道」「山道」なのに、なぜここだけ「北陸道」と命名したのか。あるいは、九州王朝は別の名称だったのでしょうか。「北海道」が別ルートとしてありますから、仕方なく「北陸道」と命名したのでしょうか。

2.筑前から東山道の山口県部分を飛び越えて、山陰ルートに向かいますが、やや不自然のような気がします。

 以上、ご教示ください。なお、この疑問は山田説を否定するという趣旨のものではありませんので、ご理解ください。

【山田さんからの応答】
 まず、「「九州王朝の北陸道」十二國」は西村さまの「五畿七道の謎」に沿って東・西・南・北海道を比定し、そこに私が比定した「東山道十五國」を重ねると、残りが「北陸道」だという理屈だけで想定したものですので、「東山道十五國」の比定も含めて批判されて然るべきものと考えています。ですから、古代官道の諸国について私の想定図とは異なる比定があってしかるべきと思っております。
 倭国(九州王朝)の古代官道については、西村仮説「五畿七道の謎」(「九州王朝(倭国)の首都大宰府」「太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道」)のガイドラインに沿ってさえいれば、もっと様々な比定がなされてしかるべきで、それによってさらに議論が深められていくものと考えております。
 さて、古賀さまがご疑問に思われたことがらについて、私なりに考えてみました(根拠は示せませんので妄想ということです)。

1.「北陸道」という命名は確かに不審です。海に面している(実際も海路が主ではないかと思う)のに「陸」というのが納得できないところです。よって、これは「北海道」ではなかったかと考えています(西村さまとは少し異なる考えになりますが)。
 「北海道」は倭の五王時代にあった壱岐・対馬・金海(きむへ、南朝鮮)へ向かう海道であったわけですが、倭国(九州王朝)が朝鮮半島の版図を失い、海峡国家でなくなって以降の時代に、何時の時代かわかりませんが、博多湾を出て令制では「山陰道」と呼ばれている諸国沿いの海路が「北海道」と改称され、さらに「北陸道」と改称されたのではないかと妄想しています。

2.上記の妄想から、「北陸道」が「北海道」を改称した「海路」ということであれば、長門(山口県)を飛び越えて行くのもありと考えます。また、別の考え方として、「北陸道」が長門国の北部を通っている(長門を二道が通る)ということも考えられます。しかし、「官道」を「軍管区」と考えると、一国を二分するというのは不自然ですので、「北陸道」は「陸路」ではなく「海路」だった(後の時代に「北海道」を「北陸道」と改称した)という考えの方に今の段階では魅力を感じています。

 古賀さまのご疑問にお答えできたとは思いませんが、とりあえず考え(妄想)を述べさせていただきました。


第1633話 2018/03/28

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(1)

 発刊されたばかりの「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』を読んでいます。収録論稿の採用や編集に関わったわたしが言うのもなんですが、かなりの学問水準に達した一冊となっています。「古田史学の会」も古田先生亡き後、「弟子」らによってようやくこのレベルの論集を出せるようになったのかと思うと、感無量です。そこで、同書の収録論文について、わたしの感想や評価点を「書評」として連載したいと思います。
 本書には太宰府条坊や水城の編年等に関する拙稿も何編か収録されたのですが、直近のものでも執筆後一年近くを経ており、その後に増えた知見や深まった認識により、現時点では不十分で「腰が引けた」表現もあります。これは日々進化発展するという学問が有する性格上仕方がないことであり、ある意味では当然発生することでもあります。そうした一例を紹介します。
 拙稿「太宰府条坊と水城の造営時期」の最末尾に次の一文を記しました。

 「サンプルの資料性格から考えると、年輪数が少ない敷粗朶の測定値が木樋より適切であり、しかも発掘条件の良さから、最上層の敷粗朶の年代中央値六六〇年を最も重視すべきと思います。そうすると水城の造営年代は七世紀後半頃となり、『日本書紀』の天智三年(六六四)造営記事も荒唐無稽とはできず、九州王朝説の立場から再検討する必要があります。」(72頁)

 古田説では水城の築造を白村江敗戦(663年)よりも前とするのが常でした。わたしもそうした見解に立っていたのですが、同論稿執筆のために水城関連の発掘調査報告書を精査した結果、白村江戦後の水城完成もありうるのではないかと考えるようになりました。そうしたときに記したのがこの一文でした。しかし、その時点ではそれ以上の考察には至っていませんでした。そして、最近発表した「洛中洛外日記」1627・1629・1630話(2018/03/13〜03/18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1)〜(3)」に至り、ようやく水城完成を『日本書紀』に記された白村江戦後の天智三年(六六四)の完成の方がより適切とする認識に到達できました。もちろん、その当否は古田学派内での論争や検討を経て確認されることになりますが、現時点ではわたしはそのように考えています。
 こうした見解の変更や認識の進展は、仮に誤っていたとしても学問研究に貢献することができますので、わたし自身は良いことと思っています。(つづく)


第1632話 2018/03/25

向井一雄『よみがえる古代山城』を読む

 今日は久しぶりに用事がなかったので、向井一雄さんの『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』(吉川弘文館。2016年)を読みました。同書は書店で立ち読みしたことはあったのですが、まだ購入していませんでした。ところが過日の久留米大学での講演会で、菊池市から見えられた吉田正一さんから同書中の「九州王朝築城説」部分のコピーをいただき、そこに古田説の紹介と批判がありましたので、先週末、名古屋出張のときに購入しました。
 著者の向井さんは古代山城研究会の代表で、その分野を代表する研究者です。従って、考古学的知見だけではなく文献にも詳しく、とても勉強になる好著です。しかしながら、同書は終始一貫して近畿天皇家一元史観に貫かれており、それにあうように古代山城の考古学的事実を解釈されています。そのため古代山城研究の第一人者としての説得力ある部分と、一元史観に依拠したための避け難い弱点が併存しています。
 これから同書を精読し、多元史観・九州王朝説による批判的対比と検討を進めていく予定です。(つづく)


第1630話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(3)

 水城築造年次を考察するあたり、その築造開始年と完成年など築造期間年数についても最後に触れておきたいと思います。
 水城基底部から出土した敷粗朶は土と交互に何層も積み上げられ、その上に版築層がまた積み上げられています。こうした遺構の状況から、当初、わたしは何十年もかけて水城が築造されたと漠然と理解していました。しかし、発掘調査報告書を精査することより、水城は数年という短期間で完成したのではないかと考えるようになりました。既に「洛中洛外日記」などで紹介してきましたが、このことについて改めて説明します。

①敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていた。
②平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見された。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたもの。
③その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層は短期間で築造されたと考えられる。
④基底部を形成する敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造もそれほど長期間を必要としない。
⑤その基底部の上に形成された版築層も1年以内で完成したと考えられる。版築は梅雨や台風の大雨の時期を挟んでの工事は困難である。従って秋の収穫期を終えた農閑期に行わなければならず、翌年の梅雨の季節前に完成する必要がある。従って、版築工事は1年以内の短期間に完了したと考えざるを得ない。

 以上の諸点を考えると、水城築造は数年で完成したと考えるべきですし、それは可能と思われます。従って、築造開始は唐・新羅との開戦を目前にして、白村江戦前から始まり、白村江戦敗北の翌年に完成したと考えても問題ないと思います。(了)


第1629話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(2)

 水城基底部出土の敷粗朶の理化学的年代測定値からすると、水城造営年(完成年)を白村江戦後とする理解が比較的妥当であることがわかるのですが、わたしが白村江戦後とする理由で最も重視したのは『日本書紀』編纂の論理性でした。『日本書紀』には次のように水城築造が記されています。
 「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
 『日本書紀』編纂において、近畿天皇家は自らの大義名分に沿った書き換えや削除は行うかもしれません。水城築造記事においても築造主体について九州王朝ではなく「近畿天皇家の天智」と書き換えることはあっても、その築造年次を白村江戦後へ数年ずらさなければならない理由や動機がわたしには見あたらないのです。ですから天智紀の築造年次については疑わなければならない積極的理由がありません。
 古田先生は、白村江戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがないということを水城築造を白村江戦以前とする根拠にされたのですが、これも厳密に考えるとあまり説得力がありません。というのも『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)です。従って、水城を築造したとする天智三年(664)は唐軍二千人の筑紫進駐以前であり、白村江戦敗北(663)の後に太宰府防衛のために水城を築造したとする理解は穏当なものです。すなわち白村江戦敗北後の天智三年(664)に水城築造ができないとする理解にはそもそも根拠がなかったのです。
 この件について「古田史学の会」の研究者とも意見交換していますが、今のところ賛成意見はなく、古田学派内ではわたし一人だけの極少数説です。かつ研究途上のテーマであり、わたし自身ももっと深く検討を続けるつもりです。その結果、もし間違っているとなれば、もちろんこの説は撤回します。(つづく)


第1627話 2018/03/13

水城築造は白村江戦の前か後か(1)

 「洛中洛外日記」で連載した「九州王朝の高安城」を読まれた「古田史学の会」の何名かの会員さんから、「水城の築造は白村江戦より前ではないのですか」というご質問を頂いています。古田先生から“白村江敗戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがない。『日本書紀』には水城築造を天智3(664)年と記されているが、実際は白村江戦以前の築造である。”との指摘がなされてからは、古田学派では水城築造を白村江戦以前とする理解が大勢となりました。わたしもそのように考えてきました。
 ところが、近年、水城の考古学発掘調査報告書を精査する機会があり、水城築造は『日本書紀』の記述通り664年としても問題なく、むしろ白村江戦以前と理解する方が困難ではないかと考えるようになったのです。そうしたわたしの意識の変化を敏感に感じ取られた「洛中洛外日記」読者から、先の質問を頂いたものと思います。そこで、わたしの水城築造年次についての見解が変化した理由について説明したいと思います。
 わたしの水城築造を白村江戦後と考えるに至った道筋は次のようなものでした。わかりやすく箇条書きで説明します。

①水城は基底部とその上の版築部、そしてそれに付随する城門や道路などからなる。その基底部から出土した敷粗朶工法の敷粗朶の炭素同位体比年代測定によれば、最上層の敷粗朶の中央値が660年である。
②その基底部の上に版築土塁が築造されていることから、水城土塁部の完成は660年+αとなる。
③さらに城門などの建築、道路の敷設を含めると全体の完成は更に遅れると思われる。
④炭素同位体比年代測定には幅や誤差が含まれるため、完成推定年も幅を持つが、白村江戦(663年)よりも後と見た方が穏当であるが、白村江戦以前の可能性もないわけではない。
⑤少なくとも、こうした理化学的年代測定による年代推定値と『日本書紀』の天智3年(664)の造営記事は矛盾しない。

 以上のように、理化学的年代測定値は『日本書紀』の記事を否定せず、むしろより整合していると考えられるのです。もちろん、測定誤差や測定年次幅があることを考えると、白村江戦以前とする古田説も成立する余地があります。(つづく)


第1604話 2018/02/12

須恵器の「打欠き」儀礼

 先日購入した『季刊考古学』142号を熟読しています。同書の特集「古墳からみた須恵器の変容」で「朝鮮半島」を執筆担当された高田寛太さん(国立歴史民俗博物館・準教授)と中久保辰夫さん(大阪大学・助教)により、朝鮮半島南端での須恵器の「打欠き」儀礼というものが紹介されていました。次の通りです。

 「全羅道出土須恵器には、いくつか口縁部を打欠いた事例がある(図3:紫龍里例)。打欠き儀礼は、浅岡俊夫によって日本列島で弥生時代にさかのぼる事例も紹介されており、例えば大阪府久宝寺1号墳供献土器に口縁部を打欠いた例があるなど、古墳時代前期にも確認できる。(中略)
 したがって、栄山江流域にみる須恵器供献例のなかには、土器そのものの入手と使用に意味があっただけではなく、〔瓦泉〕の体部を手に持ち、口縁部の一部あるいは頸部を含めて破損するという所作の共有を見出すことができる。ただし、口縁部打欠きについては、日本列島各地のすべての〔瓦泉〕出土古墳で認めることはできない。」(69〜70頁)
 ※〔瓦泉〕は偏が「瓦」で、その右に「泉」。

 この指摘はとても示唆的です。朝鮮半島南部の須恵器と日本列島の弥生時代の土器や古墳時代の須恵器に頸部の打欠き儀礼が共通して見られるとのことです。4世紀末頃に須恵器が朝鮮半島から倭国(九州王朝・筑前)に伝わっているのですが、打欠き儀礼は須恵器伝来以前の弥生時代の日本列島に見られるということですから、この打欠き儀礼は日本列島発の可能性も考えてみる必要があります。
 同論文には打欠き儀礼の意味については触れられていませんが、葬儀において現代日本でも故人が使用したお茶碗を出棺時に割るという儀礼があり、この淵源が古代の土器「打欠き」儀礼にまで遡るのかもしれません。また、九州年号金石文として注目される「大化五子年」土器も、煮炊きに使用した後に頸部を打ち欠いて骨壺に転用されています。この土器転用は出土した茨城県地方の風習と、地元の考古学者からお聞きしました。これも土器の打欠き儀礼の一形態と思われます。
 土器の頸部を打ち欠いて骨壺に再利用する例は平安時代(10世紀)にも見られ、「洛中洛外日記」1536話で紹介しました。ご参考までに転載します。

「洛中洛外日記」第1536話 2017/11/05
古代の土器リサイクル(再利用)

 ちょっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器が骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。


第1603話 2018/02/11

前期難波宮と藤原宮の「尺」

 先月、東京古田会の皆さんが大阪文化財研究所を見学されたとき、同所の高橋工先生に前期難波宮などについて解説していただきました。そのとき、「前期難波宮造営を孝徳期と編年された一番の根拠は何ですか。年輪年代ですか。干支木簡ですか。」と質問したところ、高橋さんのご返答は「土器編年です」とのことでした。
 前期難波宮を天武朝造営とされる論者から、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対して、「大阪歴博の考古学者の意見は信用できない」「大阪歴博の見解を盲信している古賀は間違っている」と批判されることがあるのですが、この批判方法は学問的とは言えません。大阪歴博の考古学者の研究や編年のどこがどのような理由により間違っているのかを、根拠を示して具体的に批判するのが学問論争です。たとえば服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は、飛鳥編年の基礎データを具体的に検証され、その結果を根拠に「間違っている」と批判されています。これが学問的批判というものです。こうした批判であれば、具体的な再反論が可能ですから、互いの仮説を検証深化させることができ、学問研究にとって有益です。
 わたしは前期難波宮の造営は孝徳期であり、天武期ではありえない理由をいくつも指摘(論証)してきましたが、「論証よりも実証」という方々にも納得していただけるような実証的根拠も示してきました。そこで、改めて考古学的事実に基づいた実証的説明として前期難波宮の造営「尺」と天武朝により造営された藤原宮の「尺」について説明することにします。
 前期難波宮の遺構についてはその規模が大きく、測定データも膨大であり、その結果、造営に使用された「尺」についても判明しています。植木久『難波宮跡』(同成社。2009年)によれば、1尺29.2cmの「尺」で前期難波宮は設計されているとのことです。
 天武朝で造営された藤原宮は出土したモノサシにより、1尺29.5cmであることが明らかになっています。下記のように、造営「尺」は時代とともに1尺が長くなる傾向を示しています。

○前期難波宮 652年 29.2cm
○藤原宮   694年 29.5cm
○後期難波宮 726年 29.8cm

 この数値から、前期難波宮と藤原宮の設計は異なった「尺」が使用されており、両宮殿の造営時期や造営主体が異なっていると考えざるを得ません。両宮殿はその規模から考えても王朝の代表的宮殿ですので、設計にはその王朝が公認した「尺」を用いたはずです。従って、この使用「尺」の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する実証的根拠となります。この説明であれば特段の論証は不要ですから、「論証よりも実証」という方にもご理解いただけるのではないでしょうか。
 なお、わたしは太宰府条坊や政庁の造営「尺」についても調査を進めています。というのも、3月18日(日)に開催予定の久留米大学での講演で、「九州王朝の都市計画 太宰府と難波京」というテーマをお話ししますので、九州王朝の設計「尺」について調べています。研究が進展しましたら、報告したいと思います。


第1601話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(8)

 中村さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」において、50歳を越える古代人が20%以上いたとされた考古学的根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが引用されていますので、転載します。

【以下、転載】
注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 一九九四・二 祥伝社
p一六九〜p一七二 死亡時年齢の推定 要旨
【骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、十五歳くらいまでは一歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。

注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 二〇〇五・一
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】

 そして、中村さんは根拠とされたグラフに次のような説明を付されています。
 「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」

 わたしはこの「注」の解説を読み、中村稿に掲載された「生存者の年齢推移図」グラフを仮説の根拠に用いるのは危険と感じました。わたしの本職は有機合成化学ですが、研究開発などでデータ処理と解析を行う際、データが示す数値からの実証的な判断だけではなく、そのデータは何を意味するのかということを論理的に深く考える訓練を受けてきました。その経験から、同グラフに対して違和感を覚えたのです。理由を説明します。

①松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。この点はわたしも同意見。
②そして、「壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
③弥生の出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法も理解できる。
④しかし、その三段階の年齢は何を根拠に(二〇〜四〇)(四〇〜六〇)(六〇〜 )と設定されたのかが不明。
⑤出土人骨の相対的な年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定が困難であることは、①の記事からもうかがえる。寡聞にして、出土人骨の年齢を的確に測定できる技術の存在をわたしは知らない。
⑥従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢設定が現代とは異なり、仮に(十五〜三〇)(三〇〜四〇)(四〇〜)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判断によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
⑦他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、最も信頼性が高い。これによれば、倭人の一般的寿命は一倍年暦に換算すると40〜50歳である。
⑧また、周代の中国人の寿命を記す史料として、たとえば『列子』の次の記事がある。
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
 百年(一倍年暦の50歳)に達する者は千人に一人もいないとの当時の人間の寿命について述べた記事である。
⑨これら文字記録による一次史料と考古学による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の方である。
⑩中村さんが依拠したグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
⑪また、50歳と60歳の区別がつくほどの人骨年齢測定精度があるのか不審とせざるを得ない。

 以上のように考えています。しかしながら、わたしは人骨年齢測定の専門家でもありませんので、専門家の意見を直接聞いてみたいと願っています。こうした理由により、このグラフを仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんのご意見にも賛成できないのです。さらに指摘すれば、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを判断材料に用いる方法論にも問題なしとは言えません。
 以上、多岐にわたり論じましたが、拙論を批判していただいた中村さんに感謝申し上げ、最初のご指摘から9年も経っての応答となったことをお詫びします。(おわり)


第1600話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(7)

 本シリーズも佳境に入ってきました。残された中村さんからの最大のご批判ご指摘にお答えします。これまでは文献史学の範囲内での応答でしたが、今回は考古学と文献史学の双方に関わる問題です。
 中村さんからの最大の指摘は、『論語』の時代の人間の寿命は50歳が限界ではなく、考古学的知見によれば日本列島の弥生人の寿命は「弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています」(中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号。2009年6月)という点でした。もちろん、50歳を越える古代人がいたことはあり得るとわたしも考えていますし、「仏陀の二倍年暦」でもそのことを示す記事を紹介してきました。たとえば次の記事などです。

○「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二)
○「昔、此の斯波醯の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」(『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三)
○(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。)

 わたしと中村さんのご意見との最大の相違点は、この二倍年暦で100歳(一倍年暦の50歳)を越える古代人の存在を希(まれ)と考えるのか、20%はいたとするのかにあるようです。もちろん、わたしには50歳を越える長寿古代人がどのくらいの比率で存在したのかはわかりませんが、中村さんが依拠したデータや研究に疑問を抱いていましたので、数年前にお会いしたときに「グラフというものは必ずしも実態に合っているとも言えない」と中村さんにお答えしたものです。(つづく)


第1599話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(6)

 ここまで『論語』二倍年暦説における史料根拠とそれに基づく論証方法などの論理展開について解説してきました。次に中村通敏さんの論稿「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない-『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」(『東京古田会ニュース』No.178)での、『論語』二倍年暦説へのご批判に対してお答えすることにします。
 今回の中村稿でわたしが最も注目したのは、『論語』の「託孤寄命章」と称される次の記事を一倍年暦の根拠とされたことです。わたしはこれまで『論語』を10回近くは読みましたが、同記事が二倍年暦や一倍年暦に関係するものとは全く捉えていなかっただけに、中村さんのご指摘を興味深く拝読しました。

 「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人與、君子人也」(『論語』泰伯第八)
 【訳文】曾子曰く、「以て六尺(りくせき)の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可し。大節に臨みて奪ふ可からざるなり。君子人か、君子人なり」と。
 【大意】曾子曰く、「小さなみなしごの幼君を(あんしんして)あずけることができ、一国の運命をまかせ(ても、りっぱに政治を処理す)ることができる。国家の大事に当たっても、(その人の節操を)奪うことはできない。(そういう人物は)君子人であろうか、(そういう人こそ、ほんとうの)君子人である」と。

 この一節を中村さんは一倍年暦の根拠とされました。その論旨は次の通りです。

①『新釈漢文大系1論語』(吉田賢抗著。明治書院)の語句説明に【「六尺」は十五、六歳以下のことで、身長で年齢を示した。周制の一尺は七寸二分(二十一センチ半)ぐらいだから、六尺は四尺二寸強(一メートル三十センチ弱)である。又年齢の二歳半を一尺という。】とある。
②『学研漢和大字典』(藤堂明保)には【六尺(ロクセキ):年齢が十四、五歳の者。戦国・秦・漢の一尺は二十三センチで、二歳半にあてる。六尺之孤(ロクセキノコ):十四、五歳で父に死別したみなしご】とある。
③六尺の子供(十四歳)の背丈は、日本人のデータでは一六二・八センチとされる(文科省の2015年度のデータ)。
④これを『論語』の世界は「二倍年暦」であったとすると、約七歳でありながら身長は一六〇センチ強であったということになり、これは常識外れの値である。
⑤結論として、『論語』の世界では「一倍年暦」で叙述されている。

 以上のような論理展開により、『論語』は一倍年暦で記されているとされました。しかしながら、この中村さんの説明は、失礼ですが学問的論証の体をなしていません。その理由は次の通りです。

(a)「六尺」を①「十五、六歳以下」、②「十四、五歳の者」とするのは、後代の学者の解釈です。『論語』そのものには、身長「六尺」の子供の年齢について何も記されていません。
(b)もし周代において、身長「六尺」という表記が「14歳」という年齢表記の代用だとされるのなら、『論語』か周代の史料にそうした用例があることを提示する必要があります。この学問的証明がなされていません。
(c)現代日本人の14歳の子供の身長(160cm)を、周代の身長「六尺」の子供の年齢を14歳とする根拠とはできず、その証明にも無関係な数値です。
(d)『論語』の当該記事は、身長「六尺」の「孤」(孤児)を託せる「君子」について述べたもので、その記述からは、『論語』が「一倍年暦」か「二倍年暦」かの判断はできません。

 なお、「中国古代度量衡史の概説」(丘 光明、楊 平。『計量史研究』18、1996年)によれば、殷の墓から出土した牙尺は1尺約16cm。戦国時代から漢代の出土尺は1尺約23cmとあります。殷代と漢代の間にある周代(春秋時代)は、『説文解字』「夫部」の記事「周制以八寸為尺」を信用すれば、漢代の1尺の0.8倍ですから約18.4cmとなり、時代と共に長くなる1尺の数値としては穏当です。そうすると『論語』の「六尺」は18.4×6=約110cmとなります。
 すなわち、当該記事は「六尺(身長約110cm)」と表記することにより、その孤児が幼い子供であることを示しているに過ぎず、そうした孤児を託せる人物こそ君子であると主張している記事なのです。この記事自体は、一倍年暦とも二倍年暦とも論証上は無関係です。(つづく)


第1598話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(5)

 ここまで説明しましたように、周代では二倍年暦が採用されていたと考えざるを得ないのですが、周王朝の歴代天子の在位年数にもその痕跡がうかがわれ、「たまたま超長生きで在位年の長い天子が何人もいた」とは考えにくい状況です。特に『穆天子伝』で有名な穆王は百歳を生きたと伝えられており、これは二倍年暦によると考えざるを得ません。たとえ一人でも二倍年暦と理解せざるを得ない王がいる以上、その王朝では二倍年暦が採用されていたとするのが、史料理解の基本ですが、これだけ在位年数の長い王がいる以上、この史料状況を「誤記誤伝があったのでは」や「学者によって異論が存在する」という解釈の類で否定するのは、学問の方法として不適切です。

○成王(前一一一五〜一〇七九)在位三七年
○昭王(前一〇五二〜一〇〇二)在位五一年
○穆王(前一〇〇一〜九四七)在位五五年
○厂萬*王(前八七八〜八二八)在位五一年
○宣王(前八二七〜七八二)在位四六年
○平王(前七七〇〜七二〇)在位五一年
○敬王(前五一九〜四七六)在位四四年
○顯王(前三六八〜三二一)在位四八年
○赧王(前三一四〜二五六)在位五九年
 ※『東方年表』平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編による。「厂萬*」は「厂」の中に「萬」。

 以上、わたしは古代中国において二倍年暦を採用した王朝(当研究では周代)が存在していたこと確信するに至りました。そして二倍年暦の研究は更に進展し、西洋の古典にも及び、次の論稿を発表しました。いずれも「古田史学の会」ホームページに収録されていますので、ご参照ください。(つづく)

「ソクラテスの二倍年暦」(『古田史学会報』54号。2003年2月)
 古代ギリシア哲学者の死亡年齢
 プラトン『国家』の二倍年暦
 アリストテレス『弁術論』の二倍年暦
 『オデュッセイア』の二倍年暦
 ヘロドトス『歴史』の一倍年暦
 ソクラテスの二倍年齢
「荘子の二倍年暦」(『古田史学会報』58号。2003年10月)
「『曾子』『荀子』の二倍年暦」(『古田史学会報』59号。2003年12月)
「アイヌの二倍年暦」(『古田史学会報』60号。2004年2月)