古賀達也一覧

第3367話 2024/10/12

アニメ『チ。-地球の運動について-』(4)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」のキャッチコピー「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」を象徴するようなシーンが昨日の放送(第三話)ではありました。

 地動説研究が発覚し、教会の異端審問でファウル少年は「宣言します。僕は地動説を信じてます」と述べ、刑が確定します。そして、ファウルを捉えた元傭兵の異端審問官ノヴァクとの間で、ファウルは終始穏やかですが、鬼気迫る内容の対話がなされます。

ファウル「敵は手強いですよ。あなた方が相手にしているのは僕じゃない。異端者でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。」
ノヴァク「知性?」
ファウル「それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」
ノヴァク「では、勝つのは君か? あの選択は君の未来にとって正解だと思うのか?」
ファウル「そりゃあ不正解でしょ。でも不正解は無意味を意味しません。」
(中略)
ファウル「フベルトさんは(火あぶりの刑で)死んで消えた。でもあの人がくれた感動は今も消えない。たぶん、感動は寿命の長さより大切なものだと思う。だからこの場は、僕の命に代えてもこの感動を生き残させる。」
ノヴァク「正気じゃない。わけの分からんものに感動して、命さえなげうつ。そんな状態を狂気だとは思わないのか。」
ファウル「確かに。でもそんなのは愛とも言えそうです。」 ※ここでの「愛」とは、キリスト教の教えでいうところの「愛」か。そうであれば、この言葉は皮肉かもしれません。

 こう語ると、ファウルは地動説研究資料の隠し場所を拷問で自白しないよう、服毒により自死し、ドラマの舞台は十年後に飛びます。

 このファウル少年の言葉は、わたしたち古田学派の研究者には次のようにも聞こえるはずです。

 「あなた方(一元史観の学界)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」(つづく)


第3366話 2024/10/10

関川さんから

  『葛城の考古学』をいただく

 過日、奈良市で関川尚功(せきがわ ひさよし)先生と10/27東京講演会の最終打ち合わせを行った際、著書『葛城の考古学』(注)をいただきました。同書は、一般の古代史ファンや考古学ファン向けというよりも、研究者向けの専門書です。奈良盆地の南西部にあたる葛城の地から出土した遺構・遺物を紹介したもので、時代的には旧石器から律令国家までを網羅したもの。関川先生はその中の下記の項目を執筆されています。

 第2章 初期農耕文化の展開と地域統合
第3節 ムラからクニへ
1 集落の動向
2 高地性集落の出現

 第3章 葛城氏の勃興と古墳文化
第1節 台頭した地域の首長層
1 葛城北部における首長墓の出現と系譜
2 葛城南部における首長墓とその特色
第2節 馬見古墳群と葛城の天皇陵
1 馬見古墳群
2 王墓と石棺
3 埴輪や木製品にみる古墳の葬祭

 次にお会いする10月27日の東京講演会までには読んでおかなければならないと思い、『古代に真実を求めて』投稿論文の査読の合間に読んでいますが、奈良県の古墳時代の基礎知識や葛城地方の土地勘がないこともあって、難渋しています。

 しかし、読んでいて気づいたのですが、九州や他の地方の古墳とは異なり、『日本書紀』や延喜式などを根拠に、被葬者を推定しながら仮説や論が展開されており、今まで読んだ弥生や古墳時代の考古学専門書とは雰囲気が異なるのです。この点は、文献史学を研究しているわたしにも、興味深く拝読できました。

 相変わらず超多忙な日々が続いていますが、頑張って読破します。なお、東京講演会のリハーサルで説明を受けた古墳や遺物、銅鏡などが同書に紹介されており、この点は理解が進みました。

(注)松田真一編『葛城の考古学 ―先史・古代研究の最前線―』八木書房、2022年。


第3365話 2024/10/09

アニメ『チ。-地球の運動について-』(3)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」には、次のキャッチコピーがあります。

 「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」

 この言葉には、古田先生の生き様と通じるものを感じます。今から三十数年前のこと。青森で東奥日報の斉藤光政記者の取材を先生は受けました。和田家文書偽作キャンペーンを続ける同記者に対して、先生は次の言葉を発しました。

 「和田家文書は偽書ではない。わたしは嘘をついていない。学問と真実を曲げるくらいなら、千回殺された方がましです。」

 このとき、わたしは同席していましたので、先生のこの言葉を今でもよく覚えています。
他方、「美学」という言葉は、わたしは古田先生から直接お聞きした記憶はないのですが、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から次のようなことを教えていただきました。

 久留米大学の公開講座に古田先生が毎年のように招かれ、講演されていたのですが、あるときから先生に代わって私が招かれるようになり、今日に至っています。その事情をわたしは知らなかったのですが、水野さんが古田先生にたずねたところ、先生が後任に古賀を推薦したとのことでした。そのことを古賀に伝えてはどうかと水野さんは言われたそうですが、古田先生の返答は、「わたしの美学に反する」というものだったそうです。先生の高潔なご人格にはいつも驚かされていたのですが、このときもそうでした。ですから、わたしは久留米大学から招かれるたびに、先生の「美学」に応えなければならないと、緊張して講演しています。(つづく)


第3364話 2024/10/08

アニメ『チ。-地球の運動について-』(2)

 ―真理(多元史観)は美しい―

アニメ「チ。―地球の運動について―」は、15世紀のヨーロッパにおいて、教会から禁圧された地動説を命がけで研究する人々を描いた作品です。その中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトと、一人で天体観測を続けていたラファウ少年との間で、次のような会話が交わされます。それは、不規則な惑星軌道を天動説で説明しようとするラファウと、それを詰問するフベルトとの対話です。

フベルト「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」
ラファウ「(天動説の複雑な理屈は)あまり美しくない。」
フベルト「太陽が昇るのではなく、われわれが下るのだ。地球は2種類の運動(自転と公転)をしている。太陽は動かない。これを教会公認の天動説に対して地動説とでも呼ぼうか。」

この対話を聞いて、古田先生の九州王朝説・多元史観と学界の大和朝廷一元史観との関係を思い起こしました。両者について、わたしは次のように指摘したことがあったので、フベルトの言葉が重く響いたのです。

〝学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。〟(注)

「チ。―地球の運動について―」では、ラファウ少年が地動説研究を行っていたことが教会に発覚しそうになったとき、フベルトは自らが身代わりとなって〝罪〟をかぶり、火あぶりの刑になりました。残されたラファウ少年は、「今から地球を動かす」と、地動説研究を引き継ぎます。(つづく)

(注)古賀達也「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。


第3363話 2024/10/06

アニメ『チ。-地球の運動について-』(1)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 なかなかご理解いただけないかもしれませんが、いわゆる理系の中には、「美しい」という表現を好んで使う人がいます。「美しい」という概念は個人の主観的価値観に基づくものですから、客観性を重視し、自然法則を研究する科学の世界では、違和感がある言葉かもしれません。

 しかし、わたしが専攻した化学(有機合成化学)でも、次のような逸話があります。元勤務先の後輩、小川さんから聞いた話です。名古屋大学院でノーベル賞学者の野依先生のお弟子さんだった小川さんが、ある化学物質の分子構造式を描いたところ、野依先生から「美しくない」と、書き直しを命じられたというのです。複雑な分子構造式を分かりやすく描くのは結構難しいのですが、更にそれを美しく描かなければならないと学生に指導する野依先生のような人物だからこそ、ノーベル化学賞を受賞できたのかもしれません。

 野依先生とは次元もレベルも異なりますが、わたしも美しい分子構造をもつ化学物質の分子構造式を見ると、うっとりとします。なかでも現役時代に取り扱った物質で、構造式の上下左右が対称であり、その中心に金属原子を持つフタロシアニンやテトラアザポリフィリンなどは特に美しく感じたものです。これは、ケミストにとって、ある種の職業病かもしれません。

 物理学の分野でも、アインシュタインが発見した質量とエネルギーの等価性を示す関係式 E=mc2 は、ここまでシンプルで美しい計算式で、物質の基本原理を表せるものなのかと、感動した記憶があります。

 なぜ、「美しい」などという言葉を突然話題にしたのかというと、古田史学リモート勉強会に参加されている宮崎宇史さんから、地動説のために生涯を捧げた人々を主人公とするアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)がNHKで放送されるので、是非、見るようにとのメールが届いたのです。宮崎さんからのお薦めであれば、これは見なければならないと思い、昨晩11:45から始まる同番組を見ました。聞けば、アニメ「チ。-地球の運動について-」は、今年、日本科学史学会特別賞を受賞したとのこと。

 そして、その番組の中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトが少年ファゥルに発した言葉が、「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」だったのです。この言葉がわたしの胸に突き刺さりました。(つづく)

(注)『ウィキペディア』に次の説明がある。
『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の青年漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2020年42・43合併号から2022年20号まで連載された。15世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いたフィクション作品。2022年6月時点で、単行本の累計発行部数は250万部を突破。2022年6月にマッドハウス制作によるアニメ化が発表された。2024年5月、第18回日本科学史学会特別賞を受賞。


第3362話 2024/10/05

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (7)

藤原魚名薨伝「天平末」と淡海三船卒伝「宝亀末」

 『続日本紀』藤原朝臣真楯薨伝に続いて、延暦二年(783)七月条の藤原朝臣魚名薨伝に見える「天平末」、延暦四年(785)七月条の淡海眞人三船卒伝の「宝亀末」の「末」について検討します。

 まず、藤原魚名薨伝の当該記事と訓読文は次の通りです(注)。

 「天平末、授從五位下補侍從。」 天平の末(すえ)に、從五位下を授(さず)けられ、侍從に補(ふ)せられる。

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)ですので、『続日本紀』の同年条を見ると、二月条に次の記事がありました。

 「正六位上百済王元忠・藤原朝臣魚名(中略)並従五位下。」 正六位上百済王元忠・藤原朝臣魚名(中略)に並(ならび)に従五位下。

 この天平二十年の藤原朝臣魚名昇進記事により、薨伝の「天平末」とは字義通り、天平年間(729~748年)の末年である天平二十年(748)を意味する事がわかります。

 次に、延暦四年(785)七月条の淡海三船卒伝の当該記事は下記の通りです。ちなみに、淡海三船は『日本書紀』の漢風諡号を作成した人物として著名です。

 「宝亀末、授從四位下、拜刑部卿兼因幡守。」 宝亀の末、從四位下を授けけられ、刑部卿兼因幡守を拜す。

 宝亀は十一年まで続き、末年は宝亀十一年(780)です。『続日本紀』の同年条を見ると、二月条に次の記事がありました。

 「授正五位上淡海眞人三船従四位下」 正五位上淡海眞人三船に従四位下を授く。

 ここでも「宝亀末」を字義通りの宝亀年間(770~780年)の末年、宝亀十一年(780年)の意味で使用されている事がわかります。

 しかしながら、その後に続く刑部卿への任官記事は延暦三年(784年)四月条に見え、因幡守を兼任したのは延暦元年(782年)八月条にありますので、「宝亀末」は従四位下にのみ対応しており、「刑部卿兼因幡守」拝命記事にはかかっていないことになります。あるいは、「刑部卿兼因幡守」の任官を宝亀十一年とする別資料があり、薨伝はそちらを採用したという可能性もあるかもしれません。または、従四位下の時代に任官した役職を「授從四位下」に続けて記したのでしょうか。こうした表記例もありますので、『続日本紀』の卒伝や薨伝の構文理解には注意が必要です。(つづく)

(注)原文と訳文は新日本古典文学大系『続日本紀』(岩波書店)による。


第3359話 2024/10/02

『東京古田会ニュース』218号の紹介

 『東京古田会ニュース』218号が届きました。拙稿「和田家文書「金光上人史料」の真実」を掲載していただきました。同稿では、和田家文書のなかでも金光上人史料は、『東日流外三郡誌』よりも早く、昭和24年頃には外部に提出され、書籍としても発刊された貴重な史料群であることを説明しました。

 同号には國枝浩さんの「唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本国伝の資料批判〉について」、橘高修さん(同会副会長)の「古代史エッセー81 倭国と日本国の関係」が掲載され、日本列島内の王朝交代についての中国側の認識について論じられました。なかでも橘高稿では、『旧唐書』『新唐書』の倭国伝と日本国伝の丁寧な説明がなされており、良い勉強の機会となりました。

 安彦克己さん(同会々長)の「和田家文書備忘録8 金寶壽鍛造の刀」は、和田家文書に記された刀について紹介されたもので、懐かしく思いました。というのも、和田家文書(『北鑑』39巻)に記された名刀「天国(あまくに)」「天坐(あまくら)」なるものを藤本光幸邸で実見し、和田喜八郎氏の依頼で調査したことがあったからです。このときの調査については『古田史学会報』(注)で報告しましたが、全貌については未発表です。機会があれば、わたしの記憶が確かな内に発表できればと思います。

(注)古賀達也「天国在銘刀と和田末吉」『古田史学会報』18号、1997年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga18.html


第3358話 2024/10/01

『続日本紀』道君首名卒伝の

      「和銅末」の考察 (6)

藤原朝臣真楯卒薨伝の「天平末」「出爲」

 『続日本紀』天平神護二年(768)三月条には、「天平末」という表記を持つ藤原朝臣真楯卒薨伝(注)が記されています。当該部分は次の通りです。

 「天平末、出為大和守。」

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)です。ここでも道君首名卒伝と同様に「○○末、出爲○○守」の構文が使用されており、首名卒伝と同様の読み方であれば、「天平年間(729~748年)の末年(天平20年)に、大和国守に赴任した」という意味になります。もっとも、首名とは大きく異なり、赴任先は平城京がある大和国ですから、恵まれた任官と言えそうです。ところが、当薨伝以外に藤原真楯の大和守任官・赴任記事は見えませんから、「天平末」の「末」の意味をこの記事からは直接的に導き出すことができません。

 そこで、よい機会ですので、今回は「天平末」に続く「出爲」について説明します。まず、道君首名の筑後守任官と卒伝の赴任記事の原文と訳文は次の通りです。

(a) 和銅六年(713年)八月条 筑後守任官記事
「従五位下、道君首名爲筑後守。」
従五位下、道君首名を筑後守とす。

(b) 養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」
和銅の末に出(い)でて筑後守となり、肥後國を兼ねて治めき。

 このように、(a)では動詞は「爲」だけですから、「○○になす」「○○とする」の意味で使用されています。他方、(b)では動詞が「出」「爲」と二つ続けてありますから、「出でて○○となる」という構文になっており、単に都で任命されたということではなく、「都から出て、○○になる」という意味であり、卒伝の「出爲」は赴任記事と理解するほかありません。そして、「筑後守」「肥後国」と続きますから、筑後・肥後に赴任したと読者は読むことになります。その直後に、任地での活躍記事が続きますから、文章の流れとしても自然です。

 この「出爲」の構文は『続日本紀』には少なく、道君首名卒伝・藤原朝臣真楯卒薨伝に続いて、ようやく次の用例を見つけました。天平宝字四年(760年)九月条の、新羅国からの遣使、金貞巻の言葉に見えます。

 「貞卷曰。田守來日、貞卷出爲外官。亦復賎人不知細旨。」
貞卷曰はく、「田守來れる日、貞卷出(い)でて外官と爲(あ)り。亦復(また)賎(いや)しき人にして細旨を知らず。」といふ。

 新日本古典文学大系本(岩波書店)の脚注には、この記事を次のように説明しています。

 「田守が新羅に来た時に、貞巻は地方官として都にはおらず、また身分が低いので、細かな事情は存じません、の意。」

 このように「出爲」という用語・構文は〝ある所へ出て、○○になる〟という意味で使用されていることがわかります。従って、道君首名卒伝の「和銅末」「出爲」を、和銅八年(715年)の筑後・肥後赴任の年とするわたしの理解は正しかったようです。(つづく)

(注)藤原朝臣真楯薨伝の原文は次の通り。【】は古賀が付した。
《天平神護二年(768)三月 藤原朝臣真楯薨伝》
丁卯。大納言正三位藤原朝臣真楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。真楯、度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝、寵遇特渥。詔、特令参奏宣吐納。明敏有誉於時。従兄仲満、心害其能。真楯知之。称病家居。頗翫書籍。【天平末、出為大和守。】勝宝初、授従四位上。拝参議。累遷信部卿兼大宰帥。于時。渤海使楊承慶、朝礼云畢。欲帰本蕃。真楯設宴餞焉。承慶甚称歎之。宝字四年授従三位。更賜名真楯。本名八束。八年、至正三位勲二等兼授刀大将。神護二年、拝大納言兼式部卿。薨時、年五十二。賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂。右少弁従五位上大伴宿禰伯麻呂弔之。


第3357話 2024/09/30

関川尚功先生と東京講演会の打ち合わせ

 今日は奈良市に向かい、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)と二人で関川尚功(せきがわ・ひさよし)先生(元・橿原考古学研究所々員)と10月27日(日)の東京講演会の講演内容について、詳細にわたり打ち合わせを行いました。リハーサルを兼ねて、講演に使用する写真・図約60枚について解説していただきました。

 邪馬壹国時代の弥生後期を中心として、古墳時代前期の畿内と北部九州などから出土した鏡・鉄器製造遺物(ふいご、砥石、小鉄片)・銅鐸、古墳内の石室・木郭などを紹介され、ヤマトには「邪馬台国」の片鱗も見えず、それに比べて北部九州の金属器などの先進性が、これでもかこれでもかと説明が続きました。更に、弥生後期の金属器文化が古墳時代になるとヤマトへ流入したことも教えていただきました。こうしたことを10月27日、東京(文京区民センター)で報告されます。恐らく、関東の皆さんには初めて聞く内容ではないでしょうか。

 関川先生から提供された写真をレジュメとして編集する作業に入ります。『古代に真実を求めて』28集の投稿も多数届いていますので、その査読や自らの研究・執筆、講演の準備などが重なり、10月は超多忙な日々が続きます。健康に留意して頑張りますが、「古田史学の会」を支える次の世代や後継者の発掘・引き継ぎも鋭意進めたいと考えています。皆さんのお力添えもお願いいたします。


第3356話 2024/09/29

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (5)

 『続日本紀』には〝年号+「末」〟表記を持つ卒伝・薨伝が道君首名を含めて七例(注①)ありましたので、各伝の「○○末」の意味について検討します。

 まず、服部さんが指摘した養老二年(718)四月条の道君首名卒伝(注②)ですが、当該部分は次の通りです。

「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」(以下、筑後・肥後での活躍記事が続く)

 和銅年間は八年まで続き、首名が筑後国守に任官したのは和銅六年であり、従って、「和銅末」には同六年が含まれることから、「末」とあっても数年の幅を持ち、古賀のいうような最終年だけを意味しないという批判がなされたわけです。確かに『続日本紀』和銅六年(713年)八月条に「従五位下道君首名為筑後守」とあります。しかし、この批判文を読んで、わたしは服部さんの誤解ではないかと思いました。それは次の理由からでした。

(1) 同卒伝に「和銅末」とあり、「末」の字義からすれば読者は和銅八年のことと理解してしまう。『続日本紀』編纂者が和銅六年(713年)のことと認識していたのなら「和銅中」と書くのではないか。『続日本紀』には「○○中」という用例が少なからずある。

(2) しかも和銅末年に当たる和銅八年(715年)正月条に、「従五位下臺忌寸少麻呂・道君首名並従五位上」との昇進記事があり、従五位上への昇進後に筑後国・肥後国に赴任したのではないか。同年九月には霊亀元年と改元されるので、それまでに赴任したと思われる。

(3) 卒伝には「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國」とあり、この「出爲」という用語(動詞)は、当地に赴任、あるいは、向かっていることを意味するようである(この件、後述する)。なお、『続日本紀』には首名が肥後国守に任官した記事は、この卒伝以外には見えない。当然のこととは思うが、『続日本紀』に全ての役人の任官・昇進記事が書かれているわけではない。このことも後述する。

(4) 首名が筑後国守に任命されたときの位階は従五位下であるが、大・上・中・下とある国のランク(注③)では筑後国は上国であり、『養老律令』官位令の規定によれば、上国の国守の官位は従五位下と定められており、これに対応している。しかし、肥後国は大国であり、国守の官位は従五位上とされており、従五位下のままでは首名が肥後国守を兼任するのは不適切。そのため、和銅八年正月に従五位上への昇進がなされ、それを待って首名は九州に下向したものと思われる。こうした官位令の規定は後に形骸化するが、和銅の頃は守られているようである。

(5) 以上の史料状況から考えると、卒伝の「和銅末(八年・715年)」に筑後国守・肥後国兼任として「出爲」(現地に赴任)したという記事は極めて適切な表現である。

 ここからはわたしの想像ですが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代(701年)して十数年後の九州では隼人の反乱が続いており、その最前線付近と思われる肥後の国守に相応しい従五位上の人物が当初見当たらず、従五位下の道君首名に筑後国守だけではなく、肥後国守も兼務させることにしたため、和銅八年正月に従五位上に昇進させたのではないでしょうか。この朝廷の判断が正しかったことは、卒伝の「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國」直後に続けて、現地での活躍がいくつも書かれていることからも頷けます。

 以上のことから、「和銅末」とは字義の通り、「和銅の末、和銅八年」のこととするのが最も穏当で、そう読むのが普通の理解ではないでしょうか。しかも「出爲」の意味や、担当官位などにも矛盾がありません。このように字義通りの普通の理解で読めるのか、他の伝についても検討を続けます。(つづく)

(注)
①卒伝・薨伝中に「○○末」(○○は年号)という用語を持つもの。
❶養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末」〈和銅8年(715)〉
❷天平神護二年(768)三月条 藤原朝臣真楯卒薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❸延暦二年(783)七月条 藤原朝臣魚名薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❹延暦四年(785)七月条 淡海眞人三船卒伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❺延暦四年(785)九月条 藤原種継薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❻延暦七年(788)七月条 大中臣朝臣清麻呂薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❼延暦八年(789)九月条 藤原朝臣是公薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
※〈〉内の年次はその年号の最終年。
②養老二年(718)四月の「道君首名卒伝」全文。
乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名、少治律令、曉習吏職。和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。勸人生業、爲制條、教耕營。頃畝樹菓菜、下及鶏☆。皆有章程、曲盡事宜。既而時案行、如有不遵教者、隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實、莫不悦服。一兩年間、國中化之。又興築陂池、以廣漑潅。肥後味生池、及筑後往々陂池皆是也。由是、人蒙其利、于今温給、皆首名之力焉。故言吏事者、咸以爲稱首。及卒百姓祠之。
※☆は月偏に屯。豚のこと。
③『延喜式』民部省上によれば、以下の13国が大国、35国が上国、11国が中国、9国が下国とされている。
《大国》
大和国、河内国、伊勢国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、近江国、上野国、陸奥国、越前国、播磨国、肥後国。
《上国》
山城国、摂津国、尾張国、参河国、遠江国、駿河国、甲斐国、相模国、美濃国、信濃国、下野国、出羽国、加賀国、越中国、越後国、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、美作国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国、紀伊国、阿波国、讃岐国、伊予国、豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、肥前国。
《中国》
安房国、若狭国、能登国、佐渡国、丹後国、石見国、長門国、土佐国、日向国、大隅国、薩摩国。
《下国》
和泉国、伊賀国、志摩国、伊豆国、飛騨国、隠岐国、淡路国、壱岐国、対馬国。


第3355話 2024/09/28

『続日本紀』道君首名卒伝の

    「和銅末」の考察 (番外編)

当連載では、『続日本紀』養老二年(718)四月条の道君首名卒伝に見える「和銅末」の「末」に焦点を当てて、『続日本紀』では「末」の字がどのような意味で使われているのかを論じています〈和銅年間の末年は和銅八年(715年)〉。従って、論証が機微に至り、検証対象が広範囲にわたっています。その為か、根源的な問題は何なのかという本来の論点から離れ、「末」の字義についての抽象論や「他の可能性もある」などの一般論(注①)がテーマと受け取られかねないことに気づきました。そこで、本テーマの本来の論点を再確認し、なぜ『続日本紀』の悉皆調査を行っているのかを改めて説明することにしました。そのきっかけの一つとなったのが次の対話でした。

わたしのFacebookで当連載を読んだKさんから質問とご意見が寄せられましたので、次のように返答しました。ちなみに、Kさんは熱心な読者で、真摯かつ鋭い質問や思いもよらぬ視点を度々いただいており、ありがたく思っています。

〝古賀 様 「末」の概念は「本」から離れた先の方とのことのようです。「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅があるようです。故に「最後」だけではないように思えます。ただ、その幅がどれくらいかは難しいのではと思います。〟

〝Kさん、今回の問題の根幹は、船王後墓誌の「アスカ天皇の「末」歳次辛丑(641年)」の「末」をどのように理解するのかにあります。ですから、抽象論ではなく、極めて具体的な文脈中にある「末」について、それを書いた人が、なぜ「末」の一字を墓誌に加えたのかというテーマです。船王後の没年は「歳次辛丑」により特定されており、九州王朝のアスカ天皇の没年がその5年後(注②)であったとするなら、「末」の字は全く不必要です。古田新説ではこの問題に答えることができません。

他方、通説では舒明天皇のこととしますから、舒明は辛丑年に没したと日本書紀にあり、文献と金石文が一致します(古田先生のいうシュリーマンの原則(注③)「史料と考古学事実が一致すれば、それはより真実に近い」です)。古田新説ではこの事実も「偶然の一致」として無視しなければならず、これは学問的ではありません。自説に都合の悪い「末」を本来の字義ではなく、異なる解釈論でスルーしたり、文献と金石文の一致を根拠としている通説を「偶然の一致」として無視するのも、古田先生から学んだ学問の方法とは異なります。

今回の連載では、続日本紀の首名卒伝に見える「和銅末」を根拠とする批判に対しての反論であり、従って続日本紀の「末」の悉皆調査により、当時の人々の認識を明確にし、「末」の字が具体的にどのようなことに対して使用しているのかを論じています。現代人の抽象論や一般的な可能性をテーマとはしていません。続日本紀内に『「末」は「先」ではなく「本の方に対して、先の方」という観念の文字』と理解しなければならない用例があるのでしたら、具体的にご指摘いただけないでしょうか。わたしが読んだ限りでは、そのような例は見当たりませんでしたので。〟

学問や研究は、Kさんのように真摯な対話や論争により、深化発展するものと、わたしは考えています。なお、Kさんのご意見にもあるように、〝「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅がある〟というケースについては本連載で後述します。(つづく)

(注)
①他の可能性もあるとする一般論を否定しないが、その場合、なぜ第一義を採用してはならず、他の可能性を採用しなければらないのかの説明責任が、そう主張する側に発生する。

船王後墓誌の「末」の字の場合も同様の論証責任が発生する。なぜなら、通説の理解で問題なく墓誌の文章を読めるからだ。「末」本来の字義ではなく、九州王朝の天子の没年の五年前でも「末」の期間に含まれると考えればよいという方に、なぜ、アスカ天皇の没年と理解されかねない、かつ文脈上不要な「末」の一字が書かれたのかという説明責任も発生している。
②辛丑年(641年)は九州年号の命長二年に当たり、九州王朝の天子の崩御があれば改元するはずだが、命長七年(646年)の翌年(647年)に常色元年に改元されている。
③古田先生の「シュリーマンの原則」については次の論考を参照されたい。
古田武彦「補章 二十余年の応答」『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房、古代史コレクション1、2010年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/outouho.html
古田武彦「天孫降臨の真実」
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/kourinj.html


第3354話 2024/09/27

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (4)

 『続日本紀』には、服部さんの発表資料に提示された、「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」の一つとして、道君首名卒伝の「和銅末」がありますが、今回の悉皆調査の結果、『続日本紀』には〝年号+「末」〟表記を持つ卒伝・薨伝が道君首名を含めて七例見つかりました。次の各伝です。

❶養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末」〈和銅8年(715)〉
❷天平神護二年(768)三月条 藤原朝臣真楯薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❸延暦二年(783)七月条 藤原朝臣魚名薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❹延暦四年(785)七月条 淡海眞人三船卒伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❺延暦四年(785)九月条 藤原種継薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❻延暦七年(788)七月条 大中臣朝臣清麻呂薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❼延暦八年(789)九月条 藤原朝臣是公薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
※〈〉内の年次はその年号の最終年です。

 卒伝・薨伝には上記に示した「○○末」の他、「○○中」「○○初」という年次表記例もあり(○○は年号)、『続日本紀』編纂者は「末」「中」「初」を使い分けていることがわかります。これら卒伝・薨伝の「○○末」について、前話で紹介した『続日本紀』の用例(ものごとの最後)と同様に、「○○末」が年号の最後の一年という意味で使用しているのかを確認するため、内容の調査を行いました。(つづく)