古賀達也一覧

第2890話 2022/12/08

『日本書紀』に記された秦造河勝

 西日本を中心とした秦氏の分布は、倭国(九州王朝)の領域拡大、たとえば〝倭の五王〟時代の東方進出(注①)や、『隋書』に見える多利思北孤時代の河内進出(注②)と六十六ヶ国分国(注③)に伴ったものではないかと推察しています。そうした秦氏の一人に、「聖徳太子」の命により蜂岡寺(京都の広隆寺とされている)を創建したと、『日本書紀』で次のように伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。

 『日本書紀』推古天皇十一年(603年)
〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
 「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
 「私が拝み祭る。」
 すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟

 この推古11年条(603年)に見える蜂岡寺が京都市右京区太秦蜂岡町にある広隆寺のこととされています。同寺の推定旧域内からは七世紀前半の飛鳥時代に遡る瓦が出土しており、考古学的にも妥当な有力説です。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺と考える考古学者や研究者もあります。
 もう一つわたしが注目しているのは、皇極紀三年条に見える次の秦造河勝の記事てす。

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)
〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
 太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
 この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟

 これは不思議な記事です。葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったというもので、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」記事です。〝常世の虫〟を都の人までもが崇めているというのですから、事実とすれば、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことになります。しかも現在の京都市の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのですから、九州王朝説の視点からすれば、倭国(九州王朝)による東国制服譚の一端と捉えなければなりません。その時代が『日本書紀』の記述の通りであれば、多利思北孤の時代ですから、都とは倭京(太宰府)のことと考えられます(注④)。
 しかしながら、『隋書』俀国伝によれば、俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされていますので、『日本書紀』の年次をそのまま信用しても良いのか疑問が残ります(注⑤)。いずれにしても、葛野の秦造河勝は近畿天皇家ではなく、倭国(九州王朝)の臣下と考えた方がよさそうです。そうであれば、「蜂岡寺」(後の広隆寺)も倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の天子である阿毎多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のこととする仮説が成立しそうです。(つづく)

(注)
①『宋書』倭国伝の〝倭王武の上表文〟に、倭国の侵攻による支配地拡大がの様子が見える。
②冨川ケイ子「河内戦争」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
 正木裕「倭国の城塞首都『太宰府』」、「よみがえる『倭京』大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
⑤日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)によれば、『日本書紀』に見える九州王朝記事は年次をずらして転用するのが常であるとのこと。


第2889話 2022/12/07

「大宝二年豊前国戸籍」の秦部氏

 『隋書』俀国伝の秦王国の位置を〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟とわたしは考えており、現代の名字でも「秦」さんがうきは市に濃密分布していることに注目しています。しかしながら、明治時代に近代的な戸籍制度が施行されたとき、古来から続いた本姓を名字とすることを明治政府が禁止(注①)しているので、古代からの「秦」姓ではなく別の名字や同音の別字(注②)に置き換えて戸籍登録したと考えられ、現代の「秦」さんの分布実態がそのまま古代の「秦氏」の分布を示しているとは限りません。しかしながら、地域差もあるようで、明治政府の命令を厳格に適用した地域と、そうではなかった地域もあるようです(注③)。
 そのため、古代史料に基づいて秦氏の分布状況を調べなければなりません。たとえば、「大宝二年(702)豊前国戸籍」(注④)に「秦部」姓が多数見えることは著名です。「秦部」は秦氏の部民とされており、同戸籍には316名の「秦部」が記載されています。次の通りです。

「豊前国戸籍(大宝2年)」の秦部(注⑤)
 仲津郡丁里  217
 上三毛郡塔里  63
 加目久也里  26
 某里     10
 計  316

 この他、多くの史料中に「秦」の名が散見され、西日本を中心に各地に分布していたことがうかがえます(注⑥)。おそらく、この秦氏の分布は九州王朝(倭国)の進出に伴ったものではないかと推察していますが、その一人に、京都の広隆寺を創建したと伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。(つづく)

(注)
①管見によれば、明治政府は名字(苗字)に関わる下記の布告を発しており、この中の「姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号)」が「本姓」使用禁止の布告である。
〈発布年次 太政官布告 内容〉
○明治3年(1870)9月19日 平民苗字許可令(太政官布告第608号) 平民も自由に苗字を公称できる。
○明治3年(1870)11月19日 国名・旧官名使用禁止令(太政官布告第845号) 名前に国名(例えば但馬守や阿波守)や旧官名(衛門や兵衛)の使用禁止。
○明治4年(1871)4月4日 全国統一の「戸籍法(壬申戸籍)」制定(大政官布告第170号)
○明治4年(1871)10月12日 姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号) 日本人は公的に本姓を名乗ることはできない。
○明治5年(1872)5月7日 複名禁止令(太政官布告第149号) 公的な本名が一つに定まる。
○明治5年(1872)8月24日 改名禁止令(太政官布告第235号) 登録済みの苗字(約12万種)の変更と屋号の改称を禁止。
○明治8年(1875)2月13日 平民苗字必称令(太政官布告第22号) 国民はすべて苗字を公称せねばならぬ義務。
②羽田、波田など。日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示を得た。
③日野智貴「近代の本姓」古田史学リモート勉強会(2022年7月9日)で発表。
④『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)。
⑤「みやこ町歴史民俗博物館 WEB博物館『みやこ町遺産』」による。
⑥『ウィキペディア』には次の秦氏が紹介されている。
 秦氏の系統(一覧)
○豊前秦氏 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上群)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都群みやこ町付近)の秦部や氏名が横溢している。
○葛野秦氏 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公、秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
○深草秦氏 拠点は山城国紀伊郡深草。上宮王家が所有する深草屯倉を管理経営したとされる。大蔵の財政官人を務めた秦大津父(おおつち)、秦伊侶具(伏見稲荷大社の建立)など。
○播磨秦氏 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。
○近江依知秦氏 依知や近江など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
○若狭秦氏 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
○越前秦氏 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
○東国秦氏 駿河国、甲斐国、相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
○信濃秦氏 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる。
 ※主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。


第2888話 2022/12/05

『隋書』俀国伝「秦王国」の位置と意味

 北山背の渡来系氏族とされる秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えていますが、最初に秦王国についての古田説について紹介します。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について古田先生は筑後川流域とされました。それは次のようです。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

 筑後川流域に「秦王の国」があったとする古田説にわたしは賛成ですが、「筑後川流域」という表現ですと、久留米市や大川市も含まれてしまい、八分法で「東南」とは言いがたくなります。そこで、〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟と表現した方が良いのではないでしょうか。この点、現在でも「秦(はた)」を名字とする人々が、福岡県うきは市に濃密分布していることが注目されます(注②)。しかしながら、現在の名字「秦さん」の分布をそのまま古代の「秦氏」の分布とすることは適切ではありませんので、この点は留意が必要です(注③)。
 また、「秦王」という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見えます。

〝太秦公宿禰
 秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)〟(注④)

 これは「太秦公宿禰」は秦の始皇帝の子孫とする記事で、「大鷦鷯天皇(仁徳天皇)」の時代(五世紀頃か)には「秦王」と呼ばれていたことが記されています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、「秦」さんの分布は次のようである。
  人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
 【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示による。本姓「秦氏」の分布調査については、別途詳述する機会を得たい。
④佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、昭和三七年(1962年)。


第2887話 2022/12/04

よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院2023年 1月21日(土)

京都の秦氏と『隋書』俀国伝の秦王国

 来年1月21日(土)の新春古代史講演会のテーマと演題が次のように決まりました。

〔テーマ〕
□よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院
〔講師・演題〕
□高橋潔氏(京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
 京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―
□古賀達也(古田史学の会・代表)
 「聖徳太子」伝承と古代寺院の謎

 高橋氏の考古学的成果の発表を受けて、わたしからは考古学と文献史学による、京都市(北山背)の古代寺院群と九州王朝(倭国)との関係について論じる予定です。
 同講演に備えて、発掘調査報告書の精査と文献史学による京都(北山背)の研究を進めていますが、わたしが最も注目しているのは、北山背の渡来系氏族とされる秦氏の存在です。七世紀の古代寺院の造営にあたり秦氏が大きな役割をはたしたと通説では説明されているのですが、この秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えています。
 この秦氏の「秦」は、「はた」あるいは「はだ」と訓まれていますが、本来は「しん」であり、渡来後のある時期に「はた」「はだ」の訓みが与えられたとする記事が『新撰姓氏録』には見えます。従って、秦(しん)氏と秦(しん)王国は関係があるのではないでしょうか。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置については諸説ありますが、わたしは古田先生が推定された筑後川流域説(注)を支持しています。そして、その地に割拠した渡来系集団としての秦氏は、太宰府条坊都市の造営に貢献したのではないでしょうか。
 その秦氏の一派が倭の五王や多利思北孤の東征に伴って、北山背にも入り、当地の古代寺院群の創建に関わったとする仮説をわたしは検討しています。更には平安京造営にもその秦氏が深く関わったのではないかと考えています。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2886話 2022/12/01

十三弁軒丸瓦とフィボナッチ数列

 「洛中洛外日記」読者で久留米大学の公開講座にも参加されている菊池哲子さん(久留米市)から、興味深い情報を記したメールが届きました。九州王朝の十三弁菊花紋についての仮説(注①)に関する情報です。
 この十三弁紋は筑後地方から出土する軒丸瓦(注②)が十三弁蓮華紋であることとも対応しており、とても興味深いものですが、製造にあたり均等に分割しにくい十三弁にした理由が不明でした。ところが、菊池さんからのメールによれば、この13という数値は自然界によく現れるフィボナッチ数列であり、古代蓮の花弁は十三弁が基本であるとのことなのです。メールには次のような説明がありました。

 〝自然界によく表れてくる[フェボナッチ数列]というのがあり、「どんな花であっても花弁は3,5,8,13,21枚…のようになる」ことが多いとか。直前の2つの数の和が次の数となり、隣り合う数の比は限りなく黄金比に近づく…のだとか。花弁も品種で付き方に法則性があって、アサガオは1枚、ユリ3枚、サクラ5枚、コスモス8枚、キク科13・21・34・55枚など、花占いはだいたい初めから結果はわかっているそうです。13はこれだったのかなと思います。(中略)調べると古代のハスは、今の品種改良が進んだものと違い花弁が少なく、13枚が基本のようです。〟

 フィボナッチ数列とはイタリアの数学者フィボナッチ(1170~1259年頃)が紹介したもので、1・1・2・3・5・8・13・21・34・55・89・144~のように、前の2つの数字を足した数字という規則の数列です。この数値が自然界、中でも植物によく見られることは知っていましたが、まさか古代蓮が13弁だったとは知りませんでしたし、このフィボナッチ数列が九州王朝の家紋や筑後地方の十三弁蓮華紋軒丸瓦と関係するというアイデアなど思いもつきませんでした。これらが偶然の一致なのか、因果関係があるのかは分かりませんが、こうした視点にも留意して研究を進めたいと思います。菊池さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」992話(2015/07/03)〝九州王朝の家紋「十三弁の菊」説〟
②同「洛中洛外日記」1180話(2016/05/04)〝犬塚さんから十二弁、十三弁紋の調査報告〟
 同「洛中洛外日記」1181話(2016/05/04)〝十二弁、十三弁蓮華紋瓦の調査報告〟
 同「洛中洛外日記」1188話(2016/05/16)〝十三弁花紋と五十猛命と九州王朝〟
 同「九州王朝の家紋(十三弁紋)の調査」『古田史学会報』138号、2017年


第2885話 2022/11/29

『東京古田会ニュース』No.207の紹介

本日、『東京古田会ニュース』207号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」を掲載していただきました。同稿は和田家文書調査を開始した1994年頃からの思い出やエピソードを紹介したもので、昭和50年(1975年)から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書について詳述しました。それは次のような資料です。

一、「飯詰町諸翁聞取帳」 昭和24年(1949年)
『飯詰村史』に和田家から提供された「飯詰町諸翁聞取帳」が多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年(1951年)の刊行ですが、編者の福士貞蔵氏による自序には昭和24年(1949年)の年次が記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。福士氏は「飯詰町諸翁聞取帳」を『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951年)にも紹介しています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

二、開米智鎧「役小角」史料 昭和26年(1951年)
『飯詰村史』で和田家の「役小角」史料を紹介されたのが開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)です。開米氏は「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物について、昭和31年(1956年)11月1日から「中山修験宗の開祖役行者伝」を連載し、翌年の2月13日まで68回を数えています。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも6月3日まで80回の連載です。

三、開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964年)
和田家から提供された金光上人関連文書に基づいて著された金光上人伝が『金光上人』昭和39年(1964年)です。同書には多くの和田家文書が紹介されています。

来年1月14日(土)に開催される「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で、これらについて詳しく説明させていただきます。


第2884話 2022/11/28

「和田家文書調査の思い出」を作成

 来年1月14日(土)、東京古田会主催の「和田家文書」研究会で、「和田家文書調査の思い出」というテーマを発表させていただくことになりました。安彦克己さん(東京古田会・副会長)から要請されていたもので、ようやく発表用のパワーポイントファイルが完成しました。

 内容は、1994年から始めた古田先生との津軽行脚や独自調査の写真などを中心としたもので、懐かしい方々の写真や関連資料なども掲載しました。当時、津軽でお会いした方々の多くは物故されており、わたしの記憶が確かなうちにと、未発表の調査内容や証言をまとめました。

 たとえば昭和24年に和田家文書『諸翁聞取帳』を見て、『陸奥史談』『飯詰村史』で紹介した福士貞蔵氏。同じく役小角や金光上人史料を村史や著書で発表した開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)、佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職、青森県仏教会々長)。市浦村日吉神社に秋田孝季らが奉納した「寛政元年宝剣額」が戦前から、あるいは戦後すぐに同神社にあったことを証言された青山兼四郎氏(中里町・測量士)、白川治三郎氏(市浦村々長)、松橋徳夫氏(荒磯崎神社宮司、日吉神社宮司を兼務)。『東日流外三郡誌』約二百冊を昭和46年に市浦村役場で見たと証言された永田富智氏(北海道史編纂者)らの写真や手紙などをお見せします(肩書きや地名はいずれも当時のもの)。残念ながらこれらの方々は既に物故されており、古田先生亡き今、証言内容や調査当時のことを詳しく知っているのはわたし一人となりました。

 後半は、行方不明になった『東日流外三郡誌』明治写本や「寛政原本」の所見、戦後作成の和田家文書レプリカについても説明させていただく予定です。和田家文書に関心を持つ多くの皆さんにお聞きいただければ幸いです。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2883話 2022/11/27

『先代旧事本紀』研究の予察 (7)

 物部氏系とされる『先代旧事本紀』に物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないことを不思議に思い、研究を続けていますが、次の結論に至りました。『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』の記事を知っていたが採用(転載)しなかったわけですから、磐井と争った物部氏(筑紫の勢力)と近畿の物部氏(麁鹿火)とは別系統の物部氏であった。すなわち〝多元的物部氏伝承〟という歴史理解です。
 この筑紫の物部氏と『日本書紀』の「磐井の乱」記事について、いつの講演会かは失念しましたが、古田先生は次のように言っておられました。

〝『日本書紀』編者が「磐井の乱」記事を継体紀に掲載した理由は、王朝交代時の筑紫を支配していた物部氏は「継体天皇の時代に磐井の乱で活躍した継体臣下の物部氏麁鹿火の末裔である」とする歴史造作の為ではなかったか。〟

 この視点は「多元的物部氏伝承」と通じるものです。更に言えば、『日本書紀』編纂当時の九州には物部氏が君臨していたと古田先生は考えておられたと思られます。そうであれば、当時の九州王朝の王族は物部氏であったことになります。今のところ、ここまで断定する勇気はありませんが、九州王朝説にとって未解決の重要なテーマです。古田学派の研究者による研究の進展を期待しています。


第2882話 2022/11/24

古田先生の御遺命「和田家文書」の保存

 過日の八王子セミナーの晩、安彦克己さん(東京古田会・副会長)がわたしの部屋に見えられ、夜遅くまで和田家文書研究の情報・意見交換をさせていただきました。安彦さんは和田家文書研究の第一人者で、優れた研究をいくつも発表されています。その安彦さんから、和田家文書研究会(東京古田会主催)での発表の打診があり、その打ち合わせを兼ねて和田家文書調査の思い出を夜遅くまで語り明かしました。
 当初(1993年頃)、和田家文書を偽書ではないかと思っていたわたしでしたが、古田先生と津軽行脚を続ける中で、偽作説は成立困難であり、むしろ真作としなけば説明できない事象が調査の度に次々と明らかになったことを安彦さんに説明しました(注)。そうした津軽行脚の経緯など、まだ論文として発表していない事実を研究会でお話しできればと思います。そして、古田先生が果たせなかった課題(和田家文書の保存など)や、和田家文書研究における困難な問題点についても紹介する予定です。

(注)次の拙稿をご参照ください。
 「『和田家文書』現地調査報告和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。「古田史学の会」のHP「新・古代学の扉」に収録。
 「洛中洛外日記」2577話(2021/09/22)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(3) ―「金光上人史料」発見のいきさつ(佐藤堅瑞さん)―〟HP「新・古代学の扉」に収録。
 「平成・諸翁聞取帳 東北・北海道巡脚編 出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)」『古田史学会報』16号、1996年。HP「新・古代学の扉」に収録。
 「和田家文書に使用された和紙」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
 「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』に投稿中。


第2881話 2022/11/22

「イシカ・ホノリ・ガコ」の語源試案

 11月18日(金)に開催された「多元の会」主催の「古代史の会」にリモート参加させていただき、淀川洋子さんの研究発表「三つ鳥居巡り 和田家文書をしるべに」を拝聴しました。そのなかで、『東日流外三郡誌』など和田家文書に見える「イシカ・ホノリ・ガコ」という神像(土偶)の紹介がありました。この「イシカ・ホノリ・ガコ」は「イシカ・ホノリ・ガコ・カムイ」と記される場合もあり、古代からの東北地方の神様のようです。和田家文書ではイシカを天の神、ホノリを地の神、ガコを水の神と説明されており、この名称が中近世のアイヌ語なのか、古代縄文語まで遡るのかについて関心がありました。今回の淀川さんの発表を聞き、この語源について改めて考察する契機となりました。
 全くの思いつきに過ぎませんが、「イシカ」「ホノリ」「ガコ」がアイヌ語に見当たらないらしく、もしかすると倭語ではないかと考えたのです。まず、イシカは石狩(イシカリ)由来の地名で、たとえば佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)・碇(イカリ)のように、地名接尾語の「ガリ」「カリ」が付いたとすれば、本来はイシカ里であり、語幹はイシあるいはイシカとなります。同様にホノリもホノ里ではないかと考えたわけです。
 ガコはちょっと難解ですが、和田家文書では「水の神」とされていることから、川(カワ)の古語ではないかと推定しました。すなわち、黄河の河(ガ)と揚子江の江(コウ)です。たとえば久留米市には相川(アイゴウ)という地名があります。島根県にも江の川(ゴウノカワ)・江津(ゴウツ)があり、いずれも江・川のことを古語でゴウと呼んでいたことの名残です。このように川のことを「ガ」「コウ」と呼ぶのは倭語であるとされたのは古田先生でした。こうした例から、水の神「ガコ」とは河江(ガコウ・ガコ)のことではないかと考えたのです。
 以上の推定(思いつき)が当たっていれば、「イシカ・ホノリ・ガコ」とはイシカという地域のホノ里を流れる河と考えることができそうです。残念ながらイシカやホノの意味はまだわかりませんが、アイヌ語というよりも、倭語あるいはより古い縄文語ではないでしょうか。
 なお、ウィキペディアでは、「石狩」地名の由来は諸説あり、未詳とされているようで、「アイヌ語に由来する。蛇行する石狩川を表現したものとする考え方が大勢だが、解釈は以下のように諸説ある。」として次の説が紹介されています。

イ・シカラ・ペッ i-sikar-pet – 回流(曲がりくねった)川(中流のアイヌによる説、永田方正『北海道蝦夷語地名解』より)
イシ・カラ isi-kar – 美しく・作る(コタンカラカムイ(国作神)が親指で大地に川筋を描いた)(上流のアイヌによる説、同書より)
イシ・カラ・ペッ isi-kar-pet – 鳥尾で矢羽を作る処(和人某の説だがアイヌの古老はこれを否定、同書より)
イシカリ isikari – 閉塞(川が屈曲していて上流の先が見えない)〟

 わたしの「イシカ・ホノリ・ガコ」倭語説は、淀川さんの研究発表を聞いていて思いついたものであり、たぶん間違っている可能性が大ですが、いかがでしょうか。


第2880話 2022/11/20

『隋書』夷蛮伝の「山河」画像の迫力

 先週開催された〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟(注①)に参加して、最も印象に残ったのが大越邦生さんの発表「そうだったのか『日出づる処の天子』」でした。『隋書』俀国伝に記された九州王朝の姿や都への行程記事などについて、画像と音声により、わかりやすく、しかも迫力ある映像で説明されたものです。なかでも阿蘇山が俀国の中心にある代表的な山であることの証明に、夷蛮伝に見える他の国々の山河を大画面映像で紹介することにより成功されていました。
 そこで紹介された国とその中心的名山・大河・大湖について大越さんに問い合わせたところ、古田先生の『邪馬壹国の証明』(注②)に列記・解説されていることを教えていただきました。その解説は次の通りです。

《第一》高麗〔東夷〕「浿(はい)水。平壌城に面する。あたかも中国の洛陽・長安の都域を貫流する黄河のように、高句麗中、代表的な河川だ。」
《第二》靺鞨〔東夷〕「徒太山。(中略)靺鞨全体の風俗として、この山を神聖な山として『敬畏』しているさまがのべられている。」
《第三》俀国〔東夷〕○阿蘇山有り。其の石、故無し、火起り、天に接する者なり。
《第四》真臘〔南蛮〕「陵伽鉢婆山。都に近い所にあり、国王がその『神祠』を兵をもって守衛しているさまがのべられている。」
《第五》吐谷渾〔西域〕「青海(蒙古語でココノールと呼ばれる)。青海省の東北部にあり、面積四四五六平方キロ。従って、この吐谷渾にとって〝中心的かつ象徴的な存在の大湖〟であることは当然である。この地の龍種伝承が書かれている。」
《第六》高昌〔西域〕「赤石山・貪汚山。高昌国は現在の新疆省、吐魯番(トルファン)県。シルク・ロードの中枢地の一つである。このトルファンの地が、北は山嶺を以て鉄勒(匈奴の苗裔。回紇等)の界と相接し、南は凄絶な、不毛の大砂漠と相接している様子が活写されている。」
《第七》漕国〔西域〕「葱嶺山。漕国は、『漢書』西域伝でその特異の存在を詳記された、『ケイ賓国』の後身だ(『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版二九〇ページ参照)。西域地方の西限をなし、葱嶺の北に当たる。天山山脈、崑崙山脈の起点として知られているこの葱嶺山で、国王が華美を尽くして祭事をおこなっているさまが描かれている。(後略)」
《第八》〔北狄〕「金山。阿爾泰(アルタイ)山を言い、『突厥』の国号の起こりとなった、と説かれている。当然、突厥の中枢、シンボルをなす高山だ。」

 大越さんはこれらの名山・大河・大湖を大画面の映像で紹介されたのです。まさに古田史学も〝映像の世紀〟に入ったようです。

(注)
①八王子市の公益財団法人大学セミナーハウスが主催している一泊二日のセミナーで、21018年から毎年開催されている。「八王子セミナー」と通称されており、古田説支持者による研究発表と外部講師による講演を中心とするセミナーである。2022年は大山誠一氏の講演があった。
②古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2878話 2022/11/16

京都市埋蔵文化財研究所

   ・深草収蔵庫を訪問

 今日は京都市埋蔵文化財研究所・深草収蔵庫を訪問しました。同研究所の高橋潔さんにお会いするためです。高橋さんは、35年にわたり京都市域の遺跡発掘に携わってきた現役の考古学者です。来年1月21日(土)、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催する新春古代史講演会で講演していただけることとなり、その打ち合わせを行いました。
 講演テーマは「京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―」です。このテーマは3年前に開催された展示会(注①)と同じ内容で、七世紀に建築された京都市域の古代寺院の発掘成果に関するものです。同展示をわたしも拝見したのですが、これほどの大型寺院群が『日本書紀』にも記されておらず、この地に存在していたことに驚きました。おそらく、近畿天皇家とは別の勢力の影響の下に創建されたものと推定しています(注②)。
 新春講演会の詳細はこれから検討を進めますが、おそらく多くの皆さんにとって、初めて聞く講演内容と思います。ご期待ください。

【令和5年新春古代史講演会】
□日時 2023年1月21日(土) 午後1時~5時を予定
□会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170名
□主催 古田史学の会・他
□高橋潔さんのご紹介
 公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長。
 1963年京都市生まれ。1988年京都市埋蔵文化財研究所入所、以後京都市内の遺跡、平安京跡をはじめ、多くの遺跡の発掘調査を実施、京都市考古資料館副館長を経て、2022年より現職。
 主な著作:「山背国時代の寺院」(共著)『平安京提要』角川書店、1994年。『上里遺跡Ⅰ ―縄文時代晩期集落遺跡の調査―』京都市埋蔵文化財研究所調査報告第24冊、2010年。「遷都以前の山背国」『恒久の都 平安京(古代の都3)』吉川弘文館、2010年。他。

(注)
①2019年、京都市考古資料館(上京区)で開催された特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」。
②古賀達也「洛中洛外日記」1885~1890話(2019/05/05~09)〝京都市域(北山背)の古代寺院(1)~(6)〟
 同「山城(京都市)の古代寺院と九州王朝」『東京古田会ニュース』188号、2019年。