古賀達也一覧

第2986話 2023/04/14

前期難波宮と藤原宮の官僚群の比較

 数学・論理学などの公理(研究者が事実と考えても良いと合意できる命題)を歴史学というあいまいで不鮮明な分野に援用して、古代史研究における「公理」として論証に使用できないものかとわたしは考えてきました(注①)。今回は七世紀の律令制都城の絶対的な存立条件として〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在(注②)〟を「公理」として位置づけるために、大宝律令(701年)で規定した中央官僚と同規模の官僚群を九州王朝(倭国)律令でも規定していたとする理由を説明します。
わたしは次の根拠と論理構造により、七世紀後半の九州王朝にも同規模の中央官僚群がいたと考えています。

(1) 前期難波宮(九州王朝時代、七世紀(652~686年)に存在した列島内最大の朝堂院様式の宮殿)の規模が、大宝律令時代の王宮・藤原宮の朝堂院とほぼ同規模であり、そこで執務する中央官僚群もほぼ同規模と見なすのが妥当な理解である。

(2) 同様に、約八千人の中央官僚を規定した『養老律令』成立時代の平城宮の朝堂院も藤原宮とほぼ同規模であり、そこで執務した中央官僚群の規模も同程度と考えるのが妥当。

(3) 従って、九州王朝時代の王宮・前期難波宮で執務した中央官僚群の規模を約八千人と見なしても、大きく誤ることないと考えて良い。

(4) 701年を境に、出土木簡の紀年表記が干支から年号(大宝元年~)へと全国一斉に変更されていることから、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代は、事前に周到に準備(各国・各評への周知徹底)されていたはずであり、王朝交代はほぼ平和裏に行われたと考えられる。同様の変更は行政単位(「評」から「郡」へ)でも見られる。

(5) 上記の史料事実は「禅譲」の可能性を示唆し、従って、王朝交代時(701年)の倭国と日本国の版図はほぼ同範囲と見なしてよい。おそらくは九州島から北関東・越後までか。この時期の東北地方は蝦夷国である。

(6) 701年に成立した大宝律令は、七世紀最末期の九州王朝時代に編纂を開始したと考えられ、その時点での九州王朝(倭国)領域の統治を前提に編纂されたことを疑えない。このことは(4)(5)とも整合する。

 以上のことから、わたしが「公理」と見なした〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在〟は、七世紀の律令制都城存立の絶対条件と考えています。なお、前期難波宮創建時(652年)時点の律令と王朝交代直前の律令とでは、官職数や官僚人数に差があったことは推定できますが、前期難波宮の規模を考慮すると、大きくは異ならないのではないでしょうか。この点、九州王朝律令の復元研究が必要です。(つづく)

(注)
①歴史研究に「公理」という概念や用語を使用することに、数学を専攻された加藤健氏(古田史学の会・会員、交野市)や哲学を専攻された茂山憲司氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、その難しさや危険性について、注意・助言を得た。留意したい。
②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2984話 2023/04/12

『古田史学会報』175号の紹介

 『古田史学会報』175号が発行されました。一面には拙稿「唐代里単位の考察 ―「小里」「大里」の混在―」を掲載して頂きました。『旧唐書』倭国伝の「去京師一萬四千里」や同地理志に見える里程記事は実際距離との整合が難しく、実測値から換算した一里の長さもバラバラです。この「一萬四千里」が短里なのか唐代の長里なのかなど、京師(長安)から倭国までの距離について諸説が出されています。本稿では、諸説ある唐代の里単位について考察し、『旧唐書』に「小里」(約430m)と「大里」(約540m)が混在していることを論じました。

 谷本稿は、『古田史学会報』173号の大原稿「田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察」への批判論文で、史料の解釈上の問題点と田道間守の持ち帰った橘をバナナとする西江碓児説の有効性についての指摘です。谷本さんらしい、厳密な史料読解と諸仮説への慎重な姿勢を促す論稿と思われました。

 日野稿は倭国における名字の発生や変遷について論じたもので、古田先生も古田学派内でもあまり論じられてこなかったテーマです。日本史上で使用されてきた「姓(かばね)」「本姓」「氏」「名字」などの定義(注①)とその変遷の煩雑さ・重要さを改めて考えさせる論稿でした。

 大原稿は関西例会でも発表されたもので、三内丸山遺跡の六本柱〝高層建築物(高さ20m)〟の復元が誤っているとするものです。同復元作業における様々な疑問点を指摘し、実際はもっと低い建物と考えざるを得ないとされました。吉野ヶ里遺跡の楼観についても疑義を示されており(注②)、今後の検証が期待されます。

 今号には2023年度の会費振込用紙が同封されています。「古田史学の会」の各種事業は皆様の会費・ご寄付に支えられていますので、納入をよろしくお願い申し上げます。

175号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。
【『古田史学会報』175号の内容】
○唐代里単位の考察 ―「小里」「大里」の混在― 京都市 古賀達也
○常世国と非時香菓について 神戸市 谷本 茂
○上代倭国の名字について たつの市 日野智貴
○三内丸山遺跡の虚構の六本柱 大山崎町 大原重雄
○「壹」から始める古田史学・四十一
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅲ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2023年度会費納入のお願い
○編集後記

(注)
①ウィキペディアでは「姓氏」「名字」について、次の説明がなされている。(以下、転載)
姓氏(せいし)とは、「かばね(姓)」と「うじ(氏)」、転じて姓や名字(苗字)のこと。
名字または苗字(みょうじ、英語:surname)は、日本の家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏(民法750条、790条など)、通俗的には姓(せい)ともいう。
日本の名字は、元来「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった。以下の文では表記を統一するため固有名、法令名、書籍名を除き「名字」と記載する。
「名字」と「姓」又は「氏」はかつては異なるものであった。たとえば清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が「名字」、「次郎三郎」が「通称」、「源」が「氏(うじ)」ないし「姓(本姓)」、「朝臣」が「姓(カバネ)」(古代に存在した家の家格)、「家康」が「諱(いみな)」(本名、実名)となる。
②吉野ヶ里遺跡の「環濠」や「土塁・柵」の疑義について、大原氏の次の論稿がある。
大原重雄「弥生環濠施設を防衛的側面で見ることへの疑問点」『古田史学会報』149号、2018年。


第2983話 2023/04/10

七世紀後半の近畿天皇家の実勢力

 — リモート勉強会での谷本・古賀問答

 4月8日(土)のリモート勉強会(注①)で発表した「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」について、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)とわたしとで真剣な質疑応答が続きました。特に重要な指摘で、わたし自身も再考の必要を感じたのが、王朝交代前(七世紀後半)の近畿天皇家の実勢力(統治領域・具体的施策)をどの程度なのかという論点でした。
前期難波宮造営(九州年号の白雉元年・652年)には九州王朝(倭国)は評制と律令により全国統治(注②)を開始し、白村江戦敗戦(663)により国力は衰退しますが、それでも王朝交代の701年まで形式的には続いたとわたしは捉えていました。そう考える根拠は次の通りです。

(1) 茨城県から九州年号「大化五子年(699)」土器が出土しており、王朝交代直前の関東まで九州王朝の影響力が及んでいたと考えられる(注③)。
(2) 701年に行政単位が九州王朝の「評」から大和朝廷の「郡」へと全国一斉に変更されており、事前の準備(各国への周知徹底)がなされたはず。この事実から、王朝交代はほぼ平和裏に行われたと推定できる。
(3) 飛鳥宮・藤原宮出土の七世紀(「評」表記)の荷札木簡によれば、九州からの貢献が見えないことから、王朝交代直前まで九州王朝の権威・権力が九州には色濃く残っていたと考えるのが穏当。

 わたしはこのように返答したのですが、谷本さんからは(3)について、飛鳥宮・藤原宮出土の七世紀の木簡には干支だけで九州年号が記されていないのは、たとえば近畿天皇家の政治的意志(命令)であり、当時既に列島内の広領域を近畿天皇家が統治していたなどの可能性も考えるべきとする指摘がありました。そして逆に荷札木簡の国名から外れた九州諸国と長門が、当時の九州王朝の勢力範囲とみることもできるとされました。すなわち、七世紀の第4四半期には近畿天皇家(天武・持統)が九州王朝を超えたとする可能性の指摘です。
荷札木簡による近畿天皇家の勢力範囲について考察を発表したことがあります(注④)。また、木簡に九州年号が記されていない理由については、九州王朝が木簡への年号使用を禁じたとする仮説(注⑤)をわたしは発表していますが、谷本さんからの指摘も含めて、幅広く再検討する必要を感じました。このように真摯な指摘やご批判により、自説の弱点や不十分さに気付くことができ、感謝しています。11月の八王子セミナー本番に向けて、更に考察を深めたいと思います。(つづく)

(注)
①Skypeを使用した勉強会を毎月の第二土曜日の夜に開催している。
②九州から関東・越後くらいまでを九州王朝は統治したと考えている。それ以東は蝦夷国。
③七世紀の九州年号史料について次の拙稿で論じた。
「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」、「木簡に九州年号の痕跡 『三壬子年』木簡の史料批判」、「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。
「『白鳳壬申』骨蔵器の証言」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』古田史学の会編、明石書店、2017年。
④古賀達也「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』199号、2021年。
同「七世紀末の近畿天皇家の実像 ―飛鳥・藤原宮木簡の証言―」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1385話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟
同「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)


第2981話 2023/04/08

リモート勉強会で

   八王子セミナーの予行演習

 今日は全国各地の研究者とSkypeでリモート勉強会を行いました。この勉強会では毎回二人の方から研究報告をしていただき、論議・検証を進めるというものです。今回はわたしと赤尾恭司さん(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が次の研究を発表しました。

○古賀 七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―
○赤尾 天平時代の「筑紫」の様相 西海道節度使に関する万葉歌を手がかりとして

 わたしの発表は八王子セミナー2023と同じ演題ですが、これは同セミナーの予行演習を兼ねたものです。赤尾さんは、万葉歌(971番)の「賊(あだ)守る筑紫に至り」の新読解と王朝交代後(八世紀)の筑紫における九州王朝(倭国)の残影(賊)について論じたもので、興味深い研究でした。
わたしの発表は、次の二つの方法論とそれに基づく解釈を提起したものです。

〔方法1〕史料(エビデンス)がより豊富な八世紀前半の歴史像に基づき、七世紀の歴史像を復元する。
〔方法2〕律令制王都存立の絶対条件(公理)を抽出し、七世紀の王都候補からその条件全てを備えた遺構を王都とみなす。

 〔方法1〕と〔方法2〕の〝律令制王都存立の絶対条件〟については評価して頂けたようですが、史料(エビデンス)に対する解釈については谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)や赤尾さんから、厳しいご批判をいただきました。具体的には、七世紀後半の九州王朝と近畿天皇家(天武・持統)の力関係・統治領域について、後者の影響力をもっと重視すべきという批判です。(つづく)


第2980話 2023/04/06

〝八王子セミナー2023〟の演題と要旨(案)

今年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟(注)での発表依頼を頂きましたので、演題と要旨(案)を実行委員会の和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)に提出しました。要旨は字数制限(100字)があって、何度も書き直しました。まだ案文ですから、変更になるかもしれませんが、ご参考までに紹介します。「発表概要」も付記しますが、こちらは検討中のもので、これからの研究成果も追加します。

八王子セミナー2023 (2023年11月11日~12日)
古賀達也(古田史学の会)

《演題》
七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―

《要旨》
大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出、これを七世紀の遺構に適用し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷を論じる。

《発表概要》(検討中)
○律令制王都の絶対条件
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

○須恵器坏B(卓上用途の食器)の発生と律令制官僚群の誕生
○回転台(ロクロ)成形の土師器(煮炊き用途)の量産体制
○太宰府条坊都市の造営と牛頸窯跡群の盛衰
○前期難波宮(難波京)の創建と杯Bの検出
○古代最大の灌漑施設、狭山池の造営と九州王朝の難波進出

(注)正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。


第2979話 2023/04/05

来月、津軽へ調査旅行します

 東京古田会主催の和田家文書研究会にリモート参加し、古田先生との『東日流外三郡誌』調査の思い出などを発表させていただいています(注)。それが契機となり、青森県の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんとの交流が本格化し、来月(5/06~10)、当地を訪問することになりました。連休中は弘前城などの花見客が多く、ホテルを予約できず、この日程になりました。
30年前、和田家文書調査のため弘前市を訪問したとき、弘前城の満開のしだれ桜に感動したことを覚えています。風が吹く度に周囲の空間が花びらでピンク色に染まります。今までわたしが見た桜では、ベストスリーに入る素晴らしさでした。
今回の津軽旅行の目的は、和田家文書の現状調査と当地の研究者との交流、そして藤本光幸さんのお墓参りです。藤本さんには和田家文書調査でお世話になった恩人です。藤崎町の藤本邸に泊めていただき、夜遅くまで歓談・痛飲したことは、忘れ得ぬ思い出です。藤本さんはお酒(ウイスキー)が大好きで、古田先生と三人のときは、お酒を飲まない先生の分までわたしが飲んだものです。笑顔が素敵で、実に心優しい方でした。

(注)1月は「和田家文書調査の思い出」、3月は「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」を発表。5月は「『東日流外三郡誌』の考古学」を発表予定。


第2978話 2023/04/02

菅谷文則著

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』

  を読む

 本日の橿原市でのシンポジウム(注①)は、満席で入りきれない方も出るほどの大盛況でした。奈良県民の皆さんは土地柄からか歴史に関心が高く、ご質問の内容も深いものでした。
会場の橿原文化会館に早めに着きましたので、お隣にある近鉄百貨店内のジュンク堂書店で歴史関連書籍の棚を見てきました。今、研究を続けている大安寺関連の本が並んでいましたので、その中から菅谷文則著『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』(注②)を買いました。著者の菅谷文則さん(1942~2019年)は橿原考古学研究所々長を務めた考古学者です。同書は菅谷さんの講演内容を森下恵介さん(橿原考古学研究所共同研究員)がとりまとめたものとのこと。
同書を読み始め、真っ先に確認したのが菅谷さんが同縁起中の「仲天皇」と「袁智天皇」を誰のこととしているのかです。結論のみを言えば、「仲天皇」を天智の妃の倭姫命、「袁智天皇」を皇極太上天皇としています。この比定の根拠や理由は、同書には示されていないようです。「仲天皇」を倭姫命とすることは理解できますが、「袁智天皇」を皇極とする説は微妙です。引き続き、検討します。

(注)
①「シンポジウム 徹底討論 真説・藤原京」古代大和史研究会(原幸子会長)主催、古田史学の会後援。
②菅谷文則著『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』東方出版、2020年。


第2977話 2023/03/30

『大安寺伽藍縁起』の

  「小治田宮御宇太帝天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)に見える天皇名表記で、推古天皇だけが異質です。同縁起冒頭部分(注①)に推古を次のように記しています。

(a)小治田宮御宇太帝天皇 (b)太皇天皇 (c)天皇

 この中で(a)(b)が『日本書紀』には見えない異質の天皇名表記です。「太帝天皇」や「太皇天皇」のように同類の称号が二段になっている例は『古事記』『日本書紀』には見えない表記方法で、管見では古代の金石文や遺文には二人の人物に対して用いられています。推古天皇と九州王朝の天子、阿毎多利思北孤の二人です。後者は伊豫温湯碑に見える「法王大王」という表記です。前者の推古は当縁起の「太帝天皇」「太皇天皇」の他にもその用例が知られています。以下にそれら全てを列記します。

《阿毎多利思北孤・上宮法皇》
〔伊予温湯碑〕「法王大王」

《推古天皇》
〔大安寺伽藍縁起并流記資財帳〕「太帝天皇」「太皇天皇」
〔法隆寺薬師如来像光背銘〕「大王天皇」「小治田大宮治天下 大王天皇」
〔元興寺伽藍縁起并流記資財帳〕「大〃王天皇」
〔上宮聖徳法王帝説〕「大王天皇」「少治田大宮御宇 大王天皇」

 このように何故か近畿天皇家では推古天皇だけが二段称号表記が見られます。九州王朝の多利思北孤の場合は、出家した天子〝法王〟と倭王の通称〝大王〟を併記したものと理解できますが、近畿天皇家の場合、なぜ推古だけにこうした二段表記にされたのかが問題です。この疑問を解く鍵が他ならぬ『大安寺伽藍縁起』の田村皇子(後の舒明天皇)の発言中にあります。

「田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺」

 ここに見える「遠皇祖并大王」と「繼治天下天皇御世御世」の意味するところは、遠い皇祖の時代に並ぶ古(いにしえ)の称号は「大王」であり、それを継いで天下を治めたのが「天皇」を称号とする歴代の先祖であると、同縁起編纂者あるいは元史料の作成者が認識していたことを示しています。ですから、推古の称号「大王天皇」は、「大王」を称していた推古が「天皇」号を採用することができた〝最初の近畿天皇家の大王〟であるとする認識、あるいは歴史事実の反映ではないでしょうか。もし、初代の神武から天皇を称していたと認識していたのであれば、「遠皇祖并治天下天皇御世御世」とでも記せばよく、遠皇祖と治天下天皇の間に大王の存在を記す必要はないのですから。

 この点、『古事記』『日本書紀』は初代の神武から天皇号表記を採用していますが、今回紹介した推古の二段称号問題は『日本書紀』などの〝神武から天皇を名のった〟という大義名分が史実ではないことを間接的に証言していたことになります。

 それでは近畿天皇家がいつから天皇号を採用したのかについて、本テーマの考察が正しければ、古田先生晩年の説(王朝交代後の文武から)よりも、旧説(推古から)の方が妥当ということになります(注②)。ちなみに近畿天皇家一元史観内では、飛鳥池出土「天皇」木簡などの実証を主な根拠とする〝天皇号は天武から〟が有力になりつつあるように感じています。

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の冒頭部分は次の通り。
「大安寺三綱言上
伽藍縁起并流記資財帳
初飛鳥岡基宮御宇天皇《舒明》之未登極位、號曰田村皇子、
是時小治田宮御宇太帝天皇《推古》、召田村皇子、以遣飽浪葦墻宮、令問廐戸皇子之病、勅、病状如何、思欲事在耶、樂求事在耶、復命、蒙天皇之頼、無樂思事、唯臣〔伊〕羆凝村始在道場、仰願奉爲於古御世御世之帝皇、將來御世御世御宇帝皇、此道場〔乎〕欲成大寺營造、伏願此之一願、恐朝庭讓獻〔止〕奏〔支〕、
太皇天皇《推古》受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、愛哉善哉、汝姪男自來問吾病矣、爲吾思慶可奉財物、然財物易亡而不可永保、但三寶之法、不絶而可以永傳、故以羆凝寺付汝、宜承而可永傳三寶之法者、
田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺、仍奉將妻子、以衣齋(裹)土營成而、永興三寶、皇祚無窮白、
後時天皇《推古》臨崩日之、召田村皇子遺詔、皇孫朕病篤矣、今汝登極位、授奉寶位、與上宮皇子讓朕羆凝寺、亦於汝〔毛〕授〔祁利〕、此寺後世流傳勅〔支〕、(以下略)」
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻、東京堂、1962年。《》内と段落分けは古賀による。
②古賀達也「七世紀の「天皇」号 ー新・旧古田説の比較検証ー」『多元』155号、2020年。


第2976話 2023/03/29

『東京古田会ニュース』No.209の紹介

 『東京古田会ニュース』209号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を掲載していただきました。同稿は3月11日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマで、30年ほど前に行った『東日流外三郡誌』の存在を昭和三十年代頃から知っていた人々への聞き取り調査の報告です。当時、証言して頂いた方のほとんどは鬼籍に入っておられるので、改めて記録として遺しておくため、同紙に掲載していただいています。次号には「『東日流外三郡誌』の考古学」を投稿予定です。
当号には特に注目すべき論稿二編が掲載されていました。一つは、同会の田中会長による「会長独言」です。今年五月の定期総会で会長職を辞されるとのこと。藤澤前会長が平成28年(2016)に物故され、その後を継がれて、今日まで会長としてご尽力してこられました。
当稿では、「高齢化の波は当会にも及んでおり、会員の減少だけでなく、月例学習会への結集も低迷が続いています。」と、高齢化やコロナ過による例会参加者数の低迷を吐露されています。これは「古田史学の会」でも懸念されている課題です。日々の生活や目前の関心事に追われるため、わが国の社会全体で〝世界や日本の歴史〟を顧みる国民が減少し続けていることの反映ではないでしょうか。そうした情況にあって、例会へのリモート参加が高齢化の課題解決に役立っているのではないかと、田中会長は期待を寄せられています。わたしも同感です。この方面での取り組みを、わたし自身も始めましたし(古田史学リモート勉強会)、「古田史学の会」としても同体制強化を進めてきました。関係者のご理解とご協力を得ながら、更に前進させたいと願っています。
注目したもう一つの論稿は新庄宗昭さん(杉並区)の「小論・酸素同位体比年輪年代法と法隆寺五重塔心柱594年の行方」です。奈文研による年輪年代法が、西暦640年以前では実際よりも百年古くなるとする批判が出され、基礎データ公開を求める訴訟まで起きたことは古代史学界では有名でした。そうした批判に対して、奈文研の測定値は間違っていないのではないかとする論稿〝年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―〟をわたしは『東京古田会ニュース』200号で発表しました。今回の新庄稿ではその後の動向が紹介されました。
奈文研の年輪年代のデータベース木材をセルロース酸素同位体比年輪年代法で測定したところ、整合していたようです。その作業を行ったのは、「古田史学の会」で講演(2017年、注①)していただいた中塚武さんとのこと。中塚さんはとてもシャープな理化学的論理力を持っておられる優れた研究者で(注②)、当時は京都市北区の〝地球研(注③)〟で研究しておられました。氏の開発された最新技術による出土木材の年代測定に基づいた、各遺構の正確な編年が進むことを期待しています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1308話(2016/12/10)〝「古田史学の会」新春講演会のご案内〟
②同「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟で、中塚氏との対話を次のように紹介した。
「中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。
「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」
中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。」
③総合地球環境学研究所。地球研は略称。


第2975話 2023/03/27

『大安寺伽藍縁起』の

  「飛鳥浄御原宮御宇天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)の正式名称は『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』と言い、冒頭に大安寺建立に関わる縁起が記され、その後に資財帳部分が続きます。資財帳部分には大安寺に奉納された仏具仏像などが、いつ誰から奉納されたのか列記されており、言わば大安寺の財産・不動産目録のようなものです。その資財帳部分を熟読したところ、ここにも興味深い記事がありましたので紹介します。それは天武天皇が〝壬申の乱〟の翌年(673年)に大安寺に奉納したとする下記の記事です(注①)。※()内の番号は、「洛中洛外日記」前話で付した番号。《》内は古賀による比定。

(26)漆佰戸
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(27)合論定出擧本稻參拾万束
在 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相摸 常陸等國
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(28)合墾田地玖佰參拾貳町
在紀伊國海部郡木本郷佰漆拾町
四至〔東百姓宅并道 北山 西牧 南海〕
若狹國乎入郡嶋山佰町
四至〔四面海〕
伊勢國陸佰陸拾貳町
員辨郡宿野原伍佰町
開田卅町 未開田代四百七十町
四至〔東鴨社 南坂河 西山 北丹生河〕
三重郡宮原肆拾町
開十三町 未開田代廿七町
四至〔東賀保社 南峯河 北大河 西山限〕
奄藝郡城上原四十二町
開十五町 未開田代三十七町
四至〔東濱 南加和良社并百姓田 西同田 北濱道道之限〕
飯野郡中村野八十町
開三十町 未開田代五十町
四至〔東南大河 西横河 北百姓家并道〕
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

 上記の記事が史実とすれば、〝壬申の乱〟に勝利した天武は関東・関西の広範囲を自らの支配下に置いたことになります。具体的には、「遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・常陸」から「本稻參拾万束」(30万束)を大安寺に送り、「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」の「墾田地、玖佰參拾貳町」(932町)を寄進していることから、少なくともそれらの国々を支配下に収めたと考えざるを得ません。なお、「紀伊國海部郡」「若狹國乎入郡」「伊勢國 員辨郡・三重郡・奄藝郡・飯野郡」とあるように、七世紀後半の行政単位「評」を縁起成立時(天平十九年・747年)の行政単位「郡」に書き変えています。

 この記事と対応するのが、飛鳥宮跡地域から出土した七世紀(評制期)の荷札木簡です(注②)。中でも墾田を寄進した「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」からの荷札木簡が紀伊國(1点)、若狹國(5点)、伊勢國(6点)出土しており、資財帳の記事と整合しています。こうしたことから、同資財帳の「飛鳥浄御原宮御宇天皇」記事は信頼してもよいように思います。

 そうすると、天武は〝壬申の乱〟の勝利後に「飛鳥浄御原宮御宇天皇」と称するにふさわしい権力者になったと思われます。その実証的根拠として、飛鳥池出土の「天皇」木簡や「皇子」木簡(注③)、「詔」木簡の存在がクローズアップされるのです。(つづく)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)による。
②市大樹『飛鳥藤原木簡の研究』収録「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別木簡の点数。「飛鳥宮」とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他、「藤原宮(京)」とは藤原宮跡・藤原京跡のこと。
【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350
③同遺跡の天武期の層位から、『日本書紀』に見える天武の子供たちの名前を記した「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」木簡が出土している。従って、同じく出土した「天皇」木簡は天武天皇のことと考えるのが妥当である。


第2974話 2023/03/26

『大安寺伽藍縁起』の「飛鳥宮御宇天皇」

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)の精査を続けたところ、いくつかの面白い問題に気付きました。その一つが天皇名の宮号表記でした。同縁起には近畿天皇家の天皇名が次のように表記されています。縁起に登場する順に並べました。《》内は古賀による比定です。( )内は西暦。

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の天皇名表記部分
※底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)

(1)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位、號曰田村皇子
(2)《推古》小治田宮御宇太帝天皇
(3)《推古》太皇天皇受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、~
(4)《斉明》後岡基宮御宇天皇、造此寺司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行車(幸カ)筑志朝倉宮、將崩賜時、~
(5)《天智》近江宮御宇天皇、奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、~
(6)《?》仲天皇、奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之~
(7)《天武》後飛鳥淨御原宮御宇天皇、二年歳次癸酉(673)十二月壬午朔戊戌、造寺司小紫冠御野王、小錦下紀臣訶多麻呂二人任賜~
(8)《天武》六年歳次丁丑(677)九月康(庚)申朔丙寅、改高市大寺號大官大寺、十三年(684)天皇大御壽、然則大御壽更三年大坐坐〔支〕~
(9)《文武》後藤原宮御宇天皇朝庭
(10)《文武》後藤原朝庭御宇天皇、九重塔立金堂作建、並丈六像敬奉造之
(11)《聖武》平城宮御宇天皇、天平十六年歳次甲申(744)六月十七日
(12)《天智》淡海大津宮御宇天皇、奉造而請坐者
(13)《?》袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者
(14)《天武》右以丙戌年(686)七月、奉爲淨御原宮御宇天皇、皇后并皇太子、奉造請坐者
(15)《天智》淡海大津宮御宇天皇、奉造而請坐者
(16)《聖武》平城宮御宇天皇、以天平八年歳次丙子(736)造坐者
(17)《元正》平城宮御宇天皇、以養老七年歳次癸亥(723)三月廿九日請坐者
(18)《持統》飛鳥淨御原宮御宇天皇、以甲午年(694)請坐者
(19)《持統》飛鳥淨御原宮御宇天皇、以甲午年(694)坐奉者
(20)《元正》平城宮御宇天皇、以養老六年歳次壬戌(722)十二月七日納賜者
(21)《舒明》前岡本宮御宇天皇、以庚子年(640)納賜者
(22)《舒明》飛鳥宮御宇天皇、以癸巳年(633)十月廿六日、爲仁王會 納賜者
(23)《元正》平城宮御宇天皇、以養老六年歳次壬戌(722)十二月七日納賜者
(24)《聖武》平城宮御宇天皇、以天平二年歳次庚午(730)七月十七日納賜者
(25)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(26)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(27)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(28)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(29)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(30)《聖武》平城宮御宇天皇、天平十六年歳次甲申(744)納賜者

 わたしが注目したのが、下記の舒明の表記です。

(1)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位、號曰田村皇子
(21)《舒明》前岡本宮御宇天皇、以庚子年(640)納賜者
(22)《舒明》飛鳥宮御宇天皇、以癸巳年(633)十月廿六日、爲仁王會 納賜者
(25)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(29)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
※舒明の在位期間(629~641)

 このなかで、(22)の「飛鳥宮御宇天皇」の表記が「船王後墓誌」(注)の「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」と類似しており、七世紀後半から八世紀前半にかけての同墓誌や同縁起の編纂者らが、舒明のことを「アスカの宮で天下を統治する天皇」と認識し、そのように名前を表記するケースもあったことがわかります。なお、『日本書紀』には「飛鳥宮御宇天皇」や「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」という表記は見えません。(つづく)

(注)「船王後墓誌」の銘文と訓み下しは次の通りである。
(表)
惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故
首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由
羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之
朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故
戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自
同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万
代之霊其牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
「惟(おも)ふに舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏中祖 王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀(おさだ)の宮に天の下を治(し)らし天皇の世に生れ、等由羅(とゆら)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦(あすか)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦(あすか)天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故(ありこ)の刀自(とじ)と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固(ろうこ)せんがためなり。」

銘文中の各天皇の宮に対する通説での比定は次のとおり。
(1)乎娑陀宮 敏達天皇(572~585)
(2)等由羅宮 推古天皇(592~628)
(3)阿須迦宮 舒明天皇(629~641)


第2973話 2023/03/25

『大安寺伽藍縁起』の

   仲天皇と袁智天皇 (4)

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)の「仲(なか)天皇」の場合、一連の記事中に「後岡基宮御宇天皇(斉明)」「天皇(斉明)行幸筑志朝倉宮、將崩賜時」「爾時近江宮御宇天皇(天智)」とあり、その後に「仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等」と仲天皇の発言記事が続きますから、この記事が斉明の最晩年の時期のものと同縁起編纂者には認識され、天智とも関係する人物とされています。こうした史料事実に基づき、仲天皇の比定について諸説出されているわけです。
他方、「袁智(おち)天皇」の記事は次のようであり、史料情況が異なります。

「宮殿二具〔一具千佛像 一具三重千佛像〕 金(泥)雜佛像參具 木葉形佛像一具 金(泥)灌佛像一具 金(泥)雜佛像三(躯) 金(泥)太子像七(躯) 金(泥)菩薩像五(躯)
合(繍)佛像參帳〔一帳高二丈二尺七寸廣二丈二尺四寸 二帳並高各二丈廣一丈八尺〕 一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像
右袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢、即請者」

 奉納された仏具仏像の説明として、〝難波宮に坐す袁智天皇、庚戌年(650年)冬十月に始めて、辛亥年(651年)春三月に造り畢わる〟とあることから、恐らく通説では袁智天皇を孝徳としているはずです。というよりも、近畿天皇家一元史観ではそれ以外の候補者がいません。ちなみに、この庚戌年(650年)と辛亥年(651年)は、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年と二年、九州年号では常色四年と五年に相当します。
この記事で注目すべきは、「袁智天皇坐難波宮」とある部分です。もし孝徳天皇であるのなら、同縁起中の他の多くの天皇表記と同様に「難波長柄豊碕宮天皇御宇」と縁起編纂者は記したはずです。また、前期難波宮(九州王朝の複都)の創建は652年壬子(『日本書紀』の白雉三年、九州年号の白雉元年)であり、庚戌年(650年)辛亥年(651年)は未完成です。従って、袁智天皇を九州王朝系の天皇と考えた場合、「坐難波宮」の理解が困難です。このことは、『日本書紀』に見えない袁智天皇を九州王朝系の天皇とする場合の克服すべき課題です。
ひとつのアイデアとしては次のようなものがあります。それは袁智天皇を、前期難波宮(難波京)造営を九州王朝から命じられた袁智(越智)国(現愛媛県)の有力者であり、九州王朝から天皇号を与えられたとする作業仮説です。その傍証として『伊予三島縁起』に見える次の記事があります(注①)。

「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(648年)、日本国をご巡礼したまう。」
〔原文〕卅七代孝徳天王位 番匠初 常色二年戊申 日本国御巡礼給

  『伊予三島縁起』は九州年号史料として著名で、「端政二暦庚戌(590年)」「金光三暦壬辰(572年)」「願轉元年辛丑(601年)(注②)」「常色二年戊申(648年)」「白鳳元年辛酉(661年)」「大長九年壬子(712年)」などの九州年号が見えます。とりわけ、「大長九年壬子(712年)」は九州年号が701年の王朝交代後も続いていることを示しており、貴重です(注③)。番匠記事に続く「常色二戊申」も要注目です。前期難波宮のゴミ捨て場と見られる層位から「戊申年」木簡が出土しているからです。この年次の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するものと正木さんは指摘されています(注④)。
もし、このアイデアが当たっていれば、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」も袁智天皇と関係があるのかもしれません。(つづく)

(注)
①『伊予三島縁起』内閣文庫本(番号 和34769)による。齊藤政利氏(古田史学の会・会員、多摩市)から同書写真を提供していただいた。
②『二中歴』によれば願轉の元年干支は「辛酉」。「辛丑」とあるのは誤写・誤伝か。
③同じ内閣文庫の『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)や五来重編『修験道資料集』所収本には「天長九年壬子(832年)」とあり、「大長」が「天長」に書き変えられている。この点、内閣文庫本(番号 和34769)が最も九州年号の原型を伝えている。大長年号については次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」(『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同前。
「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
④正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。