古賀達也一覧

第2330話 2020/12/22

群書類従「伊香氏系図」の二倍年齢

 九州王朝の家臣「千手氏」「大蔵氏」調査のため、群書類従の系図を久しぶりに読みなおしました。同書は『群書系図部集』七冊本として続群書類従完成会より発行されたもので、編纂者は江戸時代の学者、塙保己一(はなわ ほきいち、1746~1821年)です。
 前に読んだ時は気づかなかったのですが、『群書系図部集 第七』の「伊香氏系図」(注①)に二倍年齢と考えざるを得ない記事がありましたので紹介します。同系図は冒頭の「伊香津臣命」から「伊香宿禰豊厚」「伊香宿禰豊氏」兄弟へと続き、それ以降は兄の「伊香宿禰豊厚」の子孫へと続いています。その兄弟の傍注に次の記事が見えます。

 「伊香宿禰豊厚
  天武天皇御宇白鳳十年辛巳以伊香字卽賜姓。此兄馮爲伊香郡開發願主也。歳百卅七。」
 「伊香宿禰豊氏
  歳百五。」

 この記事から、次の三点が読み取れます。

(1)伊香津臣氏は「天武白鳳十年」辛巳(681)に「宿禰」姓をもらった
(2)近江国伊香郡(評)の有力者、伊香宿禰兄弟の
(3)没年齢が兄137歳、弟105歳

《解説》
(1)この白鳳は天武元年(672)を白鳳元年とする、後世の改変型九州年号。本来の九州年号(注②)白鳳は元年が661年で、23年間続く。同系図によれば、伊香宿禰豊厚の子供の厚彦が大宝(701~703年)時代、厚彦の子供の厚持が和銅(708~714年)時代とされていますから、年代的に矛盾はありません。
(2)「近江国風土記逸文」(注③)に近江国伊香郡の羽衣伝承があり、伊香刀美(伊香津臣と同人物とされる)という人物名が見える。
(3)このような超高齢表記は、古くから倭国で採用されていた二倍年齢と考えざるを得ない。従って、一倍年齢の68.5歳、52.5歳に相当する。

 本年11月の八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)において、わたしは〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―〟というテーマで、倭国の二倍年暦(二倍年齢)の影響が「庚午年籍」(670年)造籍に及んだ可能性について報告しました。そして、今後の課題として、七世紀後半における二倍年齢の痕跡を他の史料でも探索するとしました。そして偶然にも系図調査により、白鳳時代の二倍年齢記事の発見に繋がりました。
 この伊香宿禰たちが近江国伊香郡(評)の有力者であることも示唆的です。「大宝二年籍」の中でも二倍年齢の痕跡が見られるのが「御野国戸籍」であることから、御野(美濃)国の隣国である近江国伊香郡(評)で二倍年齢が七世紀後半においても使用されていたことは重要な発見と思われます。「大宝二年籍」でも西海道戸籍(筑前、豊前)には二倍年齢使用の明確な痕跡がなかったことから、一倍年暦の時代に二倍年齢使用が続いた地域と完全に暦も年齢計算も一倍年暦に変更した地域との差(注④)があることを八王子セミナーで指摘したのですが、その傍証にもなる今回の発見でした。

(注)
①『群書系図部集 第七』「伊香氏系圖」(昭和六十年版)。
②『二中歴』所収「年代歴」等による。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)を参照されたい。
③日本古典文学大系『風土記』457頁(岩波書店、1958年)。
④九州王朝の都(太宰府)があった筑前などは暦法先進地域として、二倍年暦(二倍年齢)から一倍年暦(一倍年齢)への変更がよりはやく完全に進められたと思われる。


第2329話 2020/12/21

群書類従「大蔵氏系図」の史料批判

 「洛中洛外日記」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟で紹介した『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)ですが、少し気がかりな点があり、改めて内容を精査しました。
 「大蔵氏系圖」は前文と系図部分からなっており、よく読むとその内容が異なっていることに気づきました。先に紹介したように、同系図では、後漢最後の獻帝(山陽公)の子が石秋王、その子が阿智使主、阿智使主の子が高貴王とあります。ところが、前文では次のようであり、石秋王と阿智王(阿智使主)が親子とはされていないようなのです。

 「(前略)石秋王之裔孫曰阿智王。有子曰阿多倍。本號高尊王。始入日本国。任准大臣。(後略)」群書類従系圖部八十一「大蔵氏系圖」

 また、名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。
 このように、阿智使主(阿智王)は石秋王の「子」ではなく、「裔孫」とされています。ですから、両者の間には何代かの名前が省略されているわけです。その証拠に、石秋王は後漢最後の獻帝(山陽公)の子とされており、三世紀の人物です。この前文にも、「山陽公薨。時年五十四。當本朝神功皇后卅五年。」とあり、山陽公の没年が「神功皇后卅五年」(西暦235年)に当てられています。
 他方、系図では「阿智使主」(阿智王)の傍注に「孝徳天皇之御宇率十七縣人夫帰化」とあり、「阿智使主」やその次代の「高貴王」が七世紀中頃の人物とされています。ですから、獻帝(山陽公)と阿智王の関係を「子」ではなく、「裔孫」とする前文の記事は正確な表現と考えざるを得ません。
 他方、後漢の皇帝や阿智王を先祖とする「坂上系圖」(注②)には、阿智王を応神の時代の人物として記されており、後代において系図年代が混乱していることがうかがえます。従って、現時点では「大蔵氏系圖」が比較的正しく伝えているように思われます。群書類従以外にも関係する系図がありますから、それらを精査したいと考えています。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②『群書系図部集 第七』「坂上系圖」(昭和六十年版)


第2326話 2020/12/18

九州王朝の家臣「千手氏」調査

 「洛中洛外日記」2325話(2020/12/17)〝「鬼滅の刃」と『竈門山舊記』〟で紹介した九州王朝の家臣と思われる「千手氏(せんず氏)」の調査を進めています。『竈門山舊記』に見える次の記事から、わたしの調査は始まりました。

 「天皇御廟嘉麻郡千種寺ニ有ト云。又ハ内智(うち)山トモ云。異説甚(はなはだ)多シ。」『竈門山舊記』(五来重編『修験道史料集』Ⅱ)

 ここで「天智天皇」とされているのは九州王朝の最後の天子、筑紫君薩野馬のことと思われます。ウィキペディア「千手村(福岡県)」を調べたところ、次ぎのように説明されていました。

 「『千手』の名の起こりは村内にあった千手寺に依る。千手寺は天智天皇に付き従って九州に下った千手氏の菩提寺であり、九州征伐まで代々千手氏が当地を治めていた。」ウィキペディア「千手村(福岡県)」

 廟嘉麻郡千種寺とは嘉穂市にある千手寺のことで、旧嘉麻郡に属していました。千手寺は〝天智天皇に付き従って九州に下った千手氏の菩提寺〟とされています。この伝承が正しければ、「千手氏」は九州王朝の薩野馬に仕えた家臣となります。そこで、この記事の出典調査に進みました。
 『筑前国続風土記』(注①)に次の記事があります。以前から注目していた記事です。

 「千手
 村中に千手寺あり。これに依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有。里民は天智天皇の陵なり。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜りし事あり。其人天皇の崩し玉ふ後に、是を立給ふといふ。然れども梵字なと猶(なお)さたかに見ゆ。さのみ久しき物には非ず。いかなる人の墓所にや。いふかし。(後略)」貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十二 嘉麻郡(昭和60年版)

 千手村に「天智天皇」伝承やその「御陵」の伝承があったことがわかります。しかし、千手村の名前が千手寺に由来しているということであれば、千住氏が「千手」を名乗ったのは、同地に土着してからと思われますので、「天智天皇」に仕えていたときの名前は別にあったはずです。そこで、千住氏の元の名前について調査することにしました。
 なお、webで「千手」姓の分布を調べたところ、福岡県と宮崎県に二大分布圏があり、近畿や他地域に濃密分布は見られません(注②)。このことは、「千手」姓が嘉麻郡千手村に由来したものであることを示しています。宮崎県の濃密分布は、戦国時代に千住氏の主家、秋月氏の領地替えに伴って、嘉麻郡から日向に移動したためとされています。(つづく)

(注)
①貝原益軒『筑前国続風土記』寶永六年(1709)成立。
②webサイト「日本姓氏語源辞典」によれば、「千手」姓の分布状況は次の通り。
〔県別分布〕
1.福岡県 約200人
2.宮崎県 約 60人
3.大阪府 約 30人
4.長崎県 約 20人
4.千葉県 約 20人
総数   約500人

〔市町村別分布〕
1.宮崎県児湯郡高鍋町   約30人
2.福岡県北九州市八幡西区 約30人
2.福岡県北九州市小倉南区 約30人
2.福岡県田川郡福智町   約30人
5.福岡県田川市      約30人


第2325話 2020/12/17

「鬼滅の刃」と『竈門山舊記』

 昨今、超人気の「鬼滅の刃(きめつのやいば)」(注①)の作者、吾峠呼世晴さん(ごとうげ こよはる、1989年5月5日~)が福岡県出身と知り、主人公の名前が竈門炭治郎(かまど たんじろう)であることから、太宰府の竈門山(宝満山、御笠山ともいう)に鎮座する竈門神社と何か関係があるのではないかと感じました。というのも、「洛中洛外日記」409話(2012/05/06)〝「竈門山旧記」の太宰府〟で紹介したように、「竈門神社」という名前や、同神社が太宰府の「鬼門」にあたることなどがその理由です。同神社の由来や歴史を記した『竈門山舊記』に次の記事が見えます。

 「天智天皇ノ御宇、都ヲ太宰府ニ建玉ウ時、鬼門ニ當リ、竈門山ノ頂ニ八百萬神之神祭リ玉ヒ」
 「太宰ノ府ト申ハ水城ヲ以テ惣門トシ片野ヲ以テ後トス。今ノ太宰府ハ往昔ノ百分一ト可心得、内裏ノ四礎今ニ明ケシ。」
 『竈門山舊記』(五来重編『修験道史料集』Ⅱ)

 天智天皇の時代に太宰府に都が造られ、水城が惣門にあたり、当時は今の百倍の規模という伝承が記された貴重な記録です。この『竈門山舊記』の成立年代は不明ですが、延寶八年(1680)までの記事が記されており、成立はこれ以後となります。ここで「天智天皇」とされているのは九州王朝の最後の天子、筑紫君薩野馬のことと思われますが、その陵墓についても次のように記されています。

 「天皇御廟嘉麻郡千種寺ニ有ト云。又ハ内智(うち)山トモ云。異説甚(はなはだ)多シ。」同前

 廟嘉麻郡千種寺とは嘉穂市にあった千手村(せんずむら)の千手寺のことで、旧嘉麻郡に属していました。千手寺は〝天智天皇に付き従って九州に下った千手氏の菩提寺〟であり、九州征伐まで代々千手氏が当地を治めていたとされています(注②)。この伝承が正しければ、九州王朝の薩野馬に仕えた家臣「千手氏」の存在が明らかになったわけで、九州王朝史研究の手がかりとなりそうです。
 話を「鬼滅の刃」に戻しますと、「竈門」の候補地として、他にも筑後市の溝口竈門神社と大分県別府市の八幡竈門神社があるそうで、現在は「聖地巡り」として、「鬼滅の刃」ファンの人気観光スポットになっているそうです。web上でも多くのサイトで紹介されており、最有力候補は溝口竈門神社のようです。確かに状況証拠(下記参照)を見ると、わたしもそのように思います。
 いずれにしても、九州王朝に関係する神社に関心が高まることはよいことです。わたしは九州王朝の家臣「千手氏」について、更に調査したいと思います。

□宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)
○大宰府の鬼門封じとして建立された。
○上宮の宝満山で修行する修験者の着ている市松模様の装束が炭治郎の羽織の柄と合致する。
○同神社の石段の途中に金剛兵衛という刀鍛冶の墓がある。
○同神社の主祭神が、作中の医者「珠世(たまよ)」と同じ読みの玉依姫命(たまよりひめのみこと)。
○同市内の太宰府天満宮で、火で鬼をあぶり出す「鬼すべ」神事がある。
○作者が福岡県出身。

□溝口竈門神社(福岡県筑後市)
○単行本7巻で煉獄杏寿郎が竈門炭治郎を「溝口少年」と呼び間違えるシーンがある。
○同神社の主祭神が、作中の医者「珠世」と同じ読みの玉依姫命。
○同神社での神事は、同市内の恋木神社の神官が兼ねて行っており、これが恋柱の甘露寺蜜璃と関連付けられる。
○同神社の拝殿の欄間の模様が、炭治郎が使う剣術の型「水の呼吸」の描写と似ている。
○同神社の神事「きせる祭り」では、炭治郎を鍛えた鱗滝左近次の天狗の面に似たお面が用いられている。きせるに青竹が使われており、竈門禰豆子がくわえている青竹を連想させる。
○溝口地区で生産されている瓢箪、多く生息している彼岸花が作中に画かれている。
○筑後市には鬼にまつわる伝承や行事がある。子供たちが体中を黒く塗る奇祭「久富盆綱引」などは著名(注③)。
○作者が福岡県出身。

(注)
①ウィキペディアによれば、『鬼滅の刃』は吾峠呼世晴による日本の漫画。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて2016年11号から2020年24号まで連載され、シリーズ累計発行部数は単行本第23巻の発売をもって1億2000万部を突破している。2019年にテレビアニメ化され、2020年に映画化され大ヒットし、社会現象となった。
 物語の主人公、竈門炭治郎は亡き父親の跡を継ぎ、炭焼きをして家族の暮らしを支えていた。炭治郎が家を空けたある日、家族は鬼に惨殺され、唯一生き残った妹の竈門禰豆子も鬼と化してしまう。妹を人間に戻す方法を探すために戦う姿を描く剣戟奇譚。時は大正時代の設定。
②ウィキペディア「千手村(福岡県)」による。
③「洛中洛外日記」1324話(2017/01/20)〝筑後市の奇祭「久富盆綱引」とこうやの宮の御祭神〟で紹介しているので参照されたい。


第2323話 2020/12/16

新井白石の学問(1)

 小林秀雄さんの『本居宣長』を読んでいますと、段の「三十一」に新井白石(1657~1725年)について紹介されていました。そこには安積澹泊(あさか たんぱく、1656~1738年)や佐久間洞巌(さくま どうがん、1653~1736年)の名前が見え、懐かしく思いました。二十年ほど前に九州年号研究史の調査をしていたとき、京都大学文学部図書館で新井白石全集を読んだのですが、そのときに知った名前です。その調査に基づいて〝「九州年号」真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって〟(注①)を発表しました。
 白石は九州年号真作説ですが、九州年号を『日本書紀』から漏れた大和朝廷の年号と理解していました。ちなみに、偽作説の急先鋒だったのが筑前黒田藩の儒家、貝原益軒(1630~1714年)でした。江戸時代の方が九州年号について自由に学問的に論議しており、現在の学界とは大違いです。
 白石は九州年号について、水戸藩の知人、安積澹泊宛書簡で次のように問い合わせています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』(注②)という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻、284頁。古賀による現代語訳)

 このように、九州年号を偽作として無視する現代の日本古代史学界よりも、江戸時代の白石の姿勢の方が学問的態度ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『九州年号』真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって」(『古田史学会報』60号、2004年2月5日)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、2012年、ミネルヴァ書房)に転載。
②『海東諸国紀』(申叔舟著、1471年)には次の九州年号が記されている。
 「善化」「発倒」「僧聴」「同要」「貴楽」「結清」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴」「煩転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」(『海東諸国紀』岩波文庫)


第2324話 2020/12/16

新井白石の学問(2)

 古田先生の九州王朝説は、主に『隋書』や『旧唐書』などの歴代中国史書を史料根拠として成立しています。そしてそれは、大和朝廷が自らの利益に基づいて編纂した『日本書紀』よりも、中国正史の夷蛮伝の方がその編纂目的から、可能な限り正確に夷蛮の国々の情報を記載しようとするばず、という論理的考察(論証)に基づいています。他方、従来説は『日本書紀』が描く日本列島の国家像の大枠(近畿天皇家一元史観)を論証抜きで是とすることにより成立しており、それに合わない中国史書の記述は信頼できないとして切り捨ててきました。
 こうした国内史料と海外史料の史料性格の違いなどから、日本古代史研究において海外史書を重視した学者が新井白石でした。白石が生まれた明暦三年(1657)、水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始されました。『大日本史』三九七巻は明治三九年(1906)に完成するのですが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていました。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で次のように厳しく批判しています(注)。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻、518頁)

 日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』『続日本紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田先生が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法です。江戸時代屈指の学者である白石ならではの慧眼です。比べて、日本古代史学界の現況は、白石がいうところの「おおかた夢のなかで夢を説くようなこと」をしている状態ではないでしょうか。(おわり)

(注)現代語訳は中央公論社刊『日本の名著第十五巻 新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。


第2321話 2020/12/14

古田武彦先生の遺訓(19)

『周礼』の二倍年齢と後代の解釈

 周代史料とされている(異論もあり)『周礼』に次の記事があります。

 「媒氏に曰く、媒氏、万民の判を掌る。凡(およそ)男女、成名より以上、皆(みな)年月日名を書す。男をして三十にして娶らしめ、女をして二十にして嫁せしむなり。」『周礼』(注①)

 周代の礼法として、男は30歳、女は20歳で結婚させるというものです。周代の年齢記事ですから、二倍年齢と思われますから、それぞれ15歳と10歳ということになります。現代の感覚からすると婚姻年齢として若すぎるように思いますが、古代においては普通だったようです。
 田中禎昭さんの論文(注②)によれば、古代日本(7~9世紀頃)において女性の実態的な婚姻年齢は8歳以上か13歳以上という若年であるとのことです。更に、古代の歌垣史料の検討から、婚姻適齢期に達した女性すべてに結婚を奨励する「皆婚」規範が存在したとする研究も紹介しています。そうすると、『周礼』の婚姻年齢規定は二倍年齢とみて妥当です。逆に一倍年齢とすると、男の30歳は遅すぎます。
 ところが、唐の孔穎達(574~648年)『毛経正義』(『詩経正義』)に、周の文王について次の記事があります。

 「文王年十五生武王、又九十七而終、終時武王年八十三矣。」「大戴禮稱、文王十三生伯邑考、十五生武王」『毛経正義』巻十六(注③)

 文王が13歳のとき伯邑考(夭逝)が生まれ、15歳のとき、周を建国した武王が生まれ、文王は97歳で没したという記事です。この13歳や15歳という年齢が後世になって問題視されたようです。なぜなら『周礼』には男子の婚姻年齢を30歳としているにもかかわらず、周王朝の始祖でもある文王が15歳のときに初代武王が生まれたということは、文王はそれ以前に結婚していたことになり、礼法に背くことになるわけです。そこで、『毛経正義』では、王妃の大姒(たいじ)がいかに賢妃であったのか、文王の徳がいかに高かったかを延々と記しています。『毛経正義』のこれらの記事は、周王朝が定めた礼法に文王が背いており、その結果生まれた初代武王についても〝後ろめたさ〟を後世(唐代)の人々が感じていた証拠だと思います。
 しかし、『周礼』の婚姻年齢が二倍年齢表記であれば、男の30歳は一倍年齢の15歳のことであり、『毛経正義』に記された文王15歳のときの子供である武王はぎりぎりセーフとなるのです。このように考えた時、『毛経正義』の記事「文王年十五生武王、又九十七而終、終時武王年八十三矣。」にある文王の「年十五」だけは一倍年暦に換算されていたことになります。したがって、同記事は、周代の二倍年齢が一倍年齢に換算されたものと二倍年齢のままの表記が混在したケースということになり、二倍年暦研究における史料批判の難しさを示す例といえます。
 なお、『毛経正義』を著した孔穎達は、周代における二倍年暦(二倍年齢)という概念を知らなかったことになりますが、もし知っていれば、あれだけ延々と文王の〝礼法破り〟となる〝早婚〟の弁護をする必要もなかったわけです(注④)。(つづく)

(注)
①「中國哲學書電子化計劃」 https://ctext.org/rites-of-zhou/di-guan-si-tu/zh
②田中禎昭(たなか・よしあき)「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」(専修人文論集99号 95-123,2016)
③「維基文庫」 https://zh.wikisource.org/wiki/毛詩正義/卷十六
④『周礼』の同記事を一倍年暦で理解するために、〝男30歳・女20歳の結婚〟規定に、「遅くとも」という原文にない解釈を付加するという方法をとる清代の史料(『周礼正義』)もあるようである(古賀未見)。


第2320話 2020/12/13

古代ギリシアのオリンピックは2年毎

 古代ギリシアの哲学者たちは軒並み長寿であることから、それは二倍年暦(二倍年齢)ではないかとする説を、「洛中洛外日記」2273話(2020/10/25)〝古代ギリシア哲学者の超・長寿列伝〟などでわたしは発表してきました(注①)。
 三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』(注②)によれば、80歳以上で没した哲学者だけでも次の通りです。

名前       死亡年齢
アポロニオス   80歳
アテノドロス   82歳
カルネアデス   85歳
クレアンテス   80歳
デモクリトス   100か109歳
ディオニュシオス 80歳
ディオゲネス   90歳
エンペドクレス  60か77か109歳
エピカルモス   90歳
ゴルギアス    100か105か109歳
イソクラテス   98歳
ミュソン     97歳
ペリアンドロス  80歳
プラトン     81歳
プロタゴラス   70か90歳
ピュロン     90歳
ピュタゴラス   80か90歳
ソロン      80歳
テレス      78か90歳
テオフプラストス 85か100歳以上
ティモン     90歳
クセノクラテス  82歳
ゼノン      98歳
クレアンテス   98歳

 紀元前数世紀のギリシアが、21世紀の現代社会以上の「長寿社会」とは常識的に考えてありえませんので、この時代のギリシアでは二倍年暦(二倍年齢)が採用されていたと、わたしは考えています。しかし、ことはそれだけでは終わりません。古代ギリシアの絶対年代も地滑り的に新しくなりますし、古代オリンピックも四年に一度ではなく、二年に一度の開催となるからです。
 『ギリシア哲学者列伝』には、たとえばプラトンの生没年について次の記述があります。

 「さて、プラトンが生まれたのは、アポロドロスが『年代記』のなかで述べているところによれば、第八十八回のオリンピック大会が行われた年(前四二八/七年)の、タルゲリオンの月(現代の五、六月頃)の七日であった。それは、デロス島の人たちがアポロンの誕生日であると言っているのと同じ日である。そして彼が死んだのは――ヘルミュッポスによると、そのとき彼は婚礼の宴に出ていたとのことであるが――第百八回オリンピック大会期の第一年(前三四八/七年)であり、そのとき彼は八十一歳であった。」上巻250頁

 このように、オリンピック期で年代が記録されており、第八十八回のときに生まれて、第百八回の期に没していることから、一倍年暦の時代(三世紀前半頃)を生きる著者のディオゲネス・ラエルティオスは、この間の二十回のオリンピックの間隔(四年)を一倍年暦で理解し(4年×20回=80年)、没年齢も一倍年暦での八十一歳(「数え年」か)と考えたと思われます。ところが、この八十一歳が二倍年齢であれば一倍年齢の四十歳ほどとなり、それを二十回で割れば、オリンピックは二年に一度の開催となるわけです。
 このように、古代ギリシアでの二倍年暦(二倍年齢)採用という仮説が成立すると、オリンピックの開催間隔にも影響を及ぼすのですが、いかがでしょうか。

(注)
①古賀達也「新・古典批判二倍年暦の世界」(『新・古代学』第7集、2005年、新泉社)
②ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』加来彰俊訳、岩波文庫(上中下)、1984年・1989年・1994年。


第2317話 2020/12/11

「村岡典嗣先生の思い出」

 「洛中洛外日記」2315話(2020/12/11)〝波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)〟で、「波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません」と書いたのですが、30数年前に行われた梅沢伊勢三さん(注①)との対談で、波多野精一さんについて古田先生が触れられていたことを失念していました。この対談を掲載した雑誌の記事を安田陽介さん(注②)からFacebookのコメントにて教えていただきました。
 『季節』第12号(エスエル出版、1988年)「特集 古田古代史学の諸相」に、古田先生と梅沢さんの対談(「村岡典嗣先生の思い出」)が掲載されており、古田先生が村岡先生の奥様より聞いた次の話を紹介されています。

〝波多野さんが「私は、西洋哲学については日本で最高の学問をやるつもりだ。だから君(村岡氏)は日本の思想を対象にして最高の学問を築きたまえ」と、こう言われた。それで村岡さんが非常に発憤して、よしやろうと決心したという話をお聞きしたんです。それはやっぱり明治の青年の非常に気合いにあふれた雰囲気ですね。波多野さんも講師ですから若い、まだ三十そこらのときだと思うんですが、二十代の村岡さんとね、夜を徹して話し合っている……まざまざとそれが伝わってくる話ですね。〟(74~75頁)

 この他にも、村岡先生について次のように紹介されていますので、抜粋します。古田先生の学問精神に通じるものを感じていただけると思います。

《以下、部分転載》
梅沢 あなたは何年に入学(東北大学)したのだったかね。
古田 昭和二十年の四月です。敗戦の直前ですね。
梅沢 僕が研究室の助手をしていたころだね。
古田 そうです。
梅沢 村岡典嗣先生の最後の弟子になるわけか。
古田 そうです。亡くなられたのが、昭和二十一年の四月でございましたね。だからほんとに最後のギリギリに村岡先生とお会いした感じてしたね。
梅沢 先生が亡くなられたのは六十一歳ですよ。
古田 それじゃいまの私と同年です。ずいぶんとお歳をめした先生だと思っていたんですが。いまの私がそうなんですか。
梅沢 いま、ご健在でいられたら、あなたのやっていることなんか見て、なんといわれるか。
古田 ほんとうに先生にご報告したいところですね。
 〈中略〉
梅沢 (前略)村岡先生ご自身が早稲田出身で、波多野精一さんに非常に目をかけられて、哲学をやられたわけです。早稲田の学内での発表会でもギリシャ哲学の発表をされています。(後略)
古田 その波多野さんに関して、非常に面白い話を、私は村岡先生の奥さんからお聞きした覚えがあるんです。奥さんは、与謝野晶子とか柳原白蓮とかの仲間だった方ですが、非常に素晴らしいムードを持っておられた方でしたね。村岡先生も熱烈な恋愛をして、奪いとった奥さんだったという話を聞くんですけど。波多野さんが早稲田大学の講師をしておられるときに、村岡先生は波多野さんのお家にしょっちゅう行って話をしていた。話をしだすともう話がはずんで、夜が明けてきても話してる。波多野さんのお家が狭いもので、お客さんが帰らないと家の人が寝る場所がない。小さい子供さんが隣の部屋で苛立ってきて「お客さん帰れ帰れ」って叫ぶんだそうです。村岡先生は、それが耳に入っているんだけど、話に熱中して、なお頑張り続けて話していたという話を、波多野さんの奥さんから村岡さんの奥さんがお聞きになったらしいんです。(以下、先に紹介した波多野氏と村岡先生との会話の紹介へと続く)

(注)
①水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には「晩年の村岡が最も信頼した門弟の梅沢伊勢三(一九一〇~八九)」(222頁)と紹介されている。
②安田陽介氏は京都大学学生時代(国史専攻)に、「市民の古代研究会」で「続日本紀を読む会」(京都市)を主宰され、わたしも参加させていただいた。この会からは安田氏編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)が発行されている。
 九州年号研究においては、「大化五子年土器」の現地調査に基づく優れた研究(「九州年号の原型について」)を、1993年7月31日の「市民の古代研究会」全国研究集会(京都市で開催)で報告された。


第2316話 2020/12/10

『本居宣長』と『秋田孝季』

 この数日は小林秀雄さんの『本居宣長(もとおり・のりなが)』(新潮社、1977年)を読んでいます。大著ですので、最初に〝斜め読み〟してから、面白そうなところを再読しています。『本居宣長』といえば、村岡典嗣先生の『本居宣長』(警醒社書店、1911年。岩波書店、1928年)が学界では有名です。小林秀雄さんも先の書で次のように評価しています。

 「村岡典嗣氏の名著『本居宣長』が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思ってゐる。村岡氏は、決して傍観的研究ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれてゐるのだが、それでもやはり、宣長の思想構造といふ抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。」小林秀雄『本居宣長』19頁

 いつの頃だったか忘れましたが、古田先生との会話のなかで、村岡先生の『本居宣長』が話題に上ったことがありました。そのとき、古田先生は次のように言われました。

 「村岡先生が『本居宣長』を書かれたように、わたしは『秋田孝季(あきた・たかすえ)』を書きたいのです。」

 秋田孝季は江戸時代の学者で、『東日流外三郡誌』を初めとする和田家文書の編著者です。結局、それは果たせないままに先生は物故されました。ミネルヴァ書房の杉田社長が先の八王子セミナーにリモート参加され、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされましたが、恐らくはそれが『秋田孝季』だったのではないかと推定しています。
 古田先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければなりません。まずは、和田家文書中の「秋田孝季」関連記事の悉皆調査とデータベース化が必要です。どなたかご協力いただければ幸いです。


第2315話 2020/12/09

波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)

 『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)の巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟によれば、古田先生はお亡くなりになる二ヶ月前に波多野精一氏の『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでおられたようです。
 歴史学の先達のお名前は古田先生からお聞きすることがよくありましたが、哲学者として高名な波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません。ですから、同巻頭文の終わりに突然のように記された波多野精一氏やその著書『時と永遠』を意外に感じました。そのことが気になりましたので、波多野精一氏のことを調べてみたところ、古田先生と不思議な御縁があることを知りました。
 ウィキペディアには、波多野精一氏を次のように紹介しています。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)】
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日~1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
 西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者。早大での教え子には村岡典嗣、東大での教え子には石原謙、安倍能成、京大での教え子には田中美知太郎、小原国芳らがいる。また指導学生ではないが、波多野の京大での受講者で波多野から強い影響を受けたとされる人物に三木清がいる。〔転載終わり〕

 古田先生の恩師の村岡典嗣先生の早大時代の先生が波多野氏だったのでした。そうすると、古田先生は波多野氏の孫弟子に当たるわけです。また、同略年譜によれば、長野県筑摩郡松本町(現:松本市)生まれとのこと。偶然かもしれませんが、古田先生が松本深志高校で教師をされていたこともあり、不思議な縁を感じました。
 恐らく古田先生は波多野氏が村岡先生の恩師だったことをご存じのはずです。水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には、「村岡は、早稲田大学にて波多野に出会い、そして終生、篤く敬慕した。村岡にとっての波多野は、大学時代の一教員には止まらず、学問に挑む姿勢から方向性の指導、そして実際の生活についての支援まで、生涯にわたって支えられた人物となっていく。」とあり、恩師を慕う気持ちと学問精神が引き継がれていることに感銘を受けました。
 なお、村岡先生は終戦後すぐの昭和21年(1946)4月に61歳で亡くなられ、波多野氏は昭和25年(1950)に亡くなっておられます。波多野氏の晩年の著作『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を古田先生がご逝去の直前に読んでおられたことにも、学問が繋ぐ不思議な縁を感じざるを得ません。


第2314話 2020/12/08

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(5)

 景初元年短里開始説の論証に成功した西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」が収録された古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田武彦先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田武彦はなかった」 ―― いわゆる「学会の専門家」がこの四~五年とりつづけた〝姿勢〟である。
 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。

 〔中略〕

 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、生きはじめるのである。

 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー ―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。(おわり)