継体天皇「二倍年齢」の論理
先日、開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)はリモート参加と現地参加というハイブリッド方式での初めての試みでしたが、主催者や関係者のご尽力により成功裏に終わることができました。関西からリモート参加された方のご意見として、リモートでもよく聞き取れ、臨場感もあり、来年もリモート参加したいとのことでした。ちなみに、わたしと日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良大学生)の休憩時間中の会話をマイクが拾っており、楽しく聞いていたとのことでした(変なことをしゃべっていなければよいのですが)。天候にも恵まれ、大学セミナーハウスから遠くに見える富士山がきれいでした。
わたしが発表した「二倍年暦」というテーマでは意見が対立する場面もあり、学問的にも論点や問題点が浮かび上がり、有意義でした。その中で鮮明となったのが次の点でした。
①二倍年暦という暦法と、二倍年齢という年齢計算方法について、分けて考えた方がよいケースがある。一倍年暦の時代でも、二倍年齢で計算する風習が遺存することがある。(古賀の主張)
②二倍年齢においては、春分点と秋分点で年齢を加算するという方法があり、この方法は暦法とは関係なく成立する。(荻上先生からのサジェスチョン)
③二倍年暦・二倍年齢の当否について、実証的な方法では決着が付かないケースがあるため、論理的な説明方法(論証)を重視する必要性がある。(今回、改めて考えさせられたこと)
セミナーの司会・進行役の大墨伸明さん(多元的古代研究会)も述べられたのですが、「今回のセミナーで最も意見対立が鮮明なテーマ」として、倭国の二倍年暦説の是非についてどのような証明方法が説得力を持つのかについて考えてみました。この場合、説明責任・論証責任は「倭国では二倍年暦が採用されていた」とする側(通説と異なる新説発表側)にあります。
たとえば、古代人に百歳を超えるケースが諸史料中に散見されるのですが、「古代でも百歳の人はいた」と主張する人に対しては、「古代において百歳もの長寿は無理。この百歳は二倍年齢表記である」という説明では〝水掛け論〟となり、説得できないのです。このような経験がわたしには幾度かあります。そこで、百歳のような長寿記事を史料根拠とする実証的な説明ではなく、論理的な説明、すなわち論証(根拠に基づく合理的な理屈による説明)によらなければならないと、わたしは考えました。一例として古田先生が『失われた九州王朝』(注)で展開された継体天皇の没年齢問題について説明したいと思います。
第26代継体天皇は越前三国出身の豪族で、皇位継承でもめていた大和に〝介入〟して大和の統治者に即位した異色の人物です。その没年齢が『古事記』には43歳、『日本書紀』には82歳とあり、この約二倍の違いを持つ伝承の存在は二倍年暦によるものと考えざるを得ないという理屈をもって古田先生は論証とされました。
この説明方法は、継体天皇が43歳で崩じたのか、82歳で崩じたのかという、寿命が論点ではありません。そうではなく、継体天皇の寿命について、どのような理由で約二倍も異なる伝承が発生したのかという説明の仕方の優劣が論点なのです。ですから、六世紀の古代人が82歳まで長生きできるか、できないかという〝水掛け論〟は不要です。「二倍年暦という仮説でうまく説明できる」という見解と、「どこかの誰かがたまたま二倍ほど間違えたのだろう」というような見解とでは、どちらが他者をより説得できるのかという、論理性(理屈)の優劣の問題です。このような論理性を競う論点の提示が、二倍年暦論争には必要と思われます。
(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻。