九州年号一覧

第350話 2011/11/16

九州年号の史料批判(5)

 今日は新潟県長岡市のホテルでこの原稿を書いています。昨日から新潟も冷え込んできたようです。

 『二中歴』の史料批判を続けます。「丸山モデル」が提起した疑問、朱鳥は本当に九州年号なのか、それとも『日本書紀』編纂持の造作なのかという問題は比較的早くに解決を見ました。
 「朱鳥改元の史料批判」 という論文で指摘したのですが、『日本書紀』の三年号のうち、大化は50年遡らせて盗用され、白雉は2年ずらして盗用されていますが、この二つの年号を孝 徳天皇の10年の在位期間(645−54)にぴったりあわせて盗用しています。ところが、朱鳥は一年間だけ天武天皇末年(686)という中途半端な盗用となっています。どうせ盗用するなら、あるいは造作するのであれば持統元年に盗用すればよいはずです。ところが、『日本書紀』編纂者は中途半端な天武天皇末 年の一年間だけを「朱鳥元年」としました。
 この不自然な史料状況は、逆に朱鳥こそ正しく九州年号通りに、その元年を686年とした結果であり、朱鳥年号の実在性を証明する史料状況と考えざるを得ないことに、わたしは気づいたのです。
 そして、朱鳥年号こそ九州年号からその元年のみを正確に『日本書紀』は盗用したという論理性を、わたしは「朱鳥改元の史料批判」で指摘したのでした。
 また金石文として「朱鳥三年」と記されている鬼室集斯墓碑の信憑性についても「二つの試金石ーー九州年号金石文の再検討」という論文で論証していましたので、朱鳥を持たない「丸山モデル」よりも、朱鳥を持つ『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いという確信を深めたのです。しかし、なぜ『二中歴』には大長がないのかという疑問は残されたままでした。(つづく)


第349話 2011/11/15

九州年号の史料批判(4)

 今、東京八重洲のブリヂストン美術館のティールームでこの原稿を書いています。コーヒーも美味しいし、おしゃれなお店なので、東京出張のおり にはよく利用しています。店内には長谷川路可(1897−1967)のフレスコ画が飾られており、とても気持ちのいい空間で気に入っています。

 さて、話しを『二中歴』にもどします。「丸山モデル」が提唱された後も、古田先生は『二中歴』の史料的優位性を主張されていました。その理由の一つは、他の年代暦に比べて『二中歴』は成立が早いということでした。多くの年代暦はせいぜい室町期の成立であり、比べて『二中歴』は鎌倉初期であり、 九州年号群史料としては現存最古のものなのです。
 更に、こちらの方がより重要なのですが、『二中歴』「年代歴」に記されている細注記事の内容が、近畿天皇家とは無関係であるという史料性格です。
 多くの年代暦は近畿天皇家などの事績を九州年号という時間軸を用いて記載するという史料状況(年号と記事の後代合成)を示しているのですが、これは九州年号史料にあった年号を、後代において「再利用」したものである可能性が高く、これら年代歴そのものは同時代九州年号史料の本来の姿を表したものではないからです。
 その点、『二中歴』「年代歴」の九州年号記事は九州王朝内で成立した九州年号史料の集録という史料状況(同時代九州年号史料の再写・再記録)を示しており、それだけ年号の誤記誤伝の可能性が少なく、その年号立てについても信頼性が高いのです。
 そして、古田先生は各年代暦の「多数決」あるいは最多公約数的な年号立てによる「丸山モデル」は学問の方法として不適切と言われていました。学問は各史料ごとの優位性の論証が基本であり、多数決で決まるものではないと主張されたのです。この指摘は大変重要なことで、古田史学が一元史観と根本的に異なる学問の方法論にかかわることなのですが、古田学派内でも残念ながら十分理解されていないケースも見受けられます。
 こうした古田先生の指摘を受けて、わたしも徐々に『二中歴』の重要性を認識するに至ったのですが、同時に、それではなぜ朱鳥のない多くの年代暦が後代に発生したのか、なぜ他のほとんどの年代暦にある大長が『二中歴』にはないのかという、二つの疑問点に何年も悩み続けることとなったのです。(つづく)


第348話 2011/11/15

九州年号の史料批判(3)

 九州王朝や九州年号研究において、一次史料や二次史料は比較的その信頼性が高いこともあり、論証や仮説の構築に使用しやすいのですが、三次史料になると 同類史料の数や写本間の異同も増えて、史料批判が難しくなります。すなわち、どの三次史料がどの程度歴史の真実を反映しているかの判断が難しくなるのです。
 たとえば九州年号群史料として、中世以降数多く成立した年代暦の類がありますが、これら年代暦の史料としての優劣の判断が九州年号研究においても論争の対象となっていました。
 現在の研究水準では『二中歴』所収「年代歴」に記された九州年号の年号立てが最も原型に近いとされていますが、当初は朱鳥がなく大長がある、いわゆる 「丸山モデル」(丸山晋司氏が提唱)が本来の九州年号の年号立てと見なす説が有力でした。わたしも一時期そのように考えていました。
 その理由の第一は、『二中歴』を除く多くの年代暦には朱鳥がなく大長があること。第二に、『日本書紀』にまで記された朱鳥が本当に存在したのなら、多くの年代暦から消えていることの説明がつかない。したがって九州年号にはもともと朱鳥は無かったという理由からでした(『日本書紀』の朱鳥は『日本書紀』編纂時の造作とする)。
 このような年代暦史料の「多数決」と、朱鳥が消えた理由を説明できないという「論理性」が、朱鳥があり大長がない『二中歴』よりも、「丸山モデル」を正しいとする根拠だったのです。
 もちろんこの「丸山モデル」に対する強力な反論もありました。熊本市の平野雅曠さん(故人)から、『日本書紀』の三年号のうち、大化と白雉を九州年号からの盗用としながら、朱鳥だけは造作とする根拠がない、というものでした。今から考えればこの平野さんの指摘は史料批判上もっともなものだったので、丸山さんもこの批判に対して有効な反論ができていませんでした。こうしたこともあり、『二中歴』が見直されるようになったのです。(つづく)


第347話 2011/11/12

九州年号の史料批判(2)

 文献史学での文字史料の優劣の判断基準で最も重要なものに、史料の同時代性という尺度があります。通常それは一次史料とか二次史料・三次史料といった表現で表されるのですが、九州年号で言えば、6世紀や7世紀の九州年号が実用されていた時代、すなわち同時代に記された史料は一次史料と呼ばれ、 最も信頼性の高い文字史料とされます。
 たとえば、その時代の木簡や金石文などに記された九州年号が一次史料となり、具体的には芦屋市から出土した「元壬子年」木簡(652年、白雉元年)や法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(621年)、「朱鳥三年戊子」鬼室集斯墓碑(688年)、「大化五子年」土器(699年)などがそれに当たりま す。こうした一次史料は九州年号存在の直接証拠でもあり、歴史研究において最も重視されるべきものです。
 ただし一次史料においても、史料そのものの信頼性についての検証が必要となるケース(真偽論争など)もあり、その場合は史料の自然科学的調査(年代測定など)や、他の同時代史料との整合性の検討が必要となります。
 一次史料に次いで重要なものが二次史料であり、一次史料に基づいて記された史料がそれに該当します。例えば、一次史料を書写した写本とか、同時代金石文の拓本や実見記録などです。具体例としては、「白鳳壬申年」骨蔵器(672年、『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)などがそれに当たります。江戸時 代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申年」骨蔵器のことが、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記附録』に記録されているのですが、実物は既に失われています。 しかし、黒田藩公認の地誌に記されている九州年号金石文の記録ですから、かなり信憑性の高い二次史料です。
 さらに、二次史料を引用したり、記録したものが三次史料となるのですが、歴史史料として利用できるのは、せいぜいこの三次史料まででしょう。例外的には 四次史料などでも他に同類のものがない場合とか。その信憑性が当該史料以外の証拠などで保証される場合は歴史史料として使用できるケースもあります。
 従って、歴史研究において根拠とする史料はなるべく一次史料か同時代史料に近い二次史料などに溯って調査採用することが要求されるのです。
ところで、『日本書紀』にも大化・白雉・朱鳥の九州年号が盗用されていますが、これは何次史料にあたると思いますか。720年に『日本書紀』は成立していますから、九州年号実用時代とはかなり近い時代です。しかし、厳密には同時代ではなく、九州王朝滅亡後に九州年号を盗用(九州王朝史書からの引用)した史書ですから、恐らく二次史料に相当するでしょう。そういう意味では、『日本書紀』は九州王朝や九州年号を研究する上でも、同時代史料に近い貴重な二次史料 という性格も有しているのです。(つづく)

第346話 2011/11/06

九州年号の史料批判(1)

 『「九州年号」の研究』の編集をしていて、水野さん(古田史学の会代表)より、何故二中歴が九州年号群史料として優れているのかを説明した論文は未発表ではないかとの指摘がありました。確かに、古田先生やわたしが講演や研究発表などで口頭で説明したことは度々あったと思いますが、文章として詳しく解説していないかもしれません。『「九州年号」の研究』発刊に先立ち、良い機会ですので、九州年号に絞って文献史学における史料の優劣の判断、すなわち史料批判の考え方について説明したいと思います。
 文献史学は必ず文字史料という史料根拠に基づいて仮説を立てたり、論をなしたりしますが、その際、必要不可欠な作業があります。それは根拠として文字史料が歴史の真実を正しく伝えたものなのか、あるいはどの程度真実を反映しているのかという、史料の優劣を判断する作業、すなわち史料批判が必要となります。
 自然科学でいえば、文字史料が実験(観察)データであり、史料批判が実験(観察)方法の説明にあたります。自然科学の論文ではこのデータと実験方法の提示が不可欠であるように、文献史学では史料根拠の提示とその史料の確かさの説明や証明が要求されるのです。
 そのとき、自説に有利な史料のみを重視し、自説に不利な史料を無視軽視することは、学問上許されません。自然科学では自説に不利なデータを無視したり改竄したりすれば、研究者生命を失います。歴史研究においても、依拠史料の取扱いや他史料との優劣比較が不可欠であることは同様なのですが、安易に史料を改竄する手口が、プロの学者でも説明抜きで平然と行われていることは、皆さんもよくご存じのことと思います。例えば、魏志倭人伝の邪馬壹国が邪馬台国と原文改訂されていることなどです。
 世界の知性や理性との競争原理が働いている自然科学の分野では、こうしたデータの改竄など考えられませんし、もしそれが発覚したらその人の研究者生命は終わりです。ところが日本の古代史学界(日本古代史村)では、誰一人大学を首になることもなく、今も古田先生を除くほぼ全員が原文改訂(データの改竄・無視)を続けていることは、日本古代史村が世界の知性や理性から隔絶保護されていることが、その理由の一つのように思われます。大変嘆かわしいことです。 (つづく)

第345話 2011/11/1

『「九州年号」の研究』校正中

 遅れに遅れていました『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)の第2校の校正と索引作りがようやく終わりました。特に索引作りは初めての経験でしたので、語句の選定と絞り込みには苦労しました。恐らく次の第3校が最終校正になると思いますので、刊行まであと一歩です。
 自画自賛になりますが、内容には自信があります。後世に残る一冊にしたいと、この15年間の九州年号研究における重要論文を収録しています。古田先生からも巻頭論文を書き下ろしていただきました。大変ありがたいことと感謝しています。
 章立ては次の通りです。

巻頭言      水野孝夫
序 九州年号論  古田武彦
第1部 金石文・木簡に残る九州年号
第2部 九州年号から見た日本書紀
第3部 九州年号による九州王朝研究
第4部 後世に遺された九州年号史料
第5部 九州年号研究史
編集後記
索引

  もう少しで刊行です。ご期待下さい。


第340話 2011/10/01

「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元

 前話で紹介した「大歳庚寅」鉄刀銘文について、ちょっと気にかかる点がありました。それは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」という短い文に年干支と日付干支の両方が記され、しかも共に「庚寅」という点です。
 もちろん、古代金石文において年干支と日付干支の両方が記されている例はあるのですが、鉄刀の背という狭いスペースに象嵌という手の込んだ技術で作刀の時期を記す場合、年干支「大歳庚寅」と「正月六日」という日付表記で事足りるのに、わざわざ「正月六日庚寅」と日付干支まで丁寧に記されていることに、作刀者の強い意志と意図を感じるのです。しかも、年干支と同じ「庚寅」なのですから、これも偶然とは考えにくいと思います。
 日付干支が「庚寅」となる「正月六日」にたまたま作刀したのではなく、年干支と同じ「庚寅」となる「正月六日」を作刀日に選んだ可能性が濃厚なのです。 それほど「庚寅」という干支を意識したのです。その理由をわたしなりに考えてみました。それは九州年号「金光」への改元との関わりです。
 この鉄刀銘の庚寅が570年であることは確実ですが、この同じ年に九州年号が「和僧」から「金光」へと改元されているのです。この「金光」との関係で作刀日を「庚寅」にしたのではないでしょうか。古代中国では陰陽五行説(諸説あります)に基づいて鏡や刀の作成日を選んだり、吉祥句として記したりしている 例が少なくありませんが、この「庚寅」という干支も陰陽五行説によれば、庚は「金」と「陽」に相当し、寅も「陽」に相当するとされています。この「金」と 「陽」に基づいて、あるいは因果関係は逆かもしれませんが、「金光」という年号が制定されたように思われるのです。
 従来わたしは、九州年号の「金光」は九州王朝への金光経伝来を記念して制定された年号ではないかと考えていました。しかし、この推測には弱点がありました。それは『二中歴』年代歴の「金光」年号細注に何も記されていないということでした。ご存じのように、『二中歴』年代歴の九州年号の細注には仏教関連記事が少なからずあり、たとえば、「端政」の細注には「唐より初めて法華経渡る」とあり、「仁王」には「唐より仁王経渡る」、「僧要」には「唐より一切経三 千余巻渡る」などの仏教経典伝来記事がありますが、「金光」にはないのです。
従って、今回の鉄刀銘文の考察のように、一応、金光経伝来とは別に、陰陽五行説との関連で「金光」年号を捉えることができたのは、新たな理解(作業仮説)として有益と思われました。
 こうした仮説が正しければ、この「大歳庚寅」象嵌鉄刀は、前年の倭王崩御に伴い、新倭王が即位し、「大歳庚寅正月六日庚寅」に「和僧」から「金光」へと九州年号が改元されたことを記念して作られたのではないかという考えへと進まざるを得ないのですが、いかがでしょうか。
 なお、「大歳庚寅」(570)に即位した倭王は、多利思北孤の前代の倭王(玉垂命・襲名するため一人ではない)の可能性が濃厚です。『太宰管内志』(筑後国大善寺玉垂宮)によれば、玉垂命は端政元年(589)に崩御したとありますから、金光元年(570)即位の倭王は当時の玉垂命と推定できます。この時、 九州王朝の都となる太宰府条坊都市は未完成で、それ以前の筑後遷宮期の倭王ですから、本拠地は筑後です。
 恐らく、新倭王(玉垂命)の即位と「金光」への改元を記念して作られた「大歳庚寅」象嵌鉄刀が、九州王朝直属の有力者へ配られ、その内の一つが今回出土した鉄刀ではないでしょうか。
 (追補)第339話を読んだ正木裕さんからメールが届き、『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という記事があり、前代の倭王の死因はこの熱病と関係しているのではないかという御指摘を得ました。大変面白い記事です。他の九州年号史料の調査が待たれます。


第339話 2011/09/25

「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察

 出張先の名古屋のホテルで読んだ中日新聞(9月22日)に、福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀に象眼があり、エックス線写真によると、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」の文字が確認されたとのことでした(「練」は推定)。
 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。九州王朝中枢領域から出土した6世紀後半の金石文ですか ら、わたしも大変貴重な史料が出たと喜びました。その後、今日まで銘文について検討を行い、いくつかの興味深い問題が見えてきました。
 まず第一は、その年・日付干支から、九州王朝では『三正綜覧』などで復原された「長暦」が少なくとも6世紀後半から7世紀全般にわたって使用されていたという事実がわかります。たとえば、この他に九州王朝系金石文で年・日付干支の両方が判明するものとして、法隆寺釈迦三尊像光背銘「(壬午)二月廿一日癸酉」(622)、妙心寺銅鐘「戊戌年四月十三日壬寅」(698)の存在があり、いずれも「長暦」によることがわかっていました。こうした九州王朝中枢の金石文が指し示す史料事実から九州王朝使用暦が一層明確となったわけです。
 九州王朝説論者の中には、『三正綜覧』による暦日干支復原を否定し、妙心寺銅鐘の戊戌年を638年とする見解もあるようですが、それは無理であったことが今回の鉄刀の出土により更に明らかとなりました。
 第二に注目されるのが「大歳庚寅」という大歳干支表記です。この「大歳○○」(○○は干支)という表記方法は『日本書紀』に見られる独特のもので、各天皇の即位元年条末尾に記載されています。神武天皇など若干の例外はありますが、各天皇の即位年干支の表記方法なのです。この大歳干支表記について、岩波 『日本書紀』補注では百済からもたらされたものではないかと説明されています。
 しかし今回の出土で、大歳干支表記が九州王朝下で使用されていた ことが判明し、『日本書紀』はその九州王朝の大歳干支表記を採用したこととなり、しかも天皇即位年の表記に使用されているという『日本書紀』の史料事実から、これも九州王朝史書からの模倣の可能性があることから、九州王朝でも歴代天子の即位年記録に大歳干支を使用していたものと推察できるのです。
 そうであれば、この庚寅年の570年に九州年号が「和僧」から「金光」に改元されていることから、もしかすると前年の和僧五年(569)に九州王朝の倭王が没し、翌年の庚寅に次の倭王が即位したことから、鉄刀には「大歳庚寅」と象眼されたように思われます。このように九州年号の改元と一致していることは示唆的です。
 以上のように、今回出土した鉄刀銘文は九州王朝史研究にとっても貴重な金石文であり、更なる研究が必要です。なお、出土した古墳が7世紀中頃と編年されていますが、鉄刀銘文の庚寅年(570)と離れていることから、北部九州の古墳編年についても検討の余地が必要かもしれません。更に同古墳から出土した古墳時代では国内最大級の銅鈴の検討なども今後の課題です。


第336話 2011/09/03

『勝山記』の観世音寺創建記事

 大型の台風12号の接近のため、今日は外出を控えて終日原稿執筆の予定ですが、昨日、山梨県の会員で井上さんからお便りが届き、九州年号史料としても有名な『勝山記』のコピーが同封されていました。
 『勝山記』は今から20年ほど前に読んだことがあるのですが、現在は当時よりも九州年号研究もはるかに進展していますし、問題意識も深まっていますので、送られたコピーを見ましたところ、いくつかの面白い記事が目にとまりました。
 その一つが観世音寺の創建に関する記載でした。『勝山記』の白鳳10年(670)の項に、「鎮西観音寺造」と記されているのですが、鎮西の観音寺とは太宰府の観世音寺のことと考えられ、その創建年次が具体的に記された史料としては管見では『勝山記』だけなのです。
 『二中歴』年代歴には白鳳年間の細注として、「観世音寺東院造」とあるのですが、白鳳の何年かまでは記されてはいません。従って、『勝山記』のように白鳳10年という具体的年次のわかる史料は貴重なものです。もちろん、『勝山記』の史料批判も含めて今後の課題として残されており、この白鳳10年記事が 歴史事実かどうかは総合的に判断しなければなりませんが、観世音寺の創建年次を記した史料として貴重なものであることに違いはありません。
 今回、『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事に、わたしが興味を引かれたのには、ある理由がありました。それは、『二中歴』の白鳳年号細注の「観世音寺東院造」の読み方として、わしは「観世音寺を東院が造る」と解し、東院を人名とする読みが有力と考えているのですが、そうではなく「観世音寺の東院を造る」と読み、東院を建物とする理解も可能であり、そちらが正しいとする見解もあるからです。
 もちろん読み方としてはどちらも可能なのですが、年代歴の九州年号細注の記載方法として、「倭京二年難波天王寺聖徳建」という記事があり、こちらは「難波天王寺を聖徳が建てた」と読まざるを得ません。ですから同様の表記ルールで読むのが史料批判上まっとうな方法ですから、観世音寺の場合も東院という人物が造ったと読むべきですし、それに何よりも、もし東院とは別に観世音寺本体が創建されていたのなら、年代歴にはそちらが記載されるべきなのではないでしょうか。『二中歴』九州年号細注には「始めて~」という記載が多く、その始めての事例を記載することが目的のような年代歴なのですから、観世音寺本体の創建を記さず、その「東院」の創建記事のみを記したとは考えにくいのです。
 更にいうなら、白鳳年間に観世音寺の東院を造ったと読みたい論者の目的は、観世音寺創建年代を更に古くしたいということにあるようです。従って、『二中歴』の白鳳の記事を、その表記ルールを無視して、「白鳳年間に創建されたのは観世音寺の東院」としなければ、都合が悪かったのです。
 しかしこうした理解は、表記ルールだけでなく、考古学的にも無理があります。今までも度々指摘してきましたが、観世音寺創建瓦の「老司1式」は7世紀中頃から後半の瓦とされていますので、『二中歴』の白鳳年間創建でぴったり一致しています。その上、観世音寺遺構とは別に「東院」伽藍のような遺構は発見されていません。
 このように、『二中歴』年代歴の表記ルールや考古学的事実からも、観世音寺は白鳳年間に創建されたと理解せざるを得ないのです。その上で、今回「発見」した『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事は、こうした理解を支持する史料根拠となるのです。他にも九州年号を用いた年代記に観世音寺創建記事が見つかるかもしれません。更に調査したいと思います。『勝山記』コピーを送っていただいた井上さんに感謝申し上げます。


第324話 2011/07/2

『古田史学会報』104号の紹介

 少し遅くなりましたが、6月5日発行の『古田史学会報』104号を御紹介します。今号の冒頭論文は正木さんの別系統九州年号「法興・聖徳・始哭」についての考察です。法興と聖徳は多利思北孤と利歌弥多弗利の法号とし、始哭は玉垂命の葬儀に関する記事の一部であり、九州年号ではないとするものです。一つの有力な理解と思われました。  
 西村稿と古賀稿は紙上論争です。こうした論争により、古田学派内の研究活動や会員の学問的興味が刺激されることが期待されます。  
 古谷稿は古谷さんの博学な知識に基づくもので、三角縁神獣鏡銘文の研究に寄与することが期待されます。
 野田稿は関西例会でも発表されたもので、活発な質疑応答が展開されたテーマです。古田説とやや異なる内容でもあり、今後の展開が注目されます。

『古田史学会報』104号の内容
○九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について  川西市 正木 裕
○乙巳の変は動かせる — 斎藤里喜代さんにお応えする  向日市 西村秀己
○三角縁神獣鏡銘文における「母人」「位至三公」について  枚方市 古谷弘美
○銀装方頭太刀について(小松町南川大日裏山古墳出土)  西条市 今井久
○再び内倉氏の誤論誤断を質す — 中国古代音韻の理解について  京都市 古賀達也
○「帯方郡」の所在地 −倭人伝の記述する「帯方」の探究−  姫路市 野田利郎
○卑弥呼の時代と税について  中国山東省曲阜市 青木英利
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○古田史学の会会員総会・記念講演会のお知らせ
○『古代に真実を求めて』第14集・正誤表


第311話 2011/04/01

正木さんからのメール「始哭」仮説

  前話で謎の九州年号「始哭」を取り上げたところ、早速、正木裕さん(古田史学の会会員)からメールが届きました。「始哭」を葬送の儀式とする仮説です。なかなか面白い解釈であり、さすがは正木さん、と思いました。
このように古田学派の研究者の間で瞬時に活発な刺激的な意見交換ができることは、良き学風であり、インターネット時代にふさわしいものです。もちろん、 関西例会では批判や反論など激しい応酬が交わされることも少なくありませんが、これもまた古田学派ならではの学問的態度、学風です。それでも二次会では一 杯飲みながら和やかに歓談するというのも、関西例会の楽しみです。
正木さんのご了承を得て、そのメールを紹介します。

古賀様、各位
最新のブログにある「始哭」ですが、中国では漢代から儒教の影響下「哭礼」の儀式が広がりました。
「中国の葬礼で、墓前や葬式で大声をあげてな くこと。哭礼。諸侯が亡くなった場合は異姓ならば城外でその国に向かって、同姓ならば宗廟で、同宗ならば祖廟で、同族ならば父の廟で哭礼を行う。魯の場 合、同姓の姫姓諸侯ならば文王の廟、同宗の?・凡・蒋・茅・胙・祭の場合は周公の廟で行う。」(『春秋戦国辞典』)
また、泣き終わるのは「卒哭」といい、今も100日の儀式として日本でも続いています。(仏教上の儀式)
「卒哭忌(そっこうor[く]き)は百ヶ日のことで、哭(な)き卒(お)さめの忌という意味である。」
「始哭」は端政元年(589)と並行している年号ですが(「始大」は字形から「始哭」の変形と考えるべきか)、この年高良玉垂命が三瀦で亡くなったことは古賀さんの指摘するとおり(太宰管内志)です。
「卒哭」があるなら「始哭」もあってしかるべきかと・・すなわち端政元年(589)に高良玉垂命の崩御を痛んで、後を継いだ多利思北孤がその葬儀と「哭 礼」をとりおこなった(「哭」を「始」めた)、これが多利思北孤関連の事跡として「法興」とセットで伝承したとは考えられないでしょうか。短期間で終わっ ているのも哭礼は100日で終わり(卒哭)、せいぜい1〜2年間の事跡と考えれば不思議はないのでは。
このあたりの年に百済から法師が大挙来朝しているのも高良玉垂命の祈願や法要のためとすれば自然に解釈できます。
以上「始哭」は高良玉垂命崩御に伴い多利思北孤が哭礼を始めた事にちなむもので、年号というより「始哭の年」という意味なのではないかという仮説を提起させていただきます。どうでしょうか。
   正木拝


第310話 2011/03/26

謎の九州年号「始哭」

前話で引用紹介した「鬼哭啾々」の「鬼哭」に似た「始哭」という九州年号があることをご存じでしょうか。それは、九州年号史料として有名な鶴峯戊申著『襲国偽僭考』に記されています。
同書の九州年号記事中の「吉貴」の項に「一説」として紹介されており、「始大」とも作るとあります。字義からして、年号に相応しいとも思われず、従来か ら誤記誤伝と見られてきたようで、九州年号研究に於いても正面から取り扱われることはほとんどありませんでした。管見では唯一、古田先生が別系列の九州年 号として言及されたのを知るのみです(「『両京制』の成立 ーー九州王朝の都域と年号論」、『古田史学会報』36号所収。2000年2月)。
最近、正木裕さん(古田史学の会会員)が、『二中歴』に見えない九州年号「法興」「聖徳」を多利思北孤や利歌弥多弗利の「法号」「法名」とする説を発表 されましたが、そうした視点から、この「始哭」も捉えられるのか、あるいは別の仮説が提起できるのか、更なる研究の深化が期待されます。
仮に、誤記誤伝と処理する場合にも、それではどのようなケースの場合、「始哭」のような誤記誤伝が発生しうるのかという説明が必要でしょう。どなたか挑戦されませんか。