九州年号一覧

第655話 2014/02/02

『二中歴』の「都督」

 「洛中洛外日記」641話・ 642話で江戸時代や戦国時代の「都督」史料を紹介しましたが、わたしが「都督」史料として最も注目してきたのが『二中歴』に収録されている「都督歴」でした。鎌倉時代初期に成立した『二中歴』ですが、その中の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されています。
 「都督歴」冒頭には「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)
 この冒頭の文によれば、「都督歴」に列挙されている64人よりも前に、蘇我臣日向を最初に藤原元名まで104人の「都督」が歴任していたことになります (藤原元名の次の「都督」が藤原国風のようです)。もちろんそれらのうち、701年以降は近畿天皇家により任命された「都督」と考えられますが、『養老律令』には「都督」という官職名は見えませんので、なぜ「都督歴」として編集されたのか不思議です。
 しかし、大宰帥である蘇我臣日向を「都督」の最初としていることと、それ以降の「都督」の「名簿」104人分が「都督歴」編纂時には存在し、知られてい たことは重要です。すなわち、「孝徳天皇大化五年(649年、九州王朝の時代)」に九州王朝で「都督」の任命が開始されたことと、それ以後の九州王朝「都督」たちの名前もわかっていたことになります。しかし「都督歴」には、なぜか「具(つぶさ)には之を記さず」とされており、蘇我臣日向以外の九州王朝「都 督」の人物名が伏せられています。
 こうした九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。この「都督」は中国の天子から任命された「倭の五王」時代の「都督」とは異なり、九州王朝の天子のもとで任命された「都督」です。
 また、「都督歴」に見える「筑紫本宮」という名称も気になりますが、まだよくわかりません。引き続き、検討します。


第631話 2013/12/08

『通典』の「賀正礼」
(元日朝賀儀)

 拙論「白雉改元の宮殿」 において、前期難波宮(九州王朝副都)での「賀正礼」について触れましたが、九州王朝における「賀正礼」について更に詳しく研究する必要を感じていまし た。近畿天皇家の『養老律令』などにも九州王朝律令の影響を受けている可能性がありますので、引き続き国内史料の調査分析を進めていますが、他方、中国からの影響についても先行論文などの勉強をしています。
 その過程で、唐代の史料『通典』(801年成立)に中国歴代王朝の「元日朝賀儀」(賀正礼)について記されていることを知りました。それによると「元日朝賀儀」は漢の高祖が最初とされているようです。
 『通典』はインターネットでも読むことができますが、学問研究に使用するには不安ですので、史料批判が可能な良い活字本か善本を探していました。メール で「古田史学の会」の役員や研究仲間に『通典』の情報提供協力を依頼したところ、すぐに数名の方から貴重な情報をいただくことができました。こうしたこと はインターネット時代の良さですね。
 中でも冨川ケイ子さん(「古田史学の会」会員、横浜市)から寄せられた情報によれば、宮内庁書陵部の『通典』が最も良い写本のようです。同写本の印影本も発刊されているとのことですから、ぜひ閲覧したいと思います。研究が進みましたら、ご報告します。


第630話 2013/12/07

「学問は実証よりも論証を重んじる」(8)

 最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号群史料の二種類の九州年号史料が存在することを説明できる唯一の仮説として、「大長」が704~712年に存在した最後の九州年号とする仮説を発見したとき、それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証が完了したと、わたしは考えました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉通りに、九州年号史料の状況を論証できたので、次に九州年号史料を精査して、この「論証」を支持する「実証」作業へと進みました。
 その結果、『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項に「大長四年丁未(707)」、『伊予三島縁起』に「天長九年壬子(712)」の二例を見い出したのです。 ただ、『伊予三島縁起』活字本には「大長」ではなく「天長」とあったため、「天」は「大」の誤写か活字本の誤植ではないかと考えていました。そこで何とか 原本を確認したいと思っていたところ、齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して提供していただいたのです(「洛中洛外日記」第599話で紹介)。その写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には「大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。
 「論証」が先行して成立し、それを支持する「実証」が「後追い」して明らかとなり、更に「大長」と記された新たな写本までが発見されるという、得難い学問的経験ができたのです。こうして村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を深く理解でき、学問の方法というものがようやく身についてきたのかなと感慨深く思えたのでした。(つづく)


第629話 2013/12/04

「学問は実証よりも論証を重んじる」(7)

 今日、午前中は名古屋で商談を行い、今は東京九段のホテルにいます。夕方、少し時間ができましたので、久しぶりに靖国神社を訪れました。名古屋駅前の桜通りの銀杏並木と同様に、靖国神社の銀杏も黄葉がきれいでした。

 九州年号研究の結果、『二中歴』に見える「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする結論に達していたのですが、わたしには解決しなければならない残された問題がありました。それは『二中歴』以外の九州年号群史料にある「大長」という年号の存在でした。
 『二中歴』には「大長」はなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』 以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が700年以前に「入り込む」形となったため、その 年数分だけ、たとえば「朱鳥」(686~694)などの他の九州年号が消えたり、短縮されていたりしているのです。
 こうした九州年号史料群の状況から、『二中歴』が原型に最も近いとしながらも、「大長」が後代に偽作されたとも考えにくく、二種類の対立する九州年号群史料が後代史料に現れている状況をうまく説明できる仮説を、わたしは何年も考え続けました。その結果、「大長」は701年以後に実在した最後の九州年号とする仮説に至りました。その詳細については「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収)をご覧ください。具体的には「大長」 が704~712年の9年間続いていたことを、後代成立の九州年号史料の分析から論証したのですが、この論証に成功したときは、まだ「実証(史料根拠)」 の「発見」には至ってなく、まさに「論証」のみが先行したのでした。そこで、わたしは「論証」による仮説をより決定的なものとするために、史料(実証)探索を行いました。(つづく)


第627話 2013/12/01

「学問は実証よりも論証を重んじる」(6)

 京都御所の木々も紅葉し、京都は最も美しい季節を迎えています。拙宅前の銀杏並木も見事に黄葉し枯れ葉となり舞い散り、冬の気配も感じさせてくれます。

 「元壬子年」木簡と「大化五子年」土器の研究における実証と論証の関わりについて説明してきましたが、これらとは異なり、論証のみが成立し、その後に実証が「後追い」するというケースもありました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉が最も際立つケースと言えますが、自然科学では少なからずこのような事例が見られます。たとえば、物理学の相対性理論などはアインシュタインの論理的考察から生まれた「論証」であ り、それまでのニュートン力学による実験データ(実証)からは生まれない理論でした。近年の例ではヒッグス粒子の発見が有名です。ヒッグス博士により約 50年前にその存在が「予言」されていたのですが、科学実験によりヒッグス粒子の存在が確認(実証)されたのはつい最近のことでした。このように直接証拠などの実証を伴わないまま論証が先行して成立するケースが学問にはあるのです。

 わたしもこのようなケースを経験したことがあります。最後にこの経験について紹介します。それは九州年号「大長」の研究のときのことでした。(つづく)


第626話 2013/11/30

「学問は実証よりも論証を重んじる」(5)

 観察の結果、確認した「大化五子年」という直接証拠(一次史料)に基づく「実証」結果と、『二中歴』などの後代史料(二~三次史料)を史料根拠として成立したそれまでの九州年号論の「論証」結果が一致しない今回の場合、とるべき学問的態度として、わたしは次の三つのケースを検討しました。
 第一は、これまでの九州年号論(主に史料批判や論証に基づく仮説体系)を見直し、「大化五子年」土器に基づいて九州年号原型論を再構築する。第二は、「大化五子年」土器が誤りであることを論証する。第三は、これまでの九州年号論と「大化五子年」土器の双方が矛盾なく成立する新たな仮説をたて論証する。 この三つでした。
 一緒に「大化五子年」土器を調査した安田陽介さんが主張されたのが第一の立場で、後代史料よりも同時代金石文や同時代史料に立脚して九州年号原型論を構築すべきというものでした。これは歴史学の方法論として真っ当な考えですが、わたしはこの立場をとりませんでした。何故なら、他の九州年号金石文(鬼室集 斯墓碑銘「朱鳥三年戊子」など)や『二中歴』を中心とする九州年号群史料の史料批判の結果、成立し体系化されてきた、それまでの九州年号論の優位性は簡単には崩れない、覆せないと判断していたからでした。
 第二の立場もまた取り得ませんでした。同土器が地元の考古学者により7世紀末から8世紀初頭のものと編年されており、同時代金石文であることを疑えなかったからです。また、「同時代の誤刻」(古代人が干支を一年間違って記した)とする、必要にして十分な論証も不可能と思ったからです。
 その結果、わたしがとった立場は第三のケースを史料根拠に基づいて論証することでした。そして結論として、「大化五子年」土器が出土した地域では、九州王朝中枢で使用されていた暦とは干支が一年ずれた別の暦が使用されていたとする史料根拠に基づいた仮説を提起、論証したのでした。詳しくは『「九州年号」 の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)所収の拙論「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」をご参照ください。
 この「大化五子年」土器のケースのように、同時代金石文という直接証拠を検証したうえでの「実証」と、それまでの「論証」がたとえ対立していたとしても、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を貫くことが、いかに大切かをご理解いただけるのではないでしょうか。「論証」を重視したからこそ、古代日本における「干支が一年ずれた暦の存在」という新たな学問的視点(成果)を得ることもできたのですから。(つづく)


第625話 2013/11/26

「学問は実証よりも論証を重んじる」(4)

 「洛中洛外日記」第624話で紹介した「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の事例は、実証(文字判読結果)そのものの不備・誤りを、学問的論証結果を重視したために実施した再調査により発見できたという、比較的わかりやすいケースでした。その意味では「足利事件」も、論理的に考えて冤罪であるとする弁護団の主張が受け入れられ、科学技術が進歩した時点でDNA再鑑定したことにより、当初の鑑定の誤りを発見できたのであり、よく似たケースといえます。
 しかし、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を理解するうえで、わたしはもっと複雑な学問的試練に遭遇したことがありました。今回はそのことについて紹介します。
 それは「大化五子年」土器の調査研究の経験です。茨城県岩井市から江戸時代(天保九年、1838年)に出土した土器に「大化五子年二月十日」という線刻文字があり、地元の研究者から専門誌に発表されていました。学界からは無視されてきた土器ですが、古田先生は九州年号「大化」が記された本物の同時代金石文ではないかと指摘されていました(『日本書紀』の大化五年(649)の干支は「己酉」で、その大化年間(645~649)に「子」の年はない)。
 ところが、九州年号史料として最も原型に近いと考えていた『二中歴』によれば、大化五年(699)の干支は「己亥」で、「子」ではありません。翌年の700年の干支が「庚子」であり、干支が1年ずれていたのです。もし、この土器が同時代金石文であり、「大化五子年」と間違いなく記されていたら、『二中歴』の九州年号を原型としてきたこれまでの九州年号研究の仮説体系や論証が誤っていたということになりかねません。そこでわたしは1993年の春、古田先生・安田陽介さんと共に茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問し、その土器を見せていただき、手にとって観察しました。
 観察の結果、「子」の字が意図的な磨耗によりほとんど見えなくなっていることがわかりました。おそらく、『日本書紀』の大化五年の干支「己酉」とは異なるため、出土後に削られたものと思われました。しかしよく見ると、かすかではありましたが、「子」の字の横棒が残っており、やはり「子」であったことが確認できました。この土器は同地域の土器編年により、7世紀末頃のものとされていることから、まさに同時代金石文なのです。そうした第一級史料が『二中歴』 などの後代史料と異なっているため、同時代史料を優先するという歴史学の方法論からすれば、従来の九州年号研究による諸仮説や論証が間違っていたことにな るのです。すなわち、ここでも「大化五子年」土器という「実証」結果が、それまでの九州年号論という「論証」結果と対立したのです。(つづく)


第619話 2013/11/09

「宇佐八幡文書」の九州年号

 正木裕さんが『日本書紀』史料批判の新手法「34年遡上説」を駆使して、九州王朝史の解明に果敢に取り組んでおられることは、何度も紹介してきたところですが、わたしも20年以上前から九州王朝系史料の探索と分析により、九州王朝史復元に取り組んできました。中でも、「宇佐八幡文書」中に多くの九州王朝系伝承が含まれていることに気づき、一部は研究論文として発表してきましたが、大部分は史料批判や分析が困難で、未発表のままとなっています。そこで、その未発表史料について紹介し、古田学派研究者による解明や作業仮説の提起を促したいと思います。
 「宇佐八幡文書」や京都の「石清水八幡文書」に共通して見える不思議な伝承記事があります。それは、九州年号の「善記元年(522)」に八幡大菩薩が唐(当時は南朝の梁か北朝の魏)から日本に帰ってきて、その後生まれた四人の子供たちとともに日本を統治した、という伝承です。たとえば次の通りです。

 「香椎宮縁起云、善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩日本還給」
 「又善記元年記云、大帯姫従大唐渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第一巻)

 「善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩(私云、香椎御事也、)渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第十五巻)

「以善記元年壬丑(寅の誤写か:古賀)、従大唐八幡大菩薩日本渡給」
 (『石清水八幡宮史料叢書』2、高橋啓三編)

 わたしの知るところでは、以上の「八幡宮史料」にこの伝承記事が見えるのですが、その内容から北部九州(香椎宮)が舞台であり、「八幡大菩薩」と称される人物が「唐」より帰国して、日本の統治者になったというものです。おそらくは弥生時代の人物「大帯姫」の伝承と混同されて伝わった史料もありますが、九州年号「善記元年(522)」の事件として記録されていますから、「八幡大菩薩」が九州王朝の王であれば、当時の倭王「筑紫君磐井」その人の伝承と考えるべきかもしれません。
 史料的限界があり、決定的な論証は今のところ困難ですが、もし筑紫君磐井の伝承であれば、磐井は「唐(梁か北魏)」から帰国し、倭王に即位して、九州年号を「継体」から「善記」に改元したことになります。引き続き史料探索を進め、仮説を構築する必要があります。それにしても、不思議な伝承記事です。


第618話 2013/11/04

『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることは既に紹介してきたところですが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって、九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、 うっかり大切なことに気づかずにいました。このことについて説明します。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(720)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく7世紀にまで遡ることでしょう。そのため、『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば7世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば、当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(647)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(649)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の常色を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし、『赤渕神社縁起』には、年号については九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の常色が既に書かれていたことを意味します。もし、元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、 天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味するのです。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、828年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性を、わたしは見過ごすところでした。
 もともと、九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば、近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された非学問的な「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがって、わたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、652年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても全く反論できず、無視を続けています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない非学問的な「仮説」であるかは明白なのです。


第613話 2013/10/20

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)戦闘」に記された「鬼神」「悪魔」「悪鬼」が新羅でなければ、その正体は何だったのでしょうか。このことを検討・考察してみました。
 まず『日本書紀』を読みなおしてみました。すると常色元年に相当する孝徳紀大化三年(647)七月条に「渟足(ぬたり)柵を造りて、柵戸を置く。」とい う記事が見え、翌大化四年是歳条には「磐舟柵を造りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く。」とあります。岩波文庫『日本書紀』の注によれば、渟足(ぬたり)柵は新潟県新潟市沼垂、磐舟柵は新潟県村上市岩船のことと説明されています。これらの記事から、常色元年頃に倭国と蝦夷国は緊張関係にあったことがうかがえます。「柵」を造り「柵戸」(柵を防衛する屯田兵)を新潟に配置しているのですから、現実的な蝦夷国からの脅威にさらされていたと思われます。
 他方、同じ『日本書紀』孝徳紀大化三年(647)七月条には新羅から金春秋の来倭記事がありますし、翌年の是歳条には「新羅、使を遣して貢調(みつぎた てまつ)る。」とあり、両者の関係は親密です。こうした『日本書紀』の史料事実から考えてみますと、『赤渕神社縁起』の「常色元年戦闘」伝承で表米宿禰が戦った「鬼」とは、新羅ではなく蝦夷ではないでしょうか。斉明紀になると倭国による「蝦夷討伐」記事が現れますが、おそらく倭国からの侵略・攻撃だけではなく、蝦夷国からの倭国への攻撃・侵略もあったはずです。そうでなければ新潟に「柵」が造られたりはしないでしょう。こうした理解が正しければ、『赤渕神社縁起』に見える「常色元年戦闘」伝承こそ、蝦夷国による丹後への侵入と交戦の貴重な現地伝承だったことになります。
 以上、史料批判と分析から導き出された仮説ですが、是非とも現地を訪問し、より詳しい調査を行いたいと思います。また、丹後以外にも日本海側に蝦夷国との交戦伝承が残っている可能性もありそうです。今後の楽しみな研究テーマです。


第611話 2013/10/18

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事ですが、実は次のような表現となっています。

「(常色元年二月)十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」「新羅退治」「常色元年九月三日、怱平悪鬼」(「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年(647)の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年(828)の 『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(720年成立の『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な 「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。
 それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。検討と考察を続けてみましょう。(つづく)


第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)