九州年号一覧

第762話 2014/08/09

『肥前叢書』の

「聖徳太子」伝承

 昭和12年に肥前史談会により発行された『肥前叢書』(昭和48年復刻版)によれば、肥前の寺院に「聖徳太子」御作とされる仏像に関する記事が散 見されます。おそらく九州王朝の天子、多利思北孤か太子の利歌彌多弗利に関わる仏像記事が、後世に「聖徳太子」伝承に置き換えられたものと推察されます。 そうであれば、作られたのは仏像だけではなく寺院も建立されたはずです。同書によれば次のような「聖徳太子」関連記事があります。

○勝楽寺
 「新庄の里勝軍山勝楽寺本尊は阿弥陀如来の尊僧聖徳太子の御作也」

○桐野山
 「桐野山妙覺寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也」

○黒髪山
 「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子の御作也」

○圓應寺
 「武雄圓應寺、本尊は聖観音の座像也、薩捶聖徳太子の御作、利生無双の霊像也」

 こうした「聖徳太子」伝承を持つ寺院や仏像は、本来は多利思北孤か利歌彌多弗利に関わるものであれば、7世紀初頭頃に肥前の地でも九州王朝による寺院が少なからず建立された可能性をうかがわせます。これもまた土器や瓦などの考古学的出土による編年研究が必要です。


第761話 2014/08/08

『肥後国誌』の

  寺社創建伝承

 「洛中洛外日記」757話において、7世紀前半における寺院の「九州の空白」 問題を指摘しました。考古学的痕跡からの指摘でしたが、九州の現地伝承を記した史料には7世紀前半以前における創建伝承を持つ寺院の存在が少なからず見え ます。たとえば平野雅曠著『倭国王のふるさと 火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)には『肥後国誌』に見える次の寺社創建記事を紹介されています。ちなみに、平野氏(故人)は「古田史学の会」草創期の会員で、古田学派における熊本の重鎮でした。

○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)

○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)

○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594~600年。『二中歴』では「告貴」)

○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)

 このように熊本県北部に6世紀の寺社創建伝承が分布しており、中でも「聖徳太子建立」伝承から、多利思北孤の時代の創建伝承が「聖徳太子」伝承に置き換えられていることがわかります。おそらくこの山鹿や益城地方は『隋書』国伝に記された阿蘇山の噴火を見た隋使の行路で はないかと考えられます。
 6世紀末の吉貴(告貴)年間の創建であれば、法隆寺若草伽藍創建と同時期にあたりますから、その時代の瓦や土器が出土すれば、考古学的証拠と史料が一致し、九州王朝における寺院創建の可能性が高まります。地元の皆さんで現地調査や考古学的発掘調査報告書を調べていただければありがたいと思います。


第759話 2014/08/04

『菊水史談会会報』第20号

先月、熊本県玉名郡和水町の菊水史談会事務局の前垣芳郎さんから、同会会報第20号が送られてきました。それには、本年五月にわたしが同地で講演した記事が掲載されていました。同記事中には「古田史学の会」ホームページの「洛中洛外日記」も紹介されていました。ありがたいことです。
同会会長の有江醇子様からのお手紙も同封されており、講演へのお礼が記されてありました。お手紙によると、「会報」第20号が菊水地区の熊本日々新聞の折り込みとして7月17日の朝刊と一緒に各家庭へ配達されたとのこと。すごい取り組みですね。
有江さんは「九州の古代は倭国の本拠地であったというお話に、私どもは驚きと誇りをいただきました。空白の4~6世紀と言われる現在の日本史を一日も早く復元し、日本の正史に取り上げていただけることを祈っております。」と記されており、恐縮しています。
このように、九州の各地で古田史学・九州王朝説が確実に浸透していることがわかります。これからも各地の団体や研究者と連絡を取り合い、協力して古田史学の啓蒙宣伝を進めていきたいと願っています。


第729話 2014/06/17

7月5日(土)、
松山市で講演します済み

 今朝は新幹線で東京に向かっています。今週は週末まで東京と山形で仕事です。

 往復の車中の読書用に京都駅構内の本屋さんで『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」』(安宅和人著)を買い、読んでいます。最新 のビジネス理論などを勉強するのに、東京行き新幹線は時間的にピッタリです。名古屋出張では京都から36分で到着しますので、読書には短すぎて不適です。 うっかりして名古屋で下車せずに、新横浜駅まで行ってしまいそうですから。
 著者の安宅和人さんはマッキンゼーで消費者マーケティングを担当されたコンサルタントであると同時に、脳神経科学の学位も持つという、珍しい経歴の持ち 主です。ですから、同書には脳神経科学の知見も紹介しながら「問題解決力」について記されており、読者を飽きさせない工夫をこらした、なかなかの好著で す。
 本書は「イシュー」の定義として、

(A)2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
(B)根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題

 この両方の条件を満たすものと定義付け、まず最初にこのイシューを見つけることがビジネス速度(知的生産性)をあげるための要点であることが繰り返し強調されています。
 わたしもこの意見に共感できます。ビジネスでもそうですが、古代史研究においても研究テーマを設定する際に、わたしは上記のABを意識してきました。た とえば、前期難波宮遺構について一元史観内でも決着が付いていませんし、九州王朝説の立場からも解決できない問題(なぜ大宰府政庁よりもはるかに大規模な のか)を含んでいました。しかも枝葉末節ではなく、九州王朝の宮殿か孝徳天皇の宮殿かという根本的な対立点となるテーマでした。
 九州年号の「大長」についても同様で、『二中歴』のように「大長」がなく「大化」を最後の九州年号とする史料と、「大長」を最後の九州年号とする史料が対立しており、古田学派内でも決着がついていませんでした。
 二倍年暦もそうです。釈迦や弟子等の超高齢、ギリシア哲学者の超高齢、エジプトのファラオの超高齢、周王朝の天子の超高齢など、古代人は長生きだったとか、古代文献の年齢は信用できないという安直な「判断」で済まされ、本質的な解決に至っていないテーマでした。
 このように、わたしは「より本質的な選択肢=カギとなる疑問」を研究テーマにしたいと願ってきましたし、現実にそうしました。ですから、著者の安宅さんのご意見には共感するところが多いのです。
 ということで、7月5日(土)に松山市で行う講演(「古田史学の会・四国」主催)では、こうした本質的テーマを中心に、わかりやすく九州年号史料についてお話しする予定です。演題は「九州年号史料の出現と展望」です。ぜひ、お越しください。

 ようやく東京駅に着きました。これから八重洲のブリジストン美術館に併設されているティールーム・ジョルジェットでランチにします。


第727話 2014/06/14

九州年号「光元」改元の理由

 九州年号研究において不思議な現象のあることが、以前から知られていました。それは、中国の隋の年号が改元された年に、なぜか九州年号も改元されるケースが多いというものです。たとえば次の通りです。

西暦 隋の年号  九州年号 (それぞれ元年)
581 開皇    鏡當
601 仁寿    願轉
605 大業    光元
617 義寧    --
618 皇泰    倭京

 もちろんこの期間に他の九州年号の改元、たとえば勝照(585)・告貴(594)・定居(622)もあり、両王朝のすべての改元が一致しているわけではありませんが、短命な隋の改元(5個のうち4個の年号が九州年号の改元と同年)が偶然にしてはよく一致していることから、その理由についてどのよう に解釈したらよいのか、説得力のある仮説はありませんでした。
 通常、改元はその王朝の天子の交代や、吉兆・凶兆が現れたことにより改元されます。中国と九州王朝とで、たまたま天子の交代が同年だったという偶然も皆無ではないでしょうが、やはり学問としてその合理的な同年改元の真因を解明したいものです。
 そこで今回わたしが注目したのが、『二中歴』に記された九州年号「光元」(605年。他の年代暦等には「光充」とするものもある)と隋の「大業」との一致でした。遠く離れた隋と九州王朝(倭国)において、同時に発生しうる吉兆・凶兆として天文現象が考えられます。そして、わたしは九州年号「光元」の 「光」の一字に注目したのです。前漢で年号が使用されたとき、「元光」(BC134)という年号が採用され、その理由は「彗星」の出現が契機になったとい われています。それと同様に605年に何らかの光に関係する天文現象が起こり、それが要因となり、九州王朝も隋も改元したのではないかとの作業仮説(思い つき)に到達したのです。
 この作業仮説を検証するために史料根拠を探したところ、『日本書紀』の推古12~13年条(604~605)にはそれらしき記事は見えません。特に12 年条は有名な「十七条憲法」記事で占められており、この時期には彗星などの天文現象記事は記録されていません。次に中国側の史料として『隋書』の帝紀と天 文志を調べました。
 「帝紀第二高祖下」の仁寿四年(604)には高祖の崩御(7月)があり、翌年1月には改元され大業元年となりますから、この改元は天子の交代によるものでしょう。天文現象としては、6月に「星有りて月の中に入る、数日にて退く」、7月には「日青く光り無し、八日にして復す」という記事が見えます。その 後、高祖が崩御しますから、これらの天文現象は凶兆と見られたようです。これらの現象の詳細がわかりませんので、日本列島(九州王朝)でも見られたのかどうかも判断できません。
 次いで「志第十六天文下」には仁寿4年6月の「星有りて月の中に入る」について、「占いて曰く、大喪有り、大兵有り、亡国有り、軍破れ将殺す」とあり、 七月の「日青く光り無し」についても、「占いて曰く、主勢奪。又曰く、日に光無く王に死有り」と記録されています。やはりこれらの天文現象は凶兆として捉えられていたことがわかります。
 もし九州王朝でも「日青く光り無し」という不思議な天文現象が観測されていたとすれば、隋と同様に占われ、凶兆とされたことと思われますので、二度と「日青く光り無し」にならないようにと、翌年に「光元」という文字使いで改元されたことはよく理解できます。ちなみに、この時期は九州王朝の天子、多利思北孤は健在ですので、天子の交代による改元とする理解はあり得ません。
 以上の考察から、九州年号「光元」の改元理由として、『隋書』に見える「日青く光り無し」という天文現象を契機としたとする作業仮説(一つのアイデア) を提起したいと思います。この作業仮説が有力仮説となるためには、隋で見られた「日青く光り無し」という天文現象の解明と九州王朝でも観測できたという証明や根拠が必要です。天文現象に詳しい方のお力添えを賜れば幸いです。


第726話 2014/06/13

『古田史学会報』122号の紹介

 『古田史学会報』122号が発行されましたので、ご紹介します。今号は「四国の会」の筑紫舞見学旅行記が白石恭子さん(今治市)より寄せられました。「北海道の会」からは2013年度活動報告がなされました。各地域の会からの活動報告をこれからも是非お寄せください。
 熊本県和水町の菊水史談会・事務局の前垣芳郎さんによる「納音付き九州年号史料」発見の報告を『歴史玉名』第68号より転載させていただきました。同史料の写真も掲載しましたので、読者にも実感がわくものと思われます。

〔『古田史学会報』122号の内容〕
○亡国の天子薩夜麻  川西市 正木裕
○前期難波宮の論理  京都市 古賀達也
○筑紫舞見学ツアーの報告
 -筑紫舞三〇周年記念講演と大神社展-
  今治市 白石恭子
○【転載】「九州年号」を記す一覧表を発見
 -和水町前原の石原家文書-
 熊本県玉名郡和水町 前垣芳郎
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・北海道 2013年度活動報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内


第722話 2014/06/08

九州王朝の建元は「継体」か「善記」か

 「洛中洛外日記」721話の「NHK『歴史秘話ヒストリア』のウラ読み」を綴っていて、『三国史記』新羅本記に法興王による年号の制定記事(「建元」元年、536年)があることを思い出しました。ある王朝が年号を最初に制定することを「建元」といい、その後、年号を変更することを「改元」というのですが、新羅の場合、建元した際の年号名がそのものずばりの「建元」です。そして改めて気づいたテーマがありました。
 それは九州王朝の年号「九州年号」の建元年号は「継体(517~521年)」(『二中歴』にのみ遺存)か、「善記(522~525年)」(『二中歴』以外の史料)かというテーマです。古田先生を始め古田学派内の大勢としては「継体」を最初の九州年号とされているようです。その理由は、『二中歴』の史料的優位性(成立の古さ。内容が九州王朝系史料に基づく)と論理性(継体天皇の漢風諡号が誤記誤伝により年号と間違われ、『二中歴』に記録されたとは考えにくい)によるもので、わたしも同様に考えています。
 しかし、圧倒的多数の年代暦類が「善記」を最初の九州年号としていたり、「善記」を我が国の年号の最初と説明する後代史料が少なからず見えることから、 どちらが最初の九州年号かを確定できる実証や論証ができないものかと考え続けてきました。今回、新羅の建元年号名が「建元」であることからもわかりますよ うに、新たな権力者が新王朝を立ち上げたときに建元するのですが、その年号は新王朝最初の年号にふさわしい漢字や単語を採用することは当然でしょう。王朝内の最高の知識人や歴史官僚・文字官僚を動員して検討したことを疑えません。
 このような視点から見ると、中国最初の本格的年号の最初は前漢の武帝による「建元元年」(BC140年)からとされていますが、この「建元」という年号も最初に元号を建てるという字義そのものです。おそらくは新羅もこの武帝の年号をならって、自ら最初の年号名を「建元」としたのではないでしょうか。
 ちなみに、前漢を滅ぼして「新」を建国した王莽の年号は「始建国」(9年)で、そのものずばりの年号名です。
 また、近畿天皇家の最初の年号「大宝」も、天子の意味を持つ「宝」の字が使用され、新王朝の初めての天子(宝)を礼賛する「大宝」という名称は最初の年号にふさわしいものです。ちなみに、天子の位を「宝位」といいます。
 同様に九州王朝の最初の年号の字義として、「継体」と「善記」のどちらがふさわしいでしょうか。古田先生によれば、「善記」は筑紫君磐井による律令(善き記)制定による年号と考えられています。「継体」はそれまで九州王朝・倭国が臣従していた中国南朝からの自立と、その権威を引き継ぐという意味で制定された年号ではないかと、古田先生は講演などで発表されています。こうしたことから、九州王朝最初の年号としては「継体」の方がよりふさわしいのではないでしょうか。現時点ではそのように考えています。


第719話 2014/06/02

因幡国宇倍神社と「常色の宗教改革」

 「洛中洛外日記」614話『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」に おいて、正木裕さんの「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号 2008年4月)という仮説を紹介しました。九州年号の常色元年(647)に九州王朝 により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そして、その史料根拠となる天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』の次の記事の存在も紹介しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘された通り、天武十年正月条の「宮を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応した記事です。
 その後、正木さんとこのテーマについて意見交換したとき、7世紀中頃の常色年間(647~651)や白雉年間(652~660)での創建伝承を持つ神社が多いことから、この現象は九州王朝による「常色の宗教改革」の反映であり、各地の寺社縁起の調査分析が必要との結論にいたりました。特に『日本書紀』の影響を受けて、九州年号「常色」を『日本書紀』の「大化(645~649)」に年号が書き換えられているケースが想定されるので、その「大化」年号により記された寺社縁起の史料批判が必要と思われました。
 そんなこともあって、高円宮家典子さんとご婚約された出雲大社神職千家国麿さんの御先祖や系図などを調査していたとき、因幡国一宮の宇倍神社の創建が 「大化四年(648)」とされていることを知りました。この年は九州年号の「常色二年」に相当し、「常色の宗教改革」のまっただ中の時代です。現地調査や史料調査の機会を得たいと思います。
 出雲の千家家と因幡の宇倍神社の関係ですが、千家家の御先祖は天孫降臨した側の「天穂日命」とのことですが、天孫降臨された側(国を取られた側)の神様を祖先とする系図に、著名な『伊福部氏系図』があります。「大己貴命」を始祖とした系図ですが、その御子孫は今もご健在とうかがっています。その御子孫の伊福部家が長く宇倍神社の神職をされていたようです。こうした調査をしていたときに、宇倍神社の創建が「大化四年(648)」とされていることを知ったのです。
 全国的に分布している「常色年間」創建伝承を持つ寺社の調査を行いたいと考えていますが、わたし一人では全国の神社を調べたり、訪問することは困難です。皆さんのご協力をよろしくお願いします。


第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。

 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。

 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。

 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。

 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。


第717話 2014/05/31

『五行大義』の「納音」

 熊本県和水(なごみ)町で発見された「石原家文書」の「納音(なっちん)付き九州年号史 料」により、わたしは「納音」というものを知ったのですが、それがいつの時代にどこで成立したのかはわかりませんでした。インターネットや関連書籍の説明 では中国の唐代には成立していたようなのですが、出典などが不明で今一つ確信が持てませんでした。そのような中、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から隋代の書籍『五行大義』に「納音」に関する記述があることを教えていただきました。
 『五行大義』巻第一に、次のような書き出しで「納音」についての説明が見えます。

「第四、納音の数を論ず
 納音の数は、人の本命の属する所の音を謂(い)ふなり。」(以下略)

 以下、「木火土金水」などと関連付けながら難渋な説明が続くのですが、たとえば「山頭火」などの「納音」の冒頭の二文字「山頭」とかについては記述がありません。従って、今日見るような「納音」とは趣が異なるようです。
 明治書院のホームページにある説明によれば、『五行大義』5巻の編者は蕭吉で、「先秦時代から隋までの五行説を集め、組織的に整理、分類した書物。伝来の歴史は古く、『続日本紀』や日本国見在書目録にも載せられ、多くの鈔本が伝えられている。日本文学や平安貴族文化に多大な影響を与えたほか、陰陽道の教科書的存在にもなった。」とあります。
 服部さんから教えていただいた『五行大義』を手がかりに、引き続き「納音」の調査を行っていきます。


第709話 2014/05/15

和水町「石原家文書」余滴

熊本県和水(なごみ)町の前垣芳郎さんの御厚意により、大量の「石原家文書」を二日間に わたり拝見せていただきました。そのおり、同文書の中から前垣さんから面白い「書き付け(紙片)」を紹介されました。それは「大化」から江戸時代までの年数を計算した「メモ書き」でした。私の知識では判読不明な字があり、誤読もあるかもしれませんがご紹介します。

「大化?年より安永四年迄
大化より天正四年迄
九百三十年成
天正四年より安永四年迄
?百年成
々千百三十年成
安永五年より安政二年迄
八十年成」

(古賀注)
1). 「より」は変体仮名。
2). 5行目の?は、計算上では「二」だが、そのようには見えない。「弐」の異体字かもしれない。
3). 6行目の「々」は「合」かもしれない。

大意は「大化」(『日本書紀』の「大化」で、元年は645年)から天正・安永・安政までの年数を計算したもので、西暦にすると次のようです。

大化元年  645年
1576-645=年931年
天正四年 1576年
1775-1576=199年
安永四年 1775年
1855-1775=80年
安政二年 1855年

紙片の前後に別の文があったのかどうかは不明ですが、「安政二年」という幕末の年号が記されていますので、この史料の成立は安政二年(1855)以後です。おそらくは安政二年かその数年後までの成立ではないでしょうか。
ただ、大化元年から安政二年までの年数を計算するのであれば、途中の天正や安永は必ずしも必要ではありませんから、もしかすると一旦は天正四年時点で計算した史料があり、その史料に基づいて安永四年に追加算した史料が成立し、更にその「安永四年」史料に基づき安政二年を起点に再計算し、全てを同一筆跡で書写されたものが、当史料ではないかと推測しています。そのように考えると、冒頭の「大化?年より安永四年迄」という計算に不要な一行の意味が理解できそうです。すなわち、「天正四年」史料に基づいて「安永四年」に計算したときの「表題」という位置付けが可能となるのです。そして、安政二年時点ではその安永四年時点の表題も含めて再書写したものと思われます。
しかし、この史料性格はよくわかりません。玉名郡の庄屋さんが何の必要があって、大化からの年数を計算するのでしょうか。恐らくこの史料の性格や目的がわかれば、石原家という庄屋の真の姿や「納音(なっちん)」付き九州年号史料の性格もわかるのではないでしょうか。こうした謎の解明も古文書調査(歴史研究)の醍醐味です。

納音(なっちん)年代計算資料

納音(なっちん)年代計算資料


第708話 2014/05/11

隋使の来た道

 和水町の講演で、『隋書』によれば倭国に来た隋使は阿蘇山の噴火を見ており、そのためには江田船山古墳に見られるような有力者がいた和水町まで来た可能性があると述べました。そして、隋使が来たのは7世紀初頭の九州年号の時代であることから、当地域に残された九州年号による記録や伝承を調査していただきたいと締めくくりました。
 そうしたら、質疑応答のさいに会場から「自宅の近くにある阿蘇神社の記録に『告貴』という年号が記されているが、それが九州年号であったことがよくわかりました。」という発言がありました。「告貴」は6世紀末(594~600年)の九州年号であり、『隋書』に記された九州王朝の天子、多利思北孤の時代の年号です。
 多利思北孤の事績は、後代において『日本書紀』の影響を受けて、近畿天皇家の「聖徳太子」に置き換えられて伝承されている例が多く(法隆寺の釈迦三尊像 など)、熊本県(下益城郡、『肥後国誌』)の九州年号に「聖徳太子」伝承に伴ったものがあることや、熊本県に「天子宮」という名称の神社が濃密に分布していることも(古川さんの調査による)、九州王朝の多利思北孤との関係をうかがわせるものです。
 このように考えてみると、6世紀末から7世紀初頭にかけて、九州王朝は肥後に一拠点をおいたのではないかと、わたしは考えています。例えば菊池城なども そうした背景と影響下に造営されたように思われるのです。また、九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞の「翁」も、「肥後の翁」が中心になって構成されていると聞いていますので、このことも九州王朝と肥後との関係の強さがうかがえるものでしょう。
 九州王朝研究において、筑前・筑後・肥前に比べて、肥後の研究はまだまだ不十分です。和水町での講演や、「納音」付き九州年号史料の発見を良い機会として、当地の皆さんによる調査研究を心から願っています。わたしもまた当地を再訪問したいと思ってします。