九州年号一覧

第72話 2006/04/21

実見、「三壬子年」木簡

 第69話で紹介しました「三壬子年」木簡を、本日見てきました。古田先生等5名で、神戸市にある兵庫県の埋蔵文化財調査事務所へ行き、同木簡を1時間半にわたりしっかりと見てきました。もちろん、最大の観察点は「三」と読まれた字です。結論から言いますと、この字はやはり「元」と読まざるを得ない、ということでした。
 ちょっと見た感じでは「三」とも読めそうなのですが、詳細に観察した結果、次の理由から「元」であると判断しました。

1.第三画の右端が「三」とすれば極端に上に跳ねています。木目に沿った墨の滲みかとも思われましたが、そうではなく明確に上に跳ね上げられていました。そして下には滲みがありません。これが「元」である最大の根拠と言えます。

2.第三画の真ん中付近が切れていました。赤外線写真も撮影して確認しましたが、肉眼同様やはり切れていました(大下隆司さん撮影)。従って、「三」よりも「元」に近い。

3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっています。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずなのに、実際は逆で、右側の方が濃くなっています。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡と思われます。

4.木目により表面に凹凸があるのですが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていました。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象です。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当することになります。

5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められました。これは「元」の第四画の初め部分と思われます。

 以上の理由から、従来「三」と読まれていた字は「元」であると判断せざるを得ませんでした。今回実見してわかったのですが、同木簡は漂白処理が施されており、写真よりも色が白く、そのため墨の痕跡が肉眼でもよく判別できました。もちろん、光学顕微鏡も持ち込みましたが、上記の点は肉眼でもはっきりと判読できました。これは大変恵まれた史料状況と言えるでしょう。その他の字も確認しましたが、「三」以外はほぼ『木簡研究』に載せられた釈文でも良いように思われました。断定はできませんが(表面の「何」とされた字は「向」とも見えました)。
 今後、引き続き顕微鏡写真撮影などで更に綿密な調査を行う予定ですが、現時点では「元壬子年」と見なすべきであり、九州年号の白雉元年壬子(652)を示す貴重な木簡であると思われます。そういう意味で、本日は九州年号研究に画期的な前進を見た記念すべき一日であると言っても過言ではありません。

 最後に、木簡調査を快諾していただいた兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所の皆様に心より感謝申し上げます。

<赤外線写真 木簡9番を切り出し表示> 撮影 大下隆司、切り出し 横田幸男
現状 JPG444KB 大きさ121mmX375mm
撮影日 2006年 4月21日
場所  兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所

・インターネットに簡易赤外線写真の撮り方がのっていたのでそれを参考にしました。 内容は下記です;
1). 使用カメラ:オリンパス・カメディアC2020Z
2). フィルター:富士フィルターIR76
(フィルターはシートなので、昔使っていたニコンのUVフィルターに貼り付けて使用)
3). シャッタースピード:6秒、絞り値:F-2.8
4). 距離:実測45cm 、カメラの距離計:手動で約35cmに設定。

・インターネットによると赤外線写真に適したデジカメは少なく、Olympus C-2000/C-2020とNikon 950が最適とのことで、偶然小生のもっていたのがOlympus C-2020でたいへんラッキーでした。
・前夜自宅で蛍光灯で試しで撮ったのですがそれほど鮮明でなかったのでうまくゆくかどうか心配だったのですが、埋蔵文化財調査事務所で準備してくれたライトが赤外線写真に効果的だったのか結構きれいにとれていました。

画像はクレジットを入れています。改変しないでください。

「元壬子年」木簡

「元壬子年」木簡赤外線写真


第69話 2006/03/30

芦屋市出土「三壬子年」木簡

 3月の関西例会で、わたしは「木簡のONライン−九州年号の不在−」というテーマを発表しました。その中で、1996年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡について紹介しました。『木簡研究』第19号(1997)によれば、表裏に次のような文字が記されています。

「子卯丑□何(以下欠)

「 三壬子年□(以下欠) 下部は欠損していますが、この壬子年は652年白雉三年に当たり、紀年を記した木簡としては二番目に古いそうです。さらに『木簡研究』には次のように記されています。

「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(772)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」

 もしこの「三壬子年」の「三」の字が白雉三年のこととすれば、これは大変なことになります。何故なら、昔は年号の初めは大化で、その後に白雉が続くと習ったのですが、現在では『日本書紀』の大化や白雉・朱鳥の年号は使われなかった、あるいは『日本書紀』編者の創作で実際はなかったとする説が有力だからです。こうした有力説に対して、この木簡は白雉年号があったという証拠になるのです。

 更に大変なことに、九州年号説の立場からすると『二中歴』などに記された九州年号の白雉は『日本書紀』の白雉とは2年ずれていて、壬子の年(652)は元年となっています。従って、この木簡が正しければ、『二中歴』などの白雉年号は正確ではないということになり、九州年号の原形を見直さなければならないからです。

 「三壬子年」木簡がこうした重要な問題をはらんでいることに気づいたわたしは、ある疑問をいだきました。この「三」という字は本当に「三」なのだろうか。「三」ではなく「元」ではないのだろうかという疑問です。そこで『木簡研究』掲載の写真やインターネットで下記ホームページの写真を見てみました。そうすると、何と「三」の字の第三画が薄くてはっきりと見えないばかりか、その右端が上に跳ねてあるではありませんか。というわけで、この字は「三」ではなく「元」と見た方が良いと思われるのです。皆さんも下記ホームページの写真を是非御覧下さい。 このように、わたしの判断が正しければ、「元壬子年」となり、九州年号の「白雉元年」と干支がぴったりと一致するのです。すなわち九州年号実在説を裏づける直接証拠となる画期的な木簡となるのですが、結論は実物をこの目で見てからにしたいと思います。

「三壬子年」木簡

『木簡研究』第19号(1997)による

参考 三条九ノ坪遺跡木簡(1点)(平成13年度指定)

三条九ノ坪遺跡木簡(1点) – 兵庫県立考古博物館

http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000w01.html

(リンクがなくなれば「三条九ノ坪遺跡木簡」で検索してください。)


第66話 2006/03/11

多元史観の木簡研究

 金石文や文献など、古田史学は多方面にわたり、多元史観による新たな歴史学を展開してきました。しかし未だほとんど手つかずの領域があります。その一つが木簡研究です。
 すでに古田先生により、伊場木簡の「若倭」の多元史観的読解などが提起されていますが(『倭人伝を徹底して読む』)、本格的で総合的な研究は古田学派内部でもまだ行われていません。そうした中で、「古田史学の会・東海」の林俊彦さんによる論稿「呪符の証言」(「東海の古代」69号、『古田史学会報』73号転載予定)などは、多元史観による新たな木簡研究であり、注目されるところです。
 木簡は記紀などのように近畿天皇家により政治的に改竄編集された史料ではなく、文字通りの同時代史料であるため、史料批判などが行いやすく、史料として扱いやすいのですが、他方、断片的文字史料であり、主に「荷札」として使用されたケースが多いため、歴史事実全般を解明する上では多くの限界もかかえています。
 そのような木簡研究を、わたしは今年のメイン研究テーマとしました。そして、その成果報告の第一段として、「木簡のONライン−九州年号の不在−」を3月18日の関西例会にて発表します。多くの皆さんに聞いていただき、批評していただきたいと願っています


第9話 2005/07/03

明治時代の九州年号研究

 今年、古田史学の会が発行した『古代に真実を求めて』8集には、九州年号研究史に関する重要な論文2編が収録されています。一つは自画自賛になり恥ずかしいのですが、わたしの「『九州年号』真偽論争の系譜」で、昨年10月に京都大学で開催された日本思想史学会で発表した内容を論文にしたものです。主に江戸時代における九州年号真偽論にふれたもので、新井白石は実証的な真作説(ただし、大和朝廷の年号で正史から漏れたものとする)、対して貝原益軒は皇国史観に立った偽作説(僧侶による偽作)であることなどを紹介しました。
 もう一つの論文は冨川ケイ子さんによる「九州年号・九州王朝説 — 明治25年」で、なんと明治時代において九州年号を真作とする説が、当時の大家から論文発表されていたという内容です。わたしもこの事実を関西例会で冨川さんからお聞きしたとき、大変驚きました。古田先生以前に、初歩的ではありますが、「九州王朝説」や九州年号真作説が発表されていたのですから。
 その大家の論文とは今泉定介「昔九州は独立国で年号あり」と飯田武郷「倭と日本は昔二国たり・卑弥呼は神功皇后に非ず」で、特に飯田武郷は大著『日本書紀通釈』の著者として有名です。これらの論文は明治25年発行の『日本史学新説』広池千九郎著に収録されており、国会図書館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で閲覧できます。詳細は『古代に真実を求めて』8集を是非お読み下さい。
 このような研究史から埋もれていた貴重な論文を発見された冨川さんの業績は、古田学派による2004年度を代表する学問的成果の一つと言えます。ちなみに、冨川さんは相模原市に住んでおられますが、毎月の関西例会に新幹線で参加されるという熱心な会員さんです。その学問への情熱には本当に頭が下がります。

古賀氏の論文の原史料は闘論★九州年号をご覧下さい