九州年号一覧

第707話 2014/05/10

続・「九州年号」の王朝

 「九州年号」が九州の権力者により制定された年号であることを示す史料として、古写本「九州年号」という出典史料名や『二中歴』の「九州年号」記事細注の他に、隣国史書の『旧唐書』(945年成立)があります。
 「洛中洛外日記」第590~594話で連載した「『旧唐書』の倭国と日本国」でも詳述しましたが、『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別国として記録されています。その地勢表記から、倭国は九州島を中心とする国であり、日本国は本州島にあった国であることがわかります。そして、唐と倭国との交流記事の最後は倭国伝では貞観22年(648)、唐と日本国との最初の国交記事は日本国伝には長安3年(703)とあり、両者の日本列島代表王朝の地位の交代は648~703年の間にあると考えられます。そして、『二中歴』記載の九州年号の最後「大化6年(700)」と近畿天皇家の最初の年号(建元)である大宝元年(701)が、その期間に入っていることからも、「九州年号」の王朝が『旧唐書』に記録された倭国であることは明白です。
 このように「九州年号」と近畿天皇家の年号(大宝~平成)の関係と、『旧唐書』の「倭国伝」と「日本国伝」の関係が見事に対応しているのです。すなわち隣国史書『旧唐書』の記事が示していることも、「九州年号」は九州王朝(倭国)の年号であるということなのです。(つづく)


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)


第705話 2014/05/07

「改元」と「建元」の論理性

 熊本県和水(なごみ)町での講演会で「九州年号」を紹介するにあたり、まず最初に説明したのは「改元」と「建元」についてでした。
 講演を聴きに来られた皆さんやわたしの世代は、日本最初の年号を「大化」(645年)と学校で習ったはずです。「大化の改新」の「大化」です。ところがその「大化」年号や「大化の改新」を記した『日本書紀』には、天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする(孝徳天皇即位前紀)とあり、 王朝が初めて年号を制定する際の「建元」ではなく、なんと「改元」記事なのです。
 それでは大和朝廷(近畿天皇家)にとって最初の年号制定を意味する「建元」記事はどこにあるかといえば、『続日本紀』の文武天皇大宝元年三月条(701年)にあります。
 「建元して大宝元年としたまう。」(『続日本紀』)
 『日本書紀』も『続日本紀』も近畿天皇家が自らの歴史を、自らの利益のために、自らが編纂記録したものであり、自らに有利になるように記事を「修正・改竄・捏造」することはあっても、不利になるような変更はしないはずです。年号においても同様で、645年に「大化」年号を建元したのであればそう記すはずで、「改元」記事に変更する必要はまったくありません。同様に、701年に「大宝」年号を建元したと自ら主張しているのですから、これもまた嘘をつく必要はありません。すなわち、近畿天皇家は正直に「大化」は「改元」で、「大宝」は「建元」と主張していると考えざるを得ないのです。
 そうすると当然のこととして、一つの王朝にとって「建元」は最初の一回だけで、後は「改元」しかありません。近畿天皇家にとっての「建元」が701年の 「大宝」建元であれば、『日本書紀』に記された「大化(645~649年)」「白雉(650~654年)」「朱鳥(686年)」の3年号はいずれも「改元」と記されていることから、近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家の「建元」よりも以前に、それらの年号を公布・改元していたと考えざるを得ません。これ が「改元」と「建元」の論理性なのです。
 『日本書紀』に改元記事として記されている「大化」「白雉」「朱鳥」は、『二中歴』などに見える「九州年号」中にありますので、「九州年号」は近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家よりも以前に「建元」「改元」した年号であることは、上記の論理的帰結なのです。わたしのこの説明に、和水町の皆さんは深く同意され、「九州年号」というものをご理解していただけたようでした。(つづく)


第704話 2014/05/05

『隋書』と和水(なごみ)町

 昨日の和水町での講演会の演題は「『九州年号』の古代王朝」で、副題は「阿蘇山あり、その石、火起こり天に接す。『隋書』」でした。九州年号を発布した古代王朝こそ、『隋書』イ妥国伝に記された阿蘇山のある「九州王朝」であることを、講演の結論としたのですが、今回、初めて江田船山古墳がある和水町を訪問し、『隋書』イ妥国伝に記された風物がこの地に存在していることを確信したのです。
 『隋書』には倭国(九州王朝)について次のような記事があります。わかりやすく、順不同で列挙します。

1.阿蘇山あり、その石、故なくして火起こり天に接す。
2.葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)くに、或いは小輿を以てす。
3,二百余騎を従えて郊労せしむ。
4,小環を以て「慮鳥」「茲鳥」(ろじ)の項にかけ、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得る。

 1.の記事から九州王朝に来た隋の使者は阿蘇山を実見し、その噴火をリアルに記しています。「その石、故なくして火起こり天に接す」という表現は、活火山が無い中国の中原の人々にとっては驚きを持って受け止めた見事な文章ではないでしょうか。そこで、和水町の方にお聞きしたところ、和水町の山からは阿蘇山が見えるとのこと。わたしの実家の久留米市からは山に登っても阿蘇山は見えませんから、隋使は和水町まで行った可能性は小さくないと思われます。
 次に2.の葬儀の様子ですが、屍を船に乗せるという倭国の風習もまた、隋使にとって珍しい風習と受け止められ、記録に残されたものでしょう。この記事と対応するように、江田船山古墳がある清原(せいばる)古墳群の松坂古墳・首塚古墳・京塚古墳などに「舟形石棺」があります。さらには玉名市の石貫穴観音横穴墓内にも、ご遺体の安置台(側面)がゴンドラ型の石造物であり、まさに『隋書』の記事に対応した埋葬状況が見られるのです。わたしは前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)と高木正文さん(当地の考古学者)のご案内により、横穴墓内のゴンドラ型の石造物を見たとき、先の『隋書』の一節を思いだし、その一致に驚 きました。
 3,の記事から、倭国は騎馬隊を持っていたことがわかりますが、高木さんのご説明では玉名地方の古墳から馬の骨が出土するとのこと。江田船山古墳からも 鉄製の鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・馬具片が出土しています。有名な銀象嵌鉄刀(国宝)にも見事な馬の象嵌があります。こうしたことから、この地域では少なくとも古墳時代には馬が飼われていたことがわかります。この「馬」や「騎馬」の一致も、『隋書』と和水町を結びつけるものでしょう。
 最後に4.の鵜飼いの記事ですが、筑後川では今でも原鶴で鵜飼いが続けられていますし、矢部川でも江戸時代には鵜飼いが盛んであったことが『太宰管内誌』などの地誌に見えます。和水町を流れる菊池川には鮎はいるそうですが(今でも鮎釣りは盛んとのこと)、鵜飼いの風習はないそうです。ところが、先に紹介した江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀の「馬」の象嵌の裏面に「魚」と「鳥」の象嵌があることが発見されていたことを、わたしは今回の訪問で知りました。高木さんや前垣さんの御厚意によりいただいた『菊水町史 江田船山古墳編』(平成19年発行。菊水町は合併により現在では和水町になっています。)のカラー写真を確認したところ、「鳥」のくちばしの先が下に曲がっており、この「鳥」は鵜である可能性が高いのです。少なくとも、「魚」と一緒に描かれていること から「水鳥」と見るのが自然な理解です。また、「鳥」の首が長いことも「鵜」と見ることを支持していますし、首のあたりに「輪」とも見える象嵌が施してあり、鵜飼いの際に付ける「輪」のようにも思われるのです。
 以上、4点にわたり、『隋書』の記事と和水町の文物との一致を確認してきたのですが、これほどの一致は偶然と見るよりも、隋使がこの地を訪問した根拠とするに十分な傍証と思われるのです。(つづく)


第703話 2014/05/04

和水町での講演会、盛況!

 本日、熊本県玉名郡和水(なごみ)町で講演を行いました。当地の菊水史談会主催、和水町教育委員会後援によるもので、「『九州年号』の古代王朝」というテーマを発表しました。ゴールデンウィーク中にもかかわらず、100名以上の参加者で会場はほぼ満席でした。他府県からも参加されていたとのことで、今回発見された「納音(なっちん)」付き九州年号史料(石原家文書)への関心の深さがうかがわれました。
 和水町の福原秀治町長も見えられ、町をあげての熱意が感じられました。和水町の人口は一万人ほどとのことでしたので、100名以上の参加者はかなりのも のでしょう。久留米地名研究会の古川さんや荒川恒光さんらも見えられ、ご協力していただきました。
 わたしは昨日、当地に入ったのですが、希望していた江田船山古墳や横穴墓群の見学もできました。当地の考古学者、高木正文さんや前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)のご案内により、大変勉強になり、多くの発見にも恵まれました。
 発見された「石原家文書」も二日間にわたり拝見させていただきました。主に寶暦年間から明治時代までの文書で、一部には大正時代のものもありました。当地の有力な庄屋だった石原家の文書らしく、出納帳や証文、渡し船関係の文書などが多数ありました。他方、神仏への起請文や願文、73年分の「伊勢暦」、そ して書簡や「恋文」のようなものも見えました。変わったところでは、「砲術入門」関連書簡もありました。未整理や未発見の文書が長持一杯にあるとの情報も あり、今後の調査が期待されます。それにしても、これだけの大量の文書が、よく保管されていたものだと驚きました。
 私自身も発見の連続で、講演会でも報告させていただきました。前垣さんを始め、当地の関係者の皆様に御礼申し上げます。

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載


第702話 2014/04/30

菊水史談会「会報」19号

 熊本県玉名郡和水(なごみ)町の菊水史談会「会報」19号が、同会事務局の前垣芳郎さんから送られてきました。前垣さんは和水町の「石原家文書」の中に「納音(なっちん)」付き九州年号史料があることを発見された方です。
 同会報にはその九州年号史料発見のいきさつと、同史料が「古田史学の会」ホームページで紹介されて有名となり、全国各地から研究者の来訪ラッシュとなっていることが紹介されています。同九州年号史料の写真も掲載されており、地元でも有名になることでしょう。和水町の「宝」にしていただきたいと願っていま す。
 また、古田先生が九州年号や九州王朝説を提唱したことも紹介されています。5月3日にはわたしも当地を訪れ、「石原家文書」を見せていただけることに なっています。翌4日には菊水史談会主催・和水町教育委員会後援により、「『九州年号』の古代王朝」というテーマで講演させていただきます。和水町のみなさんに、わかりやすく古田史学・九州王朝説や九州年号を説明させていただく予定です。わたしもとても楽しみにしています。


第701話 2014/04/27

ONライン(701年)の画期

 読者の皆様やHP運営担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のおかげで、「洛中洛外日記」も701話を迎えることができました。感謝申し上げます。そこで、701話にふさわしいテーマについて触れることにします。
 ご存じのように、古田先生は九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代の画期点として、701年を重視され、「ON(オーエヌ)ライン」と 命名されました。「ON」とは「オールド・ニュー」のイニシャルです。旧王朝から新王朝への交代年をこのように表現されたのですが、その主たる根拠は次の ような点でした。

1,『二中歴』などに見える九州年号は700年(大化6年)で終わり、701年からは近畿天皇家の最初の年号「大宝」が「建元」されます。『続日本紀』には大宝を「改元」ではなく、初めての年号制定を意味する「建元」と記されており、大宝が近畿天皇家最初の年号であることは明白です。
2,藤原宮出土木簡などから、700年までは行政単位は「評」であり、701年からは一斉に「郡」に変更されています。
3,『旧唐書』に見える「倭国伝」と「日本国伝」の記事は、倭国から日本国への政権交代が701年とする古田説と整合します。

 以上のような、文献(九州年号)と考古学的史料事実(木簡)、そして外国史料(『旧唐書』)などの一致を根拠に、王朝交代の画期点を701年とされました。わたしもこの古田説に賛成です。
 ところが、この10年間ほどで九州王朝研究は進展し、王朝交代の実体が複雑なものであることも判明してきました。例えば、九州年号は701年以後も継続しており、「大化」は703年まで続き、その後「大長」が712年までの9年間続いていたことがわかりました。そのため、701~712年の間は近畿天皇家と九州王朝がそれぞれ年号を持って併存していた可能性が出てきました。その間の九州王朝の実体はまだよくわかりませんが、701年に単純な王朝交代が行われたのではないようです。今後の九州王朝史研究の課題です。


第687話 2014/04/01

和水(なごみ)町「石原家文書」

調査と講演案内

 納音(なっちん)付き九州年号史料が発見された熊本県玉名郡和水(なごみ)町を5月の連休に訪問することになりました。みかん箱二箱分にも及ぶという「石原家文書」を見せていただけるということで、とても楽しみにしています。40代の頃、青森県五所川原市の「和田家文書」調査以来の本格的な古文書調査となりますので、歴史研究者としての血が騒ぎます。調査結果は、6月15日(日)に開催予定の「古田史学の会」会員総会記念講演で報告させていただきます。

 5月3日に和水(なごみ)町に入り、「石原家文書」を見せていただき、翌4日(日)の午後に当地で講演させていただきます。和水町のみなさまにお会いできることも、楽しみにしています。おそらく『隋書』に記されたように、倭国を訪問した隋使の一行は、阿蘇山の噴火を見ていますから、和水町あたりまで訪れたのではないでしょうか。講演では当地のみなさんに古田先生の九州王朝説と九州年号についてご説明させていただきます。詳細は次の通りです。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

講師 古賀達也(古田史学の会・編集長)

演題 「九州年号」の古代王朝

   -阿蘇山あり、その石、火起り天に接す-『隋書』

日時 5月4日(日)13:30~

会場 和水町中央公民館

   熊本県玉名郡和水町江田3883-1

   電話 0968-86-2022

   ※九州縦貫自動車道菊水インターから車で5分

    和水町町役場南隣(駐車場無料)

主催 菊水史談会(問い合わせ先 090-3787-4460 前垣様)

参加費 100円(資料代等)

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載


第663話 2014/02/18

「納音」付・九州年号の依拠史料

 熊本県玉名郡和水町の前垣さんから送っていただいた「納音」付・九州年号史料コピーですが、そこに記されている九州年号は「善記」から始まっており、原型に近いとされる『二中歴』の九州年号とは別系統です。その依拠史料について 「洛中洛外日記」662話では『如是院年代記』の九州年号ではないかと記したのですが、精査した結果、寛政元年(1789)に成立した『和漢年契』(高昶 著)が管見では最も似ていることがわかりました。
 丸山晋司著『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』(アイピーシー刊、1992年)によれば、『和漢年契』に記された九州年号のうち、『二中歴』とは異なる「誤記・誤伝」が、「納音」付・九州年号史料と次のような一致点が見られます。

(『二中歴』)(『和漢年契』・納音付九州年号)
 「教倒」 → 「教知」
 「賢称」 → 「賢輔」
 「勝照」 → 「照勝」
 「命長」 → 「明長」

 以上のようですが、「教知」と「明長」は特に珍しい「誤記・誤伝」であり、その一致が注目されます。しかし、わたしが着目したのは、寛政元年(1789)に成立した『和漢年契』よりも「納音付九州年号」の方が寶暦四年(1754)の成立であり、古いのです。両者は恐らく共通あるいは同系列の九州年号史料に依拠して書かれた可能性が高いのです。江戸時代に、大阪で成立した『和漢年契』と遠く離れた九州で成立した史料が同系列の九州年号史料に依拠していたとすれば興味深いことです。
 江戸時代の玉名郡にどのような九州年号史料が存在していたのか、調査したいと願っています。幸い、同史料を見せていただけるとのことですので、楽しみにしています。


第662話 2014/02/15

「納音(なっちん)」付
・九州年号史料の紹介

 本日の関西例会で、わたしは熊本県玉名郡和水町で発見された「納音(なっち ん)」付・九州年号史料を紹介しました。九州年号の善記元年(622)から始まる納音付きの不思議な九州年号史料ですので、そのコピーを例会参加者に配り、何のために作られた史料かわからないので、是非、皆さんのご協力を得たいとお願いしました。
 同史料は30種の「納音」が上段に記されているのですが、五行説の「木・火・土・金・水」の順番も乱れており、インターネットなどで出ている「納音」とも文字や順番も一致しておらず、とても理解に苦しむ史料状況を見せています。記されている九州年号も、最も原型に近いと考えている『二中歴』とは異なり、 わたしの知見の範囲では『如是院年代記』に記されている九州年号の内容に近いように思われました。引き続き検討したいと思います。
 例会後の懇親会には張莉さんも参加され、白川漢字学など興味深い研究をお聞かせいただけました。関西例会は研究発表だけでなく、二次会でも学問的に触発される貴重な一日となっています。2月例会の報告は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
1). 天之日矛と秋山之下氷壯夫、春山之霞壯夫(高松市・西村秀己)
2). 孔子の弟子の倭人の概論(中国曲阜市・青木英利、代読:竹村順弘)
3). 内倉武久著『熊襲は列島を席巻していた』を読んで(木津川市・竹村順弘)
4). 「納音」付・九州年号史料の紹介(京都市・古賀達也)
5). 万葉集九番歌の解読の紹介(京都市・岡下英男)
6). 「東京新聞文化部御中」(「東京新聞」1月14日付「名著の衝撃」への批判文)安彦克彦(代読:明石市・不二井伸平)
7). 白村江の大義名分(八尾市・服部静尚)
8). 亡国の天子薩夜麻(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・奈良市奈良豆彦神社に伝わる「翁舞」・昭和初期に宮地岳で舞った「乙訓の伊東さん」調査・神宮文庫で『太神宮諸雑事記』古写本の閲覧・大下氏による古賀説への反論・その他


第660話 2014/02/11

納音(なっちん)と九州年号

「洛中洛外日記」658話で紹介しました、熊本県玉名郡和水(なごみ)町の旧家で発見された九州年号史料のコピーが、前垣芳郎さん(菊水史談会)から送られてきました。それは今まで見たこともないような不思議な九州年号史料でした。
前垣さんによると、当地の庄屋だった旧家からミカン箱二つに約200点の古文書が入っていることが発見され、そのうちの一点が今回送られてきた九州年号史料とのこと。その史料はA2サイズほどの1枚もので、縦横に升目が引かれ、最上段には「納音」(なっちん)と呼ばれる占いに使われる用語が30個並び、 2段目には五行説の「木・火・土・金・水」が繰り返して並んでいます。その下に、九州年号「善記」から始まる年号と年を示す数字が右から左へ、そして下段へと、江戸時代の年号「寶暦二年」(1752)まで同筆で書かれ、その後は別筆で「天明元年」(1781)まで記されています。左側には「寶暦四甲戌盃春 上浣」と成立年(1754)が記されています。
納音(なっちん)というものをわたしはこの史料で初めて知ったのですが、たとえば「山頭・火」という納音は、有名な種田山頭火の俳号の出典とのことです。生年の納音を根拠に占いに使用するらしいのですが、そのためにこの史料が作られたのであれば、寶暦四年よりも約1200年も昔の九州年号から始める必要はないように思います。大昔に亡くなった人を占う必要が理解できません。
しかも、五行説に基づいて年代を列記するのであれば、最初は「木」から始まってほしいところですが、九州年号の善記元年(522)は「金」です。干支に基づくのであれば「甲子」からですが、善記元年の干支は「壬寅」であり、これも違います。このように何とも史料性格(使用目的など)がわからない不思議な九州年号史料なのです。ただ、九州年号の「善記元年」からスタートしていることから、年号を強烈に意識して書かれたことは確かでしょう。
届いたばかりですので、これからしっかりと時間をかけて研究しようと思います。今回、この九州年号史料のコピーをご送付いただいた前垣さんに、発見された史料を見せていただけないかとお願いしたところ、ご承諾いただけました。5月の連休にでも当地を訪問したいと考えています。
納音についてインターネット上に次の解説がありましたので、転載します。ご参考まで。

※納音とは・・・六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生まれ年の納音によってその人の運命を判断する。
井泉水=明治17年生まれ。
甲申(きのえさる)で、納音は井泉水(せいせんのみず)である。
山頭火=明治15年生まれ。
壬午(みずのえうま)で、納音は楊柳木(ようりゅうのき)である。

納音(なっちん)付き九州年号

納音(なっちん)付き九州年号

「九州年号」を記す一覧表を発見 — 和水町前原の石原家文書 熊本県玉名市和水町 前垣芳郎
(古田史学会報 122号)


第658話 2014/02/09

熊本県の旧家から九州年号史料発見

 先週、熊本県玉名郡和水(なごみ)町の前垣さんという方から拙宅にお電話があり、地元の庄屋だった家から大量の古文書が見つかり、その中に「九州年号」が記されたものがあるとのことでした。前垣さんは当地の菊水史談会の方で、『「九州年号」の研究』を図書館で読み、九州年号やわたしのことを知ったとのことでした。それでその九州年号史料のことをわたしに知らせるために、わざわざ連絡先を調べてお電話をくださったのでした。
 前垣さんのお話によると、大量の古文書の中で、九州年号が記されているのは一点だけのようで、「善記」「正和」「朱雀」「大化」「大長」などの九州年号が記されているそうです。成立は江戸時代のようでした。同九州年号史料のコピーを送っていただけることになりましたので、楽しみにしています。
 和水町には有名な江田船山古墳があります。そのような地で発見された九州年号史料ですから、とても興味深いものです。コピーが届きましたら、改めて御報告します。それにしても、『「九州年号」の研究』がいろんなところで読まれ、発見された九州年号史料のことをご連絡いただける時代になったようで、大変ありがたいことです。