磐井一覧

第404話 2012/04/11

『古事記』千三百年の孤独(5)

 大和朝廷にとって『古事記』編纂の最大の目的は先住した九州王朝をなかったこ とにして、神代の時代から天皇家が日本列島の中心権力者であったとすることです。しかし、『古事記』編纂時の712年といえば九州王朝に替わって最高権力 者となってから、まだ十数年しかたっていません。ですから、列島内の多くの人々には大和朝廷が新参の権力者であることは自明のことだったのです。そのた め、自らの権力基盤を安定化するための「大義名分」(アリバイ)作りが史書編纂という形で進められました。『古事記』にはその痕跡が残されています。
 『古事記』には推古天皇まで記されていますが、各天皇の事績・伝承記事があるのは顕宗天皇までで、その後は推古まで系譜や姻戚記録等だけとなります(これにも理由があるのですが、今回はふれません)。ところが、例外のように継体記の末尾にちょっとだけ伝承記事が掲載されているのです。いわゆる「磐井の 乱」の記事です。

「この御代に、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」

 この短い記事を挿入しているのですが、この「例外」のような短文記事挿入こそ、『古事記』編纂の眼目の一つなのです。すなわち、九州王朝の王であった石井(日本書紀では磐井)より近畿の継体天皇が格上であり、この「磐井の乱」鎮圧の結果、名実ともに九州は大和朝廷の支配下にはいったという、「大義名分」 (アリバイ)作りの文章だったのです。
 これが、継体記に例外とも言える「伝承記事」を挿入した動機で、『古事記』編纂者の苦辛の跡なのです。しかし、その苦辛は報われませんでした。
 「天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」程度の理由や記事では、九州王朝の王・石井を殺して倭国のトップになったのは「歴史事実」だと、列島内の人々に信じさせることはできないと継体の子孫たち、8世紀初頭の大和朝廷には見えたのです。その結果、『古事記』は「ボツ」にされ、「継体の乱」を事細かに記した『日本書紀』が正史として新たに編纂されたのです。
 このように、『古事記』には隠された編纂意図があちこちに残されてるのですが、それらを説明するには「洛中洛外日記」では荷が重すぎます。また別の機会に紹介したいと思います。


第275話 2010/08/08

『先代旧事本紀』の謎

 第200話(2008/12/14)「高良玉垂命と物部氏」において、九州王朝系史料の『高良記』に玉垂命が物部であると記されていることに触れ、第207話(2009/02/28)「九州王朝の物部」で は、ある時期の九州王朝の王は物部ではなかったかという考えを述べました。このように、わたしにとって物部氏を多元史観・九州王朝説においてどのように位置づけるかというテーマが重要課題としてあるのですが、その際、物部氏系の代表的史料である『先代旧事本紀』の研究は避けて通れないものになっています。
 学界では同書中の「国造本紀」は他に見えない記事を含んでおり、研究対象とされていますが、全体としては偽書として扱われているようで、近年は優れた研究がなされていないように思います。この『先代旧事本紀』を多元史観の視点で史料批判を進めたいと、何度も読んでいるのですが、いくつかの謎があるので す。
 例えば、物部氏の系譜記事が「天孫本紀」として扱われており、記紀とは取扱いが異なっています。物部氏が天孫族であるとするのが同書編纂の眼目とさえ思われるのです。更には、「帝皇本紀」の継体天皇の項に「磐井の乱」が記されていないのです。すなわち物部氏の一人である物部麁鹿火の活躍が全く記されてい ません。物部氏の業績を特筆する同書に於いて、何とも不思議な現象ではないでしょうか。ちなみに物部麁鹿火は同書の「天孫本紀」に見え、安閑天皇の頃に大連となったとされています。
  『先代旧事本紀』にはこの他にも謎に満ちた記載があります。どなたか一緒に研究されませんか。きっと九州王朝と物部氏の関係が解き明かされるのではないかという予感をもっています。


第200話 2008/12/14

高良玉垂命と物部氏

 御陰様で洛中洛外日記も200話を迎えることができました。当ホームページも毎日多くのアクセスをいただき感謝しています。

 わたしは古田先生のご指導のもと、20年近く九州王朝研究を続けてきましたが、幸いにも多くの発見に恵まれてきました。しかし、20年たっても難解なまま解決できない問題も少なくありません。その難問の一つに、高良玉垂命(たまたれのみこと)の謎があります。既に『古田史学会報』などで、「倭の五王」や 太宰府遷都以前の一時期に筑後にいた倭王が高良玉垂命を名のっていたという研究を発表してきたところですが、どうしても解けない謎が残っていました。
 それは、玉垂命の末裔である稲員家などに残る系図には、玉垂命が物部であるとされている問題です。また、高良大社の文書『高良記』には、玉垂命が物部であることは「秘すべし」とされ、もしそのことが洩れたら「全山滅亡」とまで記されているのです。
 もし玉垂命が物部氏であるならば、筑後にいた倭王が物部氏であったこととなり、すなわち倭の五王や磐井も物部氏となってしまうのです。天孫降臨以来の倭王が物部氏であったとは考えにくいことから、わたしには玉垂命を物部氏と記す高良山系文書がうまく整合性をもって理解できません。今後の重要研究課題です が、九州王朝史復原作業にとって、避けて通れないテーマのように思われます。

玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)を参照

高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)


第87話 2006/06/28

九州王朝の筑後遷宮

 わたしは「九州王朝の筑後遷宮」というテーマを発表したことがあります(『新・古代学』第4集、1999年)。4世紀後半から6世紀にかけて、九州王朝は筑前から筑後へ遷宮したという仮説です。九州王朝は、高句麗や新羅の北方からの脅威に対して、より安全な筑後地方に首都を移したと思われ、それはちょうど倭の五王や筑紫の君磐井の時代にあたります。また、筑後川南岸の水縄連山に装飾古墳が多数作られる時期とも対応します。そして、輝ける天子多利思北孤の太宰府建都(倭京元年、618年頃)により再び筑前に首都を移すまで、筑後に遷宮していたと考えられるのです。この論証の詳細は「玉垂命と九州王朝の都」(『古田史学会報』24号)、「高良玉垂命と七支刀」(『古田史学会報』25号)をご参照下さい。
 しかしながら、この仮説には解決すべき問題がありました。それは九州王朝の王宮に相応しい遺跡が筑後地方になければならないという考古学的な問題でした。一応の目途としては、久留米市にある筑後国府跡(合川町、他)や大善寺玉垂宮(三瀦町)付近にあるのではないかと推定していましたが、やはり5〜6世紀の王宮に相応しい規模の遺跡は発見されていませんでした。ところが、先週、ビッグニュースが飛び込んできたのです。
 福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から毎日新聞(6月22日、地元版)のコピーがファックスされてきました。「筑紫国の役所か」「7世紀後半の建物跡」「九州最大規模、出土」という見出しで、久留米市合川町から、ひさし部分も含めて幅18メートル、奥行き13メートルの建物跡の 柱穴(直径30〜60センチ)40本が出土したことが報じられていました。近くで出土した須恵器から7世紀後半の遺跡とされていますが、この時期の九州北部の編年はC14測定などから、土器編年よりも百年ほど古くなりますから、6世紀後半の遺跡と考えるべきでしょう。そうすると、筑後遷宮期の九州王朝の王宮の有力候補となるのです。なによりも、この時期の九州最大規模の建物という事実は注目されます。
 新聞記事からは遺跡の正確な位置や詳しい内容がわかりませんので、これ以上の推測はやめておきますが、わたしの筑後遷宮説にとって、待ちに待ったニュースでした。


第60話2006/01/28

鶴見山古墳出土毛髪、DNA分析へ

 今日は朝から一日、ベートーヴェンの第九(フルトヴェングラー指揮・バイロイト祝祭管弦楽団、1951年)を繰り返し聴いていました。合唱の部分では、フロイデ・シェーネル・ゲッテルフンケンと鼻歌混じりで『古田史学会報』72号の校正と編集の仕上げを行い、ようやく完成させました。後は印刷所へ郵送するだけです。それにしても、ベートーヴェンの第九を聴くと、元気が出てくるから不思議です。
 話は変わりまして、今月の21日、福岡市の上城誠さん(本会・全国世話人)から同日付けの西日本新聞がファックスされてきました。見出しには「磐井一族の毛髪初出土」「市教委DNA分析へ」の文字が。
 「洛中洛外日記」第21話で紹介した、八女市鶴見山古墳出土の銅鏡片に付着していた毛髪のDNA分析が行政により行われることになったようです。別にわたしの提言が受け入れられたというけではないでしょうが、磐井一族の毛髪が注目され、科学的に分析されることは大変よいことです。歓迎したいと思います。
 記事によれば、「DNAが分析できれば、被葬者の性別が特定されるほか、出自が在地系か渡来系か、病気の有無などから死因の解明にもつながる」とありますが、どうせやるのなら、地元の協力も得て、御子孫がいないかどうかも調べて欲しいものです。わたしたちの調査では九州王朝の御子孫の家系が一部明らかになっていますから、是非、ご協力の下、調査してもらいたいものです。
 フランスでは氷河に閉じこめられたかなり大昔のミイラ化した遺体のDNA鑑定を行い、その御子孫を発見したという話を聞いた記憶があります。日本でも同様の分析調査は可能だと思います。御子孫のプライバシー尊重を前提としながらも、取り組んでもらいたいと思いますが、いかがでしょうか。


第47話 2005/11/20

活況!関西例会

 昨日は関西例会がありました。好論目白押しで、気分がよくなり三次会まで付き合い、おかげで今日は朝からバテ気味です。
 水野代表の報告を含めると9人の発表があり、進行役の西村さんは大変だったと思います。特に興味深かった報告をいくつか紹介しますと、竹村さんの九州旅行の報告ではオープンしたばかりの九州歴史博物館の様子がうかがえて、私も行きたくなりました。
 伊東さんの報告は、磐井の後を継いで九州王朝の王になったと思われる葛子の墓、鶴見山古墳よりも同時代の王塚古墳(桂川町、装飾壁画古墳)の方がはるかに立派というもので、この指摘は示唆的でした。九州王朝の王統譜を研究する上で、考古学的知見による比較検討の必要性に気づかせていただきました。
 冨川さんの報告は、六国史に見える「朝廷」「朝庭」の全抽出を行うというベーシックな研究でしたが、その結果は大変興味深いものでした。『日本書紀』で地名+朝廷という表記の初出が天武紀の「近江朝廷」であり、逆に見ると、それまでは大和朝廷内部では自らの宮殿を「朝廷」とは呼んでいなかったということにはならないでしょうか。もしそうだとすれば、大和朝廷の始まりは天智の近江朝廷からということになります。「不改常典」問題とも関連して面白い問題に発展しそうです。
 関西例会はますます活況を帯び、面白くなっています。皆さんも是非ご参加下さい。参加費は500円です。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「シルクロード講座・西陜歴史博物館王世平先生」
○研究発表
シルクロード知ったかぶり(豊中市・木村賢司)
楽しい九州旅行(木津町・竹村順弘)
皇暦について(奈良市・飯田満麿)
鶴見山古墳発見の円体武装石人について(生駒市・伊東義彰)
釈日本紀の九州王朝(向日市・西村秀己)
古層の神名─出雲神話の史料批判─(京都市・古賀達也)
彦島物語─国譲り─(大阪市・西井健一郎)
「大和朝廷」説の始まり(3) (相模原市・冨川ケイ子)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「ギリシア祭文」論・条里制の開始・他


第19話 2005/08/11

鶴見山古墳出土の石人の証言

 先日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)からお電話があり、八女古墳群の鶴見山古墳からほぼ完全な石人が出土したことを知らせていただきました。さっそくインターネットで各新聞の記事などを見ましたところ、いろいろと面白い問題があることに気づきました。
 それぞれの記事に共通した論調として、鶴見山古墳が磐井の息子の葛子の墓である可能性が高まったこと、「磐井の乱」以後も磐井の後継者の影響力が続いていたこと、などが見受けられました。通説では「磐井の乱」で磐井が滅んだ後は大和朝廷の勢力下に筑紫がおかれたと見られていたのですが、磐井の墓の岩戸山古墳と同様の石人が八女古墳群最後期の前方後円墳である鶴見山古墳からも出土したことにより、こうした考えを見直さざるを得なくなったようです。
 しかし、古田説に立てば事は明快です。磐井は九州王朝の王、すなわち倭王であり、近畿なる継体のほうが倭王磐井に対して起こしたのが「磐井の乱」の真相です。ですから、「継体の反乱」と読んだ方が正確です。しかも、この反乱は磐井当人を倒しはしたものの最後まで勝つ事(筑紫の制圧と実効支配)は出来ずに、事実上の継体側の敗北で終わっています。これらについては、古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日文庫、ミネルヴァ書房から復刻の計画があります)をご参照下さい。なお、最新の古田説では「磐井の乱」「継体の反乱」というものは、そもそも無かった、という方向に展開しています。このことについては別の機会に触れたいと思います。
 「継体の反乱」以後も九州王朝は健在(たとえば、その後も九州年号は連綿と続いている)ですから、磐井の後継者の墳墓に石人が存在していても、何ら不思議とするところではなく、むしろ当然といった感じです。こうした点からも、今回の石人発見は古田説に有利な考古学的事実と言えるでしょう。