九州王朝(倭国)一覧

第1173話 2016/04/22

「近江令」の官制

 正木説に従えば、九州王朝を継承した近江朝による「近江令」は九州王朝系のものとなりますから、その研究は九州王朝令制研究の重要テーマの一つと位置づけられます。「近江令」そのものは現存しませんから、『日本書紀』などに記された断片記事から推測するほかありません。『日本書紀』によれば近江朝の官制として、次の官職名が見えます。

○太政大臣(大友皇子)『日本書紀』初出
○左大臣(蘇我赤兄)
○右大臣(中臣金)
○御史大夫(蘇我果安・他)『日本書紀』初出

 このような官職名が『日本書紀』編者により脚色された可能性も考慮しなければなりませんが、天武天皇の立場を「正当」とするために編纂された『日本書紀』ですから、敵対した近江朝廷側を実際以上に美化・権威化する官職名を造作して天智紀を記述するとも考えにくいので、近江朝では実際にこうした官職名が採用され、「近江令」で規定されたと考えてよいと思います。
 正木説ではこれら官職名も九州王朝を継承するとした天智・大友による近江朝で採用されたことになりますから、九州王朝の官職研究のヒントになりそうです。さらに付け加えれば、わたしが九州王朝の副都とする前期難波宮において、既にこうした官職名は採用されており、近江朝においても継承されたとする可能性もあります。(つづく)


第1172話 2016/04/21

「近江令」の史料根拠と正木説

 「近江令」については一元史観内でも、存在説・非存在説がありますが、存在説の史料根拠は『藤氏家伝』に見える「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668)に律令を編纂した」という記事と、『弘仁格式』序に見える「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷の令』である」という記事です。いずれも後代史料であり、より成立年代が近江朝の時代に近い『日本書紀』に「近江令」記事が見えないということが、非存在説の根拠となっています。いずれの主張もそれなりの根拠があり、論争に決着が付かないのも頷けるところです。
 ところが、この史料状況を正木説(天智・大友による九州王朝系「近江朝」)という視点から見ますと、『日本書紀』の編纂方針として九州王朝の存在を隠す、あるいは盗用し近畿天皇家のこととするという姿勢ですから、近江朝年号の「中元」「果安」は隠し、「近江令」も隠したと考え、だから『日本書紀』には記されていないという理由付けを、言って言えないこともありません。他方、「近江令」は実在したのだから、後代史料には「22巻」などと具体的な記事が表れるようになったと考えることもできそうです。
 ただこの場合、それならなぜ九州年号の「大化」「白雉」「朱鳥」が『日本書紀』に記されているのかという説明が別途必要となります。いずれにしても、この問題の説明は一筋縄ではいかないようです。(つづく)


第1171話 2016/04/20

近江朝と「近江令」

 天智・大友による九州王朝系「近江朝」という正木説の考察とその展開について論じてきましたが、今回は「近江令」を俎上に上げたいと思います。
 従来の九州王朝説の立場からすれば、701年より前は九州王朝の時代であり、その律令は「九州王朝律令」「倭国律令」ともいうべきものが制定されていたはずで、九州王朝下での近畿地方の一有力豪族に過ぎない近畿天皇家による律令はなかったと考えられてきました。すなわち、史料に見える「近江令」や「飛鳥浄原令」などは存在しないという立場でした。また、同時代金石文の「威奈大村骨蔵器」にも「大宝元年初めて律令を定める」とする記述があり、近畿天皇家による律令は大宝元年(701)の大宝律令からとする根拠にされてきました。
 ところが今回の正木説によれば、九州王朝系の近江朝が「近江令」を定めたということになり、「威奈大村骨蔵器」の銘文とも矛盾しなくなります。その結果、「庚午年籍」も「近江令」にあった「戸令」に基づき造籍されたとする理解が成立します。従って、「近江令」研究は九州王朝律令研究の一分野として見直さなければならなくなるのです。(つづく)


第1169話 2016/04/16

九州王朝の占星台

 昨日からの熊本・大分で発生した大地震の被災地のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。実家(久留米市)の母親に電話したところ、初めて経験するような大地震で、夜も眠れないと怯えていました。久留米市には水縄活断層が東西に走っており、連動して地震が発生することを恐れています。わたしも来月に予定していた鹿児島・熊本・長崎出張を取りやめました。

 本日の「古田史学の会」関西例会では、議論百出の新説が発表されました。中でも、岡下さんから前月に続いて発表された、『日本書紀』持統紀最末尾の一文「策定禁中」について、九州王朝天子薩夜麻没後の「天子不在」のタイミングになされた文武天皇即位の「策定」とする仮説は興味深いものでした。
 正木さんからは『日本書紀』天武4年条(675)の占星台造営記事を34年遡った舒明13年(641)のときのこととされ、九州王朝による占星台造営記事とされました。天武紀までの天文記事は正確なのに、持統紀になると当たらなくなることを示され、その理由として、九州王朝副都の前期難波宮の占星台で行われていた天体観測が朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡により停止され、近畿天皇家に天文情報が入らなくなり、持統紀の天文記事が当たらなくなったとされました。これも面白い仮説と思われました。
 服部さんからは、冨川ケイ子さんの「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)に基づいて、河内や泉州の大型前方後円墳は近畿天皇家の陵墓ではなく、河内の権力者のものとする理解が示されました。その当否はわかりませんが、恐ろしい仮説でした。これからの論争や検証が楽しみです。
 4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①東征勢力が畿内に併存した古墳時代(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(その2)(姫路市・野田利郎)
③新唐書・日本傳の史料価値の見直し(神戸市・谷本茂)
④定策禁中(再)(京都市・岡下英男)
⑤盗まれた九州王朝の占星台(川西市・正木裕)
⑥「阿蘇山噴火史要」(熊本測候所編、昭和6年11月)の紹介(川西市・正木裕)
⑦ニギハヤヒの正体(東大阪市・萩野秀公)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 遺跡巡りハイキング(近鉄名張駅近辺・夏見廃寺跡・同展示館)・朝日新聞3/24朝刊の駒野剛氏コラムへの批判・熊本県(天草)に多い神武天皇を祀る神社・その他


第1168話 2016/04/13

近江朝と「不改常典」

 九州王朝を継ぐ天智・大友の「近江朝」という正木裕さんが提起された新概念は、九州王朝説にとって年号や造籍だけではなく、様々な重要課題を惹起します。今回は「不改常典」との関係について考察します。
 わたしは「不改常典」について「洛中洛外日記」584話「天智天皇の年号「中元」?」で次のように記しました。

【以下引用】
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発したと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年(668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
【引用終わり】

 このようにわたしは、「中元」の年号を持つ近江朝を近畿天皇家の天智によるものと理解し、天智による九州王朝の権力簒奪は成功しなかったと考えてきました。ところが、正木説によれば近江朝は九州王朝系であり、「中元」年号は「建元」ではなく、九州年号「白鳳」を引き継ぐ「改元」ということになります。
 この理解が正しければ、天智は九州王朝を引き継ぐ「改元」を行い、その権威継承として「不改常典」を制定したと考えることができます。従って、『続日本紀』の元明天皇即位の詔勅などに見える近江大津宮の天智が制定した「不改常典」とは、九州王朝の権威を継承する「常典」ということになります。
 正木説の当否はこれからの論争や検証作業を待ちたいと思いますが、もし妥当であれば、この先様々な問題を惹起する仮説となりそうです。(つづく)


第1167話 2016/04/12

唐軍筑紫進駐と庚午年籍

 今朝は特急サンダーバード5号で金沢に向かっています。夕方には松本市に到着、一泊します。明日13日と14日に桂米團治さんがKBS京都放送での番組収録や落語会(松尾大社)で京都に見えられるので、ご挨拶にうかがいたいのですが、出張と重なってしまいました。もちろん、『古田武彦は死なず』にKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」での古田先生との対談を掲載させていただいたお礼のためです。残念ですが、ご挨拶は次の機会ということになりました。
 琵琶湖沿いの湖西線を列車は走っています。金色に輝く湖面と青空に映える比良山系、咲き誇る桜がきれいで、心は癒されます。連日繰り返される激しい企業間競争や困難な開発案件に、ついつい「好戦的」になり、心がささくれだつのですが、日本の美しい風景は、一瞬それらを忘れさせてくれます。まさに「ゆく春を近江の人と惜しみけり」の心境です。

 「庚午年籍」(670年)の造籍が近江朝によると正木さんは理解されているのですが、この「庚午年籍」造籍について、わたしは重要な問題が提起されているのではないかと考えてきました。古田先生もたびたび論じられたテーマですが、唐軍進駐により筑紫は軍事的に制圧され、倭国王墓は壊されたという指摘についてです。
 わたしは白村江戦敗北により、倭国水軍は壊滅的打撃を被ったと思いますが、九州王朝の都・太宰府や、その防衛施設である水城は破壊された痕跡がなく、むしろ「大宰府政庁2期」の宮殿や観世音寺が白鳳10年頃に造営されたり、同じく白鳳10年(670)には「庚午年籍」という全国規模で造籍がなされていることから、九州王朝の権威や国家官僚群(中央と地方とも)は健在だったのではないかと考えていたからです。もし、筑紫進駐した唐軍が九州王朝に対して軍事攻撃や墳墓・王宮破壊を行っていたのなら、その同時期に悠長に観世音寺や「政庁」を造営したり、全国的造籍事業を行ったりはできないはずだからです。
 ところが正木さんは「近江朝年号」すなわち天智・大友による「近江朝」という新概念を提起され、「庚午年籍」はその「近江朝」が造籍したものとされたのです。しかも正木説によれば、天智・大友の「近江朝」は九州王朝系であり、親唐派の薩夜麻と対立して対唐抗戦派の「近江朝」を立ち上げ、年号も「中元」と改元し、九州王朝を継ぐ自らの正当性を主張したとされたのです。
 その正当性を背景に「庚午年籍」を造籍したとすれば、この二重権力状態においてどのようにして全国的戸籍、とりわけ九州地方の造籍を行ったのでしょうか。実は「庚午年籍」において、九州地方と他地域とで「差」があったのではないかと考えられる史料根拠があります。『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国のの庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)
 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」には大和朝廷の官印が押されていなかったことを意味します。したがって、この時期になってようやく大和朝廷は筑紫諸国の「庚午年籍」に官印を押すことができたということであり、それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられるのです。
 この『続日本紀』の記事が以前から問題になっており、何度か論じたこともありました(「洛中洛外日記」119話「九州の庚午年籍」)。今回の正木さんによる「庚午年籍」近江朝造籍説にショックを受けたのも、こうした問題意識があったからでした。(つづく)


第1166話 2016/04/11

近江朝と庚午年籍

 『古田史学会報』133号に発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「『近江朝年号』の実在について」は九州王朝説の展開について重要な問題を提起していることに気づきました。
 『二中歴』などに見える九州年号とは別に「中元(668〜671)」「果安(672)」という不思議な年号が諸資料に散見されることが、九州年号研究者には知られていました。正木さんはこの「中元」を天智天皇の年号(天智7年〔即位元年〕〜10年)、「果安」を大友皇子の年号、すなわち「近江朝年号」と理解されました。「中元」を天智の年号ではないかとする見解は竹村順弘さんやわたしが関西例会で発表したことがあるのですが、正木さんは更に「果安」も加えて「近江朝年号」と位置づけられたのです。ここに正木説の「画期」があります。
 九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻が白村江戦敗北により唐の捕虜となっている間、九州年号「白鳳」(661〜683)は改元もされず継続するのですが、その最中に「中元」「果安」が出現しているのです。すなわち、日本列島内に二重権力状態が発生したと正木さんは主張されました。そこで、正木さんとの懇談の中で、「それでは庚午年籍(670)は誰が命じて造籍したのか」というわたしの質問に対して、「近江朝でしょう」と答えられました。その瞬間、わたしの脳裏は激しく揺さぶられました。(つづく)


第1162話 2016/04/03

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(2)

 鳥取県東伯郡の天神川右岸に位置する長瀬高浜遺跡は、古墳時代におけるこの地域の支配者らの住居跡と見られていますが、その遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることから、天孫族(倭国)の西日本支配以降もこの地域では銅鐸を用いた祭祀が続けられたと考えられます。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、「倭の五王」の時代に入った5世紀前半にはこの銅鐸が廃棄されていることから、大和朝廷による全国支配の確立による変動がこの地の在地豪族に影響を与えたと考察されています。これを九州王朝説の視点から考えると次のような歴史的変遷が想定可能です。

1.「天孫降臨」や「国譲り」により、出雲や山陰地方の銅鐸勢力は東へ逃亡した。
2.天孫族に降伏した大国主命らは、その後も在地勢力として残ったが、銅鐸祭祀を継続できたか否かは不明。
3.鳥取県の天神川流域の勢力は、古墳時代中期頃まで長瀬高浜地区の高殿で銅鐸を祭祀に使用していた。
4.古墳時代中期以降にはこの銅鐸が廃棄され、長瀬高浜に割拠していた勢力は移動した。

 概ね以上の変遷をたどったと推定できますが、もしこの推定が正しければ、この地域では銅鐸祭祀の継続が許されていたが、古墳時代中期に至り、何らかの事情で銅鐸を廃棄したということになります。
 そうであれば、出雲に残った大国主命たちは銅鐸祭祀を続けたのでしょうか、それともやめたのでしょうか。従来は、荒神谷遺跡。加茂岩倉遺跡などからの銅鐸出土を根拠に、天孫族の侵略により、この地の銅鐸圏の権力者たちは銅鐸を地中に隠して逃亡したと、古田説では考えられてきました。しかし、長瀬高浜遺跡からの銅鐸出土により、山陰地方における古墳時代の銅鐸祭祀が想定されることから、再検討が必要かもしれません。(つづく)


第1161話 2016/04/02

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(1)

 弥生時代の日本列島には銅矛・銅弋などの武器型青銅器圏と銅鐸圏という二大青銅器圏があったことは著名です。この銅矛圏が邪馬壹国を中心とする倭国であり、銅鐸圏は関西にあった狗奴国であると古田先生は指摘されましたが、銅鐸圏は倭国の侵略(天孫降臨や神武東侵など)により、東へ東へと逃げるようにその中心は移動しています。
 中には大和盆地のように、壊された銅鐸の出土もあり、激しい侵略や弾圧の痕跡がうかがえます。銅鐸は時代とともに大型化し、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化し、祭祀のシンボルとして重用されたものと思われますが、天孫族の侵略により、銅鐸祭祀は禁止され、銅鐸は廃棄されたものと考えてきたのですが、鳥取県東伯郡の長瀬高浜遺跡から古墳時代の遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることを知り、驚きました。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、長瀬高浜遺跡は古墳時代前期後半から中期前半の大集落遺跡を中心とした複合遺跡と説明されています。その中の平面プランが六角形に近い大型竪穴式建築跡(SI-127)が廃絶したあとの竪穴内の埋土中から、高さ8.8cmの小型銅鐸が出土していました。この銅鐸は弥生時代中期に製造されたものと見られており、それが古墳時代中期初頭頃に廃絶した遺構の埋土中に含包されていたことから、弥生中期から古墳時代中期の長期にわたって祭器として使用されていたことが推察されます。その紐の内側部分が吊り下げによる磨耗で大きくすり減っていることからも、その使用が長期間にわたっていたことを証明しています。
 出土した大型竪穴式建築跡(SI-127)に隣接して、高殿と思われる大型祭祀遺構(SB40)が出土しており、この銅鐸はこの高殿で祭祀に使用されていたと推察されています。こうした出土事実から、銅鐸が破壊された大和盆地とは異なり、この地域では弥生時代に銅鐸圏が滅亡した後も、祭祀のシンボルとして銅鐸が古墳時代まで使用されていたことになり、このことはとても興味深い現象と思われます。(つづく)


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1152話 2016/03/20

考証・和紙の古代史(2)

 日本列島での国産和紙製造は、倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)造籍に膨大な紙が必要ですから、この時期までには行われていたと思われますが、更に遡る可能性が高いのではないでしょうか。
 たとえば現在も越前和紙の産地として有名な福井県越前市今立町には、5世紀末〜6世紀初頭(継躰天皇が子供の頃)に「岡太川の女神」から製紙の技術が伝えられたという伝承があります。もちろんその伝承が歴史事実かどうかただちには判断できませんが、時代的に考えて、荒唐無稽とは言い難く、歴史事実を反映した伝承ではないかと推定しています。機会を得て、現地調査したいと考えています。
 もし越前への製紙技術伝播がこの頃だとすれば、おそらく九州王朝のお膝元である北部九州への製紙技術導入は更に遡ると考えられますから、古墳時代には伝わっていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。なお、九州最古の和紙産地とされる福岡県八女地方では、その製紙技術は文禄4年(1595)に越前からやってきた日蓮宗僧侶の日源により伝えられたとされています。これも歴史事実かどうか検証が必要ですが、日本最古の和紙製造伝承を持つ今立町と福岡県八女地方との間に和紙製造で関係があったこととなり、興味深いものと思われます。
 なお、大寶2年(702)筑前国戸籍断簡が正倉院に現存しており、これには現地の和紙が用いられていると考えられており、当時の筑前か筑後では和紙生産が行われていたことを意味しますので、16世紀に伝わった八女の和紙を「九州最古」とすることの根拠が不明です。「現存最古」という意味でしょうか。


第1151話 2016/03/19

律令時代の中央職員数は九千人強

 本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)よりミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』の説明があり、会場で特価販売を行いました。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)も刊行され、2015年度賛助会員へは明石書店から順次発送されるとの報告がなされました。
 その服部さんから、古代律令時代の中央職員数に基づく考察が発表されました。養老律令によれば総勢九千人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとのこと。従って、7世紀中頃に九州王朝が評制による全国支配をしていた宮殿として、九千人が勤務したり、家族と共に生活できる都は前期難波宮か太宰府しかないとされました。一元史観の通説では孝徳天皇没後に前期難波宮から飛鳥宮へ遷都したとされていますが、九千人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も飛鳥宮にはありません。この矛盾を一元史観では全く説明できないのです。
 こうしたことから、前期難波宮が造営された難波には、職員やその家族が生活する「宅地分譲」のために条坊が同時に造営されたとする高橋工さん(大阪文化財研究所)の説を紹介されました。わたしもこの7世紀中頃の前期難波宮と条坊造営説に賛成ですので、服部さんの数字を示しての発表には説得力を感じました。
 3月例会の発表は次の通りでした。高知市から別役(べっちゃく)さん(古田史学の会・会員)が夜行バスで初参加されました。

〔3月度関西例会の内容〕
①「宮城と官僚」-難波宮・飛鳥宮・太宰府政庁・藤原宮・平城京(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(姫路市・野田利郎)
③中国風一字名称について -『二中歴』年代歴の「武烈」の理解-(高松市・西村秀己)
④定策禁中(京都市・岡下英男)
⑤弥生の硯が証明する古田論証(川西市・正木裕)
⑥ニギハヤヒを考える(東大阪市・萩野秀公)
⑦『日本書紀』の盗用手法について -大和中心にベクトルを転換-(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田光河氏より来信・史跡巡りハイキング(大東市立歴史民俗資料館)・ミネルヴァ日本評伝選『三好長慶』を読む・東大寺二月堂「お水取り」に関する水野説(長屋親王への慰霊)・TV視聴・その他