大和朝廷(日本国)一覧

第1517話 2017/10/14

九州年号「大化」の原型論(2)

 古田先生を始め、従来の九州年号研究では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国・注②)への王朝交代(七〇一年)に伴って、九州年号(倭国年号)も大化六年(七〇〇)で終わり、大和朝廷の「大寶」年号建元(七〇一)に至ったと理解されてきました。他方、最後の九州年号を『二中歴』にあるように「大化」とするのか、『二中歴』以外の史料にある「大長」とするのかで、長く論争が続いてきました。九州年号原型論に関する『二中歴』と「丸山モデル」との論争でした。
 古田先生が名著『失われた九州王朝』で九州年号の存在を明らかにされ、その後、陸続と九州年号研究者が生まれ(注③)、各地の九州年号史料の発掘が行われました。そして、初期の九州年号研究を牽引されたのが丸山晋司さん(市民の古代研究会、八尾市)でした。丸山さんは現存する年代記などに残された九州年号群史料を収集され、その最大公約数的な九州年号原型案「丸山モデル」を提唱されました(注④)。わたしも三十代の頃、丸山さんの研究に触発され、九州年号研究を自らの古代史研究テーマの一つとしました。
 その丸山モデルの特徴は次のような点でした。

(1)最後の九州年号を「大長」(六九二〜七〇〇年)とする。
(2)その直前を「大化」(六八六〜六九一年)とする。
(3)『二中歴』に見える「朱鳥」(六八六〜六九四年)はなかったとする。あるいは九州年号ではないとする。
(4)最初の九州年号を「善記」(五二二〜五二五年)とする。
(5)『二中歴』には見えず、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(六二九〜六三四年)を九州年号とする。

 この丸山モデルと『二中歴』のどちらを九州年号の原型とするのかの論争が始まりました。(つづく)

(注)
②七〇一年以後の列島の代表者となった近畿天皇家を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であり、「近畿天皇家」と呼ぶべきとする意見があります。
 この件については別途詳述する予定ですが、「九州王朝(倭国)」の対語として「近畿天皇家(日本国)」ではバランスがとれません。何故なら、片や倭国の学術名「九州王朝」(古田先生命名)、片や日本国の「王族」の学術名「近畿天皇家」なのですから。もし、「近畿天皇家」と表記するのなら、「九州王朝(倭国)」側の対語は「筑紫王家」のようなものになります。
 本稿のケースでは、「大和朝廷」以外では「近畿王朝」という表記が適切かもしれません。「大和朝廷」では長岡京や平安遷都した時代が含まれませんから。他方、近畿天皇家が大和の「朝廷(朝堂院を有す宮殿)」に居して全国統治した藤原京・平城京の時代に限定する用語としては「大和朝廷」が明確です。その認識に立った場合、「大和朝廷以前」という表記が七〇〇年以前の九州王朝(倭国)の時代を表すことになります。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』という書名に用いた「大和朝廷以前」はこの認識に立ったものです。
 これまでわたし自身もそれほど深く考えることなく慣習として使用してきた学術用語について、多元史観・九州王朝説に立った厳密な理解や選考を古田学派で検討すべき時期が来ているのかもしれません。もちろん、どの学術用語を使用するかは研究者個人の学問の自由です。そして、その選択を支持するか否かも読者個々人の学問の自由です。
③『市民の古代』十一集(市民の古代研究会編、新泉社刊。一九八九年)は九州年号が特集され、各地で発見された「九州年号史料」の一覧等が掲載されている。
④丸山晋司『古代逸年号の研究 古写本「九州年号」の原像を求めて』アイビーシー出版、一九九二年。


第1447話 2017/07/09

九州年号「継躰」建元1500年記念

 昨日の久留米大学公開講座では雨の中を百名ほどのご来場者がありました。演題は「失われた倭国年号《大和朝廷以前》 日本最古の条坊都市、太宰府から難波京へ」で、今年が日本最初の年号「継躰」が建元されて1500年になること、建元したのは九州王朝の倭王で恐らく久留米出身の磐井であることを説明しました。特に建元と改元の語義から、大和朝廷の建元は「大宝」と『続日本紀』に記されており、『日本書紀』の大化・白雉・朱鳥はいずれも改元とされていることから、それらは大和朝廷の年号ではなく九州王朝により改元された九州年号であることを力説しました。そして、一元史観はこの『日本書紀』と『続日本紀』に明確に記された「改元」「建元」表記を説明できないでいると指摘しました。
 後半は、太宰府が日本最古の条坊都市であること、前期難波宮が質的にも規模的にも近畿天皇家の宮殿の発展段階とはかけ離れており、九州王朝の副都であるとする説を紹介しました。
 今回の講演では参加者からの質問のレベルが高く、しかも多元史観・古田史学の本質にもかかわるものでしたので、感心しました。それはつぎの三つの質問です。

〔質問1〕近年、箸墓古墳が卑弥呼の墓とされ、編年が古くされてきたが、従来の編年の方が妥当ではないか。
〔質問2〕九州王朝から大和朝廷への連続性はどのように考えられているのか。
〔質問3〕前期難波宮で全国に評制が敷かれたと思うが、それまでの地方豪族支配から律令官制による中央集権的な支配へは簡単には進まないと思われ、前期難波宮の時代はその中間的な支配形態と捉えた方がよいのではないか。

 これらの質問に対して、わたしからは次のように返答しました。

〔返答1〕畿内の古墳編年については詳しくないが、学問的調査の結果、箸墓の年代が変わるのであれば問題ないが、卑弥呼の墓にするために根拠もなく古く編年されているのであれば、それは学問的ではない。
 そもそも「邪馬台国」畿内説は学説の体をなしていない。学説とは学問的根拠(文献・出土物等)に基づいて、その解釈として提起される仮説のことだが、「邪馬台国」畿内説の根拠とされる『三国志』倭人伝には「邪馬台国」の場所を畿内とする記事はない。たとえば、今のソウル付近(帯方郡)から女王国まで12000余里と記されており、当時の1里が何メートルかわかれば、小学生でもかけ算で場所が推定できる。1里約76mの短里では博多湾岸付近であり、奈良県には絶対に届かない。漢代に使用された約450m(正確には約435m)の長里であれば、九州も奈良県も通り越してはるか赤道付近となってしまう。従って、「邪馬台国」を畿内とする根拠が倭人伝にはない。更に言えば原文は邪馬壹(やまい)国であり、「邪馬台(やまたい)国」ではない。邪馬壹国ではヤマトと読めないから「邪馬台国」と自説にあうようにデータ改竄するのは研究不正であり、理系では絶対に許されない方法である。だから「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説)ではない。

〔返答2〕九州王朝から大和朝廷への権力交代に関する研究は現在も続けられており、古田学派内でもまだ結論を得ていない。たとえば中国のような禅譲や放伐だったのかという論争も行われてきた。
 考古学的にわかっていることは、王朝交代が起こった701年を境に出土木簡が全国一斉に「評」から「郡」に変わっている。このことから、戦争により徐々に九州王朝の支配地域を浸食したというよりも、何らかの「合意」が両者に成立していたため全国一斉に「郡」に変更されたと考えている。『日本書紀』の記述も中国の禅譲・放伐の概念とは異なっており、前王朝の存在を伏せて、近畿天皇家は天孫降臨以来の伝統を持つ九州出身であり、神武以来日本を代表する王朝であるとしている。
 『日本書紀』成立当時、周囲の有力豪族たちは当然九州王朝のことは知っており、新たな権力者となった近畿天皇家はそうした状況下で九州王朝の権威を引き継ぎ、実は自らが昔から代表王朝だったとする歴史像を造作するため『日本書紀』を編纂・流布したものと考えられる。このテーマは引き続き論争が続けられると思うし、学問はそうした論争により発展する。

〔返答3〕ご指摘の可能性もあるが、考古学的出土事実から見ると、前期難波宮の北西側の谷から「漆」が大量に廃棄されていることが発見された。これは律令制における大蔵省配下の「漆工房」がこの付近に置かれたと推定されている。同じく律令制下の平城京にも同様の位置に「漆工房」があったことが知られており、両者の一致から前期難波宮の時代には律令制が機能していたと考えてもよいように思われる。前期難波宮と九州王朝律令については不明なことが多く、これからの研究課題である。

 以上のような質疑応答がなされ、講演したわたしもとても勉強になりました。終了後は聴講されていた犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)と吉田正一さん(久留米地名研究会・会員、久米八幡宮・宮司、菊池市)と三人で食事をご一緒し、夜遅くまで古代史談義を続けました。とても楽しく有意義な一夕でした。久留米大学の大矢野先生・福山先生をはじめ公開講座運営スタッフの皆様に御礼申し上げます。


第1441話 2017/07/03

井上信正さんへの三つの質問(7)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つ目の質問には一元史観による王都・王宮発展史に関わる重要な問題が含まれていました。おそらく井上さんもその問題をご存じのはずで、下記の質問に対して、前期難波宮を「北闕」様式とは見なされず、たまたま立地上の制約から「北闕」様式のようになったとする考えを示されました。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
〔回答3〕前期難波宮は中国様式の宮殿であるが、上町台地の最も良い場所(北端部の高台)に造営されたものと考える。

 実はこれはちょっと意地悪な質問だったかもしれません。井上さんも前期難波宮を中国様式の宮殿と認められたのですが、ということは唐の長安城の宮殿の様子を倭国は7世紀中頃には知っていたことになります。そうであれば当然のこととして、長安が「北闕」様式の都城であることも知っていたはずです。従って、8世紀初頭の遣唐使によって初めて「北闕」様式の都城の様子が伝えられ、平城京や大宰府政庁Ⅱ期の造営に採用されたとする井上説は成立困難でしょう。
 この王都の「北闕」様式については、考古学者の井上さんだけではなく、一元史観の文献史学研究者にとってもかなりやっかいな問題なのです。一元史観に立って近畿天皇家の王都・王宮の変遷を見たとき、飛鳥の雑然とした王宮に居した皇極、その次の孝徳はいきなりけた違いの巨大な朝堂院様式を持つ「北闕」型の前期難波宮を造営、次の斉明(皇極)はまた飛鳥の雑多な王宮へ戻り、次の天智は前期難波宮によく似た巨大な朝堂院様式の近江大津宮へ遷都、次の天武は飛鳥に戻り、それまでの雑多な王宮に「エビノコ郭」を増築、次の持統は飛鳥に巨大な朝堂院様式を持つ『周礼』型の藤原宮を造営、その後の710年には「北闕」型の平城京へ遷都、およそこのような変遷をたどります。
 このように一元史観に立った近畿天皇家の王都・王宮の変遷を見たとき、孝徳の前期難波宮だけが前後の王都・王宮とは様式も規模も異質で傑出しており、同じ「王朝」のものとは思えないのです。特に王宮を王都の北に置く(前期難波宮・平城宮)のか、中心(藤原宮)に置くのか、政治思想的にも異なりますし、律令官制による全国支配とその行政を中央で取り仕切ることに対応した「朝堂院」様式の王宮(前期難波宮)が孝徳になって突然出現し、かと思うと次の斉明はまた辺境の飛鳥の宮へと戻ります。孝徳から斉明に代替わりしたら、律令官制をやめたとでもいうのでしょうか。その数千人に及ぶとされる官僚群や家族たちはどこへ引っ越ししたのでしょうか。
 このように、一元史観による近畿天皇家の王都・王宮の変遷史から前期難波宮を見たとき、思想的に全く異質で規模もけた違いに巨大であることは明白です。このことに対して一元史観の研究者は合理的な説明に成功していません。この一元史観にとって困難な問題は井上さんの説でも避け難いのです。「ちょっと意地悪な質問」と記したのは、このような理由からだったのです。
 一元史観にとって前期難波宮の存在が説明困難な課題となっていることに、わたしが気づいたのは、ちょうど前期難波宮九州王朝副都説へ至ろうとしていた頃でした。九州王朝説にとっても一元史観にとっても説明困難な前期難波宮の存在を、九州王朝副都説でうまく説明できることを確信した瞬間でもありました。
 今回の井上さんのご講演と質疑応答を経て、一元史観では未だ前期難波宮問題を解決できていないのだなと思いました。そのことを確認できたことも、井上さんに大阪でご講演いただいた学問的成果の一つではないでしょうか。(完)


第1349話 2017/03/08

井氷鹿の井戸は久留米市久保遺跡

 3月4日、久留米市で奈良大学生の日野さん、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)と夕食をご一緒しました。犬塚さんからは多くのことを教えていただいているのですが、今回も神武東征説話に関する貴重な情報を教えていただきました。
 「洛中洛外日記」1117話の「吉野河尻の井戸と威光理神(井氷鹿)」で紹介しましたが、『古事記』神武記に見える吉野の河尻で井戸から井氷鹿が出現するのですが、川が近くにあれば井戸など不要なはずなのです。ところが犬塚さんのお話では、佐賀や筑後の有明海付近の弥生時代の遺跡からは井戸が数多く見つかっているとのことで、その理由は、干満の差が大きい有明海付近では塩水が逆流することから、川からは安定して真水を得られないため、近くに川があるにもかかわらず真水を得るために井戸が掘られているとのことでした。
 このことは、『古事記』に見える「吉野の河尻」とは奈良県吉野川の上流付近(「河尻」ではない)ではなく、吉野ヶ里付近から有明海に流れ込んだ嘉瀬川下流域(河尻)付近の伝承とするわたしの説(神武東遷記事中の「天神御子」説話は天孫降臨説話「肥前侵略譚」からの転用)を支持するものでした。
 その後も犬塚さんは久留米市の遺跡調査を続けられ、久留米市三瀦に隣接する城島の久保遺跡(筑後川左岸)が弥生時代の遺跡としては最も井戸が多い遺跡であることをつきとめられました。神武東征説話に転用された井氷鹿説話の舞台の有力候補として久保遺跡をあげられたのです。
 さらに犬塚さんは神武記では井氷鹿が井戸から現れることに注目され、狭い井戸からどうやって這い上がってきたのだろうかと考えられました。ところが久保遺跡の井戸遺構からは井戸の方への階段状の通路が発見されており、その階段からであれば神武記の記述のように、井戸から井氷鹿が現れることが可能とのことなのです。とても面白い着眼点ではないでしょうか。また、井氷鹿には尻尾があると記されていますから、これが何を意味しているのかも解明できるかもしれません。
 こうして犬塚さんとの宴(地酒を飲みながら古代史談義)は夜遅くまで続きました。


第1347話 2017/03/04

続・和歌山の神武(鎮西将軍)

 昨日から奈良大学生の日野さん(古田史学の会・会員)と筑前・筑後の史跡調査旅行を続けています。昨日は水城・大宰府政庁跡・観世音寺・大野城山城を見学しました。今日は高良大社・高良山神籠石・大善寺玉垂宮・岩戸山古墳・瀬高のこうやの宮を見学しました。
 わたしが運転するクルマでの会話で、「洛中洛外日記」で紹介した「和歌山の神武(鎮西将軍)」について日野さんから次のような疑問が出されました。鎮西将軍とは神武のことではなく、数次にわたる九州王朝からの東征軍の将軍の一人ではないかという疑問です。『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」の次の記事が神武とほ別の東征軍の将軍ではないかと指摘されたのです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 実はわたしも気になっている部分でした。『日本書紀』成立以後であれば「鎮西将軍」などという名前ではなく神武の伝承としてそのまま伝えればよいのに、何故「鎮西将軍」などという表記で伝承したのかが不明でした。通常、古代の伝承は権威付けのため大和の天皇と結びつけて修飾・改変されることが多いのですが、この和歌山での伝承は敢えて神武と結びつけることなく「鎮西将軍」という表現で伝承されており、そうした理由があるはずです。そのような問題意識を持っていたので、日野さんのご指摘にはうなづけるものがありました。
 この和歌山の「鎮西将軍」伝承については、日野さんのご意見も考慮して引き続き検討したいと思います。


第1346話 2017/03/02

和歌山の神武(鎮西将軍)

 久しぶりの和歌山出張ということもあり、和歌山市の古代史で多元史観により考察すべきテーマがないか、ちょっとだけ調査してみました。すると、面白い伝承(史料)の存在に気づきましたのでご紹介します。
 『延喜式』神名帳にも記された当地の古い神社に「朝椋神社」(あさくらのじんじゃ)があるのですが、『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」に次のような記事があるとのことです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 ちなみに、和歌山県立図書館所蔵『紀州名勝志』写本には「朝椋神社伝」は記載されていませんでした。どの写本にあるのか調査中です。
 いつの頃かどこの人かは知らないが、上古に「鎮西将軍」という人物が攻めてきて最も武勲があったので、この神社を建造したという不思議な記録です。何らかの当地の伝承が記されたものと思われますが、「鎮西将軍」とは「九州の軍団の長」を意味しますから、この地にそのような人物が戦功をあげたというのであれば、その第一候補はやはり神武ではないでしょうか。というよりも、それ以外の人物や伝承をわたしは知りません。
 記紀によれば神武兄弟は河内湾に突入するものの敗北し、兄の五瀬命は戦死します。神武は兄を和歌山の竃山に埋葬し、紀伊半島南端から上陸し、紀伊半島を山越えして奈良に侵入したと記載されていますから、和歌山市付近まで来たことになります。その後の神武の記事は天孫降臨時のニニギ等の伝承が盗用されているとわたしは考えていますから、神武がどのルートを通って大和に進入したのかは不明です。しかし、兄の亡骸を竃山に埋葬できたのですから、和歌山市近辺は制圧していた可能性が高いように思われます。敵地に兄を埋葬し、その地を離れたとは考えにくいからです。
 そうすると神武こそ当地で戦功をあげた「鎮西将軍」として伝承されるにふさわしい人物だと思われるのですが、いかがでしょうか。もしこの理解が正しければ、神武が大和に侵入するルートとして紀ノ川沿いを遡行したと考えてみたいところです。いずれにしましても、現段階では調査を始めたばかりですので、間違っているかもしれませんが、興味深い伝承ですので、ご紹介することにしました。

《補筆》本稿に先行する出色の論文があります。義本満さんの「紀ノ川の神武」(『『市民の古代』』第3集、1981年)です。神武は和歌山で戦い、紀ノ川を遡行して大和に突入したとする先行説です。「古田史学の会」HPに掲載されていますので、是非、ご一読下さい。


第1345話 2017/03/02

【巻頭言】

九州年号(倭国年号)から見える古代史

 今朝は久しぶりに仕事で和歌山市に向かっています。和歌山には化学工場が多く、化学メーカー同士で競合したり協力したりと、そのビジネス環境は複雑です。
 今月末頃に発行される『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(「古田史学の会」編、『古代に真実を求めて』20集)の宣伝も兼ねて、わたしが執筆担当した「巻頭言」を転載紹介します。なぜタイトルに従来の「九州年号」ではなく「倭国年号」を選んだのかの説明や本書の研究史的位置づけなどを記しています。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
         古田史学の会・代表 古賀達也

 古代の中国史書に記された日本列島の代表国家「倭国」がいわゆる大和朝廷ではなく、北部九州に都を置いた九州王朝であることを古田武彦氏(平成二七年〔二〇一五〕没、享年八九歳)は名著『失われた九州王朝』(昭和四八年〔一九七三〕、朝日新聞社刊。ミネルヴァ書房より復刻)で明らかにされた。
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
 倭国(九州王朝)が制定した倭国年号(九州年号)は継躰元年(五一七)に始まり、大長九年(七一二)まで続いたと考えられている。他方、倭国(九州王朝)から王朝交代し、列島の代表者となった近畿天皇家(日本国)は初めての年号「大宝」(七〇一)を「建元」したことが『続日本紀』に見える。この時期に倭国から日本国へと、列島の中心権力が交代したことが、これら両国の年号からもうかがえ、その時代の日本列島のことを記した中国の史書『旧唐書』に「倭国伝」「日本国伝」が別国表記(日本国は倭国の別種)されていることとも見事に対応しているのである。さらには考古学的出土事実(木簡等)においても、倭国内の行政単位「評」が七〇一年から全国一斉に「郡」に代わったことも、この九州王朝から大和朝廷への王朝交代を反映していると考えざるを得ないのである。
 古田学派における倭国年号(九州年号)研究は、古田武彦氏の九州王朝説の提唱以来、全国各地の研究者により活発に進められてきた。その第一段階は諸史料に残された九州年号の調査探索であり、その集大成として『市民の古代』第十一集(市民の古代研究会編、新泉社。一九八九年)が「特集『九州年号』とは何か」として発刊された。次いで第二段階では九州年号の「年号立て(各年号の正しい順番と文字。暦年との対応など)」、すなわち原型論についての研究がなされた。その結論として、九州年号群史料としては現存最古の『二中歴』「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いとする説が最有力となり、さらに『二中歴』から漏れた「大長」年号が七〇一年以後に実在したことも明らかとなった。そして第三段階では、九州年号と九州年号史料に基づく九州王朝史研究へと発展した。その成果がミネルヴァ書房から刊行された『「九州年号」の研究 ー近畿天皇家以前の古代史ー』(古田史学の会編、二〇一二年)として結実したのであるが、本書はその続編あるいは姉妹編に相当する。
 本書は近年の九州年号研究の最先端論文を収録するにとどまらず、コラムとして各地の研究者による様々な九州年号関連記事も掲載した。この狙いは読んで面白いというだけではなく、読者にも九州年号研究の一翼に加われるという思いを共有していただける様々な切り口紹介という側面も有している。
 本書中、出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新たな概念である。江戸期成立の諸史料に、天智天皇の時代の年号として「中元(六六八〜六七一年)」「果安(六七二年)」が散見されるのだが、従来は九州年号と見なされることはなく、言わば誤伝あるいは後世の創作の類ではないかとされ、九州年号研究者から取り上げられることもほとんどなかった。わたしの知るところでは、二〇一一年五月の「古田史学の会・関西例会」で竹村順弘氏(古田史学の会・事務局次長)が「天智の年号ではないか」と指摘されたくらいであった。
 その詳細は当該論文を読んでいただくこととして、この新概念は九州年号研究の延長線上で生まれたものであり、六〜七世紀の日本列島の古代の真実を探る上で有力な視点となる可能性を秘めている。中でも九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への中心権力の移行(王朝交代)の実体を研究するうえで、貴重な仮説と言わざるを得ない。まだ検証過程の「未証仮説」でもあり、読者からのご批判を待ちたい。
 以上のように、本書は倭国年号(九州年号)研究を新次元に引き上げるべく、野心的な論稿を収録した。「古田史学の会」が全ての日本古代史研究者や歴史ファンに是非を問う一冊なのである


第1303話 2016/12/01

倭国と日本国の「尺」

 11月27日に福岡市で開催した「古田史学の会」主催の講演会では問題意識の高い質問が参加者から出され、講演会後の懇親会も含めて成功裏に終えることができました。ご協力いただいた久留米大学の福山先生、「九州古代史の会」の方々、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん中村通敏さん、そして参加された皆様に御礼申し上げます。

 その質疑応答で、太宰府条坊地割(一辺約90m)の「尺」とその後に地割された北部(政庁・観世音寺)の「尺」の違いについての質問が出されました。井上信正さんは前者を「大尺」、後者を8世紀初頭の「小尺」とされたのですが、わたしは九州王朝(倭国)の「尺」制度の変遷について研究中でもあり、1尺は約30cm程度としか答えられませんでした。

 太宰府条坊の一辺90mという実測値から、約30cmの「尺」で300尺という整数が得られることから、七世紀初頭の九州王朝「尺」は約30cmと考えてよいかもしれませんし、あるいは36cmであれば250尺となります。この点、引き続き調査検討が必要です。

 先日、京都の染色工場の経営トップの方と懇談する機会があったのですが、そのとき正倉院宝物のカタログを見せていただきました。それには東大寺の「緑綾几帯(みどりあやのつくえのおび)」が掲載されており、それに墨で次のような長さと年代が記されていました。

「花机帯 長二丈三尺四寸 廣二寸五分 天平勝寶四年四月九日」「東大寺」

 解説には現在の実測値が「長六八二・〇 幅七・五」とあり、墨書の数値と実測値から計算すると、全長から1尺は29.145cm、幅からは30cmという数値が得られます。この計算値から、天平勝寶四年(752)時点の大和朝廷(日本国)の「尺」は1尺=29〜30cmだったことがわかります。ちなみに天平勝寶四年は東大寺の大仏開眼供養の年ですから、この帯はその儀式に用いられたものと思われます。

 この正倉院宝物カタログを見せていただいた方は草木染めの専門家で、愛子内親王が二十歳の宮廷儀式で着用される十二単(じゅうにひとえ)の天然染料を用いた染色を宮内庁から委託されているとのこと。その十二単に使用される生地は蓮糸(ハスの糸)で織られているそうで、それを天然染料(主に草木染)で復元することはかなり困難とのことでした。わたしも色素化学・染色化学のケミストの一人として、何かお手伝いできればと願っています。ちなみに、本日(12月1日)は愛子内親王15歳のお誕生日です。おめでとうございます。


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。


第1292話 2016/10/29

『続日本紀』の年号認識(2)

 「建元」は一つの王朝にとって最初の年号制定を意味しますから、1回だけです。それ以降は「改元」が繰り返されるのですが、大和朝廷(近畿天皇家)にとっての「建元」は『日本書紀』にはなく、『続日本紀』に記された次の「大宝建元」記事だけです。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、大宝元年三月条(701)

 これ以後は現代の「平成」まで改元が繰り返されるのですが、『続日本紀』の「大宝建元」に続く、「慶雲」「和銅」「霊亀」「養老」の「改元」記事(詔勅)は次の通りです。

 「五月甲午(10日)、備前国、神馬を献る。西楼の上に慶雲を見る。詔して天下に大赦し、改元して慶雲元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、慶雲元年五月条(704)

 「和銅元年春正月乙巳(11日)、武蔵国秩父郡、和銅を献る。詔して曰く、(中略)故、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号と定め賜う。(後略)」『続日本紀』元明天皇、和銅元年正月条(708)

 「九月庚辰(2日)、禅を受けて、大極殿に即位す。詔して曰く、(中略)其れ和銅八年を改元して霊亀元年とす。」『続日本紀』元正天皇、霊亀元年九月条(714)

 「癸丑(17日)、天皇、軒に臨みて、詔して曰く(中略)天下に大赦して、霊亀三年を改元し養老元年とすべし、とのたまう。」『続日本紀』元正天皇、養老元年十一月条(716)

 この様に『続日本紀』において、「建元」と「改元」は明確に使い分けられています。この時代は大和朝廷が九州王朝に代わって列島の代表王朝になり、『古事記』や『日本書紀』編纂の時代ですから、当然、九州王朝の歴史的実在は自らも周囲の豪族たちも知悉していたはずです。この『続日本紀』における「建元」と「改元」の表記使い分けについて、大和朝廷一元史観の学者は全く説明できていませんし、特に古田先生の九州王朝説(九州年号説)が発表されてからは意識的に避けているようにも見えます。
 上記の「建元」「改元」記事で注目すべきは、「改元」記事は天皇の詔勅を記載しており、同時代の最高権力者による「発言」が『続日本紀』に採用されているのですが、大和朝廷にとって最も重要な「大宝建元」記事は「詔勅」の転載ではないことです。「大宝建元」の詔勅を文武天皇は出さなかったのでしょうか。それ以後は「改元」の詔勅を採用しているにもかかわらず、『続日本紀』では最も重要な「大宝建元」の詔勅がカットされているのです。『続日本紀』中では最初の年号制定である「大宝建元」の詔勅が出されなかったとは考えられません。
 それではなぜ『続日本紀』編者は「大宝建元」の詔勅をカットしたのでしょうか。恐らく文武天皇による「大宝建元」の詔勅には、九州王朝に代わって大和朝廷が列島の代表王朝になったことを高らかに宣言し、それまで国内で使用されていた九州年号(倭国年号)の無効と、自ら「建元」した「大宝」が正当な年号であることを国内配下の豪族たちに宣言した文言が「大宝建元」の詔勅にはあったはずです。ですから、その詔勅をそのまま『続日本紀』に転載したら、『日本書紀』が隠した九州王朝(倭国)の存在を認めてしまうことになるため、「大宝建元」の詔勅を転載できなかったと考えられるのです。
 ちなみに、701年に「大宝建元」したとき、九州年号の「大化・白雉・朱鳥」を盗用した『日本書紀』はまだ成立していません(成立は720年)。自らの史書に九州王朝や九州年号をどのように取り扱うかという編纂方針が確立する前に、「大宝建元」の詔勅が発布されたのではないでしょうか。
 『続日本紀』に「大宝建元」の詔勅が記されていないという史料事実について、古田先生の九州王朝説(九州年号説)ではこうした理解や説明が可能ですが、旧来の大和朝廷一元史観では、やはり説明不可能なのです。(つづく)


第1291話 2016/10/28

『続日本紀』の年号認識(1)

 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」のタイトルを持つ『古代に真実を求めて』20集の編集作業も本格的な段階に入りました。九州年号(倭国年号)特集号で、古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)以後の九州年号研究の最先端論文と、多くのコラム記事などにより構成された、読んで面白い一冊となりそうです。
 そこで改めて九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したとき、大和朝廷の年号認識がどのようなものであったのかを精査するため、『続日本紀』編者の年号認識について考えてみることにしました。『続日本紀』の成立は797年ですから、九州王朝が滅び、大和朝廷が列島の代表者になって約百年後です。その頃の近畿天皇家の歴史官僚の年号認識に迫ってみます。
 『日本書紀』には九州年号(倭国年号)の大化・白雉・朱鳥が盗用されていますが、『続日本紀』に一番最初に記されている年号が「白雉」です。文武天皇四年(700)三月条の道照和尚崩伝に見える次の記事です。

 「初め、孝徳天皇の白雉四年、使に従いて唐に入る。」『続日本紀』文武四年三月条

 孝徳天皇白雉四年(653)に道照が唐に渡った記事ですが、このことは『日本書紀』白雉四年五月条に記されています。その記事を『続日本紀』でも採用したものです。すなわち、「白雉」を孝徳天皇の年号とする立場に立った記述です。
 ところが翌年の文武天皇五年(701)の三月に「大宝建元」記事が現れます。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』大宝元年三月条

 「建元」とは王朝にとって初めて年号を制定することで、それ以降の年号変更は全て「改元」です。『日本書紀』の「白雉」年号を記載した翌年に「大宝建元」と表記することの矛盾に『続日本紀』編者が気づかないはずがありません。(つづく)


第1254話 2016/08/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(15)

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)は、「古田史学の会」関西例会で発表されてきた研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を正しく認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が聞こえてきたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
 冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
 こうして6世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起されている新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
 このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる段階ではないと、わたしとしては考えていますが、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
 最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。(了)