大和朝廷(日本国)一覧

第691話 2014/04/08

近畿天皇家の宮殿

 このところ特許出願や講演依頼(繊維機械学会記念講演会)を受け、その準備などで時間的にも気持ち的にも多忙な日々が続いています。若い頃よりもモチベーション維持に努力が必要となっており、こんなことではいけないと自らに言い聞かせている毎日です。

 さて、701年を画期点とする九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の実体について、多元史観・古田学派内でも諸説が出され、白熱した論議検討が続けられています。「古田史学の会」関西例会においても「禅譲・放伐」論争をはじめ、様々な討議が行われてきました。
 そこで、701年以前の近畿天皇家の実体や実勢を考える上で、その宮殿について実証的に史料事実に基づいて改めて検討してみます。もちろん『日本書紀』 の記事は、近畿天皇家の利害に基づいて編纂されており、そのまま信用してよいのかどうか、記事ごとに個別に検討が必要であること、言うまでもありません。 従って、金石文・木簡・考古学的遺構を中心にして考えてみます。
 『日本書紀』の記事との関連で、700年以前の近畿天皇家の宮殿遺構とされているものには、「伝承飛鳥板葺宮跡」(斉明紀・天武紀)、「前期難波宮遺 構」(孝徳紀)、「近江大津宮遺構(錦織遺跡)」(天智紀)、「藤原宮遺構」(持統紀)などがよく知られています。「前期難波宮」と「近江大津宮」については、九州王朝の宮殿ではないかとわたしは考えていますので、近畿天皇家の宮殿とすることについて大きな異論のない「伝承飛鳥板葺宮跡」と「藤原宮遺構」 について今回は検討してみます(西村秀己さんは、「藤原宮」には九州王朝の天子がいたとする仮説を発表されています)。
 幸いにも両宮殿遺構からは多量の木簡が出土しており、両宮殿にいた権力者の実像が比較的判明しています。たとえば「伝承飛鳥板葺宮跡」の近隣にある飛鳥池遺跡から出土した木簡には「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」などと共に、「詔」の字が記されたものも出土していることから、その地の権力者 は「天皇」を名乗り、「詔勅」を発していたことが推測されます。
 「藤原宮遺構」からは700年以前の行政単位である「評」木簡が多数出土しており、その「評」地名から、関東や東海、中国、四国の各地方から藤原宮へ荷物(租税か)が集められていたことがわかります。これらの史料事実から、700年以前の7世紀末に藤原宮にいた権力者は日本列島の大半を自らの影響下にお いていたことが想定できます。
 その藤原宮(大極殿北方の大溝下層遺構)からは700年以前であることを示す「評」木簡(「宍粟評」播磨国、「海評佐々理」隠岐国)や干支木簡(「壬午年」「癸未年」「甲申年」、682年・683年・684年)とともに、大宝律令以前の官制によると考えられる官名木簡「舎人官」「陶官」が出土しており、 これらの史料事実から藤原宮には全国的行政を司る官僚組織があったことがわかります。7世紀末頃としては国内最大級の礎石造りの朝堂院や大極殿を持つ藤原宮の規模や様式から見れば、そこに全国的行政官僚組織があったと考えるのは当然ともいえます。
 こうした考古学的事実や木簡などの史料事実を直視する限り、701年以前に近畿天皇家の宮殿(「伝承飛鳥板葺宮跡」「藤原宮遺構」)では、「詔勅」を出したり、おそらくは「律令」に基づく全国的行政組織(官僚)があったと考えざるを得ないのです。九州王朝から近畿天皇家への王朝交代について論じる際は、 こうした史料事実に基づく視点が必要です。


第689話 2014/04/03

近畿天皇家の称号

 近畿天皇家が701年の王朝交代以降は「天皇」を称号としていたことは明確ですが、それ以前については古田学派内でも諸説あり、やや「混乱」しているようにも見えます。この問題について、実証的に史料事実に基づいて改めて考えてみました。
 まず、古田先生の著作では史料根拠を提示して、7世紀初頭頃には「天皇」号を称していたと論述されています。『古代は輝いていた・3』(朝日新聞社。 269頁)によれば、法隆寺薬師仏後背銘にある「天皇」「大王天皇」を7世紀初頭の同時代金石文とされ、それを根拠に推古ら近畿天皇家の主は「大王」や 「天皇」を称していたとされました。もちろん、九州王朝の「天子」をトップとしての、ナンバーツーとしての「天皇」号です。
 その後の近畿天皇家の称号を確認できる史料根拠としては、飛鳥池遺跡から出土した7世紀後期(天武の頃と編年されています)の「天皇」木簡や「皇子」木簡(舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)があります。これらの史料事実から、近畿天皇家は7世紀前期と後期において「天皇」号を用いていたことがわかります。 これもまた、九州王朝の「天子」の下でのナンバーツーとしての「天皇」です。
 その後、8世紀になると九州王朝に替わってナンバーワンとしての「天皇」号を近畿天皇家は名乗りますが、同時に「天子」や「皇帝」などの称号も併用しています。その史料根拠の一つは『養老律令』です。その「儀制令第十八」には次のように記されています。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
 このように『養老律令』では複数の称号の使い分けを規定しているのです。おそらくこうした「儀制令」の規定は『大宝律令』にもあったと思われますが、その実用例として、和銅五年(712)成立の『古事記』序文(上表文)に、当時の元明天皇に対して「皇帝陛下」と記していますから、701年以後は近畿天皇家の称号として、「天皇」の他にも「天子」「皇帝」を併用していたことがうかがえるのです。おそらくは、九州王朝での呼称(「九州王朝律令」)を先例としたのではないでしょうか。


第615話 2013/10/24

日本海側の「悪王子」「鬼」伝承

 今週初めからの出張で、富山県高岡市・魚津市、新潟県長岡市・五泉市と周り、ようやく東京に着きました。今、八重洲のブリジストン美術館のティールーム・ジョルジェットでランチをとっています。このお店のミックスサンドとダージリンティーのセット(1200円、30食限定)はおすすめです。壁には長谷川路可(はせがわ・るか 1897-1967)のフレスコ画4点が展示されており、そのやわらかな色調には心が癒されます。ここはわたしのお気に入りのお店です。

 高岡市では少し空き時間ができましたので、お城の中にある市立博物館に行ってきました。古くて地味な博物館でしたが、入館料は無料で受付のご婦人はとても上品で親切な方でした。当地の歴史研究会が発行した会誌などを閲覧しましたが、そこに連載されていた「悪王子」伝説の研究論文には興味をひかれました。
 昔々、高岡市の二上山に住む悪王子に、毎年、越中の乙女を大勢人身御供として差し出していたという伝説に関する研究で、「悪王子」を祭る神社や伝説が各地にあることなどが紹介されていました。京都にも「悪王子」を祭る神社があるとのことで、わたしはそのことを知りませんでした。
 また別の記事によれば、日本海側には各地に「鬼」に関する伝承があり、「鬼」サミットなどが開催されていることも知りました。これら「悪王子」や「鬼」 の伝承が、『赤渕神社縁起』の「鬼神」「悪鬼」と関係があるのかどうか興味がわきました。有名な秋田の「なまはげ」なんかも「鬼」伝承の一つでしょうか。 すでに「鬼」に関する研究は数多くなされていますから、「鬼」を「蝦夷」とする先行説があるのか、京都に帰ったら調べてみようと思います。

 外はまだ雨です。これから東京で仕事をした後、名古屋に向かい、夕方から代理店と商談です。今夜は名古屋で宿泊し、明日は岐阜県養老町に向かいます。台風の影響で新幹線が遅れないことを祈っています。


第594話 2013/09/12

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(4)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の歴史・位置・地勢が明確に書き分けられており、当時の唐の官僚たちは日本列島に倭国と日本国が存在したという認識を持っていたことを疑えません。そして、そうした情報を唐の官僚たちは、日本列島に派遣した使者や、日本列島からの遣唐使から得たことも 疑えません。更には歴代中国史書の記録も参考にしたことでしょう。そこで、最後のテーマとして『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記されている倭国と日本国の人 名について検討してみることにします。
 倭国伝にはただ一ヶ所だけ次のように人名が記されています。

 「その王、姓は阿毎氏なり。」

 『隋書』に記されている「阿毎多利思北弧」の「阿毎」です。近畿天皇家の歴代天皇の姓が「阿毎」だったという記録は『日本書紀』や『古事記』には見られず、近畿天皇家とは別の「王」と考えざるを得ません。
 日本国伝になると、逆に「王」の名前は記されずに、次のような遣唐使の人名が記録されています。

 長安三年(703) 大臣朝臣真人(粟田朝臣真人)
 開元(713~741)の初 朝臣仲満(阿倍仲麻呂)
 貞元二十年(804) 学生橘免勢 学問僧空海
 元和元年(806) 高階真人(高階遠成)

 このように日本国伝にはわが国の国史に残る著名な人物が登場していることから、この日本国が近畿天皇家の王朝であることは自明です。他方、肝心の天皇家の姓や名前を記さないという史料状況は不思議です。この点、これからの研究テーマとなるでしょう。
 こうした日本国伝の人名記事もすべて701年以後の記録として登場することは重要な問題点です。すなわち、九州王朝から近畿天皇家へと列島の代表者が交代した「ONライン」以後に近畿天皇家の人物名が日本国伝に記録されていることとなり、この点も古田説と見事に一致するのです。
 その点、701年以前の九州王朝を対象とした倭国伝に倭国からの遣唐使の人名が記載されていないという史料事実も注目されます。『旧唐書』編纂時にそれらの記録が散逸して残っていなかったという可能性もあるかもしれませんが、『旧唐書』編纂方針に関係するのかもしれません。この点も、今後の研究課題で す。
 以上四回にわたり、『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の解説を行ってきましたが、より本格的な史料批判、すなわち『旧唐書』全体に登場する「倭国」と「日本国」の全数調査に基づいた研究が必要です。既に古田先生が多くの著書で論究されているところですが、先生に続く古田学派の研究者の登場が待たれます。


第593話 2013/09/11

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(3)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の位置や地勢情報が記されています。次の通りです。

(倭国)
 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。」「四面に小島、五十余国あり、皆これに附属する。」

 ここでのキーポイントは「新羅東南の大海の中にあり」「山島に依って居る」「四面に小島」というように、倭国が「島国」 であることが明確に認識されていることです。「新羅東南の大海の中」という概略だけでは倭国が九州島なのか近畿なのかは断定しにくいのですが、「山島」で あり、「四面に小島」があるということから、倭国は九州島と考える他ないのです。なぜなら、近畿とするならば「本州島」が明確に「島」と断定されるために、津軽海峡の存在が当時の倭国や唐に認識されていなければなりません。しかし、そのような痕跡は見あたらず、やはり倭国は島国である九州島という選択肢 が最有力なのです。あえて言えば、四国も「島国」として候補地になりそうなのですが、四国の南側に「小島」があるとは言いにくいので、「四面に小島」とい う記述には合致しません。これが九州島であれば、問題なく「四面に小島」があるという表現に適応するのです。

(日本国)
 「その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。」「その国の界、東西南北各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。」

 日本国の場合は島国の倭国とは異なり、西と南は大海だが、東と北は大山があり、その先は倭人ではなく「毛人の国」と記されています。『旧唐書』東夷伝には「毛人国伝」はありませんから、この「毛人国」と唐は正式な国交がなく、情報も限られていたと想像されます。また、「そ の国日辺にある」という記述から、日本国は倭国よりも東に位置していることも推定できます。こうした点から、この日本国の地勢記事は近畿がふさわしいものとなります。より正確に言えば、関東もその候補になりえます。あるいは、当時の唐の認識としての日本国は近畿や関東を含む領域としていた可能性もありそうです。
 以上のように『旧唐書』に記された倭国と日本国の位置や地勢記事は、両者は明らかに別国という認識に基づいており、倭国は島国(中心領域)としての九州王朝であり、日本国は近畿地方の天皇家の王朝と見なされるのです。この史料事実も古田先生の多元史観・九州王朝説を強力に支持しているのです。
 なお、倭国伝中の「京師を去ること一万四千里」や「東西は五月行、南北は三月行」という記事の史料批判も必要ですが、別の機会に詳しく説明したいと思います。簡単に言えば、これらは『三国志』や『隋書』の影響を受けた表記であり、特に「一万四千里」は短里と長里を混在させた合計里程と思われ、興味深い問題を内在しています。(つづく)


第591話 2013/09/07

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(2)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝にはそれぞれの国の「歴史」が記録されています。おおよそ次の通りです。

 「倭国」は古の「倭奴国」。すなわち志賀島の金印を漢からもらったあの倭奴国が倭国であると、倭国伝冒頭から記されています。金印が出土したのは北部九州の博多湾岸ですから、倭国が九州王朝であることを実は冒頭から『旧唐書』は示唆しているのです。言い換えれば唐王朝の「倭国」認識が示されているわけです。
 次に「世世、中国に通ず」とあり、古の倭奴国から今(唐の時代)の倭国まで連続した王朝であり、歴代中国王朝と交流が続いていると記されています。近畿天皇家一元史観でも「倭奴国」は博多湾岸とされているのですから、「倭国」もそれと同じ国ということになり、一元史観の立場でも「倭国」を北部九州の国家と考えざるを得ないことは重要です。すなわち、一元史観の認識・立場を誠実に貫くと、倭国は九州王朝のこととなり、自らの一元史観を否定するという学問的 矛盾に陥るのです。この論理性を理解できる「賢い」一元史観論者が古田史学との論争を忌避するのも、こうした事情に気がついているからなのかもしれませ ん。
 その後、倭国との交流について『旧唐書』には、貞観5年(631)に倭国が唐に遣使を派遣し、その後、唐からも倭国へ使者(高表仁)が派遣されますが、 その使者が倭国の王子と「礼を争う」と記されています。そして、貞観22年(648)に、新羅を介して表を送ったという記事を最後に、倭国伝は終わりま す。

 「倭国伝」に続いて記されている「日本国伝」冒頭には、日本国の出自として「日本国は倭国の別種なり」とあり、日本国は倭国とは別の国という認識が示されています。「別種」の意味は正確にはわかりませんが、倭国と日本国が別国であり、日本列島には倭国と日本国が存在していたという、古田先生が提唱された「多元史観」を是とする立場で『旧唐書』は編纂されているのです。
 更に、倭国と日本国との関係について次の興味深い記事が見えます。「あるいはいう、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、という。」小国だった日本国が 倭国を併合したと記されているのです。倭奴国の昔から歴代の中国王朝と交流していた倭国を小国の日本国が併合したという、日本列島における王朝交代が記録されているのです。
 その交代の時期も、日本国伝から推察できます。『旧唐書』日本国伝に見える唐と日本国の国交記事の最初は長安三年(703)の遣唐使(粟田真人)記事です。従って、倭国伝に見える唐と倭国の最後の交流記事が貞観22年(648)ですから、この648年と703年の間に倭国から日本国への王朝交代があったことになります。古田先生が提起されたONライン(701年)が、まさにこの期間に入っていますので、『旧唐書』の史料事実が古田説を強力に支持していることがご理解いただけるものと思います。(つづく)


第590話 2013/09/01

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(1)

 古田史学・九州王朝説の根拠として古田先生が指摘されたもので最も有力な史料の一つが『旧唐書』倭国伝・日本国伝です。視点を変えれば、近畿天皇家一元史観の学界としては、最も国民に知られたくない史料ともいえます。もちろん教科書にも載りませんし、学界でも真正面から取り上げられることも、近年ほとんどありません。この『旧唐書』倭国伝・日本国伝について、その要点をご紹介します。
 まず最初に学問的に確認すべきこととして、『旧唐書』の史料性格があります。いうまでもなく『旧唐書』は唐(618~907)のことを記した歴史書で、 中国歴代王朝の「正史」の一つとされています。成立は唐滅亡後の後晋(936~946)の時代です。もちろん、「正史」といっても「正しい真実の歴史」という意味ではありませんから、当然のこととして誤記誤伝や意図的な改訂などもあります。時の権力者の都合や大義名分により書き換えられた記事もあることでしよう。
 しかしながら、交流している周囲の国々のことまで嘘を記す必要はないてしょうし、日本列島の代表王朝が1国(大和朝廷一元史観)なのか2国(九州王朝多 元史観)なのかを間違えることは考えにくいでしょう。このことは、古田先生が四十年来主張されてきたところです。(つづく)


第589話 2013/08/31

「九州年号」の証明(3)

 いわゆる九州年号が九州王朝(倭国)の年号であることは自明のこととわたしは考えていましたが、水野代表の御指摘を受けて改めてその論拠を考えてみました。それは次のような史料根拠と論理性に基づいています。
 まず基本認識として、古田先生の九州王朝説・多元史観に基づき、古代中国史書に記された九州王朝・倭国は7世紀末まで日本列島を代表する王朝であり、 701年のONラインを境として近畿天皇家が新王朝の日本国を建国し、九州王朝から列島の代表者の地位を交代します。そして、自らの史書『続日本紀』に 701年に「大宝」年号を「改元」ではなく「建元」したと記します。従って、近畿天皇家の日本国の年号は大宝元年から始まったことがわかります。
 この701年からの日本国とそれ以前の倭国については、『旧唐書』に倭国伝と日本国伝とが、その歴史や地形などが書き分けられていることとも対応しており、歴史事実と見なすに十分な史料根拠を有しています。
 他方、『二中歴』所収「年代歴」に掲載されている古代年号群も6世紀初頭から700年まで続く「継体」から「大化」までのいわゆる九州年号と、701年 からの「大宝」から始まる近畿天皇の年号群とが書き分けられていることが、先にあげた多元的歴史認識と見事に対応しており、いわゆる「九州年号」とされている年号群が九州王朝(倭国)の年号と理解することの史料根拠となるのです。
 以上のような史料根拠と論理性が九州王朝と九州年号を結びつける「証明」なのです。なお、701年以後も「大化」「大長」という九州年号が継続していたことが判明してきましたが、この点については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)に詳述していますので、ご参照ください。


第584話 2013/08/20

天智天皇の年号「中元」?

 わたしは第580話「近江遷都と王朝交代」に おいて「天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年(671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝の継承者としての「改元」もされていません。」と記したのですが、先日の関西例会の質疑応答のとき に、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)から、天智天皇の年号「中元」について関西例会で報告したことがあるとの御指摘がありました。
 確かに2011年5月の関西例会で竹村さんはそのことを発表されていました。そのときの発表を、わたしは失念していますので、恐らく「中元」を九州年号ではなく誤記誤伝の類と判断したのだと思います。しかし、現在では研究や認識が進んできたこともあり、この竹村さんの指摘には大変驚きました。
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発し たと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年 (668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
 それにしても、こうした予想外の御指摘をいただけるのも「古田史学の会」関西例会ならではと、竹村さんや参加者の皆さんに感謝しています。


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)


第454話 2012/08/12

久留米は日本の首都だった

 9月1日(土)に久留米大学の公開講座で講演します。テーマは九州王朝史概論で「久留米は日本の首都だった」という内容です。15日には正木裕さんも講演されます。詳細は久留米大学ホームページをご覧ください。故郷の馴染み深い久留米大学御井キャンパスでの講演をとても楽しみにしています。ちなみに、わたしは同大学の近隣にある御井小学校を卒業しています。
 同公開講座てで配布されるパンフレットに掲載されるレジュメを下記に転載します。

 久留米は日本の首都だった
     -九州王朝史概論-
    古賀達也(古田史学の会・編集長)
 古田武彦氏が『失われた九州王朝』(朝日新聞社・1973)において、古代中国史書などで「倭国」と記されてきた日本列島の中心王朝は近畿天皇家(大和朝廷)ではなく、太宰府を首都(7世紀)とした九州王朝であることを明らかにされた。すなわち、志賀島の金印を授与された委奴国(1世紀頃)を縁源とする、後に三国志魏志倭人伝に邪馬壱国と称された王朝である(2~3世紀。「邪馬台国」とするのは「ヤマト国」と訓みたいための原文改訂であり、学問的には誤った手法である。)。
 6~7世紀、隋書によれば倭国(「イ妥国」と記されている)には阿蘇山があることも記されており、引き続いて北部九州に都をおいていたことがわかっている。7世紀初頭には、その王「阿毎の多利思北弧」が隋の皇帝に国書を出し、それには「日出ずるところの天子」と自称されている。旧来の日本古代史学界では、この国書を近畿天皇家の聖徳太子によるものとしてきた。しかしそれは誤りであり、古田武彦氏が指摘するように、阿蘇山がある国、九州王朝の国書であることは自明といえよう。
 九州王朝(倭国)は白村江敗戦後の7世紀末には衰退し、701年には倭国の分家筋に当たる近畿の大和朝廷が列島の代表王朝となった。旧唐書に「日本国」と記されているのが大和朝廷である。旧唐書には「日本国は倭国の別種」と記されていることからも、このことは明らかである。
 古田武彦氏による九州王朝説は多くの支持者を得た反面、旧来の日本古代史学界はこれに有効な反論をなし得ず、あろうことか無視を続け、今日に至っている。他方、九州王朝研究の進展に伴い、九州王朝の年号が記された木簡「(白雉)元壬子年(652年)」(芦屋市出土)などが発見された。それら九州年号研究は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2011)などで発表され、反響をよんでいる。
 このように古田武彦氏の九州王朝説は「多元的歴史観」として、歴史の真実を求める心ある人々からは学問的に正当に評価されているのである。今回の公開講座では、こうした九州王朝史を概説し、7世紀初頭に九州王朝が太宰府を首都としたこと、4~6世紀には筑後地方(中心は現・久留米市)に首都をおいていたことを、文献史学などの成果により明らかにする。さらには、今も筑後地方に九州王朝の末裔の家系が続いていることも紹介する。