古田史学の会一覧

第3335話 2024/08/23

古田武彦・山田宗睦対談

      での「古田学派」

 かつて富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が発行していたグラフィケーション(GRAPHICATION)という雑誌に古田先生と山田宗睦さんの対談が掲載され、そのなかで山田さんが「学派」「古田学派」について触れた部分があります。哲学者らしい山田さんの考察が述べられていますので、転載します。

https://furutasigaku.jp/jfuruta/yamafuru.html
グラフィケーションNo.56(通巻245号)
1991年(平成3年)8月発行
対談・知の交差点 4

古代史研究の方法をめぐって

古田武彦氏(昭和薬科大学教授 日本思想史)
山田宗睦氏(関東学院大学教授 哲学)

山田 いまは大学の中に学派というものがなくなって、市民の中に古田学派のようなものができているというのは、いいことだと思います。これは戦前のような、知的な特権の場としての大学が成立しなくなり、戦後の大衆社会状況とか民主主義といった条件の中で、知の世界がずっと一般市民の方にまで広がってきたということですね。そういう面では非常にいいことだと思っているんですが、同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけないと思うんです。

 いつも古田さんが何かのたまわって、市民の方が「はあ、さようでございますか」と聞いているのではね(笑)。

古田 それはいけませんね。

山田 それは、学派としては健全じゃありませんから。
だから、やはり古田学派の中で論争があるのはいいことだろうと思うんです。そこで、私もこれから少し古田さんに論争を挑もうと思っているんですよ(笑)。そのうち本を書くつもりです。
【転載終わり】

 いまは大学の中に学派というものがなくなってきているという山田さんの指摘は、古代史や文系のみならず、国内の学界の一般的な傾向だろうと思います。「同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけない」という指摘も貴重です。わたしも「古田史学の会」の運営や『古田史学会報』『古代に真実を求めて』の編集に当たり、留意してきたところです。

 そうでなければ「学派としては健全じゃありません」という山田さんの意見も当然のことです。「古田史学」「古田学派」と自らの立ち位置を旗幟鮮明にしたからには、その健全性は恒に意識しなければなりません。こうした問題について、これからも発言し続けようと思います。

 他方、古田説(九州王朝説・多元史観)を一貫して支持された中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)が、「市民の古代研究会」分裂騒動のおり、次のように言われていました。

「〝師の説にな、なづみそ〟(本居宣長、注)と言いながら、古田説になずまず、一元史観になずむ人々が増えている。」

 これは、「古田史学」「古田学派」の健全性を考えるうえで、中小路先生の重要な状況分析であったことが思い起こされます。

(注)
「本居宣長の〝師の説にな、なづみそ〟は学問の金言です」と古田先生は折に触れて述べてきた。反古田派の人々は、和田家文書を真作とする古田説に反対し、古田離れを画策するとき、本居宣長のこの言葉を利用した。そうした状況に対して警鐘を打ち鳴らしたのが、中小路氏であった。


第3334話 2024/08/21

「古田史学」「古田学派」

    という用語誕生時期

 「古田史学」「古田学派」という言葉がいつ頃から使用され始めたのかについて調べたことがあります。わたしが「市民の古代研究会」に入会した1985年頃には、「古田史学」という言葉は「市民の古代研究会」内では普通に使用されており、多元史観・邪馬壹国説・九州王朝説などを中心とする古田先生の学説やそれに基づく研究方法や関連仮説全体を指して、「古田史学」と呼ばれていました。今でもこの傾向は変わらないと思います。

 「古田説」という言葉も使用されていますが、多元史観により体系化された学説・学問総体を指す場合は「古田史学」と呼ばれ、徐々に使い分けが進んだようです。例えば、「邪馬台国」九州説の中の「邪馬壹国」博多湾岸説のように、具体的に限定されたテーマについては、他の九州説と区別して「古田説」と簡略して表現するケースもありましたが、これはテーマが限定されていることが明確な場合に限って有効ですので、講演会や論文中に使用する場合は注意深く使用する必要があります。

 管見では、「古田史学」という言葉が見える初期の論文は、『古田武彦とともに』創刊第一集(1979年、「古田武彦を囲む会」編)に収録された次のものです。同書は、後に『市民の古代』と改名し、同じく「市民の古代研究会」と改称した同団体から出版社を介して書店に並びました。ちなみに、「市民の古代研究会」の分裂解散後は、わたしたち「古田史学の会」が同書や団体の伝統を事実上継承し、今日に至っています。

❶いき一郎 「九州王朝論の古田さんと私」
〝私は古田史学と同じように~〟

❷米田 保(注①) 「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」
〝こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏による第二作『失われた九州王朝』(四十八年) 第三作『盗まれた神話』(五十年二月) 第四作『邪馬壹国の論理』(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。〟

❸義本 満 「古田史学へのアプローチ」
〝古田史学が、堂々と定説となり、学校の教材にも採用される日の来る事を私は疑いません。ただ私の元気なうちにその時期の訪れることを願って止みません。〟

 以上の「古田史学」の他に、「古田学派」という言葉も同書に見えます。次の論考です。

❹佐野 博(注②) 「民衆のなかの古田説 (古田説のもつ現代史的意味)」
〝そこで古田さんの方法と論理、現在までの諸成果を純粋に受け入れ、古田学派とでも呼ばれる集団が現れたからとて、なにもこだわることはないのです。(中略)

 だからそれが、“通説”“定説”の嵐のなかで、“古田説”“古田学派”と指弾されようとも、あえてその名を冠されることを喜ぶものでしょう。真実は歴史を創る側にあるのです。わたしたちは、つねに学問とは、民衆とのかかわりぬきであるとは思いません。この国の民衆はつねに政治に支配されつづけてきましたが、それでも歴史を創る主体であることを否定することはできないのです。〟

❺丸山晋司(注③) 「ある中学校の職員室から」
〝しかも自分がもし社会科の教師になっていたら、ゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。(中略)

 職員室談義で気のついたこと。「大和朝廷」への信仰はかなり根強い。古田説だけでなく、色んな王朝交替説とか有力と思える説もどこ吹く風、ひたすら教科書が「定説」なのだ。〟

 以上の記事が見えますが、1979年当時の古田ファンや支持者の熱気と世相を感じることが出来ます。

 本稿を執筆していて思い出しましたが、「古田史学の会」創立のきっかけとなった「市民の古代研究会」分裂騒動の当時、わたしや水野顧問ら古田支持派は、反古田派と激しく対立していました。そのときわたしが「古田史学」という言葉を使うと、それまでは「古田先生、古田先生」とすり寄っていた反古田派の理事から、「学問に個人名をつけるのはけしからん」と非難されたことを思い出しました。

 こうした体験があったため、わたしは今でも意識的意図的に「古田史学」「古田学派」という言葉を使い続けています。いわば、自他の立ち位置を明示するための〝リトマス試験紙〟のようなものです。しかし、古田史学が仮に〝異端〟としてでも日本古代史学界に許容され、古田説・古田史学が学界内で研究発表できる新時代が到来すれば(今は全くできません)、わたしは「古田史学」「古田学派」という言葉を使わなくて済むかも知れないと期待しています。(つづく)

(注)
①元朝日新聞社出版編集部員(当時)。米田氏の提案とご尽力により、『「邪馬台国」はなかった』を初めとする古田史学初期三部作などが朝日新聞社から刊行され、古田史学ブームが到来した。
②(社)日本非鉄鋳物金属協会 会員(当時)。
③大阪市の中学校音楽教師(当時)。九州年号研究では先駆的な業績を残した(『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)。「市民の古代研究会」分裂時、反古田派側につかれたので、わたしは袂を分かったが、氏が九州年号研究で『二中歴』に着目したことは評価している。


第3333話 2024/08/18

『古田史学会報』183号の紹介

 先日、発行された『古田史学会報』183号を紹介します。同号には拙稿〝難波宮から出土した「九州王朝」 ―泉武論文の欠失と新視点―〟を掲載して頂きました。同稿は、前期難波宮整地層下の土壙(SK10043)から出土した「贄」木簡(注①)や水利施設(第7B層)から出土した「謹啓」木簡(注②)を根拠に、前期難波宮を天武朝造営とする泉武論文(注③)を批判したものです。その要点は、この木簡の文字こそ、九州王朝の有力者に捧げられた「贄(にえ)」「謹啓(謹んで啓す)」を意味し、前期難波宮が九州王朝の王宮であることの根拠としました。

 本号で、陶山具史さん(防府市)さんが会報デビューしました。倉沢稿は放送大学での「古田史学サークル」立ち上げの呼びかけです。二名以上の学生による届け出で、サークルとして認定され、学内の掲示板に「古田史学の会」のポスター等が掲示できるとのこと。関東でのこうした地道な活動を「古田史学の会」としても応援したいと思います。

 この他に、「古田史学の会・メール配信事業」、10月27日(日)開催の創立30周年記念東京講演会の案内などを掲載しました。同東京講演会の案内チラシを作成しましたので、配布や掲示していただける関東エリアの方があれば、本会までその旨ご一報下さい。

 『古田史学会報』に論文を投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込み簡潔でわかりやすい原稿にしてください。地域の情報紹介や面白い話題提供なども歓迎します。
183号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』183号の内容】
○難波宮から出土した「九州王朝」 ―泉武論文の欠失と新視点― 京都市 古賀達也
○香川県の九州年号史料 「長尾三家由緒」の紹介 高知市 別役政光
○稲員家系図の史料批判と高良玉垂命の年代 たつの市 日野智貴
○2024年度 会費納入のお願い
○神功皇后の喪船と空船による策略の謎 京都府大山崎町 大原重雄
○九州王朝倭国とタケシウチノスクネの生誕地 防府市 陶山具史
○『古代に真実を求めて』二八集 投稿募集要項
○放送大学に古田史学サークルを 千葉市 倉沢良典
○「古田史学の会」メール配信のお知らせ 古田史学の会・代表 古賀達也
○古田史学の会 第三十回会員総会の報告
○古田史学の会 2023年度会計報告 2024年度予算
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○創立三十周年 東京講演会のお知らせ
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」
東野治之氏の釈読によれば、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄(にえ)とのこと。
②「謹啓」 *「□然而」 *□[初ヵ]
③泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集十七』二〇一八年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』四六巻、二〇二三年。


第3332話 2024/08/07

創立30周年記念東京講演会の案内

 多元的古代研究会と古田史学の会は創立三十周年を迎え、同記念東京講演会を共同で開催することになりました。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」をメインテーマにして、橿原考古学研究所で40年間ヤマトを発掘調査した関川尚功先生と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事講師)による講演会です。

 中でも、〝畿内からは弥生時代の邪馬台国の片鱗(中国製銅鏡・多くの鉄器・北部九州の土器・首長墓など)も出土しない〟とする関川先生の指摘は、NHKを始めとする東京のメディアは報道しませんが、奈良を発掘してきた考古学者にはよく知られている考古学的事実です。関川先生の東京での講演は初めてのことであり、全国の古代史ファン・古田史学ファンの皆様の参加を呼びかけます。

〔演題・講師〕
○畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
関川尚功 氏(元・橿原考古学研究所々員)

○本当の「倭の5王」 ―不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル―
正木 裕 氏(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事講師)

〔日時〕2024年10月27日(日) 午後1時30分~4時30分
〔会場〕文京区民センター 2A会議室 (東京都文京区本郷4丁目)
〔参加費(資料代)〕1000円
〔お問い合わせ先〕046ー275ー1497(和田) 075-251-1571(古賀)
〔主催〕古田史学の会 多元的古代研究会
〔協力〕古田武彦と古代史を研究する会


第3329話 2024/08/01

『東京古田会ニュース』217号の紹介

 『東京古田会ニュース』217号が届きました。拙稿「秋田孝季と橘左近の痕跡を求めて」を掲載していただきました。同稿では、『東日流外三郡誌』編者の秋田孝季と和田長三郎吉次の実在証明調査の最新情報を紹介しました。中でも和田長三郎吉次については、五所川原市飯詰の和田家菩提寺、長円寺にある墓石の戒名・年次(文政十二年・一八二九年建立。注①)と過去帳に記された喪主の名前「和田長三郎」「和田権七」などから、その実在は確実となりました。

 秋田孝季については今も調査中ですが、『東日流外三群誌』に「秋田土崎住 秋田孝季」と記される例が多く、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三群誌』を著述したことがわかっていました。そして太田斉二郎さんからは、秋田市土崎に橘姓が多いことが報告されています(注②)。全国的に見れば、秋田県や秋田市に橘姓はそれほど多くはないのですが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していていることを秋田孝季実在の傍証として紹介しました。
当号に掲載された安彦克己さん(東京古田会・会長)の「『和田家文書』備忘録7 遠野の古称は十戸」を興味深く拝読しました。その主テーマは和田家文書を史料根拠として、岩手県遠野市の名前の由来が「十戸」にあったとするもので、当初、わたしは「十戸(じゅっこ)」と「遠野」とどのような関係があるのか理解できませんでした。しかしそれはわたしの思い違いであり、「十戸(とおのへ)」と訓む論稿だったのでした。そうであれば「十戸(とおのへ)」の「へ」が何らかの事情で消え、「とおの」という訓みで地名が遺り、後世になって「遠野」の字が当てられたとの理解が可能です。

 念のため、「遠野」の由来をWEBで調べたところ、朝日新聞(2010年10月6日、注③)の記事に次の説が示されていました。

〝「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」〟

 この「遠閉伊(とおのへい)」説は『日本後紀』という史料根拠に基づいており有力と思いますが、わたしは地名を漢字2文字で表すという公の慣行により、「へ」という地名に「閉伊」という漢字が当てられたように思います。そうであれば、「遠閉伊(とおのへい)」の古称は「十戸(とおのへ)」であり、岩手県と青森県に分布する「一戸(いちのへ)」~「九戸(くのへ)」と同類地名としての「十戸(とおのへ)」であり、後世になって「遠野」の字が当てられたものと思います。もしこの解釈が妥当であれば、和田家文書の伝承力は侮れないと思いました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」三〇三六話(2023/06/09)〝実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―〟
墓石には次の文字が見える。()内は古賀注。
〔表面〕
「慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)」
〔裏面〕
「文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏」
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(一八二九)に建立した墓碑であろう。
②太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」『古田史学会報』二四号、一九九八年。
古賀達也「洛中洛外日記」三九二話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟
③朝日新聞(2010年10月6日)の記事
発刊100年を迎えた「遠野物語」。その中で柳田国男は、「遠野」という地名の由来をアイヌ語に求めた。しかし、そこに異議をとなえる研究者もいる。
「遠野物語」で柳田は、トーは「湖や沼」。ヌップが「丘」。太古、遠野郷は湖だった。その水が流れ出て、今の盆地が現れたという神話と結びつけて「湖のある丘」と解釈した。多くの遠野市民もそう思っている。

「私はそうは思いません。遠野は和語だと思います」

5月に遠野市で行われた全国地名研究者大会(日本地名研究所主催)で、アイヌ語学者の村崎恭子・元横浜国大教授(73)はアイヌ語説を否定した。
アイヌ語の地名かどうかを検証するには、アイヌ語地名が原形に近い形で残っている北海道を手本にする。

アイヌ語で「サ」は「乾く」で、「ピ」は「小石」、「ナイ」は「川」だ。そういう状態の場所は「サピナイ」と呼ばれる。遠野郷にある「佐比内」も、かつてはそういう地形だったと思われる。

猿ケ石(サルガイシ)は「ヨシ原の上・にある・もの」で、附馬牛(ツキモウシ)は「小山・ある・所」。北海道の似た地形の場所には、似た地名が残っている。
しかし、遠野という地名は北海道にない。湖や沼や丘など、似た地形はたくさんあるにもかかわらず。

遠野と呼ばれ出した時期からも疑問を膨らませる。文献によると、遠野と呼ばれるようになったのは、中央集権化が進んだ古代。猿ケ石川などが、そうアイヌ語地名で呼ばれ出したはるか後の時代なのだ。もしアイヌ語だとすれば、なぜ遠野だけが遅れて名付けられたのか。その理由がわからない、と言うわけだ。

こう説明したあとで「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。(木瀬公二)


第3328話 2024/07/23

『九州倭国通信』215号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.215号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「城崎温泉にて」を掲載していただきました。これは昨年末に家族旅行で訪れた城崎温泉の紀行文で、タイトルは志賀直哉の「城崎にて」に倣ったものです。初めて訪れた城崎温泉ですが、そのお湯がきれいで日本を代表する名湯「海内第一泉」とされていることも頷けました(注①)。
現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、舒明天皇の時代(六二九~六四一年)とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」により、その年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 本号の表紙には韓国慶州市の明活山城石垣が掲載されています。「九州古代史の会」では五月に「伽耶・新羅の旅」を行われており、会報紙面にもその報告が収録されています(注②)。福岡は地理的にも歴史的にも韓国との関係が深く、日韓の古代史研究も盛んです。これは同会の強みの一つと思います。同会事務局長の前田和子さんからは、「日本古代史研究のためにも、古賀さんは韓国を訪問するべき」と言われています。仕事で何度も韓国出張しましたが、残念ながら毎回ハードスケジュール続きで、当地の博物館や遺跡巡りの機会はありませんでした。退職後も国内旅行が精一杯で、韓国訪問の機会はないままです。

(注)
①一の湯には「海内第一泉」の石碑がある。江戸時代の医師、香川修庵が「天下一の湯」と推奨したことが一の湯の由来。
②鹿島孝夫「青龍か天馬かそれとも? 伽耶・新羅の旅を終えて」
工藤常泰「慶州の金冠と糸魚川の翡翠」
前田和子「その「一語」とあの「一文」の罪52 (再び白村江の戦い)~伽耶・新羅の旅~」


第3327話 2024/07/21

追悼、山田宗睦さん

     (6月17日御逝去、99歳)

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が都島区民センターで開催されました。次回、七月例会の会場は北区民センターです。今回も関東から冨川ケイ子さん(全国世話人、相模原市)が参加されました。宇治市在住の会員、池上さんが例会に初参加されました。

 お昼休みには役員会を開催し、八王子セミナー実行委員に「古田史学の会」として冨川ケイ子さんに加えて、古賀の追加を主催者(大学セミナーハウス)に申請することなどを決定しました。

 今回は、6月17日に御逝去された山田宗睦さん(注①)の追悼として、正木さんが山田さんの初期の研究「日本書紀の地名二つ」(注②)を紹介しました。山田さんは古田史学・九州王朝説の熱心な支持者で、自らも日本古代史の研究を深め、『日本書紀』に盗用された九州王朝の天孫降臨説話についての新仮説を発表されました。そうした山田さんの仮説に三十数年ぶりに触れて、当時充分に理解できなかったのですが、正木さんの解説により、有力な仮説であることに気づくことができました。

 わたしが山田さんと初めてお会いしたのは、信州白樺湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月一日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画しました。山田さんは同シンポジウムの総合司会でした。運営上で不手際があり、山田さんにはご迷惑をおかけしましたが、山田さんや実行委員会メンバーのご協力により、乗り切ることができました。わたしが36歳のときのことで、懐かしい思い出です。当時のことを主催者側として詳しく知るのは恐らくわたしだけですから、機会があればそのときの逸話を紹介したいと思います。

 その次に山田さんとお会いしたのは、2018年に開催された第一回八王子セミナー2018でした。山田さんは90歳を越え、わたしも還暦を過ぎ、二十数年ぶり再会でした。そのときは感激のあまり、二人は抱き合ってその再会を喜びあいました。なお、山田さんは初めての「古田武彦記念古代史セミナー」を記念して特別講演「ユーラシア世界史と倭人」をされました。

 7月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔7月度関西例会の内容〕
①金印の疑義を解明する (姫路市・野田利郎)
②伊勢遺跡の注穴が示す山内丸山6本柱の虚偽説明 (大山崎町・大原重雄)
③室見川銘板問題に関して (大山崎町・大原重雄)
④追悼:山田宗睦さん(6月17日逝去) (川西市・正木 裕)
⑤太子と、皇太子の還った倭京 (東大阪市・萩野秀公)
⑥日本書紀に記された前期九州王朝の残影 (茨木市・満田正賢)
⑦久留米大学紀要論文の解説 (川西市・正木 裕)
⑧久留米大学紀要論文の解説と同公開講座の報告 (京都市・古賀達也)
◎役員会の報告(古賀)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
8/17(土) 10:00~17:00 会場 北区民センター
9/21(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
10/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館

(注)
①山田宗睦(やまだ むねむつ、哲学者、1925~2024年)。山口県下関市生まれ。京都大学哲学科卒、東大出版会企画部長、「思想の科学」編集長、桃山学院大学教授、関東学院大学教授などを歴任。著書に『山田宗睦著作集』(三一書房)、『日本書紀史注』『日本書紀の研究のひとつ』(風人社)、『現代語訳日本書紀上中下』『古代と日本書紀』(ニュートンプレス社)など。古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社)解説執筆。多元的古代研究会の日本書紀講座の講師(1994年から約6年半)。
②山田宗睦「日本書紀の地名二つ」『季節』第11号(特集「古田史学の諸相」)、鹿砦社、1988年。

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〔7月度関西例会〕

①金印の疑義を解明する (姫路市・野田利郎)

金印の疑義を解明する①

 

②伊勢遺跡の注穴が示す山内丸山6本柱の虚偽説明 (大山崎町・大原重雄)

伊勢遺跡の柱穴が示す三内丸山6本柱の虚偽説明①

③室見川銘板問題に関して (大山崎町・大原重雄)

室見川銘板問題に関して①

 

④追悼:山田宗睦さん(6月17日逝去) (川西市・正木 裕)

追悼:山田宗睦さん①
山田宗睦さん②
山田宗睦さん③

 

⑤太子と、皇太子の還った倭京 (東大阪市・萩野秀公)

太子と皇太子の遷った倭京①

 

⑥日本書紀に記された前期九州王朝の残影 (茨木市・満田正賢)

日本書紀に記された前期九州王朝の残影①

 

⑦久留米大学紀要論文の解説 (川西市・正木 裕)

俾弥呼の宮都の考察

⑧久留米大学紀要論文の解説と同公開講座の報告 (京都市・古賀達也)

筑紫なる遠の朝廷~倭国の両京制の考察

 

 


第3319話 2024/07/06

『多元』182号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』182号が届きました。同号には拙稿〝吉野ヶ里出土石棺被葬者の行方〟を掲載していただきました。同稿では、30年前に古田先生と吉野ヶ里遺跡に行ったときの思い出や、銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県加茂町)を先生が一人お忍びで訪問されたときのエピソードなどを紹介しました。更に〝日本の発掘調査技術の進歩〟として、最先端機材を使用した福岡県古賀市の船原古墳発掘調査の方法を解説しました。それは次のようなものです。

(a)遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(b)次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(a)と(b)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(c)そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(d)遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術がここまで進んでいる一例として紹介しました。

 同誌には清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんの「最近の団体誌を見て」という記事が連載されており、『古田史学会報』や『東京古田会ニュース』などに掲載された論稿の批評がなされています。わたしも友好団体から送られてくる会誌を拝読していますが、わたしとは異なる清水さんの視点や感想が報告されており、とても勉強になります。学問研究は、自説への批判や自分の考えとは異なる意見に触れることにより発展しますので、毎号、楽しみに読んでいます。


第3318話 2024/07/05

読んでおきたい、古田武彦「風土記」論

 『古代に真実を求めて』28集の特集テーマ「風土記・地誌の九州王朝」の企画構成案を練っています。ある程度まとまれば、編集会議を招集して提案し、編集部員のご意見や企画案も聞かせていただく予定です。

 自らの投稿原稿についても執筆準備をしています。それに先だち、古田先生の「風土記」関連論文の読み直しも進めています。古田「風土記」論を久しぶりに集中して勉強していますが、その代表的関連論文を紹介します。特集論文の投稿を予定されている方にも読んでおいていただきたいものばかりです。なぜか、古田先生にしては『風土記』関連論文は比較的少なく、読破はそれほど難しくはありません。以下、そのジャンル分けを示します。

 まず、風土記全般の重要テーマである、「県(あがた)」風土記と「郡(こおり)」風土記について論じたものが、❶❷❺❿⓫です。「県」風土記が九州地方に遺っていることから、九州王朝風土記(筑紫風土記)の存在という古田「風土記」論にとって不可欠の研究分野です。

 『常陸国風土記』に関わって論じたものが、❸。『出雲国風土記』に関わって論じたものが、❸❻❼❽⓬⓭。『播磨国風土記』に関わって論じたものが、⓮。 「筑後国風土記逸文」と卑弥呼について論じたものが、❹❾です。いずれも懐かしいものばかりです。

 《古田武彦「風土記」論 主要論文一覧》
「九州王朝の風土記」『市民の古代』第4集、新泉社、昭和57年(1982)。
「九州王朝にも風土記があった」『よみがえる九州王朝』角川選書、昭和58年(1983)。
❸「日本列島各地の神話」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❹「卑弥呼論」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❺「二つの『風土記』」『古代は輝いていたⅢ――』朝日新聞社、昭和60年(1985)。
「国造制の史料批判――出雲風土記における「国造と朝廷」」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❼「部民制の史料批判――出雲風土記を中心として」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❽「続・部民制の史料批判――「部」の始原と発展」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
「卑弥呼の比定――「甕依姫」説の新展開」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❿「九州王朝の短里――東方の証言」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
⓫「二つの風土記と二つの里程」『倭人伝を徹底して読む』大阪出版、昭和62年(1987)。
⓬「出雲風土記の中の古代公害病」『古代は沈黙せず』駸々堂、昭和63年(1988)。
「縄文文明を証明する「国引神話」」『吉野ヶ里の秘密』光文社、平成1年(1989)。
「播磨風土記」『市民の古代』第12集、新泉社、平成2年(1990)。

 この他にも、古田先生の重要論文があるかもしれません。ご教示いただければ幸いです。また、古田学派研究者による重要論文もあり、別の機会に紹介します。


第3317話 2024/07/03

『古代に真実を求めて』

     28集の特集テーマ

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝や多元史観の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判(古代の真実を反映していることの証明)を経ていれば、古代史研究のエビデンスとして採用できます。

 具体的には、現存する五つの風土記(常陸国・播磨国・出雲国・肥前国・豊後国)と風土記逸文が研究の対象になります。地誌は各地にあり、成立時期や史料性格(公的か私的か。編纂目的)が異なりますから、採用にあたっては当該史料の性格や概要の説明が必要です。これは読者に対しても必要な配慮ですので、ご留意下さい。この点、現存五風土記の場合は著名ですし、学界で古代史料として認められていますから、出典の明示があれば問題はないでしょう。

 ご参考までに、閲覧・入手が比較的可能で著名な九州地方の地誌を管見の範囲で紹介します。会員の皆さんからの、後世に残すべき優れた多元史観の論文、読んで勉強になり、かつ面白い投稿をお待ちしています。

○『太宰管内志』伊藤常足、天保12年(1841)〈歴史図書社、昭和44年(1969)〉
○『筑前国続風土記』貝原益軒、宝永6年(1709)〈文献出版、昭和63年(1988)〉
○『筑前国続風土記付録』加藤一純・鷹取周成、寛政11年(1799)〈文献出版、昭和52年(1977)〉
○『筑前国続風土記拾遺』青柳種信、文化11年(1814)〈文献出版、平成5年(1993)〉
○『筑後志』杉山正仲・小川正格、安永6年(1777)〈久留米郷土研究会編、昭和49年(1974)〉
○『肥前旧事』南里有隣編著・糸山貞幹増訂、江戸後期〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥前古跡縁起』大木英鉄、寛文5年(1665)〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥後国誌』森本一瑞、明和9年(1772)〈青潮社、昭和46年(1971)〉
○『豊前志』渡辺重春、文久3年(1863)〈雄山閣、昭和46年(1971)〉
○『豊後国誌』唐橋君山・田能村竹田・伊藤猛、享和3年(1803)〈文献出版、昭和50年(1975)〉
○『三国名勝図会』天保14年(1843)〈青潮社、昭和57年(1982)〉※日向・大隅・薩摩の地誌。


第3316話 2024/07/02

『古代に真実を求めて』28集

        の投稿募集要項

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集の投稿締め切り日は本年9月30日です。特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。下記の規定に従ってご投稿ください。

①特集論文・一般論文(一万五千字以内)、フォーラム(随筆・紀行文など。五千字以内)、コラム(解説小文。二千字程度)を募集します。
論文は新規の研究であること。他誌掲載論文、二重投稿、これに類するものは採用しません。それとは別に、編集部の判断に基づき、他誌掲載稿を転載することがあります。
②採用稿を本会ホームページに掲載することがありますので、ご承諾の上、投稿してください。
③28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。古田史学・多元史観の継承発展に寄与できる論文をご投稿ください。
④投稿は一人四編までとします〔編集部からの依頼原稿を除く〕。
⑤投稿締め切り 令和六年(二〇二四)九月末
⑥原稿はワード、またはテキストファイル形式で提出して下さい。ワードの特殊機能(ルビ、段落自動設定など)は使用しないで下さい。ルビは()内に付記してください〔例 古田史学(ふるたしがく)〕。

 掲載する写真や表は、文書ファイルとは別に写真ファイル・エクセルファイルとして提出して下さい(ワード掲載写真は画像が不鮮明になるため)。その際、写真・表の掲載位置を原稿中に指示してください。
⑦投稿先 古賀達也まで。詳しくは27集末尾の投稿要項をご覧下さい。

 以下は採用審査における基本視点と執筆上の諸注意です。ご留意下さい。

Ⅰ.審査時の視点
(1) 「新規性」と「進歩性」
この二点が無ければ不採用となります。

(2) エビデンスの明示、エビデンスに対する解釈の合理性と普遍性
提示したエビデンス(史料事実や出土事実)が間違っていたり、不適切な論稿は審査以前の問題で、失格です。解釈の当否は重要な審査対象となります。ここで新説としての優劣を判断します。

(3) 先行説(特に古田説)の紹介と自説との比較説明
古田史学支持者が主たる読者である「古田史学論集」への投稿ですから、古田説と異なる新説については、古田説の正確な引用・紹介と丁寧な説明が要請されます。

(4) 話題性、面白さ、わかりやすさ、字数・文章の簡潔性
これらは読者への配慮であり、出版事業としても不可欠の視点です。

Ⅱ.論文の構成と様式

(1) 冒頭に要旨と結論を略記してください。学術論文は推理小説ではありませんから、読み進めなければ結論がわからないような構成は不適切です。短文の場合はこの限りではありません。

(2) 引用・参照文献の紹介と後注の書式について。
書式例) 著者名「論文名」『文献名』発行社、発行年次(西暦、必要であれば年号を併記)。
例) 古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、一九七一年。ミネルヴァ書房より復刻。
例) 中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、二〇一八年。

(3) 縦書きを前提として、漢数字と英数字を使い分けてください。難字にはルビをふってください。


第3315話 2024/07/01

予期せぬ成果、

     公開講座聴講者に異変あり

 二十数年ぶりの同窓会(久留米高専化学科11期・昭和51年卒)と久留米大学公開講座での講演を盛会に終えることができました。昨晩からの大雨で、JR在来線がだだ遅れなので、久留米駅から九州新幹線みずほで新大阪まで向かっています。みずほは車両がグリーン車と同じ4列シートですからお得感があります。また、内装やシートの造りも高級感にあふれ、とても気に入っています。

 二十年ほど前に、仕事でJR九州の車両内装の製品開発を行ったことがありますが、JR九州の専属デザイナーは色やデザイン、素材にこだわる芸術家で、少々、コストがかかっても優れたものを使いたいという人物でした。ですから、わたしも初めて手がける素材(採用されていれば、恐らく車両用途としては世界初)でしたので、試行錯誤しながら開発を進めたことを覚えています(守秘義務があり、これ以上は申せませんが)。そうした経験もあって、わたしは九州新幹線やJR九州のファンです。

 昨日の公開講座のあと、久留米大学の福山教授や長崎市から参加さている聴講者の中村秀美さん(古田史学の会・会員)、菊池さん(久留米市)と夕食をご一緒させて頂きました。中村さん・菊池さんには和田家文書研究でもご協力いただいており、中村さんには長崎出島オランダ語通詞の調査もしていただきました(注①)。夕食会では、気になっていたことを福山先生にたずねました。

 「今日の講演会の参加者は若者が多く、見たところ四人に一人は40代以下のようでした。なかには20代の女性もいました。これは今までにはなかったことと思いますが、募集方法でも変わったのでしょうか。」

 「わたしも始めて見る方が少なくありませんでした。今回の受講者70名強の内、初めての参加者が40名もあり、驚いています。コロナあけということもあり、古くからのリピーターは減少していますが、初参加者が急増した理由はわかりません。」

 「どこでこの講座のことを知ったのかなどの調査はされていませんか。」

 「次週の正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演時にアンケート調査を予定しています。」

 「是非、その調査結果を教えて下さい。若い人々に古田史学・古田説を伝えるにはどのようなアプローチが効果的なのか、そうしたニーズはどこにどの程度存在するのか、わたしたちも苦慮しています。今回のような〝予期せぬ成果〟の出現は、マーケティングでも顧客クレームと同様に重視すべきこととされています。よろしくお願いします。」

 このような会話を交わしました。おそらく、わたしたちが気づかないところで、日本人の意識や社会構造に変化が起こっているはずです。そのことに誰よりも早く気づき、まだ誰もやったことのない新たなムーブメントやサービスを提供した者だけが時代(業界)の先駆者となり、その中の誰かが勝者になるはずてす。帰宅したら、ドラッカーの『非営利組織の経営』(注②)を読み直し、改めて勉強しなおしたいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3068~3071話(2023/07/14~17)〝秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(1)~(2)〟
②P.F.ドラッカー『非営利組織の経営』ドラッカー名著集4、ダイヤモンド社、2007年。