古田史学の会一覧

第3380話 2024/11/20

『旧唐書』倭国伝の

      「四面小島、五十餘国」

 飛鳥・藤原跡から出土した七世紀後半(評制)の荷札木簡の献上国一覧については、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注①)。その献上国分布には従来の一元史観では説明し難い問題がありました。その最たるものが、周防国・伊予国よりも西側の国々、すなわち九州諸国からの荷札木簡が一点も見えないという出土事実です。従来説では、九州諸国の献上物(税など)は、一端、大宰府に集められたためと説明されているようです。しかしそれならば、大宰府からの荷札木簡があってもよいはずですが、飛鳥・藤原跡からは出土していません。他方、平城京跡からは大宰府からの荷札木簡が出土しています(注②)。

 この荷札木簡の献上国の分布状況を知り、『旧唐書』倭国伝の記事と対応していることに気づきました。

【『旧唐書』倭国伝の冒頭】
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」

 「四面小島五十餘國、皆附屬焉」の一節は、倭国の周囲(四面)に小島と五十余国があり、皆倭国に附屬していると読めます。この五十余国とは、律令制の六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国を除いた国の数(五十六国)ではないでしょうか。なお、九州王朝(倭国)による六十六ヶ国分国については正木裕さんの研究がありますのでご参照ください(注③)。

 この理解が正しければ、九州を除く五十余国は王朝交代直前の近畿天皇家の統治領域となり、『旧唐書』日本国伝に見える「日本舊小國、併倭國之地」の「地」であり、倭国全体を併合する王朝交代の歴史経緯の一局面を荷札木簡の分布は示しているのではないでしょうか。そして、「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」に見える毛人国は蝦夷国とする理解も成立しそうです。

 このように同時代史料で自国出土の木簡を基本エビデンスとして、後代史料である中国史書の倭国伝などを理解するという学問の方法を改めて重視したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
同「洛中洛外日記」2399話(2021/03/04)〝飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)〟
同「洛中洛外日記」3377話(2024/11/10)〝王朝交代前夜の天武天皇 (4)〟
②奈良文化財研究所HP「木簡庫」によれば、次の「大宰府」木簡が平城京跡から出土している。
○【木簡番号】0
【本文】・大宰府貢交易油三斗□□〔五升ヵ〕・○寶亀三年料
【遺跡名】平城京左京七条一坊十六坪東一坊大路西側溝
【遺構番号】SD6400 【国郡郷里】筑前国大宰府
【和暦】宝亀3年【西暦】772年
○【木簡番号】0
【本文】□□〔筑紫〕大宰進上筑前国嘉麻郡殖□〔種〕→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国嘉麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上筑前国穂波→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国穂浪郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上肥後国託麻郡…□子紫草
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】文書
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】←□〔紫〕大宰進上肥後国託麻郡殖種子紫→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上薩麻国殖→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・薩摩国
③正木 裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号、2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第3379話 2024/11/16

1/19新春古代史講演会(京都市)

     案内チラシ作成中

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。次回、12月例会の会場は都島区民センターです。

 今回、わたしは「九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文―」を発表しました。飛鳥池出土の「天皇」「皇子」「詔」木簡などを根拠に、天武は九州王朝の天子の下でナンバーツーとしての天皇号を名のっていたことを解説しました。概ね、参加者からはご理解いただけたようで、引き続き木簡研究を進め、藤原宮出土木簡についても報告したいと締めくくりました。

 例会の冒頭に、10/28東京講演会と11/10福岡講演会について報告し、来年1/19の新春古代史講演会(京都市)の案内も行いました。同案内チラシのゲラが竹村事務局次長より配られました。なかなかの出来映えで、明るく新春講演会にふさわしいチラシとなりました。近日中には印刷を終え、広く宣伝したいと思います。各地の博物館や公共施設などに置かせて頂ければ有り難いです。皆さんのご協力をお願いいたします。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔11月度関西例会の内容〕
①消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我君 (大山崎町・大原重雄)
②九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文― (京都市・古賀達也)
③縄文語で解く記紀の神々 垂仁帝 (大阪市・西井健一郎)
④「法興」はタリシホコの建元年号 (東大阪市・萩野秀公)
⑤白鳳・朱雀・朱鳥・大化期の天子は誰か (茨木市・満田正賢)

○東京講演会・福岡講演会の報告と新春古代史京都講演会の案内 (代表・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター
01/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館

_______________________________

古田史学の会 東成区民センター 2024.11.21

2024年11月度関西例会発表一覧
(YouTube動画)

①消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我君 (大山崎町・大原重雄)

1,大原重雄@消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我

https://youtu.be/78FDKycjZ30
https://youtu.be/TfF9Dw7xUL0
https://youtu.be/Rmn7Gm3Ia0s

冨川ケイ子@武烈天皇紀における「倭君」@古田史学会報78号

2,九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文― (京都市・古賀達也)

https://youtu.be/5-bUlvSsDiA

https://youtu.be/Y-QeZMM_3Ok

https://youtu.be/A2h_IS0SuhE

https://youtu.be/u0wK3j8PGF0

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸ 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU
令和6年(2024) 10月18日(金) 多元の会リモート古代史研究会

3,縄文語で解く記紀の神々 垂仁帝 (大阪市・西井健一郎)

①https://www.youtube.com/watch?v=LsoAn5x0l_M

 

4,「法興」はタリシホコの建元年号 (東大阪市・萩野秀公)

①https://www.youtube.com/watch?v=qsqe47SUUFE

 

5,白鳳・朱雀・朱鳥・大化期の天子は誰か (茨木市・満田正賢)

①https://www.youtube.com/watch?v=ZV-90Jl-EgY


第3373話 2024/11/05

新春古代史講演会を京都市で開催決定

一昨日の「古田史学の会」役員会にて、恒例の新春古代史講演会を来年1月19日(日)午後に京都市のキャンパスプラザ京都(JR京都駅北)で開催することを決定しましたのでお知らせします。

講師として次の三名の方をお招きします。関川尚功先生と正木裕さんは、10月27日に開催した創立30周年記念東京講演会で講演していただいたばかりですが、大好評でしたので、京都でも講演していただくことにしました。また、「古田史学の会」としては始めて文化庁の中尾智行参事官をお招きします。若者にも考古学に興味を持って頂きたいとのご主旨で、講演していただけることになりました。

詳細は後日ご案内申し上げます。令和七年の新春を飾るにふさわしい講演会になることと思います。ご期待下さい。

《講師・演題》
(1) 中尾智行氏 (文化庁 博物館支援調査官) 考古学と博物館の魅力を未来に
(2) 関川尚功氏 (橿原考古学研究所元所員) 畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
(3) 正木 裕氏 (古田史学の会・事務局長、元大阪府立大学理事・講師) 百済の古墳と「倭の五王」


第3371話 2024/10/20

平安時代(簾中抄)にあった2進法手品

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。次回、11月例会の会場は東成区民センターです。

 今回、わたしは「道君首名(みちのきみおびとな)卒伝の「和銅末」の考察(前編)」を発表しました。古代史料中の「末」の字義について確認するために、『続日本紀』で使用されている「末」や「○○末」(○○は年号)の用例を検索し、この「末」がどのような意味で使用されているのかを報告しました。

 今回の調査範囲では、現代と同様に〝ものごとの終わり、最後〟の意味で使用されていました。もちろん例外的な「末」の応用例もありますが、特に説明がなければこの理解(第一義)〝ものごとの終わり、最後」で読んでよいようです。というよりも、説明がなければ読者は第一義で読んでしまうことでしょう。『続日本紀』道君首名卒伝に見える「和銅末」の場合は、和銅年間の最後の年、和銅八年(715年)の意味になります。後編では応用例(主に慣用句)についても紹介できればと考えています。

 久しぶりに不二井伸平さん(本会・全国世話人、明石市)が参加され、古代日本に2進法の概念があったとする研究を報告されました。そして平安時代の『簾中抄』に記された2進法の原理を用いた手品を披露されました。恥ずかしながら、2進法が採用されていたとする説明については半分ほどしか理解できませんでしたが、弥生時代の分銅計りの重りが2進法で設計されており、その伝統が江戸時代まで遺っていたということには驚きました。不二井さんの教え子(小学生時代)の榎原さんが例会に参加されました。聞けば、榎原さんのお父上が古田先生のファンだったとのことで、その御縁で例会での不二井さんの発表を聞きに来られたとのことでした。

 亡くなられた水野顧問の研究年譜と、古田史学の会創立時の思い出なども、わたしから報告させていただきました。

 10月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔10月度関西例会の内容〕
①2進法手品 (明石市・不二井伸平)
②推古紀の小野妹子と蘇因高 (姫路市・野田利郎)
③縄文語で解く記紀の神話 崇神帝 (大阪市・西井健一郎)
④水野孝夫顧問との出会いと研究年譜の紹介 (京都市・古賀達也)
⑤道君首名卒伝の「和銅末」の考察(前編) (京都市・古賀達也)
⑥記紀の記述から天皇の二倍年齢と万世一系を疑う (大山崎町・大原重雄)
⑦九州王朝は「日本国」を名のったのか? (神戸市・谷本 茂)
⑧『日本書紀』のルーツとタリシホコ (東大阪市・萩野秀公)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
11/16(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター


第3370話 2024/10/16

『古田史学会報』184号の紹介

 先日、発行された『古田史学会報』184号を紹介します。同号には拙稿〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟と〝《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』〟を掲載して頂きました。

 〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟では、エビデンスベースというのであれば、まずエビデンスについて勉強しなければならないと思い、七世紀の同時代史料である木簡の調査を行い、天武らが飛鳥の王宮で天皇・皇子を名乗り、詔も発していたことを紹介し、七世紀の「天皇」を九州王朝の「天子の別称」とする古田新説の成立は困難としました。

 〝《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』〟は、古代インドに生きた仏陀の思想を現代人の人権感覚(男女平等論者)で捉えることの誤りを解いた清水俊史氏の著書を紹介したものです(注①)。

 一面に掲載された都司喜宣(つじよしのぶ)さんの〝7世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する〟は自然科学者の都司さんならではの好論です。701年を境に、記録された列島の災害地域が大きく変わることが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡であることを明らかにされたものです。都司さんは高名な地震学者(元東京大学地震研究所)で、地震の歴史を調査研究するという、歴史地震学という分野でも活躍されています(注②)。

 『古田史学会報』に投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込み、簡潔でわかりやすい原稿にしてください。地域の情報紹介や面白い話題提供などは大歓迎です。わかりやすく、読んで面白い紙面作りにご協力下さい。

 184号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』184号の内容】
○7世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する 龍ケ崎市 都司喜宣
○飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言 京都市 古賀達也
○持統が定策禁中を行って九州王朝を滅ぼした 京都市 岡下英男
○谷本氏論への疑問 宝塚市 小島芳夫
○唐書類の読み方―谷本茂氏の幾つかの問題提起について―谷本氏との対話のために 東京都世田谷区 國枝 浩
○《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』 京都市 古賀達也
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3209~3213話(2024/01/27~31)〝「新年の読書」二冊目、清水俊史『ブッダという男』(1)~(4)〟
②古賀達也「洛中洛外日記」407話(2012/04/22)〝鹿島神は地震の神様〟


第3369話 2024/10/15

水野孝夫さんの古代史研究年譜

 本日、水野孝夫さん(本会顧問・前代表)のご葬儀に参列しました。「古田史学の会」からは正木事務局長、横田幸男さん(インターネット事務局)、上田武さん(事務局員)、そして日本ペイントで水野さんの部下だった木村賢司さん(元会員)も参列されました。

 一昨晩、急いで作成した「水野孝夫氏 古代史研究年譜」をご遺族に謹呈申し上げ、棺にも献納させていただきました。同研究年譜をここに紹介します。40年以上に及ぶ、氏の研究活動やテーマに改めて触れ、懐かしく思いました。

 なお、論文以外の例会報告・巻頭言・年頭挨拶・物故された会員の方々への弔文などは件数が多いので今回は掲載しませんでした。わたしが知らない論文や見落としがあるかもしれませんので、お気づきの方はご教示下さい。

【水野孝夫氏 古代史研究年譜】
古田史学の会 古賀達也
《著書》
○編著『市民の古代研究 合本 第一巻』新泉社、1992年。
○共著『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。

《論文『市民の古代』新泉社・他》
「古田説とのかかわり」第2集、1980年。
「鉛丹と鏡」第4集、1982年。

《論文『古代に真実を求めて』明石書店》
記事は会報からの転送で下にあります。
「佐賀県に「吉野」を探る」第6集、2003年。
○「古田史学「いろは歌留多」紹介」第7集、2004年。
○「万葉集二十二番歌」第11集、2008年。
○「禅譲・放伐論争シンポジウム」第14集、2011年。
「長屋王のタタリ」第15集、2012年。
○「百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験」第16集、2013年。
「聖徳太子架空説の系譜」『盗まれた「聖徳太子」伝承』第18集、2015年。
○「追悼メッセージ 古田史学とわたし」『古田武彦は死なず』第19集、2016年。

《論文・他》市民の古代研究会
○「囲碁の歴史を調べています」『市民の古代ニュース』№32、1983年12月。
○「浦島太郎の話」『市民の古代研究』第3号、1984年3月。
○「古代ギリシア祭文の謎」1991年9月。『市民の古代ニュース』№97、1991年9月。
○「我々の古代年表をつくろう」『市民の古代ニュース』№103、1992年3月。
○「扶桑・日本・倭国等を併記した金石文」『市民の古代研究』第54号、1992年12月。
○「大宝年号を考える 正朔を改めた? ミョウバンの用途」『続日本紀を読む会・論集』1993年。
○「会の運営について」『市民の古代ニュース』№125、1994年1月。
○「わたしの論文は無断掲載された」『市民の古代ニュース』№130、1994年5月。

《論文・他》古田史学の会
「わたしはウソつきか 論文無断掲載事件と野村証言に関して」『古田史学会報』2号、1994年8月。
「『三国志』の文字数」『古田史学会報』5号、1995年2月。
○「聖徳太子は十七条憲法を作らなかった」『古田史学会報』10号、1995年10月。
「弥勒の出世は陰暦での計算だった?」『古田史学会報』15号、1996年8月。
「黒塚古墳見学記」『古田史学会報』24号、1998年2月。
「黒塚古墳出土三角縁神獣鏡 「父母鏡」の発見」『古田史学会報』25号、1998年4月。
「『奥の細道』中尾本異聞」『古田史学会報』28号、1998年10月。
「「富本銭」の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。
「武雄温泉の御船山」『古田史学会報』36号、2000年2月。
「隋詩「白馬篇」中の島夷・卉服」『古田史学会報』39号、2000年8月。
「佐賀県に「吉野」を探る」『古田史学会報』42号、2001年2月。
「千里眼随想」『古田史学会報』47号、2001年12月。
「山柿(さんし)の門」『古田史学会報』53号、2002年12月。
「菩提僊那僧正像」『古田史学会報』54号、2003年2月。
「古田史学「いろは歌留多」選考会」『古田史学会報』57号、2003年8月。
「大前神社碑文検討応援記」『古田史学会報』59号、2003年12月。
「別府・鶴見岳を天ノ香具山とする文献」『古田史学会報』62号、2004年6月。
「鶴見岳は天ノ香具山(続)」『古田史学会報』63号、2004年8月。
「「本」という字」『古田史学会報』66号、2005年2月。
「阿漕的仮説 さまよえる倭姫」『古田史学会報』69号、2005年8月。
「泰澄と法連」『古田史学会報』75号、2006年8月。
「阿胡根の浦」『古田史学会報』76号、2006年10月。
○「「オオスミ」の国」『古田史学会報』82号、2007年10月。
「私の古代史仮説」『古田史学会報』86号、2008年6月。
「禅譲・放伐論争シンポジウム要旨 日本国は倭国(九州王朝)の横すべりである」『古田史学会報』100号、2010年10月。
「斎藤里喜代さんへの反論」『古田史学会報』105号、2011年8月。


第3368話 2024/10/14

訃報 水野孝夫さん(本会顧問・前代表)

         ご逝去の報告

 水野孝夫さん(本会顧問・前代表)がご逝去されました(八九歳。十月十一日午後十時二十六分)。謹んで皆様にご報告申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 ご葬儀は明日(十五日)、富雄会館(奈良市富雄)で執り行われます。わたしも古田史学の会を代表し、参列いたします。昨晩、急ぎ作成した「水野孝夫氏 古代史研究年譜」をご遺族に謹呈申し上げ、棺にも献納させていただきたいと思います。

 水野さんは市民の古代研究会時代からの友人で、古田史学の会草創の同志でした。1994年、本会創立に当たり、代表に就任していただきました。そして、二十年にわたり、険しく困難な道程(みちのり)の先頭に立たれました。わたしが一番苦しかった時代を共に歩んでいただいた大恩人です。2015年、代表退任後は顧問として、後任のわたしを支えていただきました。

 水野さんは京都大学で化学を専攻され、日本ペイントでは研究開発部門の責任者としてご活躍されました。初代新幹線ひかり号の青い塗料なども氏が開発されたもので、初めてのテスト走行に乗車され、塗装が時速200kmの過酷な環境に堪えうるのかを調査されたとうかがっています。わたしも現役時代は、化学色材の開発に関わっていましたので、ご自宅まで行って、教えを請うたこともありました。

 公私ともに大恩ある水野さんが亡くなられ、心が痛みます。あなたの志を引き継ぎ、古田史学の継承と発展のため、古田史学の会の代表として前進してまいります。長い間、本当にありがとうございました。


第3361話 2024/10/04

関川先生の講演資料(32シート)完成

 昨日の午後7時から7時間ほどかけて、10/27創立30周年記念東京講演会での関川先生の発表資料を作成しました(全32シート)。おかげで寝不足です。

 当初、ワードで作成を試みていましたが、写真の配置設定が困難なので、正木裕さん(当日の講師)のアドバイスにより、パワポで作成したらスムーズに進みました。弥生時代から古墳時代前期の銅鏡についての資料が多く、今まで以上に面白い講演になると思います。

 関東地区の会員の皆さん、古代史ファン、「邪馬台国」ファンの皆様に喜んでいただけるはずです。引きつづき、チェックを行い、印刷にまわします(多元的古代研究会に印刷をお願いしています)。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」をメインテーマにして、橿原考古学研究所で40年間ヤマトを発掘調査した関川尚功先生と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事・講師)による講演会です。お知り合いの古代史ファンの方にご紹介いただければ幸いです。

〔演題・講師〕
○畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
関川尚功 氏(元・橿原考古学研究所々員)

○本当の「倭の5王」 ―不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル―
正木 裕 氏(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事・講師)

〔日時〕2024年10月27日(日) 午後1時30分~4時30分
〔会場〕文京区民センター 2A会議室 (東京都文京区本郷4丁目)
〔参加費(資料代)〕1000円
〔お問い合わせ先〕046ー275ー1497(和田)

         075-251-1571(古賀)
〔主催〕古田史学の会 多元的古代研究会
〔協力〕古田武彦と古代史を研究する会


第3359話 2024/10/02

『東京古田会ニュース』218号の紹介

 『東京古田会ニュース』218号が届きました。拙稿「和田家文書「金光上人史料」の真実」を掲載していただきました。同稿では、和田家文書のなかでも金光上人史料は、『東日流外三郡誌』よりも早く、昭和24年頃には外部に提出され、書籍としても発刊された貴重な史料群であることを説明しました。

 同号には國枝浩さんの「唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本国伝の資料批判〉について」、橘高修さん(同会副会長)の「古代史エッセー81 倭国と日本国の関係」が掲載され、日本列島内の王朝交代についての中国側の認識について論じられました。なかでも橘高稿では、『旧唐書』『新唐書』の倭国伝と日本国伝の丁寧な説明がなされており、良い勉強の機会となりました。

 安彦克己さん(同会々長)の「和田家文書備忘録8 金寶壽鍛造の刀」は、和田家文書に記された刀について紹介されたもので、懐かしく思いました。というのも、和田家文書(『北鑑』39巻)に記された名刀「天国(あまくに)」「天坐(あまくら)」なるものを藤本光幸邸で実見し、和田喜八郎氏の依頼で調査したことがあったからです。このときの調査については『古田史学会報』(注)で報告しましたが、全貌については未発表です。機会があれば、わたしの記憶が確かな内に発表できればと思います。

(注)古賀達也「天国在銘刀と和田末吉」『古田史学会報』18号、1997年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga18.html


第3357話 2024/09/30

関川尚功先生と東京講演会の打ち合わせ

 今日は奈良市に向かい、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)と二人で関川尚功(せきがわ・ひさよし)先生(元・橿原考古学研究所々員)と10月27日(日)の東京講演会の講演内容について、詳細にわたり打ち合わせを行いました。リハーサルを兼ねて、講演に使用する写真・図約60枚について解説していただきました。

 邪馬壹国時代の弥生後期を中心として、古墳時代前期の畿内と北部九州などから出土した鏡・鉄器製造遺物(ふいご、砥石、小鉄片)・銅鐸、古墳内の石室・木郭などを紹介され、ヤマトには「邪馬台国」の片鱗も見えず、それに比べて北部九州の金属器などの先進性が、これでもかこれでもかと説明が続きました。更に、弥生後期の金属器文化が古墳時代になるとヤマトへ流入したことも教えていただきました。こうしたことを10月27日、東京(文京区民センター)で報告されます。恐らく、関東の皆さんには初めて聞く内容ではないでしょうか。

 関川先生から提供された写真をレジュメとして編集する作業に入ります。『古代に真実を求めて』28集の投稿も多数届いていますので、その査読や自らの研究・執筆、講演の準備などが重なり、10月は超多忙な日々が続きます。健康に留意して頑張りますが、「古田史学の会」を支える次の世代や後継者の発掘・引き継ぎも鋭意進めたいと考えています。皆さんのお力添えもお願いいたします。


第3349話 2024/09/22

「中原高句麗碑」碑文にあった「高麗」

 一昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。次回、10月例会の会場も豊中自治会館です。お昼休みには「古田史学の会」役員会を開催し、来年1月19日(日)に京都市(キャンパスプラザ京都を予定)で新春古代史講演会を開催することなどを決定しました。

 8月例会で発表予定だった「多元的天皇号の成立」を、今回、わたしは発表しました(体調不良で8月例会を欠席)。発表者が多く、時間制限(40分)のため、船王後墓誌銘文の「天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説が成立困難であることについて、テーマを絞って説明しました。このテーマについては引き続き「洛中洛外日記」でも解説する予定です。

 正木さんからは「中原高句麗碑」の紹介がありました。「高句麗好太王碑」は有名ですが、1987年に韓国忠州市から発見された「中原高句麗碑」は、高句麗長寿王(413~491年)の事績を刻むとされる石碑で貴重です。正面の碑文だけが遺っており、他の三面はほとんど文字は見えないとのことです。発見の翌年、ソウル出張したときに同碑発見のニュースを聞いた記憶がありますが、正木さんの発表で内容について初めて知りました。碑文には高句麗のことを「高麗」とあり、高句麗自身は自国の正式名称を「高麗」と呼んでいたことがわかり、とても興味深いものでした。

 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔9月度関西例会の内容〕
①倭国に滅ぼされた多婆那国(改定) (姫路市・野田利郎)
②大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味 (大山崎町・大原重雄)
③韓半島の倭人の運命 (高槻市・池上正道)
④多元的天皇号の成立 (京都市・古賀達也)
⑤縄文語で解く記紀の神々 孝元・開化帝と日子坐 (大阪市・西井健一郎)
⑥「倭国」の動向と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
⑦欽明紀の分析 (茨木市・満田正賢)
⑧『中原高句麗碑』が明らかにした5世紀の高句麗の攻勢 (川西市・正木 裕)
◎役員会の報告(古賀)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
11/16(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター


第3335話 2024/08/23

古田武彦・山田宗睦対談

      での「古田学派」

 かつて富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が発行していたグラフィケーション(GRAPHICATION)という雑誌に古田先生と山田宗睦さんの対談が掲載され、そのなかで山田さんが「学派」「古田学派」について触れた部分があります。哲学者らしい山田さんの考察が述べられていますので、転載します。

https://furutasigaku.jp/jfuruta/yamafuru.html
グラフィケーションNo.56(通巻245号)
1991年(平成3年)8月発行
対談・知の交差点 4

古代史研究の方法をめぐって

古田武彦氏(昭和薬科大学教授 日本思想史)
山田宗睦氏(関東学院大学教授 哲学)

山田 いまは大学の中に学派というものがなくなって、市民の中に古田学派のようなものができているというのは、いいことだと思います。これは戦前のような、知的な特権の場としての大学が成立しなくなり、戦後の大衆社会状況とか民主主義といった条件の中で、知の世界がずっと一般市民の方にまで広がってきたということですね。そういう面では非常にいいことだと思っているんですが、同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけないと思うんです。

 いつも古田さんが何かのたまわって、市民の方が「はあ、さようでございますか」と聞いているのではね(笑)。

古田 それはいけませんね。

山田 それは、学派としては健全じゃありませんから。
だから、やはり古田学派の中で論争があるのはいいことだろうと思うんです。そこで、私もこれから少し古田さんに論争を挑もうと思っているんですよ(笑)。そのうち本を書くつもりです。
【転載終わり】

 いまは大学の中に学派というものがなくなってきているという山田さんの指摘は、古代史や文系のみならず、国内の学界の一般的な傾向だろうと思います。「同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけない」という指摘も貴重です。わたしも「古田史学の会」の運営や『古田史学会報』『古代に真実を求めて』の編集に当たり、留意してきたところです。

 そうでなければ「学派としては健全じゃありません」という山田さんの意見も当然のことです。「古田史学」「古田学派」と自らの立ち位置を旗幟鮮明にしたからには、その健全性は恒に意識しなければなりません。こうした問題について、これからも発言し続けようと思います。

 他方、古田説(九州王朝説・多元史観)を一貫して支持された中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)が、「市民の古代研究会」分裂騒動のおり、次のように言われていました。

「〝師の説にな、なづみそ〟(本居宣長、注)と言いながら、古田説になずまず、一元史観になずむ人々が増えている。」

 これは、「古田史学」「古田学派」の健全性を考えるうえで、中小路先生の重要な状況分析であったことが思い起こされます。

(注)
「本居宣長の〝師の説にな、なづみそ〟は学問の金言です」と古田先生は折に触れて述べてきた。反古田派の人々は、和田家文書を真作とする古田説に反対し、古田離れを画策するとき、本居宣長のこの言葉を利用した。そうした状況に対して警鐘を打ち鳴らしたのが、中小路氏であった。