古田武彦・山田宗睦対談
での「古田学派」
かつて富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が発行していたグラフィケーション(GRAPHICATION)という雑誌に古田先生と山田宗睦さんの対談が掲載され、そのなかで山田さんが「学派」「古田学派」について触れた部分があります。哲学者らしい山田さんの考察が述べられていますので、転載します。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/yamafuru.html
グラフィケーションNo.56(通巻245号)
1991年(平成3年)8月発行
対談・知の交差点 4
古代史研究の方法をめぐって
古田武彦氏(昭和薬科大学教授 日本思想史)
山田宗睦氏(関東学院大学教授 哲学)
山田 いまは大学の中に学派というものがなくなって、市民の中に古田学派のようなものができているというのは、いいことだと思います。これは戦前のような、知的な特権の場としての大学が成立しなくなり、戦後の大衆社会状況とか民主主義といった条件の中で、知の世界がずっと一般市民の方にまで広がってきたということですね。そういう面では非常にいいことだと思っているんですが、同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけないと思うんです。
いつも古田さんが何かのたまわって、市民の方が「はあ、さようでございますか」と聞いているのではね(笑)。
古田 それはいけませんね。
山田 それは、学派としては健全じゃありませんから。
だから、やはり古田学派の中で論争があるのはいいことだろうと思うんです。そこで、私もこれから少し古田さんに論争を挑もうと思っているんですよ(笑)。そのうち本を書くつもりです。
【転載終わり】
いまは大学の中に学派というものがなくなってきているという山田さんの指摘は、古代史や文系のみならず、国内の学界の一般的な傾向だろうと思います。「同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけない」という指摘も貴重です。わたしも「古田史学の会」の運営や『古田史学会報』『古代に真実を求めて』の編集に当たり、留意してきたところです。
そうでなければ「学派としては健全じゃありません」という山田さんの意見も当然のことです。「古田史学」「古田学派」と自らの立ち位置を旗幟鮮明にしたからには、その健全性は恒に意識しなければなりません。こうした問題について、これからも発言し続けようと思います。
他方、古田説(九州王朝説・多元史観)を一貫して支持された中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)が、「市民の古代研究会」分裂騒動のおり、次のように言われていました。
「〝師の説にな、なづみそ〟(本居宣長、注)と言いながら、古田説になずまず、一元史観になずむ人々が増えている。」
これは、「古田史学」「古田学派」の健全性を考えるうえで、中小路先生の重要な状況分析であったことが思い起こされます。
(注)
「本居宣長の〝師の説にな、なづみそ〟は学問の金言です」と古田先生は折に触れて述べてきた。反古田派の人々は、和田家文書を真作とする古田説に反対し、古田離れを画策するとき、本居宣長のこの言葉を利用した。そうした状況に対して警鐘を打ち鳴らしたのが、中小路氏であった。