第1020話 2015/08/11

「武蔵国分寺跡」の多元性

 武蔵国分寺資料館の「解説」が不可解なものにならざるを得ない主原因はやはり大和朝廷一元史観にありそうです。一元史観であるために次の二つの「呪縛」から逃れられないのです。

呪縛1:建設主体者は一人だけ(近畿天皇家支配下にある当地の有力者)
呪縛2:創建時期は聖武天皇による「国分寺建立」の詔(天平13年、741年)以後

 このため、誰が見ても不可解な伽藍配置の矛盾、すなわち塔(七重)だけが南北方向の方位で、しかも金堂などの主要伽藍から離れた位置に造営されているという遺跡の状況がうまく説明できないのです。しかし、九州王朝による「国分寺」建立という多元史観に立ったとき、次のような理解が可能となります。

1.塔とその他の主要伽藍(金堂・講堂・回廊など)とは異なった時期に異なった権力者により造営された。
2.南北方向に主軸を持つ塔(その西側から発見された「塔2」も)はすぐ側を走る東山道武蔵路と方位を同一としていることから、両者の造営は同一の権力者(九州王朝あるいはその配下の有力者)の意志のもとに行われたと考えられる。
3.東山道武蔵路からは7世紀中頃の須恵器が出土していることから、その造営は7世紀中頃以前にまで遡る可能性がある。
4.東山道武蔵路とほぼ同一方位により造営された塔は東山道造営と同時期か、その後の7世紀後半頃の造営と見なしても問題ない。
5.その塔が文献によれば「七重」という巨大な規模であることを考慮するなら、より「小規模」な塔である法隆寺や四天王寺よりも後の造営と見なしたほうが自然である。このことからも7世紀後半頃の造営とする理解は穏当である。
6.こうした理解が妥当であれば、九州王朝系権力者が塔だけを造営したとは考えにくいことから、塔の周辺に金堂などの主要伽藍が造営されていたのではないか。
7.そうであれば、七重の塔の西側約55mの位置から発見された「塔2」とされた遺構は、この九州王朝時代の主要伽藍の一つではないかとする視点が必要である。
8.同様に、塔と同じくその方位を南北とする国分尼寺(東山道を挟んで国分寺の反対側の西側にある)も九州王朝系のものではないかという可能性をもうかがわせる。

 以上のような作業仮説(思いつき)を論理的に展開できるのですが、ここまでくればあとは現地調査が必要です。そこで、9月6日に開催される『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会の前日の5日に東京に入り、「武蔵国分寺跡」を訪問しようと考えています。関東の会員の皆さんの参加や共同調査を歓迎します。集合場所・時間は下記の通りです。事前にメールなどで参加申し込みをお願いします。(つづく)

「武蔵国分寺跡」現地調査企画
目的:「武蔵国分寺」多元的建立説の当否を確かめる。
集合日時:9月5日(土)12:00
集合場所:JR中央線 国分寺駅改札前
必要経費:タクシー代(割り勘)と武蔵国分寺資料館入館料。気候が良ければ徒歩20分とのことですので、駅から歩くかもしれません。

※ 当日12時に集合した後、駅付近で昼食をとり、その後に資料館・遺跡へ向かいたいと思います。
当日の夜は国分寺市内のホテルでの宿泊を検討しています。お時間のある方は夕食もご一緒しませんか。

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