第2173話 2020/06/23

九州王朝の国号(2)

 一世紀の金石文「志賀島の金印」に次いで古い同時代史料による九州王朝の国号は、有名な『三国志』倭人伝に見える「倭」「倭国」です。倭人伝には次の表記が有り、三世紀頃には人偏の「倭」の字が国号表記に使用されていたと判断できます。なお、当時の「倭」の発音は「わ」ではなく、金印の「委奴国」の「委」と同じ「ゐ(wi)」と考えられています。

 「景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月詔書報倭女王、曰制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬。」(『三国志』魏志倭人伝)

 景初二(238)年六月に魏の明帝に謁見した倭国の使者に対して、同年十二月に明帝は「詔」を下し、その中で卑弥呼を「親魏倭王」と為して「金印紫綬」を授けたとあります。このように『三国志』では一貫して人偏の「倭」を国号に使用しています。
 『三国志』の著者は陳寿(233-297年)で、成立は西晋の時代三世紀末頃(280年以降)とされています。西晋は魏の禅譲を受けた王朝であり、『三国志』は魏王朝を継承した西晋内において成立した同時代史料です。従って、その倭人伝に記された明帝の「詔」に見える「親魏倭王」という表記は当時の九州王朝の国号が「倭」「倭国」であったことを示す有力な史料根拠なのです。この国号「倭」「倭国」は、後の史書にも受け継がれており、遅くとも三世紀からは人偏の「倭」が九州王朝の国号表記として中国から認知されていたと思われます。
 なお、国号を「委」から「倭」の字に変更したのは九州王朝側なのか中国側(魏王朝)なのか、そしてその理由は何なのかという興味深いテーマもありますが、本稿では立ち入りません。(つづく)


第2172話 2020/06/22

九州王朝の国号(1)

6月の関西例会で論議になったテーマに九州王朝の国号や『隋書』での表記問題がありました。これらの問題の論点整理とこれまでの研究到達点を紹介することにします。
 九州王朝の国号を論じる上で重要なことは、その根拠が同時代史料に基づいていることです。歴代中国史書や海外史料の場合はその同時代性が、『古事記』『日本書紀』などの大和朝廷による国内史料の場合は史料性格への配慮が不可欠です。こうした視点を明示しながら、私見を述べていきます。
 九州王朝の国号を示す最古の同時代史料は「志賀島の金印」です。同印には「漢委奴国王」とあり、日本列島の代表国名は「委奴国」です。この場合、人偏がついた「倭奴国」ではないことに留意が必要です。後漢の光武帝による金印授与のことを記した『後漢書』には「倭奴国」とありますが、『後漢書』の成立はずっと後代の五世紀であることから、同時代(一世紀)金石文の金印に印された「委奴国」が当時の国名表記とする理解が優先します。五世紀時点では人偏の「倭」の文字が国号として使用されていたため、「倭奴国」と『後漢書』には記されたと思われます。
 また、後漢時代における「委奴」の発音には諸説ありますが、わたしは「ゐの(wino)」とするのが最有力と考えています。ちなみに、通説の「漢のわのなの国王」などと訓めないことは『失われた九州王朝』で古田先生が指摘された通りです。(つづく)


第2171話 2020/06/21

『古代に真実を求めて』24集の特集決定

 昨日の関西例会終了後、服部編集長はじめ編集部員の方と『古代に真実を求めて』24集(2021年春発行)の特集を何にするのかについて意見交換を行いました。8月に編集会議を開催しますが、服部編集長から提案されている〝『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念〟を特集テーマにすることで参加者の意見がまとまりました。
 50年前、古田武彦古代史の処女著作『「邪馬台国」はなかった』が学界や古代史ファンに与えた衝撃ははかりしれません。朝日新聞社から出版された同書は版を重ね、まさに洛陽の紙価を高からしめた名著です。古田ファンはもとより、わたしたち古田学派の研究者は、同書を読んで古田史学の下に結集したと言っても過言ではありません。
 『古代に真実を求めて』24集は同書刊行50周年を記念し、これからの50年を展望できるような特集を組みたいと願っています。同書に関することであれば、研究論文にかかわらず採用検討対象となります。歴史を繋ぐ一冊の上梓にご協力をお願いし、会員の皆様の投稿をお待ちしています。投稿規定は『古代に真実を求めて』末尾の「募集要項」をご参照下さい。


第2170話 2020/06/20

「倭」の名を悪(にく)んだ王朝

 本日、四ヶ月ぶりに「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)はコロナ禍の影響により参加できないとのことで、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が進行を担当されました。皆さんの元気なお顔を久しぶりに拝見でき、とても嬉しく思いました。インターネットやFACEBOOKを見て初参加された方も数名おられ、論議も活発になされました。なお、7月もドーンセンターで開催します。
 今回も意表を突いた仮説や半信半疑の面白い仮説、なかなか決着がつかない論議など、今まで以上に関西例会らしい学問的刺激に満ちた例会となりました。中でも「なるほど」と思ったのが、『新唐書』の記事にある「咸亨元年(670)―倭の名を悪(にく)み更め日本と号」した国は大和朝廷ではないという服部さんの指摘でした。大和朝廷は自らの都をおいた本拠地(奈良県)の地名「やまと」に「倭」「大倭」の字を当てており、天武や持統らは「倭」の字を忌避していないとされたのです。言われてみれば「目から鱗」の指摘でした。その上で、咸亨元年(670)に国号を日本に変更したのは近江朝にいた九州王朝の天子とそれを補佐する天智とされました。
 服部説の登場により、七世紀後半の倭国内の権力状況がいかなるものであったのか、諸仮説が少しずつ同方向に収斂しているように感じました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①天武天皇は筑紫都督倭王だった(八尾市・服部静尚)
②半熟卵と半殺し(大山崎町・大原重雄)
③宇佐八幡宮をめぐる諸問題について(茨木市・満田正賢)
④「女王国より以北」の論理(姫路市・野田利郎)
王の都の位置の諸問題(神戸市・谷本 茂)
⑥『隋書』国伝を考える(その4)(京都市・岡下英男)
⑦九州王朝と大和政権の関係について(たつの市・日野智貴)
⑧九州王朝説と乙巳の変(川西市・正木 裕)
⑨北魏孝文帝も「周制(短尺系)に復帰」した(川西市・正木 裕)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
 07/18 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

《各講演会・研究会のご案内》

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 06/23(火) 10:00~12:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「古代の疫病と九州王朝の対外戦争」 講師:正木 裕さん。
 07/28(火) 13:00~17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「聖徳太子(多利思北孤)と九州王朝①」 講師:正木 裕さん。
 08/18(火) 13:00~17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    日本書紀完成1300年記念講演会
    「『日本書紀』に息づく九州王朝」講師:古賀達也
    「箸墓古墳の本当の姿」講師:大原重雄さん
    「吉野行幸の謎を解く」講師:満田正賢さん
    「壬申の乱の八つの謎」講師:服部静尚さん
    「『海幸・山幸神話』と『隼人』の反乱」講師:正木 裕さん
 09/29(火) 13:00~17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「聖徳太子(多利思北孤)と九州王朝②」 講師:正木 裕さん。

◆「古代史講演会in八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円
 09/12(土) 14:00~16:30  ①「九州王朝」と「倭国年号」の世界 ②「盗まれた天皇陵」 講師:服部静尚さん。


2169話 2020/06/12

『古田史学会報』158号の紹介

『古田史学会報』158号が発行されましたので紹介します。今号には『隋書』の研究論文が集まりました。いずれも関西例会で論争となったテーマで力作です。中でも谷本稿は説得力を感じました。これからの論争や研究の深化が期待されます。
また、正木さんによる九州王朝史の連載も多利思北孤の時代に入りました。いずれ本格的な九州王朝通史として発表していただきたいと願っています。
わたしは、「都城造営尺の論理と編年」を発表しました。本年一月十九日に開催した「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)での高橋 工さん(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)の講演「難波宮・難波京の最新発掘成果」で得た新知見を取り入れたものです。これからは文献史学も考古学の安定した最新成果を意識した立論が大切と思います。少なくとも、考古学的知見との整合性が無い仮説は説得力が低下することでしょう。
158号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【古田史学会報』158号の内容】
○会員総会中止の代替措置の報告 古田史学の会・代表 古賀達也
○『隋書』国伝の「王の都(邪堆)」の位置について 神戸市 谷本 茂
○イ妥王の都への行程記事を読む ―『隋書』国伝の新解釈― 姫路市 野田利郎
○『隋書』音楽志における倭国の表記 京都市 岡下英男
○都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・二十四
多利思北孤の時代Ⅰ ―「蘇我・物部戦争」以前― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第2168話 2020/06/06

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(9)

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論として、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」との訓みを思いついたのは2004年頃でした。この訓みが成立するのか古田先生と検討してから16年経ちました。そのとき成立困難との結論に至りましたが、今回もまた同様でした。しかし、今回はより深く認識することができ、同時に『三国志』全編を読み通しましたので、様々なことに気づき、有意義でした。
 わたしの仮説(思いつき)を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでしたが、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。同時に「女王之所都」〔女王の都(みやこ)する所〕の「之所」について、どのような用例があり、どのような文法ルールを持っているのかを今回調べてみました。
 「之所」という用例は『三国志』にはそれほど多用されていませんが、各所に散見されることから、特殊な用例ではないようです。東夷伝中の印象的な用例としては次の記事があります。

 「長老説有異面之人、近日之所出」(三 840頁、魏書)

 これは粛慎の長老の言葉ですが、「近日之所出」(日が出る所に近し)のように「女王の都(みやこ)する所」と同様に、「之所」の直後に「出」という動詞が続きます。次に紹介する用例でも同様ですが、「之所」の直後に動詞が続くのが文法ルールのようです。

 「周公之所以用、大舜之所以去」「在陛下之所用」(二 503頁、魏書)
 「不以舜之所以事」(三 572頁、魏書)

 これとは別に、「之」の字がなく、「所」だけで、その後に動詞が続く用例は多数ありますが、「之」の有無にどのような意味の差があるのかは、まだわかりません。勉強はこれからも続きます。(おわり)


第2167話 2020/06/05

『東京古田会ニュース』192号の紹介

先日、『東京古田会ニュース』192号が届きました。本号には拙稿「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」を掲載していただきました。観世音寺の創建を七世紀後半の白鳳時代(正確には白鳳10年、670年)とする各種史料を紹介し、その結果、太宰府条坊成立が観世音寺創建に先行するという井上信正説(太宰府市教育委員会)により、九州王朝(倭国)の首都太宰府条坊都市が大和朝廷(日本国)の藤原京条坊都市よりも早く造営されたことになると指摘した論稿です。
 コロナ禍により、「東京古田会」も今年の会員総会開催を断念されたため、同会決算書や事業報告などが同封されていました。コロナ禍の中で、どのようにして研究会活動を継続するのか、わたしたち「古田史学の会」にとっても試練のときを迎えていますが、それは同時に新時代の歴史研究のあり方を他に先駆けて提案・構築できるチャンスでもあります。皆さんからの画期的な提言やアイデアを求めます。


第2166話 2020/06/01

6月20日(土)、関西例会を再開します

 来る6月20日(土)、中止していた関西例会を開催することにしました。正木事務局長をはじめ関係者のご尽力により、行政から要請されている「3密」回避などの諸基準をクリアできることとなり、例会の再開を決定するに至りました。
 会場予約していたi-siteなんば(大阪府立大学)に代えて、あらたにドーンセンターの広い会場(5階セミナー室)を確保し、「3密」を避けることにしました。そのため、割高となる会場使用料を賄うため、臨時措置として参加費を1,000円にさせていただきました。ご理解のほど、お願い申し上げます。参加費の増額分に見合うよう、他団体から贈呈していただいているこれまでの会報を参加者に提供させていただきます。
 なお、参加者の皆様にはマスクの着用と手の消毒をお願いいたします。また、会場で非接触型の検温器にて体温測定を実施しますので、この点もご理解とご協力をお願いいたします。当日、発熱や咳がある方は参加をご遠慮下さい。ご高齢者をはじめ参加者の命と健康を守るための感染防止策ですので、重ねてご協力のほどお願い申し上げます。皆様にご不便やご負担をおかけしますが、有意義で安全な例会となることを願っています。

【6月度「古田史学の会」関西例会の要項】
日時 6月20日(土) 10時から17時
会場 ドーンセンター(大阪府立男女共同参画・青少年センター)
   5階セミナー室
参加費 1,000円
参加条件 マスク着用・検温実施・他
 ※今回は「関西例会」主催の懇親会は実施しません。


第2165話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(3)

 「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)との間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れるため、九州王朝も6年ごとに造籍していたのではないかとしました。このことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。

 「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
 「甲申(19日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
 「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)

 このように大化二年(646)に初めて造籍法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したと記されており、このとき初めての造籍があったことがうかがえます。この大化二年(646)は先に指摘した「白雉元年籍」(652)造籍の6年前です。従って、この大化元年・二年の記事も6年ごとの造籍が行われたことを示しているのではないでしょうか。
 もしこの記事が九州王朝系史書によるものであれば、九州王朝は「大化二年(646)」(九州年号の命長七年)に初めての造籍を行い、その6年後の白雉元年(652)に2回目の造籍を実施し、その後も6年ごとに造籍し、白鳳十年(670)の「庚午年籍」まで造籍が行われたと推察できます。もしかすると、白鳳四年(664)については白村江戦敗北の翌年であり、敗戦の混乱により造籍が行われなかったかもしれません。というのも、この年の造籍を示す記事が『日本書紀』や後代史料に見えないからです。
 「庚午年籍」(670)の造籍後も、「庚寅年籍」(690)まで造籍の史料痕跡が見えないことから、「庚午年籍」は九州王朝にとって最後の造籍であり、近畿天皇家にとってもその後の造籍作業のための基本戸籍であるため、『大宝律令』『養老律令』で「庚午年籍」の永久保存を命じたものと思われます。恐らく、672年の「壬申の乱」など、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に至る混乱で造籍が滞り、持統4年(690)に至ってようやく「庚寅年籍」が造籍されたものと思われます。この頃、近畿天皇家は国内最大規模の藤原宮(藤原京)の造営を開始しており、大宝元年(701)の王朝交替に向けて、着々と体制固めを進めていたことがわかります。
 以上の考察の結果、6年ごとの造籍が律令で規定されたにもかかわらず、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)の間で造籍年間隔にずれが生じているのは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替があったことによるものと思われるのです。


第2164話 2020/05/31

造籍年間隔のずれと王朝交替(2)

 「九州王朝律令」が現存しませんから、九州王朝における造籍年間隔は不明ですが、推定のためのいくつかの手がかりはあります。もちろんその代表は「庚午年籍」(670)です。この庚午年(670)を定点として、その他の造籍年がわかれば、間隔を推定する根拠になります。これまでの九州王朝史研究の成果により、『日本書紀』に九州王朝による造籍があったと考えてもよい記事があります。孝徳紀白雉三年(652)正月条に見える次の記事です。

 「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」『日本書紀』孝徳紀白雉三年正月条

 この記事は正月条でありながら、「正月よりこの月に至るまでに」とあり、不審とされてきました。わたしはこの記事を根拠に、直前にあった二月に行われた白雉改元の儀式記事が切り取られ、孝徳紀白雉元年(650)二月条に貼り付けられたとする説を発表しました(「白雉改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。ちなみに、九州年号の白雉元年は壬子(652)に当たり、孝徳紀の白雉改元記事は九州王朝史書の白雉元年(652)二月条から二年ずらされて孝徳紀白雉元年(650)二月条に移動されたともの考えられます。
 こうした史料批判の結果、「正月よりこの月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。」の記事も九州王朝史書からの転用と考えられ、この年に班田したのも九州王朝となります。そして、班田のためには直近に造籍した戸籍が必要であり、その造籍年も九州年号の白雉元年(652)と理解するのが穏当です。そして、この「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)の間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れます。この理解が正しければ、「九州王朝律令」戸令にも『養老律令』と同様に「凡戸籍六年一造」のような6年ごとの造籍規定があり、大和朝廷は「九州王朝律令」の造籍規定を受けついだことになります。(つづく)


第2163話 2020/05/30

造籍年間隔のずれと王朝交替(1)

本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―〟というテーマで研究発表するにあたり、古代戸籍についての勉強を進めています。そこで、以前から気になっていた問題について記しておくことにします。それは7世紀中頃から8世紀初頭にかけての古代戸籍の造籍年の間隔についてです。
 古代戸籍には基本となる二つの定点があります。一つは現存最古の「大宝二年籍」(702)です。もう一つは、最古の全国的戸籍と考えられている「庚午年籍」(670)です。両戸籍の造籍年は九州王朝と大和朝廷の王朝交替の701年をまたいでおり、その痕跡が各戸籍の造籍年の間隔に現れています。
 古代戸籍は六年間隔で造籍することが『養老律令』などで規定されており、7世紀も基本的には同様と考えられています。通説では、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)、そして「大宝二年籍」(702)へと続くとされています。なお、「持統十年籍」に対して「持統九年籍」(695)とする説(南部昇『日本古代戸籍の研究』1992年)もあります。

 「凡戸籍六年一造」『養老律令』戸令

 「庚寅年籍」(690)・「持統十年籍」(696)・「大宝二年籍」(702)は六年間隔で造籍されているのですが、最初の「庚午年籍」と「庚寅年籍」とは20年の間隔があり、六年では割り切れません。この現象を多元史観・九州王朝説で説明すれば、「庚午年籍」は九州王朝による造籍、「庚寅年籍」以降は近畿天皇家による造籍であり、王朝交替による混乱の結果、6年ごとの造籍がなされなかったと考えることができます。
 しかし、大和朝廷は自らが滅ぼした前王朝の九州王朝時代の「庚午年籍」を基本戸籍として永久保存を律令に規定し、そのことを全国の国司に命じています。それでは九州王朝の造籍年間隔はどうだったのでしょうか。(つづく)


第2162話 2020/05/29

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(8)

 『三国志』(中華書局本)本文に見える「都」で、名詞の「みやこ」や動詞の「みやこする」ではなく、「全て」「全ての」という意味で使用されていると考えられる次の例について、訳を検討してみました。

(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
《訳案》
①景初(年)中、詔を受けて都(すべて)の官の考課を作る。
②景初(年)中、詔を受けて官を都(す)べる考課を作る。
③景初(年)中、詔を受けて都官(とかん)の考課を作る。

(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
《訳案》
①詔す、都(すべて)の講に祭酒を立てよ。
②詔す、講を都(す)べる祭酒を立てよ。
③詔す、都講(とこう)に祭酒を立てよ。

(33)「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
《訳案》
①身長は八尺、儀貌(容貌)は都(すべて)雅(みやび)なり。
②身長は八尺、儀貌(容貌)は都雅(とが)なり。

 なお、(9)(28)については、「都官」を「みやこの官僚たち」、「都講」を「みやこの講」と訓めないこともありませんが、〝みやこの「官」や「講」〟という表記は『三国志』中の他には見えませんので採用しませんでした。また、「都(す)べる」と訓む場合は、日本語では「統(す)べる」の表記が通常で、その意味は「統括する」です。『三国志』でも「統括する」の意味には「統」の字がよく使われています。
 他方、『後漢書』や漢和辞典類には「都官」「都講」「都雅」という熟語が見え、「都官:役職名(『後漢書』)」「都講:塾頭」「都雅:みやび」などが見えます。このことを加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からご教示いただきました。この点を重視すると、「都講」の訓みは「講を統(す)べる」「講を統括する」が適切となります。あるいは、『三国志』編纂時代には「都督」「都尉」などのように、「都講」という役職名が既に成立していたのかもしれません。また、同様に「都雅」という二字で「みやび」という意味が『三国志』の時代に成立していた可能性も考慮する必要がありそうです。
 引き続き検討を進めますが、今回の『三国志』調査においては「全て」「全ての」という意味で「都」の字が使用される確かな例(他の字義では意味が通らないケース)は今のところ見つかっていません。また、わたしの仮説を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでした。現時点での結論としては、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。(つづく)