第2141話 2020/04/24

竹田侑子さんからのお礼状

 わたしたち「古田史学の会」では、会員論集『古代に真実を求めて』を友好団体などに贈呈させていただいています。この度上梓した『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』(『古代に真実を求めて』23集)を贈呈した竹田侑子さん(秋田孝季集史研究会・会長、弘前市)からお礼状が届きましたので紹介します。

【お礼状から一部転載】
(前略)
 それにしても魅力的なタイトルです。
 頂戴していつも、タイトル選びが上手だな、と思うのですが、今回は執筆者の皆様が、九州王朝が失われてからの日本の歴史にどんな孤独を抱いたのだろうか、などと連想させるような、余韻を漂わせていました。
 これから、じっくりと心して読ませていただきます。
 楽しみです。本当にありがとうございました。

 日々ご多忙と拝察しておりますが、ご自愛くださり、「古田会」を引っ張っていってくださることを願っております。
                        草々

                    2020年4月15日
                       竹田侑子
(後略)
【転載おわり】

 同書のタイトルをお褒めいただき、安心しました。というのも、今回のタイトルは敢えて文学的表現にしたのですが、読者から評価していただけるものか、正直不安だったのです。
 もっとよいタイトルがあるのではないかと悩み続けて、最終的には正木裕さんの「〝日本書紀〟だけではなく、〝古事記〟もタイトルにいれるべき」というご意見を採用し、さらに当初案はメインタイトルが「消えた古代王朝」、サブタイトルが「『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独」だったのですが、服部編集長のご意見により、メインタイトルとサブタイトルを入れ替えることになったものです。
 その後も、久冨直子さん(編集部員)から別のタイトル案も出され、最終的には明石書店の編集会議で『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』が採用されました。明石書店内でもかなり議論になったとうかがっています。タイトルの善し悪しが、本の売れ行きに大きく影響しますから、竹田さんからのお褒めの言葉は大変励みになりました。
 なお、『古代に真実を求めて』は18集から特集テーマを前面に出して、タイトルも新たに付けることにしました。おかげさまで、それ以来、販売部数が伸びて、再版されるようにもなりました。竹田さんからお褒めいただいた各号のタイトルは次のようなものです。

18集 盗まれた「聖徳太子」伝承
19集 追悼特集 古田武彦は死なず
20集 失われた倭国年号《大和朝廷以前》
21集 発見された倭京 太宰府都城と官道
22集 倭国古伝 姫と英雄(ヒーロー)と神々の古代史
23集 「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 消えた古代王朝


第2140話 2020/04/23

「大宝二年籍」断簡の史料批判(13)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由について、「庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出された」と南部さんは考えられ、その異常分布発生の過程を次のように説明しています。

 「国郡司が『盗賊』や『浮浪』を把握し、これを庚午年籍に登録したとき、彼らが親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明である――本人の申告は信用できない――場合がしばしばあったのではないか、『盗賊』や『浮浪』ではない一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかったのであるから同様のことが生じたのではないか、と。そして男子の場合は、その年齢が賦課と密接にかかわるので、国家の側も真剣に実年齢を究明したであろうが、女子については、おおよその推定年齢で記入したことも多かったのではないか、と。八、九歳か十一、二歳かわからぬ女児は、『十歳』と記入し、十八、十九歳か二十一、二歳かわからぬ女子は『二十歳』と記入したことも多かったのではないかと推定するのである。また、たとえば、本人がいかに『二十三歳である』と申告してもそれが信用されず、『三十歳』と記入された場合もあったかもしれない。庚午年籍に(一)―十―二十―三十……歳というピークが存在したとすれば――私は存在した可能性が高いと考えているのだが――それはかくして生じたものと推定されるのである。
 かくして二十年後、庚寅年籍が作成されるが、庚午年籍に登録されて以来、死亡・逃亡することなく定住していた人々の年齢決定は簡単であった。本人を確定した後、庚午年籍に記入してある年齢に二〇を加算すればよかったからである。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』382-383頁)

 このような年齢不詳女児や年齢詐称女子の年齢を、庚午年籍(670)造籍時に十歳ごとにまとめて推定記入した結果、十歳ごとの年齢ピークが発生し、そのピークが「大宝二年籍」にまで遺存したとされました。
 更に、庚寅年籍(690)造籍時にも同様の操作が行われた結果、大ピークが大きくなり、「持統九年籍」(695)での同様操作により小ピークが発生したことを精緻に論証し、「大宝二年籍」に見える女子の異常年齢分布についての説明に成功されました。そして、この異常分布の傾向は男子にも見られることを指摘されました。
 わたしはこうした南部さんの論証は有力と思うのですが、造籍時の「年齢推定記入」だけでは、「大宝二年籍」の異常年齢分布を完全には説明できないのではないかと考えました。(つづく)


第2139話 2020/04/22

「大宝二年籍」断簡の史料批判(12)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由についての岸俊男氏の推定について、南部昇著『日本古代戸籍の研究』では次のように紹介されています。

 「岸氏はこれを造籍との関連で説明している。すなわち、日本の戸籍は最初は男丁のみを記載し、ある時期からこれに女子を付加するようになったのではないかという推定と、大ピーク・小ピークの各年齢が一二年前の庚寅年籍(六九〇年)においては、五歳・十歳・十五歳というように五歳ごとの完数に適合するという着眼によって、庚寅年籍作成のとき、『女子のみは年齢を五歳ごと、または十歳ごとに区切り、それを基準として記入するようなことが行われたのではなかろうか』というのである。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』360頁)

 このような岸さんの推定について、南部さんは「女子年齢の異常分布を造籍との関係で説明しようとしたことは慧眼」と評価しながらも、自説を次のように説明しています。

 「とくに私は、岸氏の指摘した大ピーク・小ピークは庚寅年籍によって生み出されたものではなく、『自庚午年籍至大宝二年四比之籍』すなわち、庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出されたものと考えているので、この点、岸氏と大いに見解を異にしている。」(同書361頁)

 南部さんは古代の造籍年を、『続日本紀』宝亀十年六月条に見える「自庚午年籍至大宝二年四比之籍」などを根拠に、庚午年籍(670)・庚寅年籍(690)・「持統九年籍」(695)・大宝二年籍(672)とされ、それぞれの造籍時に行われた「操作」により、女子年齢の異常分布が発生したとされました。
 なお、通説では庚午年籍(670)・庚寅年籍(690)・「持統十年籍」(696)・大宝二年籍(672)の四回の造籍とされています。わたしは南部さんの「持統九年籍」(695)説の方が合理的と思いますが、本テーマとは直接関わりませんので、その理由についての説明は省きます。(つづく)


第2138話 2020/04/20

「大宝二年籍」断簡の史料批判(11)

 現存最古の戸籍「大宝二年籍」の調査に先立ち、わたしは先行研究を調べることにしました。しかし、戸籍研究に関する学界の動向を全く知りませんでしたので、何から手を付けてよいのか困っていたところ、鬼室集斯墓碑や「大化五子年」土器などの「九州年号金石文」調査を一緒にしていた安田陽介さん(当時、京都大学院生)から南部昇著『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)という本をいただきました。同書は当時のわたしの学力では歯が立たないハイレベルな内容でした。京都大学の院生はこのレベルの本で勉強しているのかと、最高学府の手強さを肌身に感じたものでした。
 それでもなんとか同書を読み、「大宝二年籍」に関するいくつもの重要な知見を得ることができました。その中の一つ「古代籍帳における女子年齢の異常分布について」(第五編第一章)という論文にわたしは注目しました。同稿冒頭に、「大宝二年籍」における女子年齢の異常分布についての岸俊男氏の指摘が次のように紹介されています。

 「現存する大宝二年御野国戸籍の女子を各年齢ごとに集計してゆくと、二十二歳―三十三歳―四十二歳―五十二歳―六十二歳とほぼ十年ごとの周期で、この年齢に属する女子人口が異常に多いという注目すべき事実が、岸俊男氏によって報告されている。続いて、二十七歳―三十七歳―四十七歳―五十七歳―六十七歳とやはり十年間隔でこの年齢に属する女子人口も相当に多いという事実が確認されている。岸氏は、前者の人口集中を大ピークと呼び、後者の人口集中を小ピークと呼んでいるが、同様の現象は大宝二年西海道戸籍についても指摘され、大宝二年時における、ほとんど全国的な現象であったと推定されている。」’360頁)

 このように「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が指摘されており、古代戸籍の年齢表記の信頼性に問題があることをわたしは知りました。(つづく)


第2137話 2020/04/19

『九州倭国通信』No.198のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.198を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず ―倭人伝の考古学と文献史学―」を掲載していただきました。
 その冒頭の「一、はじめに」で
 〝世にいう「邪馬台国」論争は、古田武彦先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているとわたしは考えていますが、マスコミや学界では未だに「邪馬台国」論争が続けられています。「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説・学問的方法)とは言い難いとわたしは考えていますが、本稿ではその理由を説明します。畿内説支持者は気分を害されることとは思いますが、ぜひ最後まで読んでみて下さい。その上で、ご批判・反論をいただければ幸いです。〟
 と前置きして、以下の項目で「邪馬台国」畿内説を批判しました。九州の皆様には特にご納得いただけたものと考えています。

二、畿内説は「研究不正」の所産
三、行程データの原文改定
四、国名データの原文改定
五、総里程データの無視
六、地勢データの無視
七、考古学データの無視
八、最も早く文字を受容した北部九州
九、考古学は科学か「神学」か


第2136話 2020/04/17

厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷

 勤務先の玄関ホール受付に厄除けの神札が貼ってあることに気づきました。京都市南区にある吉祥院天満宮の神札で、「三密除 新型コロナウィルス 禍退散守護」「吉祥院天満宮」「朱雀天皇承平四年菅神勧請…」などと書かれています。企業としては社員の生命・健康が心配ですし、社内で感染者を出したら操業停止の社会的圧力も受けますから、〝神札にもすがる〟気持ちはよくわかります。
 わたしは厄除けの神札が吉祥院天満宮のものであることに興味を持ちました。もちろん御祭神は菅原道真公ですが、九州王朝説の視点ではそれに先立つ「天神」信仰があり、その「天神」とは九州王朝の祖先神である天照大神(アマテラス)たちのことです。ですから「天神」様に病疫退散を願うのは、おそらく古代からの風習だったように思います。
 古代日本にも度々伝染病が流行したことが諸史料に見えます。著名なものでは聖武天皇の時代、天平年間に王朝中枢が九州方面から流行した天然痘の脅威に曝されたことが『続日本紀』に見えます。天平七年(735)八月、大宰府管内で疫病が発生し、九月に新田部親王が、十一月には舎人親王が相次いで薨去します。「この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行」と『続日本紀』に記されています。しかし感染は止まらず、天平九年(737)には、藤原房前(四月)、藤原麻呂・藤原武麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢の藤原氏一族が次々と病没しています。
 この最中、天平八年(736)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)は法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像に多くの奉納品を施入しています(『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』による)。この法会・施入が「二月二二日」であることにわたしは注目し、「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』15集、2012年)を発表しました。この「二月二二日」は釈迦三尊像の光背銘に記された九州王朝の天子、上宮法皇(阿毎多利思北孤)の命日であり、いわゆる近畿天皇家の「聖徳太子」の命日(二月五日、『日本書紀』推古紀)ではありません。
 『日本書紀』が成立した養老四年(720)からわずか十六年後に行われた法会の時に、大和朝廷の皇后や官僚たちが、自らが編纂した『日本書紀』に記された「聖徳太子」の命日を知らなかったとは考えられませんし、何よりも大宝元年(701)に「王朝交替」した近畿天皇家にとって前王朝(倭国・九州王朝)の天子(多利思北孤)を象(かたど)った釈迦三尊像や和銅年間に移築した法隆寺が九州王朝の寺院であったことを忘れ去っていたはずはありません。こうした理由から、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したものであり、従って法隆寺は「九州王朝鎮魂の寺」であったとする仮説を拙論で発表しました。
 同論文は小論ではありますが、わたしとしては自信作の一つです。吉祥院天満宮の「神札」を見て、この論文のことを思い出しました。一日も早く新型コロナウィルスの流行が終わり、「関西例会」などの活動が再開できることを祈っています。


第2135話 2020/04/13

『古田史学会報』157号のご紹介

 『古田史学会報』157号が発行されましたので紹介します。
本号の一面は札幌市の阿部さんの論稿です。九州年号の使用が仏教関連に限定されており、九州王朝律令には政治的公文書に年号使用の規定はなかったとする研究です。わたしの説とは異なりますが、史料根拠と論理性が明確な好論です。カール・ポパーが「反証主義」で主張しているように、学問(科学)においては「反証可能性」の有無が重要で、阿部稿にはこの「反証可能性」が担保されています。
わたしは、「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」と「松江市出土の硯に『文字』発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―」の2編を発表しました。いずれも従来にはない視点で各テーマを取り上げました。ご批判をお願いします。
大原稿は三星堆の青銅立人と土偶の共通性を論じたもので、先駆的な仮説であり、説得力を感じました。好論です。
157号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。
本号は会費振込用紙を同封して会員の皆様に発送しています。2020年度会費の納入をお願いします(一般会員3,000円、賛助会員5,000円)。

『古田史学会報』157号の内容
○「倭国年号」と「仏教」の関係 札幌市 阿部周一
○九州王朝系近江朝廷の「血統」 ―「男系継承」と「不改常典」「倭根子」― 京都市 古賀達也
○七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで 八尾市 服部静尚
○松江市出土の硯に「文字」発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―
○三星堆の青銅立人と土偶の神を招く手 京都府大山崎町 大原重雄
○沖ノ島出土のカットグラスはペルシャ製 編集部
○「壹」から始める古田史学・二十三
磐井没後の九州王朝3 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西 史跡めぐりハイキング
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせと連絡先
○2020年度会費納入のお願い
○新型コロナウィルスの対策方針として 古田史学の会・代表 古賀達也
○編集後記 西村秀己


第2134話 2020/04/13

「大宝二年籍」断簡の史料批判(10)

 わたしが古代戸籍研究に入った目的は、二倍年暦の痕跡調査のためでした。古田先生が『三国志』倭人伝に見える倭人の長寿記事(その人の寿考、或いは百年、或いは八・九十年)に着目され、弥生時代における倭国の二倍年暦(一年に二歳年をとる)の存在という仮説を提起され、その後、『古事記』『日本書紀』の天皇の長寿年齢も二倍年暦によるものが見られるとされました。その研究を受けて、日本列島でいつ頃まで二倍年暦が採用されていたのかを調査していて、古代戸籍にわたしは注目したのです。
 一応の目安としては、九州年号「継体」が建元(517年)された六世紀初頭には一倍年暦の暦法が採用されていたと考えられますが、他方、人の寿命についてはそれまでの二倍年暦に基づいた謂わば「二倍年齢」による年齢計算がなされていた可能性についても留意が必要でした。その場合、一倍年暦による暦法と「二倍年齢」による年齢表記が史料中に併存するはずと考えていました。その一例として、継体天皇の寿命が『古事記』では43歳、『日本書紀』では82歳と記されており、両書の差が「二倍年齢」によるものと考えられます。このことから、六世紀前半には「二倍年齢」の採用が継続されていたと思われます。
 そこで、次にわたしは六世紀後半から七世紀にかけての「二倍年齢」採用の痕跡を探るために、「大宝二年籍」断簡の年齢表記の精査を行いました。(つづく)


第2133話 2020/04/12

野田利郎稿「伊都国の代々の王とは

     ―『世有王』の新解釈―」への批評

本日、『古代に真実を求めて』編集長の服部静尚さんから頂いたメールによれば、『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』(『古代に真実を求めて』23集)に一般論文として掲載された野田利郎さんの論稿「伊都国の代々の王とは ―『世有王』の新解釈―」に対する批評が「古代史の散歩道など」というブログ(主宰者不詳)に掲載されているとのこと。
 早速、ブログを拝見したところ、同批評は『季刊邪馬台国』131号に掲載されている塩田泰弘稿「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」の書評中にありました。真摯で学問的な好意的批評でした。野田稿を採用したわたしたち編集部にとっても、喜ばしいことです。一部を転載し、紹介します。

【以下、転載】
「古代史の散歩道など」
https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-345ed0.html
2020年4月 8日 (水)
新・私の本棚 季刊邪馬台国 131号 塩田泰弘「魏志が辿った..」3/5
「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」2016/12刊行
(前略)
 ところが、近刊の古田史学論集第23集掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条の「丗有王皆統屬女王國」を「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、倭人伝列国に皆王があり女王に属したとしています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。(中略)
 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には倭人伝界で不評の笵曄株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。(中略)
 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。


第2132話 2020/04/11

南秀雄さんから「研究紀要」を頂きました

 昨年6月、I-siteなんばで開催された古代史講演会(「古田史学の会」共催)で、「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」というテーマで講演していただいた考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)から『大阪市文化財協会 研究紀要 21号』(2020年3月)を御贈呈いただきました。
 同書には南さんらの論文「難波堀江の学際的検討」が掲載されています。同論文は『日本書紀』仁徳紀に記されている「難波堀江掘削」記事の実態に迫った学際的研究で、大阪の考古学者を始め地質学・堆積学・河川工学の研究者が参加されています。詳細については精読させていただいてから、紹介したいと思います。
 『古田史学会報』155号や「洛中洛外日記」の「法円坂巨大倉庫群の論理」1923~1927話(2019/06/16-20)でも触れましたが、昨年六月の南さんの講演で、わたしが特に注目したのは次の点でした。

 「古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。」

 古墳時代において、日本列島内最大規模の都市で七世紀には前期難波宮がおかれた大阪市上町台地北端と九州王朝の中枢地域である博多湾岸(比恵・那珂遺跡)が「国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」とする指摘は重要です。
 前期難波宮九州王朝複都説に反対される論者の中には、古代の筑紫と難波の関係を疑問視する意見もあるようですが、南さんら考古学者の指摘を無視することなく真摯に受け止めていただきたいと願っています。


第2131話 2020/04/10

「大宝二年籍」断簡の史料批判(9)

延喜二年『阿波国戸籍』を例に挙げて、古代戸籍における偽籍という問題と、その偽籍に「二倍年齢」による「年齢加算」の痕跡がある可能性について論じました。そして、古代戸籍にも史料批判が必要であり、そこに記された高齢表記をそのまま「実証」として、古代人の年齢の根拠とすることの学問的危険性について注意を促しました。
 そこでようやく本シリーズのテーマとした「大宝二年籍」断簡の史料批判に入ります。現存最古の戸籍である「大宝二年籍」は、延喜二年『阿波国戸籍』のような極端な偽籍はないようなのですが、それでもこれまでの研究では様々な問題点が指摘され、その解釈について諸説が出されています。特に、同じ大宝二年の造籍であるにもかかわらず、筑前・豊前の西海道戸籍と美濃国戸籍とでは様式が大きく異なっており、より規格が統一された西海道戸籍は大宰府により『大宝律令』に基づいて造籍され、美濃国戸籍は古い飛鳥浄御原令に基づいたとされています。(つづく)


第2130話 2020/04/09

4月度「古田史学の会」関西例会を中止します

 この度の新型コロナウィルス対策として発出された政府の緊急事態宣言により、4月18日の「古田史学の会」関西例会会場のドーンセンターが閉鎖となりました。そのため、「古田史学の会」では4月度の関西例会中止を決定しましたので、お知らせいたします。
 関係者、会員の皆様にはご迷惑やご心配をおかけすることになり、申し訳ございません。今後の「関西例会」など諸行事の開催状況につきましても適切に判断し、ホームページ「新・古代学の扉」で案内いたしますので、皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。会員の皆様におかれましては一層ご健康に留意していただき、またお元気なお顔を拝見できることを願っております。

追伸 「市民古代史の会・京都」主催の古代史講演会も4月度(講師:古賀)・5月度(講師:正木さん)の中止を決定されたとのご連絡をいただきましたので、ご一報申し上げます。