第1962話 2019/08/13

『古田史学会報』153号のご案内

 『古田史学会報』153号が発行されました。一面には関西例会で発表された谷本さんの論稿が掲載されました。誉田山古墳を応神天皇陵とすることへの批判で、その方法論や史料根拠に疑義を呈されました。古田学派の重鎮らしく、説得力のある論稿でした。

 日野さんは会報初登場です。奈良大学で国史を専攻されているだけあって、その理詰めの推論展開や文章力は流石です。論稿では河内の巨大古墳の造営者をどの勢力とするのかについて、古田学派内の研究動向を踏まえた上で、論点整理をされました。古田学派の将来を担う期待の青年です。

 わたしからは、大阪歴博の考古学者たちの、考古学的出土事実に基づき、『日本書紀』の記事を絶対視しないという研究姿勢を紹介し、「ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れた」と評価しました。

 153号に掲載された論稿は次の通りです。この他にも優れた投稿がありましたが、次号以降での掲載となりますので、ご了解下さい。また、投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

『古田史学会報』153号の内容
○誉田山古墳の史料批判 神戸市 谷本 茂
○-河内巨大古墳造営者の論点整理-
倭国時代の近畿天皇家の地位を巡って たつの市 日野智貴
○『日本書紀』への挑戦〈大阪歴博編〉 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・十九
「磐井の乱」とは何か(3) 古田史学の会事務局長 正木 裕
○古田史学の会 第25回会員総会の報告
○古田史学の会 2018年度会計報告
○『古代に真実を求めて』バックナンバー 廉価販売のお知らせ
○各種講演会のお知らせ
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西 史跡めぐりハイキング
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第23集 原稿募集
○「古田史学の会」会員募集
○割付担当の穴埋めヨタ話 玉依姫・考 高松市 西村秀己
○編集後記 西村秀己


第1961話 2019/08/12

飛鳥池「庚午年」木簡と

芦屋市「元壬子年」木簡の類似

 飛鳥宮における天武や持統の勢力範囲を調査するために、奈良文化財研究所の木簡データベースを検索調査しているのですが、飛鳥池遺跡から興味深い木簡が出土していることを知りました。同データベースによれば次のような文字が読み取れます。

・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□

 裏面は判読困難ですが、表面に「庚午年三」という干支とおそらくは月が記されています。冒頭の二文字「合合」は〝削り残り〟と説明されていますから、再利用木簡と思われます。その形状から見て荷札木簡ではありませんし、史料性格は不明です。同データベースでも【内容分類】が無記載ですから、奈良文化財研究所でも判断できなかったと思われます。
この用途不明な干支木簡ですが、わたしは一見してある木簡と似ていることに気づきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「(白雉)元壬子年」木簡です。この木簡は7世紀中頃の土器と供に出土したこともあり、652年の壬子であるとされましたが、報告書(『木簡研究』第19号、1997年)では「三壬子年」と判読され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年」と紹介されました。

 ところが九州年号の白雉と『日本書紀』の白雉には二年のずれがあり、壬子の年は「白雉元年」なのです。そこで、古田先生らと共に兵庫県教育委員会の許可をいただいて、わたしは同木簡を二時間にわたり凝視しました(目視と光学顕微鏡調査。赤外線カメラ撮影は大下隆司さん)。その結果、「三」とされた文字は「元」であることが判明したのです。すなわち、九州年号の「白雉元年」を意味する「九州年号」木簡だったのです。

 木簡に九州年号の痕跡が確認された画期的な発見であり、そのことを『古田史学会報』76号(2006年8月)や『なかった』第2号(ミネルヴァ書房・2006年)、『古代に真実を求めて』10集(明石書店・2007年)、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房・2012年)、インターネット「新・古代学の扉」で発表したのですが、学界からは完全に無視されました。

 しかし発表後、微妙な変化が起こったことにわたしは気づきました。その後発刊された木簡に関する書籍や論文に、この「元壬子年」木簡の紹介がなくなったり、あるいは「壬子年」とだけ記し、「元」とも「三」とも触れなくなったのです。すなわち、それまでも古田先生の九州王朝説や九州年号説が国民の目に触れないように、学界は古田史学を無視し、なかったことにしようとしてきたのですが、この「元壬子年」木簡の存在と意義が一旦マスコミや国民に知れ渡ると、九州年号の実在をごまかしようがなくなると恐れたのだと思います。
このようないわく付きの「元壬子年」に、今回の飛鳥池出土「庚午年」木簡が似ていることに気づいたのです。それは、共に木簡の途中から文字(干支)が書き出されており、上部に空白があることです。通常、7世紀の荷札木簡で干支から始まる場合は、木簡上部から書き始められます。限られたスペースに過不足無く必要な情報を書かなければならないという木簡の性質上、その上部に無駄なスペースを空ける必要はありません。ところが、この2つの木簡は上部に数文字は書き込める空白部分が、おそらくは意図的に置かれているのです。この上部空白現象について、奈良文化財研究所の「木簡説明」でも次のように指摘されています。

 「干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。」

 ここからはわたしの推測ですが、九州王朝の時代は木簡に九州年号を記すことが憚られていて、九州年号が書かれるべき位置をあえて空白にしたのではないでしょうか。この推測が正しければ、「庚午年」木簡も「元壬子年」木簡もその形状から荷札木簡ではなく、本来は九州年号付きで記されるべき内容の文書木簡(メモ)だったことになります。たとえば、「庚午年」木簡は670年(白鳳十年)の「庚午年籍」造籍に関する行政文書木簡で、「元壬子年」木簡は前期難波宮創建を記念しての白雉改元に関する行政文書木簡ではなかったかと推測しています。
引き続き、同様の木簡の有無を調査し、こうした作業仮説が成立可能か検討したいと考えています。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】185
【本文】・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□
【寸法(mm)】縦 (77) 横 20 厚さ 4
【型式番号】019
【出典】飛鳥藤原京1-185(木研21-22頁-(31)・飛13-17上(80))
【文字説明】
【形状】上削り、左削り、右削り、下欠(折れ)。表面左側剥離。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNK36
【内容分類】
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】((庚午年)天智9年3月)
【西暦】670(年), (3)(月)
【木簡説明】上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。


第1960話 2019/08/11

飛鳥池木簡に記された天武の勢力範囲

 今日はお盆休みを利用して、久しぶりに京都府歴彩館に行き、図書を閲覧しました。隣接した京都府立大学文学部図書館にある飛鳥・藤原京出土木簡の報告書を精査したところ、天武の時代の飛鳥浄御原宮の勢力範囲を示唆する木簡が出土していたことを確認しました。次の「丁丑年」(天武六年、677年)木簡二点です。奈良文化財研究所の木簡データベースから転載します。

 「丁丑年」(天武六年、677年)といえば「壬申の乱」の五年後です。その時代既に美濃(三野)国加尓評・刀支評から「次米」の貢献を受けていたことを示す荷札木簡ですから、この時期には「天皇」を称するにふさわしい権力者に天武は上り詰めていたことがうかがえます。

 この数年後には藤原宮(京)の造営も開始しますから、律令による全国支配を飛鳥宮にいた天武ら近畿天皇家が想定していたことは明らかです。701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交替する二十年以上前の近畿天皇家の政治権力の様相の一旦を明らかにした貴重な木簡といえるでしょう。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】193
【本文】丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/○物部○古麻里∥
【寸法(mm)】縦 146 横 31 厚さ 4
【型式番号】031
【出典】飛鳥藤原京1-193(荷札集成-105・木研21-19頁-(18)・飛13-15上(58))
【文字説明】
【形状】三片接続(刃物を入れ手で割き三片に分離)、上削り、下削り、左削り、右削り。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNH34
【内容分類】荷札
【国郡郷里】美濃国可児郡〈三野国加尓評久々利五十戸〉
【人名】物部古麻里
【和暦】(丁丑年)天武6年12月
【西暦】677(年), 12(月)
【木簡説明】左右三片接続。三片の側面は、それぞれ上半部では平滑であるが、下半部では割れ面が目立つ。三片に分離する際、途中まで刃を入れた上で、手で割いたことを示そう。接続した状態では四周削り。上下の左右に切り込みをもち、上部左側は三角形、下部右側は台形。「丁丑年」は天武六年(六七七)。「次米」は諸説あるが、「次」と「米」の合成字である「粢(しとぎ)」に餅の意があること、十二月に糯(餅)米を貢進する例がある(「平城宮木簡二』二七〇四号)ことから、正月儀式用の糯米の可能性が高い(吉川真司「税の貢進」「文字と古代日本三」吉川弘文館、二〇〇五年)。「三野国加尓評久々利五十戸」は、『日本書紀』景行四年二月甲子条に美濃国行幸時の行宮としてみえる泳宮に関係する地名であろう。泳宮は『万葉集』三二四二番歌では「八十一隣之宮」とみえる。

【木簡番号】721
【本文】・丁丑年十二月三野国刀支評次米・恵奈五十戸造○阿利麻\舂人服部枚布五斗俵
【寸法(mm)】縦 151 横 28 厚さ 4
【型式番号】032
【出典】飛鳥藤原京1-721(荷札集成-107・木研21-19頁-(13)・飛13-13下(44))
【文字説明】
【形状】上削り、下削り、左削り、右削り、上端裏面わずかに面取りする。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1110
【地区名】5BASNJ33
【内容分類】荷札
【国郡郷里】(美濃国恵奈郡絵上郷〈三野国刀支評恵奈五十戸〉)・(美濃国恵奈郡絵下郷〈三野国刀支評恵奈五十戸〉)
【人名】恵奈五十戸造阿利麻・服部枚布
【和暦】(丁丑年)天武6年12月
【西暦】677(年), 12(月)
【木簡説明】四周削り。上端は裏面をわずかに面取りする。上部左右に浅い切り込みをもち、左側は台形。一九三号と同じく「丁丑年十二月」(天武六年、六七七年)の年月を記す三野国からの「次米」荷札である。一九三号とは違って下部に切り込みをもたないが、形状・法量は近似する。上半部には縦方向にほぼ三等分する位置で切れ目が入るが、一九三号と異なり、完全に割かずに廃棄されている。「三野国刀支評恵奈五十戸」は「和名抄』美濃国恵奈郡絵上・絵下郷に該当する。恵奈郡の中心をなすサトが「刀支評」(後の土岐郡)に管せられていることから、恵那評は存在しなかったとみられ、その初見が天平勝宝二年(七五〇)まで降る(美濃国司解〈『大日本古文書三』三九〇頁〉)こととも関係しよう。「次米」の貢進責任者は「恵奈五十戸造阿利麻」であるが、舂米作業に従事した「服了枚布」の名前も記す。この「五十戸造」は氏姓が明瞭でないが、その職掌・地位にあることがその者の素性を証明することにつながるため、あえて記さなかった可能性がある。


第1959話 2019/08/08

「古田史学の会」の運動論と進化

 このところ「洛中洛外日記」では理屈っぽいテーマが続きましたので、ここらで息抜きも兼ねて「古田史学の会」の運動論と進化について、個人的感想を披露させていただきます。会員や読者の皆さんのご意見などいただければ幸いです。
 「古田史学の会」は歴史の真実を求めるという学術研究団体という側面と、一元史観が跋扈する日本社会に古田史学を広めていくという社会運動団体という異なる性格を併せ持っています。学問研究が本質的に持つ、確かなエビデンスに基づき、人間の理性に依拠したロジックを展開し、仮説の優劣を検証し、歴史の真実を極めるという方法はこれからも大きく変化することはないと思うのですが、社会運動という側面では時代の変化とともにその組織や運動形態は変わらざるを得ません。
 わたしの本職は化学メーカーでの製品開発とマーケティングなのですが、そこでのマーケティング理論や方法論は「古田史学の会」の運営にも役立つことが多々あります。しかし、社会や科学の進歩がますます速くなり、マーケティング論やその概念は大きく進化しています。とりわけ、近年の〝デジタル化革命〟と呼ばれる社会やビジネスモデルの進化はすさまじいものです。変化を加速させる最も基本的な要素はデジタル化とされ、ピーター・ディアマンディス氏(米国の起業家)によれば、デジタル化の流れは次の「6つのD」で表されるとのことです。

1.デジタル化(Digitalization)
 情報・知識の複製・共有が加速する。
2.潜行(Deception)
 最初は目に見えず、途中から急加速する。
3.破壊(Disruption)
 既存の市場を破壊する。
4.非収益化(Demonetization)
 有料で提供されていたものが無料になる。
5.非物質化(Dematerialization)
 モノが消える。
6.大衆化(Democratization)
 だれでも手に入るようになる。

 これを「古田史学の会」の運動に当てはめれば、次のようになりそうです。

1.デジタル化(Digitalization)
 古代史研究に必要な史料や報告書・論文がネットで閲覧でき、共有化できる。
2.潜行(Deception)
 ネット上では通説の一元史観に代わり、多元史観がじわじわと多数派を占めつつあり、あるときを境に急速に多数派を形成する(それがいつかはまだわかりませんが)。
3.破壊(Disruption)
 既存アカデミーの一元史観が批判にさらされ、学問的影響力を失う。
4.非収益化(Demonetization)
 『古田史学会報』が数年遅れとはいえHPに掲載され、誰でも無料で読める。「古田史学の会」の動向や研究情報もHP上の「洛中洛外日記」やFACEBOOKなどからリアルタイムで無償で得られる。
5.非物質化(Dematerialization)
 会誌や書籍がデジタル化され、スマホやパソコンに収納される。例会活動がソーシャルネットワーク上で行われる(バーチャル例会)。
6.大衆化(Democratization)
 上記変化の集大成の結果、古代史研究の参入障壁が更に低くなり、アマチュア研究者がプロの学者と対等に渡り合う。

 このように「古田史学の会」はデジタル化の波に乗り、「6つのD」を具現化しつつあります。


第1958話 2019/08/07

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(8)

 本シリーズにおいて、「千仏多宝塔銅板」や「小野毛人墓誌」の年次表記に九州年号が使用されていないことに留意が必要と、わたしは指摘しました。「釆女氏榮域碑」にも九州年号は使用されていません。これらの金石文の史料性格と九州王朝律令における年号使用規定について少し論じておきたいと思います。
 『東京古田会ニュース』No.184(2019.01)に発表した拙論「九州王朝「儀制令」の予察 -九州年号の使用範囲-」において、わたしは九州王朝律令により定められた九州年号の使用範囲について考察しました。たとえば、大和朝廷の『養老律令』儀制令で次のように年号使用が規定されています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

 同様の条文が『大宝律令』にもあったと考えられていますが、おそらくは九州王朝律令にもあったのではないでしょうか。九州年号を公布した九州王朝がその年号の使用規定を律令で定めなかったとは考えられないからです。
 公文である戸籍や僧尼の名籍、そして冠位官職の「認定証」などの詔書類には九州年号が記されていたとわたしは考えています。特に庚午年籍のように長期保管を前提とした公文は干支だけでは60年ごとに廻ってくるので、どの時代の「庚午」なのかを特定するためにも年号使用が便利かつ必要です。同様に墓碑や墓誌銘も、没後長期にわたって遺存することを前提としますから、やはり干支だけでは不十分なため、年次特定に便利な年号が使用されたと思われます。そのことについて、先の拙論では次のように述べました。

 〝後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては六十年毎に廻ってくる干支表記だけでは不十分ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠として、「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)、「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)、「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。
 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)
 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせへの聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(六六一-六八三年)から朱雀(六八四-六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。」〟
 (古賀達也「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」、『東京古田会ニュース』No.184所収)

 他方、今回紹介した近畿出土・伝来の金石文、特に墓誌(小野毛人墓誌)・墓碑(釆女氏榮域碑)には九州年号が使用されていません。そのため、「小野毛人墓誌」は冒頭に「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)と記されていることにより、末尾の年次表記「丁丑年」が天武天皇の六年(677年)であることが墓誌を読む人にも特定できるような構文となっているのです。「釆女氏榮域碑」も同様で、冒頭に「飛鳥浄原大朝廷」とあり、末尾の「己丑年」が持統三年(689年)のことと特定できます。
 もしこれらが九州王朝の臣下の墓誌・墓碑であれば、たとえば「白鳳十七年丁丑」「朱鳥四年己丑」と記すだけで、故人が九州王朝配下の人物であることを示し、それぞれの絶対年次も過不足無く特定できるのです。ところが、九州年号の時代であるにもかかわらず、あえて九州年号を使用せず、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「飛鳥浄原大朝廷」と表記することにより、九州王朝ではなく大和「飛鳥」に君臨した近畿天皇家直属の臣下であることを主張した銘文となっているのです。
 この高官の墓誌・墓碑銘に九州年号が使用されておらず、「飛鳥浄原」という大和「飛鳥」と理解できる地名表記(「飛鳥」地名の遺存や宮殿遺構出土というエビデンスを持つ)が使用されていることに九州王朝説論者は注目すべきです。(つづく)


第1957話 2019/08/06

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(7)

 これまでに紹介したように、7世紀後半頃に飛鳥の地で「天皇」号を称していた天武らが「詔」を発していたことが飛鳥池出土木簡により明らかとなりましたが、どのような内容の詔勅なのかまでは木簡からはわかりません。他方、同時代金石文によれば臣下に冠位官職を授けていることがわかり、天武らは事実上のナンバーワン「天皇」として振る舞う権力者であったことをうかがわせます。
 たとえば「釆女氏榮域碑」に「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大貳采女竹良卿」とあるように、「飛鳥浄原大朝庭」の「大弁官」である「采女竹良卿」の冠位が「直大貳」とされています。このことから、「飛鳥浄原大朝庭」には「大弁官」という役職があり、「直大貳」という冠位が授けられていたことがわかります。この冠位は『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、金石文と文献の内容が対応しています。
 また、京都市出土の「小野毛人墓誌」には次の銘文があり、「丁丑年」(天武六年、677年)に没した小野毛人は「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)に「太政官」として仕え、冠位は「大錦上」とされています。この冠位も『日本書紀』によれば、664〜685年の期間のもので、金石文と文献が対応しています。

○「小野毛人金銅板墓誌」
 ※明治31年に京都市左京区崇道神社裏山から出土。
〔表〕
 飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
〔裏〕
 小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬

 ここに見える「飛鳥浄御原宮」も、これまでの史料根拠(エビデンス)に基づく論証から、「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝庭」と同じ大和「飛鳥」の宮殿と考えるほかありません。そして「小野毛人墓誌」にも九州年号が使用されていないことは留意が必要です。(つづく)


第1956話 2019/08/04

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(6)

 7世紀の「天皇」表記について論じてきましたが、ここで少し脇道にそれて、大和の「飛鳥」という地名表記について、史料根拠(エビデンス)を二つ紹介します。一つは、法隆寺に伝わる「観音像造像記銅板」と呼ばれる金石文です。次のように記されています。

(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺

(裏)
族大原博士百済在王此土王姓

 この「甲午年」は694年(持統八年)とされており、7世紀末頃の金石文です(634年説もあるようです)。この記事中に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、法隆寺(再建されたもの)・片岡王寺・元興寺のこととされています。いずれも大和の古代寺院として有名です。この「飛鳥寺」という寺院名から、その地が「飛鳥」と表記されていたと理解できます。

 二つ目が飛鳥池出土木簡に見える「飛鳥寺」という表記です。奈良文化財研究所の「木簡データベース」に収録されています。この木簡には紀年は記されていませんが、飛鳥池出土ですから7世紀後半頃と判断できるのではないでしょうか。報告書を精査したいと考えています。本稿末に同データベースの記録を転載していますので、ご参照ください。

 以上、二つの同時代史料により、7世紀末頃の大和に「飛鳥」という地名表記が存在したことは確実です。従って、先に紹介した金石文(「釆女氏榮域碑」「千仏多宝塔銅板」)中の「飛鳥」を大和内の地名とすることには、確かなエビデンスがあることをご理解いただけたと思います。(つづく)

【奈良文化財研究所木簡データベース】
※「飛鳥」で検索した結果、「飛鳥寺」がヒット。

【木簡番号】945
【本文】・世牟止言而□\橘本/止∥飛鳥寺・○「□□□□」
【寸法(mm)】縦(75) 横(22) 厚さ(3)
【型式番号】081
【出典】飛鳥藤原京1-945(木研21-18頁-(2)・飛13-9下(5))
【文字説明】本文、表面「橘」は異体字「桔」。裏面一文字目は「人」、四文字目は「説」の可能性あり。
【形状】二片接続、上切断、下欠(折れ)、左やや割れ、右やや割れ。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SK1153
【地区名】5B】ASNJ30
【木簡説明】左右二片接続。上端切断、下端折れ、左右両辺やや割れ。表面に「止」字が二箇所あるが、右行のものは大書体で中央に記すのに対して、左行のものは小書体で右に寄せて記すという違いがある。本木簡は国語学的に重要な意味をもち、宣命大書体から宣命小書体へ、という従来の図式に再考を促すこととなった(沖森卓也『日本語の誕生』吉川弘文館、二〇〇三年)。また本木簡は「セムト言ヒテ□…/拮本ト飛鳥寺」と訓読できるが、一字一音仮名と訓字が混用された初期の史料としても貴重である。「桔」は「橘」の俗字。別筆で書かれた裏面は、やや大きな文字で一行書きで記されており、こちらが木簡当初の記載とみるべきかもしれない。裏面一文字目は「人」、四文字目は「説」の可能性がある。


第1955話 2019/08/02

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(5)

 飛鳥池出土「天皇」木簡と長谷寺「千仏多宝塔銅板」銘という史料事実に基づき、論理展開(論証)を進めましたが、この論理構造(九州王朝説と齟齬をきたさない、平明で合理的な同時代金石文等の解釈)はここでとどまることを許しません。その論理の延長線上にある他の金石文の史料批判へと進まざるを得ないのです。そこで、続いて紹介するのが大阪府南河内郡太子町出土の「釆女氏榮域碑」です。

○「釆女氏榮域碑」 ※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年(689年)十二月二十五日。

 「釆女氏榮域碑」については「洛中洛外日記」1731話(2018/08/26)〝「采女氏塋域碑」拓本の混乱〟などで紹介してきましたが、碑文にあるようにその造営年は己丑年(689年、持統三年)です。先に紹介した長谷寺の「千仏多宝塔銅板」(686年 朱鳥元年丙戌か698年 文武二年戊戌)と同時代の成立です。従って、「千仏多宝塔銅板」の「飛鳥浄御原大宮」と「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝廷」は同じ時代の同じ飛鳥の権力者を意味していると考えざるを得ません。すなわち、大和飛鳥の天武・持統の宮殿・朝廷のこととなります。

 ちょうどこの時期、天武らは列島最大級の巨大条坊都市藤原宮・京を造営し、遷都(694年12月)します。藤原宮下層条坊道路跡から出土した干支木簡「壬午年(682)」「癸未年(683)」「甲申年(684)」などにより、天武の晩年に藤原宮と条坊都市の造営が行われていることがわかっています。686年(朱鳥元年)に前期難波宮が焼失しますから、その官僚たちは完成途上の藤原京に転居し、694年(持統八年)の遷都を迎えたものと思われます。まさにそうした時期に「采女氏塋域碑」と「千仏多宝塔銅板」は造られたのです。(つづく)


第1954話 2019/08/01

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(4)

 飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」などの考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証により、飛鳥の地で天武が「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを指摘しました。この近畿天皇家中枢の地から出土した同時代木簡という最強のエビデンスにより、安定して成立した仮説を基礎にして、更に他の同時代金石文により、論理を展開(論証)します。
 その同時代金石文とは奈良県桜井市の長谷寺に古くから秘蔵されてきた「千仏多宝塔銅板」です。その銅板の銘文には「天皇陛下」「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」という文字が記されており、この「天皇」を天武または持統とする説が有力視されています。この銅板の成立は銘文に記された「歳次降婁漆菟月上旬」という年次表記が「戌年の七月上旬」を意味することから(伴信友説)、686年(丙戌、朱鳥元年)か698年(戊戌、文武二年)のこととする諸説が発表されています。いずれにしても、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡とほぼ同時代と見なすことができます。
 銘文には「道明」という制作者名も記されており、他の史料(『扶桑略記』『七大寺年表』『東大寺要録』)では「道明」を斉明や天武と関係が深い奈良県明日香村の弘福寺(川原寺)僧としていることから、「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」の為に造ったと記されているこの銅板は7世紀後半の大和で成立したと考えて全く問題ありません。というよりも、それ以外の理解(仮説)を支持するエビデンス(史料根拠)はありません。
 以上の論理展開(論証結果)によるなら、飛鳥に割拠した天武や持統は「天皇」号を名乗り、その宮殿は「飛鳥浄御原大宮」と呼ばれていたことになります。そしてその考古学的根拠(エビデンス)として、比較的大規模な「伝板葺宮」「エビノコ郭」遺跡が飛鳥池の近傍にあり、その遺跡を「飛鳥浄御原大宮」とする仮説が成立します。なお、この宮殿遺跡は前期難波宮よりも規模が劣りますが、大宰府政庁よりも巨大です。7世紀後半頃の大和飛鳥にこの規模の宮殿遺跡が存在することを多元史観・九州王朝説論者は軽視してはいけません。更に、「千仏多宝塔銅板」銘文に九州年号が使用されていないことにも留意が必要です。(つづく)


第1953話 2019/07/29

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(3)

 前話で紹介した7世紀以前の金石文や史料に見える「天皇」のうち、最も明確で説得力を持つのが飛鳥池出土木簡の「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」です。その出土層位から7世紀後半の天武期の木簡と編年されていますし、そこに記された皇子たちの名前が『日本書紀』に見える天武天皇の子供の名前とほぼ一致していますから、考古学的出土文字史料(木簡)と古代文献(『日本書紀』)との整合という理想的で強力な実証力を有しています。同時代文字史料が極めて少ないという古代史研究においては極めて珍しい理想的なケースなのです。

 【『日本書紀』天武の皇子・皇女】
○斉明七年正月条 大伯皇女(大来皇女のこと)
○天武二年二月条 大来皇女 大津皇子 舎人皇子 穂積皇子

 この他にも飛鳥池からは最高権力者が用いる「詔」木簡などが出土しており、この地の権力者が7世紀後半に「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を名乗り、「詔」を発していたことを証明しています。そしてその皇子の名前が『日本書紀』の記事に対応していることから、飛鳥の地で近畿天皇家は天武の時代には「天皇」を称していたと理解せざるを得ません。こうした史料事実をエビデンスとして、一元史観では「天皇」号を称したのは天武の時代からとする説が最有力と見なされています。

 多元史観・九州王朝説に立つわたしも、この史料事実とそれに基づく理解については否定できないのです。実は古田先生との対話でも、この飛鳥池出土「天皇」木簡について意見が対立しました。古田先生はこの「天皇」も九州王朝の天子のことと理解されていました。ただ、その根拠は「天皇とあれば九州王朝の天子のこと」と説明されただけでしたので、わたしとの対話は平行線をたどりました。

 この飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は古田旧説(ナンバーツーとしての「天皇」)であれば矛盾無く説明できますが、古田新説での説明はかなり困難ではないでしょうか。もし古田新説で説明しようとすると、九州王朝の天子が7世紀後半頃に飛鳥にいて、その皇子たちの名前が天武の子供らと偶然一致していた、あるいは天武の子供たちの名前を九州王朝の天子の子供たちの名前に書き換えて『日本書紀』を編纂し、王朝交替後も「舎人親王」などのように九州王朝の天子の子供たちの名前を天武の実子たちは〝借用〟したとでも言うほかありません。しかし、このような解釈は説得力を持たないでしょうし、何よりも「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」を九州王朝の皇子たちの名前であるとするエビデンス(史料根拠)がありません。また、九州王朝の存在を隠した『日本書紀』編者や天武の実子たちがそのような改名をわざわざ行う必要性もメリットもありません。更に言えば太宰府条坊都市や前期難波宮・難波京という大規模な都城・宮殿を持つ九州王朝の天子が、飛鳥のような狭い地域の前期難波宮よりもはるかに小規模な飛鳥宮に〝遷都・遷宮〟する必要もありません。

 以上のような理由から、飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡は近畿天皇家の人物を示すとするほかありません。そうしますと、王朝トップの「天皇」が豪族に与える「八色(やくさ)の姓(かばね)」の「真人」姓を自らの名前中に持つ天武(天渟中原瀛眞人天皇)は古田旧説のようにナンバーツーとしての「天皇」号を称していたことになります。史料根拠と平明な論理性に基づく限り、わたしにはこの理解しか今のところできません。

 そして、一旦この理解に立つと、近畿から出土・伝来した7世紀の史料中に見える「天皇」号を九州王朝の天子の別称とする理解は困難となります。なぜなら、もし九州王朝の天子が「天皇」号も名乗っていたのであれば、ナンバーツーの天武に自らと同じ称号「天皇」を名乗ることを許すとは考えられないからです。ただ、次の可能性もあります。それは、壬申の乱に勝利した天武の時代には近畿天皇家が実力ナンバーワンとなり、九州王朝の天子と同じ「天皇」を自称したというケースです。この場合は、天武は飛鳥の宮で「天皇」を自称し、その実力で各地の豪族への支配を開始したということになります。わたしはこの二つの可能性(①ナンバーツー「天皇」号を飛鳥の天武は許された。②ナンバーワン「天皇」を天武は飛鳥で自称した。)について検討を続けています。(つづく)


第1952話 2019/07/28

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(2)

 わたしが古田旧説の根拠と考える7世紀以前の金石文や史料に見える「天皇」を紹介します。それは次の諸史料です。

○596年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○607年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○668年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○677年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○680年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(奈良県明日香村飛鳥池出土)
○686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)

 このように7世紀以前の「天皇」号史料は全て近畿で出土、あるいは伝来したもので、これら全てを北部九州(太宰府など)の九州王朝の天子のこととするのは困難ではないでしょうか。わたしの見るところ、野中寺の弥勒菩薩像台座銘の「中宮天皇」だけは九州王朝系の「天皇」(皇后か)の可能性を有していますが、他は近畿天皇家の天皇のことと理解する方が穏当です。

 これら近畿出土・伝来史料中の「天皇」を九州王朝の天子のことと判断できる他の史料根拠もないことから、古田新説はエビデンスに基づく論証というよりも当該史料そのものの〝解釈〟の積み重ねになりかねません。そうした方法で「天皇」を九州王朝の天子とするのは無理筋というものです。もちろんその方法を全否定はしませんが、その結果出された仮説は学問の方法としてはかなり不安定で危険なものと言わざるを得ません。(つづく)


第1951話 2019/07/27

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(1)

 九州王朝と近畿天皇家との関係について、古田先生は701年の王朝交替より前は、倭国の代表者としての九州王朝の天子に対して、筆頭臣下の近畿天皇家はナンバーツーとしての「天皇」を称していたとされました。ところが晩年に、7世紀の金石文などに残る「天皇」を九州王朝の天子の別称とする新説を発表されました。わたしは古田旧説を支持していましたので、この新旧の古田説の当否について古田先生との対話を続けてきました。
 わたしが古田旧説を支持している理由は、7世紀の金石文や史料、あるいは実物は現存していないが写本や拓本に残された「天皇」号史料などが近畿地方で出土あるいは伝来しており、その内容が『日本書紀』に記された近畿天皇家の事績とも大きく矛盾しないことなどによります。
 本シリーズでは古田先生との対話で取り上げた史料などを紹介し、わたしが古田旧説を支持している理由を説明します。もちろん私見への批判を歓迎します。学問は批判や真摯な論争・応答により深化発展するという性質を持っているからです。(つづく)