第1574話 2018/01/14

評制施行時期、古田先生の認識(10)

 本連載において、九州王朝(倭国)における行政区画「評制」(「国・評・里(五十戸)」制)の施行時期について、古田先生が7世紀中頃と認識しておられたことが先生の著書や講演録に記されていることを紹介してきました。
 こうした古田先生の認識については、わたしにとってあまりにも当たり前のことで、これを疑う方が古田学派内におられることに驚いています。もちろん、学問研究の問題ですから、この古田先生の見解やそれを支持するわたしに反対することも学問の自由です。「師の説にななづみそ」。本居宣長のこの言葉を「学問の金言」と古田先生は仰っていましたから、師の説といえども批判し、異なる説を発表することは学問の自由ですし、学問は真摯な批判や論争により発展してきました。
 しかし、古田先生がどのように認識されていたかを正確に理解した上で批判はなされるべきです。本テーマではありませんが、わたしが書いても言ってもいないことを誤引用・誤要約され、それを古賀の意見として批判されるという経験をわたしは度々しています。学問論争は批判する相手の意見を正確に理解することが基本であり常識です。
 古田先生は亡くなられましたが、わたし以外にも古参の「弟子」はご健在です(谷本茂さんら)。そうした方々への聞き取り調査も可能ですから、古田先生の見解を正確に理解した上で、学問的批判・討議の対象とされることを訴えて、本連載の結びとします。(了)


第1573話 2018/01/13

評制施行時期、古田先生の認識(9)

 わたしは「文字史料による『評』論 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で、史料を明示して評制施行時期について説明しました。もちろん古田先生にも『古田史学会報』を送り、拙稿を読んでいただいていました。同論稿では、孝徳期(七世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した次の史料を紹介しました。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に難波朝廷が天下に評制を施行したことが記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、7世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「行政区画」としての「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ないのです。もちろん、古田先生もこうした史料事実をご存じでしたから、評制施行時期を7世紀中頃と考えられていたのです。(つづく)


第1572話 2018/01/12

評制施行時期、古田先生の認識(8)

 既に何度か説明してきたところですが、『日本書紀』には例外のような「評」の記事があります。継体二四年(五三〇)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背評に迎へ討つ。背評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 任那に「背評」という朝鮮半島におかれていた「行政組織」が「地名化(地名として遺存)」しており、その地を倭国は「能備己富利」と名付けたという記事です。この記事について古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、三三六頁)において、次のような説明をされています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 古田先生がどのような定義により「行政単位」と表記されたのかはわかりませんが、これまで説明しましたように、朝鮮半島には「評」という行政組織名(官庁など)があったことから、それらの一つとして「背評」という組織名が、いつの頃からかは不明ですが存在しており、磐井の時代には「地名化」していたと説明されています。ですから「背評」はもともとは地名ではなかったと古田先生は認識されていることになります。この説明は、本連載で紹介してきた古田先生の認識と異なるところはありません。
 この記事は朝鮮半島における行政組織を考える上でも興味深いものですが、残念ながら当時の任那の「行政区画」が「国・県」制だったのか「国・郡」制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された「国・評・里(五十戸)」制(評制)だったのかは不明です。
 古田先生の認識を紹介するという本稿の趣旨とは少々離れますが、この『日本書紀』の「背評」記事について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から面白いご指摘がありましたので、紹介します。
 西村さんによれば、「背評は地名」という記事部分は『日本書紀』編纂時に書かれたものではなく、原史料に記されていたものではないかというものです。なぜなら、『日本書紀』編纂時(720年頃)であれば、九州王朝による評制の存在がまだ記憶されていた時期で、「背評」とあればまずは評制による地名と理解するはず。そうであれば「背評は地名」などと『日本書紀』編者はわざわざ書かないというのです。
 この西村さんのご意見はなるほどと思われましたので、わたしも深く考えてみました。そして次のような理解に達しました。

①この記事の原史料は九州王朝によるものである。
②その史料に任那における毛野臣の交戦記事が記されていた。
③「背評」での交戦記事(九州王朝への軍事報告書か)を記すとき、「背評」が朝鮮半島内の行政組織名と勘違いされないように、「地名である」とわざわざ付記した。
④その後、九州王朝は「背評」の地を「能備己富利」と名付けた。
⑤従って、「能備己富利」は九州王朝(倭国)による倭国風地名である。訓みは「ノビコフリ」あるいは「ノビコホリ」か。(『隋書』に記された倭国の王子、利歌彌多弗利(リカミタフリ)とちょっと似ています)
⑥以上の変遷を経て、『日本書紀』編者は「背評」を九州王朝(倭国)の評制の「評」とは考えず、そのため「背郡」と書き換えることなく、そのまま「背評」として『日本書紀』に採用した。この史料事実は、「背評」が九州王朝の評制地名ではないことの根拠でもある。

 以上のように考えましたが、いかがでしょうか。(つづく)


第1571話 2018/01/11

評制施行時期、古田先生の認識(7)

 古田先生が『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)収録の古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」で、「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と述べられたことに対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より、古田先生が「行政単位」という言葉を詳細な説明なしに使われたため、「評」という言葉の淵源と「評制」の開始時期を混同するという誤解を招いているとのご意見をいただきました。その上で、評制施行が七世紀中頃とする古田先生の認識こそが重要との助言をいただきました。これはもっともなご意見ですので、古田先生が評制開始を七世紀中頃と認識されていた証拠をもう一つ紹介することにします。
 古田先生が評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)の開始時期についてどのように認識されていたのかがわかる文が『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、2001年)にあります。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(219頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かれず、「評の時代」と書かれたはずです。
 このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされてきたのは明白ですし、そうした認識を前提にして、古田先生は30年にわたってわたしとの評制に関する学問的対話や、学会発表を続けてこられたのです。
 ちなみに、古田先生が使用されていた岩波の日本古典文学大系『万葉集』の先の「讃岐国安益郡」の部分の「郡」の字に、先生は◎印をつけておられました。その「郡」の字をわたしに示し、『万葉集』も『日本書紀』と同様に「評」を「郡」に書き換えていますと、熱く語っておられたことを、本稿を書いていて思い出しました。今から20年ほど前のことでした。(つづく)


第1570話 2018/01/10

評制施行時期、古田先生の認識(6)

 『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」では、倭国の「評制度の淵源」について説明された後、朝鮮半島諸国の「評」についても触れられ、「行政単位」が倭国と新羅では似ていることなどを次のように紹介されています。

 「この後朝鮮半島内では同じく評を名乗る例が出てまいります。
 基色在内曰啄評、国有云啄評・五十二邑靫 〈梁書 新羅伝〉 
 『梁書』に新羅で啄評という言葉を使っているというのがでてまいります。これも六世紀。新羅は啄評というのを使い、倭国側では評というのを使っている。行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね。
 さらに高句麗における評があります。
 復有内評・外評・五部褥薩 〈隋書、高句麗伝〉
 内評・外評と内外は付いていますが、ズバリ評がでてまいります。(中略)中国の影響を受けて新羅や倭国や高句麗が評を設定した、その証拠とみるべきです。」(26〜27頁)

 このように古田先生は「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と、新羅や高句麗も倭国と同様に中国の影響を受けて「評を設定した」とされています。もちろんこれらの「評」も称号(官庁名、軍事名)としての術語です。なお、古田先生はここで「行政単位」という用語を使用されていますが、通常、「行政単位」とは「行政区画」を施政・統治する機構という意味で使用されているようです。たとえばWikipediaには次のように説明されています。

 「行政区画(ぎょうせいくかく)とは、国家が円滑な国家機能を執行するために領土を細分化した区画のこと。行政区分(ぎょうせいくぶん)、行政区域(ぎょうせいくいき)ともいう。それらの行政区画を施政・統治する機構を行政単位という。〔1〕」
 「〔1〕例えば、東京都という「行政単位」が施政を行う「行政区画」は、東京都区部、多摩地域、東京都島嶼部である。」
 「行政区画の例 日本
 47の都道府県から構成されるが、その下に市町村、特別区(東京都のみ)が置かれる。町、村はいくつか集まって郡を形成する。また、市のうち政令指定都市には行政区が置かれる。」

 以上のような定義とは別に、「行政区画」と同じ意味で「行政単位」が使われるケースもあるようです。単純化していえば、7世紀中頃に九州王朝が日本列島内で施行したのが、行政区画である評制(「国・評・里」制)であり、朝鮮半島内での評(官庁名、軍事名)は行政単位(行政区画を施政・統治する機構)となります。ただし、当時の倭国が支配した朝鮮半島内の行政区画の詳細は不明です。従って、古田先生がここで述べられた「行政単位」とは、通常の定義である「行政区画を施政・統治する機構」の意味であることが、一連の文脈からも明らかです。(つづく)


第1569話 2018/01/09

評制施行時期、古田先生の認識(5)

 古田先生は、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来するとして、1983年10月の大阪講演会(市民の古代研究会主催)で次のように説明されています。『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された同講演録「大化改新と九州王朝」から引用します。

 「評制度の淵源
(中略)中国の評という概念は倭の五王のでてきます『宋書』にでてくるわけです。それによりますと、延尉という官職名について述べまして、これは裁判の制度であると同時に軍事の制度である。裁判と軍事を相兼ねたものであるという説明をしてありまして、その長官を延尉正。現代でも検事正といういい方をしています。これと同じ正です。副官は延尉監。第三番目の、一番末端の役目が延尉評なんです。そして
 魏・晋以来、直云評。
延尉評が省略されて、ただ評という言い方で呼ばれるようになった。魏・晋の魏は卑弥呼の行った魏です。南朝劉宋においてもやはり評といわれていた。」(25頁)
 「ここで六国諸軍事大将軍と名乗ることは、又自らの開府儀同三司と名乗ったことは、かって帯方郡の評が行っていた軍事、裁判支配権を私が替ってやるのを認めて欲しい、ということなのです。諸軍事のキーポイントは評なわけです。(中略)言い換えると評というのは朝鮮半島にあるけれど、倭国の称号なのです。官庁名というか軍事名というか術語なのですね。(中略)そうなりますと、筑紫の君の配下の評となってくるわけです。倭国内の評はここに始まっている。こういうふうに考えなければならない。」(26頁)

 このように、中国の延尉評や評が倭国の評の淵源であり、任那などの朝鮮半島にあっても倭国の筑紫の君の配下の評であるとされ,それを明確に称号(官庁名・軍事名)とされています。すなわち、7世紀中頃に施行された日本列島内の行政区画の評制(「国・評・里」制)とは別概念と、古田先生はされているのです。(つづく)


第1568話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(4)

 行政区画としての評制が7世紀中葉に九州王朝で始まったとする古田先生の理解(時期については通説も同様)が妥当であることを、わたしは「文字史料による『評』論 — 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で具体的な史料を明示して説明しました。更に同論稿を改訂した「『評』を論ず 評制施行時期について」を『多元』に昨年末に投稿しました。そこでは、評制施行が記された古代史料は全てその時期を7世紀中頃としており、それ以外の時期に評制を施行したとする史料は無いことを指摘しました。従って、一元史観であろうと多元史観・九州王朝説であろうと、史料根拠に基づく限り、評制施行時期は古田先生の理解通り、7世紀中頃と考えざるを得ないのです。
 他方、古田先生は九州王朝の行政区画「評制」(「国・評・里」制)における、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来することも説明されました。通説でも、朝鮮半島諸国にあった「評」という官職名や行政組織名が、倭国の行政区画「評制」の「評」という字の淵源と説明しています。しかし、両者は性格が異なります。中国や朝鮮半島諸国では「官職名」「行政組織」を意味し、日本列島では行政区画として地名とのセット(例:筑前国糟屋評など)で使用されています。従って、日本古代史学において「評制」と言う場合は後者を意味しますし、古田先生もそのように理解されています。(つづく)


第1567話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(3)

 『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」を紹介し、古田先生が評制施行を「七世紀中葉」と認識されていたことを説明しました。その後、古田先生は更に研究を進展させ、九州王朝は博多湾岸の「難波朝廷」で評制を施行したとする見解を明らかにされました。たとえば、二〇〇八年一月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』十二集、二〇〇九年明石書店刊。五〇頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、二〇〇八年六月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(三三頁)

 このように、「七世紀中葉」の施行とされた評制ですが、古田先生はその拠点を従来は太宰府の都督府、あるいは筑紫都督府とされていました。ここでは『皇太神宮儀式帳』(難波朝廷天下立評)などを根拠に、博多湾岸にあった九州王朝の別宮の「難波長柄豊崎宮」「難波朝廷」とする仮説(認識)を発表されました。この仮説の当否は別としても、古田先生がこのように理解されていたことがわかります。なお、「難波朝廷」という呼称は、中国南朝の冊封体制から離脱し、自ら「天子」を自称した7世紀以降の九州王朝にふさわしいものです。
 更に付言しますと、「難波朝廷天下立評」と記されている『皇太神宮儀式帳』は後代史料であり、史料として使用できないとする古田学派の論者もありますが、それは古田先生の学問の方法とは異なることが、この論稿からも明らかでしょう。(つづく)


第1566話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(2)

 日本古代史学界では有名な郡評論争というものが永く続きましたが、最終的には藤原宮などからの出土木簡により、7世紀は「国・評・里」という行政区画「評制」であり、8世紀になって全国一斉に「国・郡・里」の「郡制」に変化したことが明らかになりました。その郡評論争を主導したのが、坂本太郎さんとそのお弟子さんの井上光貞さんでした。7世紀は「評制」とする井上さんの説が論争では勝ったのですが、その師匠の坂本さんを批判した井上論文コピーを古田先生からいただきました。師匠への厚い礼儀を踏まえた批判論文で、師弟間の論争(論文)はかくあるべきとのことで、古田先生からいただいたものです。今から20年近く昔のことだったと思います。
 当時は「大化改新」やそれに関わって「評制」などについても古田先生を中心に勉強会を行っていたのですが、行政区画としての「評制」は九州王朝が施行したもので、その時期は通説と同じで、いわゆる「孝徳朝」時代の7世紀中頃という認識でした。もちろん古田先生も同見解でした。その古田先生の理解(認識)を示した文章がありますので、ご紹介します。『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」です。

 「七世紀中葉から末まで、日本列島(九州から関東まで)に実在した『評制』としての『評督』の上部単位。これは『筑紫都督府』以外にありえない。」(30頁)

 このように「評制」とその長官『評督』の実在期間を「七世紀中葉から末まで」と記され、評制施行が「七世紀中葉」と認識されています。更に次のような文章もあります。

 「では、その『廃評立郡の詔』は、いずこに消えたか。また、なぜ『隠さなければ』ならなかったか。この一点にこそ、最大の疑問がある。
 また、これに“呼応”すべき、いわゆる『孝徳天皇』による『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。これもまた、誰人にも答えることができない。」(31頁)

 ここでも評制施行時期が「孝徳天皇」のとき(七世紀中葉)との認識を前提に「『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。」と問題提起されています。これらの記述から、評制施行時期について「七世紀中葉」と古田先生が認識されていることは明らかです。古田先生との30年に及ぶおつきあいでも、古田先生はこうした認識を前提に学問的対話をされていました。そうしたわたしの記憶ともこれらの記述は一致しています。
 なお同書に収録されている講演録「研究発表 『大化改新詔の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判」では次のように記されています。

 「なぜかというと、『評督』の方は、出現が大体日本列島にほぼ限られている。そして、時期が、出現の時期が、七世紀半ばから七世紀末までに限られている。」(38頁)

 わたしはこの文章も、評制施行時期を「七世紀半ばから」とする古田先生の認識に基づいていると理解しているのですが、これを「評督」だけの開始時期のことで、「評制」開始時期ではないとする論者もあります。しかし、「評制」とその長官「評督」の成立は別時期とする理解は無理筋というものです。
 この文章は日本思想史学会(東京大学)での「講演録」ですから、「評制」と「評督」は「七世紀半ばから」との通説の理解を持つ研究者を対象にしたものです。従って、「評制」と「評督」の成立時期が同時か別かなどはそもそも発表の論点に含まれていません。この講演の主論点は、「評制」「評督」は九州王朝の「筑紫都督」下の制度とするものです。
 その点、先に紹介した「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」は論文ですから、不特定多数の読者を想定して、より正確な表記となっています。論文と講演録は同じ認識で古田先生は著し、口頭発表されているはずですから、「評制」とその長官「評督」の施行時期は「七世紀中葉」とするのが古田先生の理解(認識)と考えなければなりません。(つづく)


第1565話 2018/01/06

評制施行時期、古田先生の認識(1)

 古田先生が亡くなられてから、古田学派内でちょっと不思議な現象が起こりました。それは古田先生の発言や認識について、わたしが30年にわたって先生から直接お聞きしてきたことと、古田先生の見解(認識)は異なるとする、わたしへのご批判の声が聞こえ始めたのです。学問研究ですから、ご批判は全くかまわないし、むしろ学問の発展に批判や論争は不可欠とわたしは考えています。しかし、先生のご意見が不正確に他の人には伝わっているとしたら、後世の研究者や読者のためにも、正しく伝えておかなければならないと考えています。
 そこで今回は九州王朝(倭国)における「評制」開始時期についての古田先生の見解(認識)について、わたしが直接に見聞きしたことをご紹介します。わたしがこのように聞いた、という説明では納得していただけないでしょうから、先生の著書や講演録を引用し、解説したいと思います。
 なお、ここでいう「評制」とは日本古代史学の一般的な定義である、行政区画としての「国・評・里(五十戸)」制のことであり、評の長官「評督」などの行政制度のことを意味します。もちろん、古田先生も「評制」について基本的にこうした意味で使用されてきました。(つづく)


第1564話 2018/01/01

謹賀新年

 12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 「洛中洛外日記」読者の皆様、新年のお慶びを申し上げます。おかげさまで「古田史学の会」は組織的にも学問研究的にも発展しています。また東京や九州の友好団体との学術交流も活発化しております。これも、会員をはじめ支持者の皆様のご理解とご協力の賜と感謝しております。
 来る1月21日(日)には恒例となりました新春古代史講演会をi-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)にて開催します。皆様のご参加をお願い申しあげます。
 新年も古田史学の継承と発展のため役員一同精進してまいりますので、皆様の変わらぬご支援、ご協力をお願い申しあげます。

 12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《12月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/12/02 『東京古田会ニュース』No.177のご紹介
2017/12/07 八重洲ブックセンターの書棚
2017/12/15 大垣書店(イオンモール京都店)の書棚
2017/12/30 『多元』143号のご紹介


第1563話 2017/12/31

「天武朝」に律令はあったのか(補)

 前期難波宮が律令制下の宮殿・官衙であり、九州王朝律令による「大蔵省」「兵庫職」や大蔵省配下の「漆部司」がその宮域に存在した痕跡や史料について説明してきました。こうした史料は九州王朝律令の復元研究に役立つものと思います。
 前期難波宮にあった「難波朝廷」でどのような律令が施行されていたのか、いつ施行されたのかなど、わからないことばかりです。おそらくは大和朝廷の大宝律令に内容的に近いのではないかと推定しています。というのも、王朝交代したばかりの近畿天皇家にとって、九州王朝律令は国内では唯一のお手本でもあり、おそらくは九州王朝の官僚群の一部は大和朝廷に徴用されたり、新王朝設立に参画したと思われますので、この推定はそれほど荒唐無稽ではないと考えています。
 その施行時期についても一つの試案があります。それは九州年号「常色」年間(647〜651)ではないかとするものです。九州年号研究の初期段階では、九州年号に仏教に関する文字が多いことから、この「常色」も仏教に関係する「用語」ではないかと考えていました。ところが正木裕さんの研究により、この常色年間に九州王朝(倭国)で様々な制度改革や政治的事績の痕跡が諸史料に見られることから、「常色」の「常」は「のり。典法」のことであり、法律や制度を意味するという説が有力となりました。
 評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)が全国で開始(天下立評)されたのも、現在の研究では「常色」年間頃とされていますし、常色6年は改元されて白雉元年(652)となり、この年には国内初の朝堂院様式の巨大宮殿である前期難波宮が完成しています。こうした一連の国家的事業とともに常色年間に九州王朝(倭国)は新たな律令「常色律令」を施行したのではないかと考えています。これはまだ作業仮説(思いつき)の域を出ませんが、有力な視点ではないでしょうか。引き続き、研究を深めたいと思います。