第1412話 2017/06/11

観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦

 「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)「塔心柱による古代寺院編年方法」において、古代寺院遺跡における塔の心柱礎石の高さや形態が大まかな編年基準として利用できることを紹介しましたが、より具体的な年代は出土した瓦や土器などの相対編年に依らざるを得ません。他方、建立年次などが記された文字史料(縁起書や年代記)などは伝承史料として有力な根拠とされます。
 礎石や瓦などの考古学的史料による相対編年と文字史料による記録年代が一致した場合はかなり有力な説とされますが、これは古田先生が“シュリーマンの法則”と呼ばれたものです。たとえば太宰府の観世音寺の創建年は“シュリーマンの法則”が発揮できた事例です。
 観世音寺の創建は通説では8世紀初頭とされていますが、文字史料としては『続日本紀』には天智天皇の命により造営されたとあり、九州年号史料の『二中歴』には「白鳳」年間(661〜683)、『勝山記』『日本帝皇年代記』には「白鳳10年(670)」の創建と記されています。
 他方、考古学的には創建瓦の老司Ⅰ式が7世紀後半と編年されてきましたので、文字史料と考古学史料が見事に一致しています。瓦の他にも国宝の銅鐘も7世紀末頃、塔心柱の形態も7世紀後半として問題ありません。これこそ古田先生のいわれる“シュリーマンの法則”の好例であり、一元史観の通説よりも「白鳳10年創建」説が有力説ということができます。更に、これとは異なる文字史料の発見(実証)や考古学史料の出土(実証)もなく、年代判定可能な根拠を有する他の有力説がない点でも安定した仮説といえるでしょう。
 このように観世音寺の創建「白鳳10年」説は比較的安定して成立しているのですが、その創建に関わる歴史的事象については、九州王朝研究においても未解明なことが多くあります。「洛中洛外日記」751話(2014/07/24)「森郁夫著『一瓦一説』を読む」で紹介したように、観世音寺創建瓦から飛鳥の川原寺、近江の崇福寺との同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土しているのです。森郁夫著『一瓦一説』には次のように記されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。あるいは近年、正木裕さんから発表された「九州王朝系近江朝」説ではどのような説明が可能となるのでしょうか。
 これら三寺院の様式は「川原寺式」あるいは「観世音寺式」に分類され、東に塔、西に金堂が配置され、しかも金堂は東面するという共通した様式を持っています。この塔堂配置の一致と同笵軒丸瓦の出土は、偶然ではなく、三寺院が密接な関係を有していたと考えざるを得ません。
 それら寺院の建立年代は、川原寺(662〜667)、崇福寺(661〜667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定され、観世音寺がやや遅れるものの、ほぼ同時期とみてよいでしょう。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係、正木説「九州王朝系近江朝」を考える上で重要な問題を提起しています。これからの研究課題です。


第1411話 2017/06/03

世界最古の会社「金剛組」の始祖

 「洛中洛外日記」1410話「九州王朝系の老舗」で、現存する世界最古の会社が四天王寺を建立した株式会社金剛組であることに触れましたが、その出自を知りたくてネット検索したところ、微妙に異なる諸説がありましたが、次のような説明が今のところ最も有力なようです。

「朝日新聞デジタル」
ニュース>トピックス>四天王寺に関するトピックス

金剛組(2014年03月29日 夕刊)
 西暦578年の創業と伝わり、帝国データバンクは「把握する限り日本最古の企業」と説明している。日本書紀に「百済に行った使者が僧や造寺工を連れ帰り、難波(大阪)に住まわせた」という趣旨の記述があり、金剛組の系図は「用明天皇の皇太子(聖徳太子)が金剛、早水、永路の3人の大工を召して四天王寺を建立した。この金剛重光が当家の始祖である」と伝える。

 この朝日新聞デジタルの「金剛家系図」に基づく解説によれば、金剛組の始祖は百済から来た「大工」とのことです。そうしますと、当時の倭国(九州王朝)と百済の友好関係から考えると、百済から金剛重光を招来したのはやはり九州王朝と考えてもよいようです。金剛家系図を是非拝見させていただきたいものですが、金剛組か金剛家とお知り合いの方がおられれば、ご紹介いただけないでしょうか。


第1410話 2017/06/01

九州王朝系の老舗

 山形新幹線で東京に向かっています。今回の出張では群馬県の代理店Y社の方とお会いしました。聞けばY社は創業300年の老舗とのこと。江戸時代中頃の享保2年(1717)の創業で、宗家は近江国蒲生郡日野のご出身とのことです。日野には鬼室集斯神社があり、九州年号「朱鳥三年戊子」(688年)銘の墓碑があることでも有名です。
 Y社の方との雑談で、現存する世界最古の会社は、聖徳太子の時代に四天王寺などを建立した株式会社金剛組であることを紹介しました。聖徳太子の時代ですから創業1400年以上になります。金剛組は四天王寺以外にも大和の寺社の建立や修築に関わってきた伝統がありますから、わたしは大和朝廷お抱えの近畿出身の宮大工集団と思ってきたのですが、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に見える「二年 難波天王寺聖徳造」が九州王朝系記事の可能性が高いことから、この難波天王寺を金剛組が建立したのであれば、九州王朝の天子・多利思北孤か太子の利歌彌多弗利が連れてきた筑紫の宮大工だったのかもしれません。「聖徳太子」関連史料をそういう視点で精査すれば、何かわかるかもしれません。
 他方、昭和35年頃まで続いた九州王朝系の企業がありました。太宰府の瓦製造メーカー「平井瓦屋」です。大宰府政庁から出土した瓦に「平井」「平井瓦」という銘文を持つものがあり、平井瓦屋が古代九州王朝の時代まで遡る可能性があるのです。このことを「洛中洛外日記」35話(2005.10.12)「太宰府の平井瓦屋」で紹介したことがあります。古代の太宰府に九州王朝の宮殿の瓦を製造した「平井」という名前の方がおられたということでしょうね。今でも太宰府市あたりにご子孫の平井さんが住んでおられるのではないでしょうか。


第1409話 2017/06/01

5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 5月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/05/02 『多元』139号のご紹介
2017/05/05 泥憲和さん(元「古田史学の会」会員)のご冥福をお祈りします
2017/05/13 「論証」と「実証」に関する大芝稿
2017/05/18 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会の案内チラシ
2017/05/22 「古田史学の会」会計監査、無事終了


第1408話 2017/05/30

佐藤論文に見える飛鳥編年の脆弱性

 土器の相対編年(様式変遷)などにより10年単位で暦年(絶対編年)が可能とする飛鳥編年(白石説)が、その根拠とした基礎データや『日本書紀』の暦年記事の信頼性が学問的に脆弱であることを、これまでも繰り返し指摘してきました。たとえば「洛中洛外日記」1387話「服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を」においても、次の服部さんのメッセージを転載しました。

【服部さんのメッセージの転載】
飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。

 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。

 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 ※服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)

 前期難波宮孝徳期造営説に対して飛鳥編年を根拠に批判される論者からは、残念ながらまだ服部説への応答がないようです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させるとわたしは考えていますので、服部説への真摯なご批判を期待しています。

 前期難波宮造営時期について、飛鳥編年と難波編年の対立が考古学者間でも続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持するに至っていると聞いています。もちろん、学問は「多数決」ではありませんから、その当否・優劣は論証そのものにより決まります。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判においても、飛鳥編年を根拠に否定するという論者が見られますが、どちらの編年がより正しいのかが考古学的に論争されてきたのであり、“飛鳥編年によれば難波編年が間違っている”“飛鳥編年によれば660年代となる土器が前期難波宮整地層から出土している”というレベルの批判(循環論法)では、およそ学問論争の体をなしません。
その点、難波編年の妥当性を証明するために、出土「戊申年」木簡(648年)や出土木材の年輪年代測定値(634年)、出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)を根拠(実証)に、孝徳期造営説が妥当としてきた大阪歴博や大阪府埋蔵文化財センターの考古学者の説明(論証)の方が合理的で説得力があります。他方、孝徳期造営説を批判する側からは、自説の根拠となる前期難波宮出土物の理化学的年代測定値の提示(実証)は全くありません。こうした両者の提示した実証や論証を冷静に比較したとき、そこには質・量ともに明確な差があり、従って大多数の考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持していることも当然であり、既に「勝負はついている」と、わたしには思われるのです。
今回、読んだ大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」でも、直接的な表現ではありませんが、随所に飛鳥編年の問題点が指摘されています。たとえば、土器の「法量変化」に関する指摘です。土器の径が時代とともに小さくなることを前提に成立していた飛鳥編年(白石説)に対しては、先に紹介したように服部さんも批判されていますが、佐藤論文にも同様の指摘がなされています。

 「筆者は飛鳥Ⅲを細分する必要性は感じていないが、たしかに飛鳥Ⅱの資料や飛鳥Ⅳの代表例である雷丘東方遺跡SD110などの資料と比べると、後者との様相差がより小さく見える(図4)。その内容としては、飛鳥Ⅲ・Ⅳでは土師器・須恵器ともに坏A・Bが定型化すること、土師器坏Cの器高がこの間に低下していくこと、いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなることなどである。」(8頁)

 わたしは「いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなる」という部分を読み、図4を確認したところ、佐藤さんの指摘通り、より新しく編年されている飛鳥Ⅲ・Ⅳの須恵器の方が飛鳥Ⅱよりもかなり大きいのです。わたしも、土器(主に須恵器)の径は時代が下がるとともに小型化するという飛鳥編年の基本テーゼは信用していましたので、佐藤論文の指摘にとても驚きました。考古学の土器編年を、もっと勉強しなければならないと深く反省しました。


第1407話 2017/05/28

前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致

 大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」を何度も読み返しています。興味深い出土事実や『日本書紀』の記事との関係についての指摘が記されているのですが、次の点は特に重要と思われました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。
 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。この考古学的事実こそ、前期難波宮九州王朝副都説に見事に対応しているのではないでしょうか。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波副都は停滞を始めたと思われます。
 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器の出土量の比較変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されている考古学者ならではの慧眼と思います。そして佐藤さんが指摘された考古学的出土事実こそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と最もよく対応しているのではないでしょうか。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 考古学者ならではの鋭い指摘と言わざるをえません。土器による相対編年以外にも、出土干支木簡や出土木材の年輪年代測定、出土木柱の理化学的年代測定という絶対編年の参考となる「実証」に基づいて難波編年を作り上げてきた大阪の考古学者たちに対して、『日本書紀』孝徳紀の記事を盲信したものと非難する論者もありますが、その非難が失当であることは、この佐藤論文からも明らかと言えるでしょう。


第1406話 2017/05/27

大阪歴博『研究紀要』15号を閲覧

 先日、大阪歴博に行き、最新の報告書を探しました。すると、本年3月発行の大阪歴博『研究紀要』15号があり、閲覧しました。余談ですが、大阪歴博の図書コーナーの受付の方や相談員の方(考古学者)にはいつも懇切丁寧に質問や書籍照会に応じていただき、感謝しています。
 『研究紀要』15号には次の3稿が特に注目すべき内容でしたので、コピーしました。

○村上健一「隋唐初の複都制 七世紀複都制解明の手がかりとして」
○佐藤 隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」
○栄原永遠男「難波屯倉と古代王権 -難波長柄豊碕宮の前夜-」

 村上稿は日本の複都制への中国の隋唐朝の影響について論じられたものです。佐藤稿は最新の土器研究に基づき難波編年と飛鳥編年、さらには『日本書紀』の記述との関係性について論じられたもの。栄原稿は文献史学により「難波屯倉」について論じられたもので、いずれも一元史観に立ってはいるものの、参考になる内容を含んでいました。
 とりわけ、佐藤稿は出土土器の最新状況や難波編年と飛鳥編年の関係性に論究した優れたものでした。『日本書紀』の記述との一致や不一致についても丁寧に論じられており、多元史観にとっても示唆に富むものでした。考古学の専門用語が多く、難解ではありますが、繰り返し精読しています。九州王朝説でなければ説明できないような、とても面白い指摘が随所に見えますので、これから「洛中洛外日記」で紹介していきます。お楽しみに。


第1405話 2017/05/26

前期難波宮副都説反対論者への問い(8)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」への学問的に意味不明な「批判」もありましたが、他方、わたしには思いもよらなかった優れた研究が次々と発表され、前期難波宮九州王朝副都説の傍証となった例が何件もありました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見された「番匠」問題は、巨大都市造営についての重要な視点を与えてくれました。
 九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』に記されていた孝徳期の九州年号「常色」年間(647〜651)に記された「番匠初」という記事が、前期難波宮造営のために全国から「番匠」(都や宮殿の建築技術者)を動員した九州王朝系記事ではないかと、正木さんは指摘されたのです(「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年4月)。『日本書紀』には見えない、しかも九州年号により記された記事(実証)ですから、九州王朝が難波副都を造営するために全国から「番匠」の動員を開始したとする正木説に説得力を感じました。『伊予三島縁起』は九州年号研究のため何十回も読んだ史料でしたが、この「番匠初」の持つ意味に、正木さんから指摘されるまで気づかなかったのです。そして、この「番匠」問題は更に論理の展開を促しました。
 古代日本の最初の朝堂院様式の巨大宮殿や周辺の官衙群、そして条坊都市の造営に大量の「番匠」(建築技師)や建築作業者が必要なことは当然ですが、ことはそれだけには留まりません。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究(「古代の都城 宮域に官僚約八千人」『古田史学会報』136号、2016年10月)によれば、前期難波宮と周辺官衙では約8000人の官僚が働いていたとされていますから、難波京には官僚の家族と使用人、そして都市機能を支える商工業者とその家族など、少なくとも数万人、あるいはそれ以上の人々が生活していた人口密集地だと考えざるを得ません。そうすると、その巨大都市を支えるためには「番匠」の他にも食料・生活必需品の物流拠点(港)と道路など様々なインフラやシステムが構築されていたはずです。論理的にはこのように進展せざるを得ないのです。
 そうすると、8000人に及ぶ官僚群は現地採用と九州王朝の首都・太宰府からの「転勤」により確保することになります。それ以外の生活必需品の生産者も太宰府やその周辺から「転勤」させた可能性を考えなければなりませんが、そのような考古学的痕跡(実証)があるのです。
 九州王朝の首都太宰府条坊都市への土器提供を行ってきた北部九州最大規模の土器生産センターである牛頸窯跡群遺跡(大野城市・太宰府市・春日市)は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて急増しており、わたしの太宰府造営7世紀初頭説(倭京元年・618年が有力候補)に対応しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都に備えて、必需品で割れやすく消耗品でもある土器の生産が牛頸窯跡遺跡で開始されたと考えられます。
 ところが、7世紀中頃になると牛頸窯跡遺跡は急激に縮小します。この考古学的事実こそ牛頸の陶工たちが「番匠」と共に前期難波宮と条坊都市造営に伴って筑紫から難波へ移動したことを物語っているのではないでしょうか。わたしには、この牛頸窯跡群遺跡の盛衰が九州王朝の太宰府遷都(急増)と難波副都造営時期(激減)に見事に対応していることを偶然とは思えないのです。牛頸窯跡群遺跡の盛衰については「洛中洛外日記」1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」に紹介していますので、こちらもご覧ください。(つづく)


第1404話 2017/05/22

前期難波宮副都説反対論者への問い(7)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」の提唱以来、様々な種類のご批判をいただいたのですが、学問的に意味不明の「批判」もあり、まともに反論してもよいものかどうか迷ったこともありました。たとえば前期難波宮がある上町台地付近には「難波津」はなかったという「批判」がありました。前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無が何の関係があるのだろうかと、批判の意味や因果関係の理解に苦しんだものです。ちょっと考えただけでも次のような疑問が浮かんだからです。

1.前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無の因果関係が不明。

2.古代の上町台地は三方を海(瀬戸内海)や川、湖(河内湖)に囲まれており、記紀や『万葉集』の記述、考古学的出土物からも海運の盛んな地であったことは明白。そこに「港」が無いはずがない。

3.記紀や『続日本紀』『万葉集』など主要古代史料に当地が古くから「難波」と呼ばれていることが記されている。それらすべてが「嘘」とする論証や実証など見たことも聞いたこともない。

4.7世紀の当地(摂津難波)には「難波」あるいは「難波津」という地名はなかった、などという証明は不可能。それこそ「悪魔の証明」である。一体どのような実証的方法で「なかった」ことを証明されたのでしょうか。

5.『養老律令』でも当地には特別な地方組織「攝津職(せっつしき)」が置かれており、史料上では天武期には既に攝津職が置かれていたと見られている。攝津職とは港(津)を司る職掌であり、後には「摂津国」という国名になる。このことからも7世紀の当地が摂津職が置かれるほどの重要な港湾都市であったことは明らか。

 以上のような極めて常識的な判断や推論が可能なため、「難波津はなかった」という「批判」に答える必要もないと考えていました。しかしながら、学問的に意味不明な「批判」にも真摯に答えるのが学問研究のあり方と思い直し、本稿を執筆することにしました。もっとも、前期難波宮九州王朝副都説の当否とは因果関係のない応答であることには変わりありません。
 なお付言しますと、記紀などに見える「難波」を全て北部九州とする論者があります。わたしも各地に「難波」という地名が古代において存在した可能性を支持しています。しかし、その場合でも記紀や『万葉集』に匹敵する古代史料の提示が必要でしょう。自説の史料根拠(実証)はなくてもよいが、摂津難波説に対しては記紀や『万葉集』などを史料根拠として認めないというのでは、真摯な学問論争とは言えませんから。(つづく)


第1403話 2017/05/20

南方熊楠生誕150年

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつものi-siteナンバではなくドーンセンターで開催されました。7月まではドーンセンターで開催されますので、お間違えなきよう。
 今年は和歌山県が生んだ世界的天才学者、南方熊楠の生誕150年とのことで、岡下さんから南方熊楠の著作や学問研究スタイルについて報告がありました。鶴見和子さんの著書『南方熊楠』から引用された「南方の強みは、自分の経験及び自分で調べた資料にてらしあわせて、命題の妥当性をたしかめてみる、権威によって、たやすく信じることをしない、という点にあった。」という論評は、わたしが20代の頃読んだ「南方熊楠選集」の読後感と通じるところがあり、懐かしく思いました。
 わたしも久しぶりに「『副都詔』(天武紀)の史料批判」を発表させていただきました。その内容は「洛中洛外日記」1398話「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)話」をベースに、副都建設・遷都の手順や、水城築造などについても論究しました。
 5月例会の発表は次の通りでした。和泉史談会の矢野会長様にもご参加いただきました。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。

〔5月度関西例会の内容〕
①カグツチ神と「夏来にけらし」歌(大阪市・西井健一郎)
②「倭国」「日本国」認識の系譜(八尾市・服部静尚)
③日羅に関する考察(茨木市・満田正賢)
④皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武・元明天皇の考察(犬山市・掛布広行)
⑤「副都詔」(天武紀)の史料批判(京都市・古賀達也)
⑥「南方熊楠」生誕150年(京都市・岡下英男)
⑦フィロロギーと古田史学【その2】(吹田市・茂山憲史)
⑧ニギハヤヒの正体(東大阪市・萩野秀公)
⑨佐賀なる吉野に行幸した天子とは誰か(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 和泉史談会矢野会長様からご挨拶・会費入金状況・年間活動報告・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)で5/12西川寿勝氏(狭山池博物館)、中尾智行氏(弥生文化博物館)が講演「大阪の歴史資産を現代に活かす -学芸員の取り組み-」、5/26古賀が講演予定「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」・『古代に真実を求めて』21集企画案検討中・『古田史学会報』投稿要請・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会と懇親会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会5~7月会場変更の件(ドーンセンター、京阪天満橋駅近く)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)・東京(10/15)で開催・沖ノ島世界遺産認定の件・その他


第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第1401話 2017/05/19

前期難波宮副都説反対論者への問い(5)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮副都説」にわたしが決定的に傾いた瞬間(発見)がありました。それは上記の問4の「答え」に気づいたときのことでした。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650)二月条の大規模な白雉改元の儀式が行われた7世紀中頃の宮殿遺構候補が見つからず、永く考え込んでいた時期がありました。この白雉改元記事に関して、わたしは次のように論理展開していました。もちろん、実際は考察において右往左往しており、思考の順番は必ずしも一貫性があったわけではありません。

1.「白雉」は九州年号だから、この改元の儀式は九州王朝の宮殿で行われたはず。
2,その様子が『日本書紀』白雉元年(650)二月条に記載(盗用か)された。
3.その大規模な儀式を行うためにはかなり大規模な宮殿や「庭(朝廷)」が必要。
4.太宰府政庁Ⅱ期の宮殿では狭すぎて、白雉改元儀式の舞台とするには苦しい。
5,その点、7世紀中頃に造営された前期難波宮であれば、規模や様式(大規模な朝廷)は候補地として問題ない。
6.しかし、前期難波宮の造営は孝徳紀白雉三年(652)であり、まだ完成していない。
7.『日本書紀』白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿遺構がない。なぜだろう。

 このようにわたしの思考は展開(右往左往)していたのですが、四国の松山市(古田史学の会・四国の講演会)に向かう特急列車の中で、九州年号の白雉元年(652)は『日本書紀』の白雉元年(650)とは二年ずれているのだから、九州年号「白雉」改元儀式が行われたのは『日本書紀』にある650年ではなく652年。この年であれば前期難波宮はほぼ完成しているのではないかということに気づいたのです。そこで、松山駅に到着して迎えに来ていただいた合田洋一さん(「古田史学の会・四国」事務局長)にお願いして市内の大型書店に直行し、『日本書紀』を購入し「前期難波宮造営」記事の年次が652年であることを確認したのでした。その後、孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元記事が同三年二月条から切り貼りされたものである痕跡を発見し、「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」(『古田史学会報』76号2006年10月。『「九州年号」の研究』に収録)として発表しました。
 この瞬間、わたしは「前期難波宮九州王朝副都説」の論証は成立するのではないかとの思いを強くしました。そして論理展開は更に進み、九州王朝の副都前期難波宮で行われた白雉改元儀式に近畿天皇家の孝徳(あるいはその代理者)は参列したのではないか。だからこそ白雉改元の儀式の内容を正確に把握でき、『日本書紀』孝徳紀に儀式の詳細を記載することができたと考えたのです。
 『日本書紀』によれば当時の孝徳の宮は「難波長柄豊碕宮」(大阪市北区長柄豊崎と推定)とされており、前期難波宮がある大阪市中央区法円坂とは地下鉄で5駅ほどの場所ですから、改元儀式に参列可能な距離です(通説では前期難波宮を「難波長柄豊碕宮」としていますが、地名が異なります)。
 『日本書紀』に記された九州年号「大化」「朱鳥」については改元儀式記事の記載がないことから、この二つの年号の改元儀式に近畿天皇家の天皇は参列していなかったのではないでしょうか。というのも、前期難波宮は686年に焼失しており、「朱鳥」改元はその後になされていますし、九州年号「大化」は元年が695年ですから、どちらも前期難波宮が焼失後のことで、おそらくこの二年号の改元儀式は太宰府で行われたと思われます。ですから近畿天皇家は遠く離れた太宰府での改元儀式の詳細がわからず、『日本書紀』に記載できなかったとも考えられるのです。(つづく)