第834話 2014/12/09

鬼前太后と「キサキ」

 図書館で遠山美都男著『古代日本の女帝とキサキ』(平成17年、角川書店)が目に留まり、流し読みしたのですが、実は日本語の「キサキ」(お妃・お后)について以前から気になっていたことがありました。それは「キサキ」の語源についてでした。「キサキ」の意味について同書では「古代においては、キサキというのは天皇の正式な配偶者ただ一人を指して呼んだ」(10頁)とされており、それはよくわかるのですが、なぜ天皇の正式な配偶者「大后」(皇后とも記される)を「キサキ」と訓むのかについては説明が見あたりませんでした(わたしの見落としかもしれませんが)。
 九州王朝の天子、多利思北孤のために造られた法隆寺の釈迦三尊像の後背銘冒頭に次の記述があります。

 「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」

 この鬼前太后は「上宮法皇」(多利思北孤)の母親のことですが、この「鬼前」の訓みがはっきりしませんでした。とりあえず古田学派内では「きぜん」とか「おにのまえ」と訓まれてきたようなのですが、この鬼前が「キサキ」の語源ではないかとわたしはかねてから考えていました。すなわち、「鬼前」の訓みを「きさき」ではないかと考えているのです。もちろん、絶対にそうだというような根拠や自信はありません。
 このアイデア(思いつき)の良いところは、その語原がはっきりしない「キサキ」について、とりあえず九州王朝中枢で成立した古代金石文(後背銘)が根拠であるということと、王朝に関する用語の訓みを九州王朝で先行して成立したとすることは、九州王朝説論者にとっては納得しやすい点です。弱点としては、鬼は「き」と音読みし、前は「さき」と訓読みするという「重箱読み」であることです。
 これは仮説というより単なる思いつきにすぎませんので、皆さんに披露し、ご批判を待ちたいと思います。あるいは「キサキ」の語源をご存じの方があれば、ご教示ください。


第833話 2014/12/08

九州年号史料と

  九州年号付加史料

 関西例会に姫路市から参加されている熱心な会員の野田利郎さんから、最近の「洛中洛外日記」の更新頻度が増えている理由についてご質問いただきました。確かに意識的に「洛中洛外日記」の更新ペースを上げているのですが、その理由の一つに、情報の共有化により古田史学・多元史観の研究速度を加速させるという目的がありました。
 たとえ「洛中洛外日記」のようなコラム的な小文とはいえ、新知見や新仮説、あるいは論証的にも妥当な内容をできる限り記すように心がけてきました。しかし、自分一人で研究するのではなく、多くの古田学派の研究者やホームページ読者にも一緒に考えていただいたほうが、学問的にも有益ですし、より真実に近づきやすいと思い、論証が成立していなくても、あるいは単なるアイデア・思いつきレベルのテーマでも、「洛中洛外日記」で紹介することにしたのです。ですから結果的に思い違いや誤ったことを書いてしまうかもしれませんが、そのことが読者のご指摘により明確になれば、それはそれで学問的に有益で前進でもあります。
 さらには自分では公知であると思い、とりたてて解説していないことが、結構知られていなかったり、理解の深さに差があることに気づかされることも少なくなく、そうした経験をするたびに、やはり繰り返して説明することも大切だと思うようになりました。
 たとえば、今年初めて参加した八王子セミナーのとき、たまたま夜にラウンジでお会いした皆さんと懇談する機会があったのですが、九州年号についてのご質問があり、九州年号史料と九州年号付加史料の差異やそれらの優劣についての説明をさせていただいたところ、そうしたことを初めて聞かれた方もあり、自分では常識でありわざわざ説明するまでもないと思っていることでも、丁寧な説明が必要であることに気づかされました。
 具体例を上げますと、九州年号が記されている国東長安寺蔵(大分県豊後高田市)『屋山関係年代記』(『九州歴史資料館研究論集13』所収、1998年)には「善記」を始め約30の九州年号が見えます。しかし、子細に観察しますと、誤字や異伝のものが散見され、九州年号の時代に成立した年代記の写本ではなく、後世において年代記編纂時に別の九州年号史料を参考にして、それら九州年号を付加したと見られます。従って、『屋山関係年代記』は「九州年号付加史料」であり、九州年号の時代に編纂された本来の「九州年号史料」の写本とは言い難いものです。ですから、九州年号史料としての価値は『二中歴』などに比べれば、はるかに劣ります。
 初期の頃の九州年号研究においては、このような「九州年号付加史料」をも本来の「九州年号史料」と同列に扱い、その原型論研究において、史料の「多数決」の一つとして使われたこともありました。史料の優劣を「多数決」で決めるという方法は誤っており、古田史学の方法とは異なるのですが、なかなか理解していただけないこともありました。
 この「多数決」という方法は、「邪馬台国」説の方が「邪馬壹国」説よりも多いから「正しい」とすることと同次元の「方法」であり、古田史学とは全く異なるもので、学問的に間違っています。こうした古田学派にとって当然のことでも、形やテーマが変わると誤って使用されることもあります。このような問題を「洛中洛外日記」でも丁寧に説明していきたいと思います。


第832話 2014/12/07

高良大社の留守殿

 『日本書紀』斉明四年十月条(658年)に「留守官」(蘇我赤兄臣)という官職名が記されています。岩波古典文学大系の頭注には「天皇の行幸に際して皇居に留まり守る官。」と説明されています。この「留守官」について、九州王朝の難波遷都(前期難波宮)にともない、太宰府の留守を預かる官職とする説を正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)は関西例会で発表されていました。
 この正木説に対応するかもしれないような痕跡を「発見」しました。筑後国一宮の高良大社(久留米市)の本殿の裏に「留守殿」という摂社があったという報告が高良大社の研究者として著名な古賀壽さんからなされていたのです。『高良山の文化と歴史』第6号(高良山の文化と歴史を語る会編、平成6年5月)に収録されている古賀壽さんの論稿「高良山の史跡と伝説」に「留守殿のこと」として、この「留守殿」が紹介されています。
 大正時代前半のものと認められる境内図に、本殿の真後ろに「留守殿」の小祠が描かれているとのこと。中世末期成立とされる『高良記』にも「留守七社」という記事が見えますから、現在ではなくなっていますが、「留守殿」は古くからあったことがわかります。古賀壽稿に引用されている太田亮『高良山史』の見解によれば「又本社には、もと留守殿七社あり、(中略)蓋し国衙庁の留守職と関係あろう。」とされています。古賀壽さんも「『留守社』また『留守殿』という特異な名称と、本殿背後の中軸線上というその位置は、この小祠のただならぬ由緒を暗示していよう。」と指摘されています。
 わたしは高良大社の祭神の玉垂命は「倭の五王」時代の九州王朝の王のこととする説(九州王朝の筑後遷宮)を発表していますが、このことから考えると高良大社本殿真後ろにあった「留守殿」は筑後国国庁レベルではなく、九州王朝の天子にとっての「留守殿」と考えるべきと思われます。
 この九州王朝の「留守殿」と先の斉明紀の「留守官」が無関係ではない可能性を感じています。高良大社の「留守殿」がどの時代の「留守官」に関係するのかはまだ不明ですが、九州王朝の遷都・遷宮に関わる官職ですから、筑後から筑前太宰府への遷宮に関係するのか、太宰府から前期難波宮への「遷都」に関係するのか、あるいはそれ以外の遷都・遷宮に関係するのか、今後の研究課題です。


第831話 2014/12/06

来年は高野山開創1200年

 来年は高野山開創1200年を迎えます。高野山は空海が開基した金剛峯寺をはじめ多くの寺院や旧跡があり、世界遺産とされています。わたしはまだ行ったことがありませんが、いつかは訪れたいものです。
 空海は『旧唐書』日本国伝にもその名が記された高名な僧侶ですが、わたしは空海について論文を一つだけ書いたことがあります。『市民の古代』13集(1991年、新泉社)に掲載された「空海は九州王朝を知っていた 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」という論文で、35歳の頃に書いたものです。全文が本HPに掲載されていますので、ご一読いただければ幸いです。
 「洛中洛外日記」323話でも触れましたが、空海の遺言に記された空海の唐からの帰国年(大同2年・807)の一年のずれの原因を解明し、その結果、空海が九州王朝の存在を知っていたとする結論に到達したものです。若い頃の未熟な論文ですが、論証や結論は今でも妥当なものと思っています。発表当時、仏教大学の講師の方から、同論文を講義に使用したいとの申し入れがあり、光栄なことと了解した思い出があります。
 同論文執筆に当たり、膨大な空海全集などを京都府立総合資料館で何日もかけて読破したことを今でも懐かしく思い出します。あの難解で膨大な空海の文章を読み通す気力も体力も今のわたしにはありませんが、そのときの体験が古代史研究に役立っています。若い頃の訓練や試練が今のわたしを支えてくれています。 そんなわたしも、来年は還暦を迎えます。できることなら、もう一つぐらい空海に関する論文を書いてみたいものです。


第830話 2014/11/30

『太平記』の天王寺

 「洛中洛外日記」でも度々取り上げましたが、『日本書紀』では「聖徳太子」による「四天王寺」の造営と記され、『二中歴』「年代歴」には倭京2年(619)に「難波天王寺」の建立が記録されています。現在では四天王寺という名称ですが、地名は天王寺(大阪市天王寺区)です。明治時代の地図にも天王寺村とされています。こうした状況から、本来の寺名は天王寺であり、『日本書紀』成立以後のある時期にその影響を受けて四天王寺という名称に変更され、他方、地名としての「天王寺」は本来の名称のまま残ったとする説を述べました。
 このわたしの見解は高名な落語家桂米團治さんのブログに取り上げられたり、最近では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)により、天王寺の移築問題などの研究が進められています。四天王寺から出土した瓦にも「天王寺」銘と「四天王寺」銘を持つものがあり、時代によって天王寺を名乗ったり四天王寺になったりしているようです。
 水野代表からお借りしている『太平記』には「天王寺」と記されていますから、『太平記』成立時の14世紀後半には天王寺と名乗っていたようです。現在は 四天王寺を名乗っていますから、14世紀末以降のどこかの時点で天王寺から四天王寺に改められたことになります。もう少し正確に言えば、『太平記』の時代以前にも、『日本書紀』成立後に四天王寺を名乗っていた時期があったとも思われますが、各時代の史料を調査すれば、寺名称の変遷が明らかになるものと思われます。


第829話 2014/11/29

『太平記』の藤原千方伝説

 今日は午後からお天気になりましたので、近くの相国寺さんを散策しました。法堂の真っ白な漆喰と真っ赤に紅葉した木々がとてもきれいでした。

 「洛中洛外日記」793話の「佐藤優『いま生きる「資本論」』を読む」で、16世紀に日本に布教に来た宣教師たちがマカオで印刷された日本語版『太平記』を読んで日本語を勉強していたことを紹介し、わたしも『太平記』を読んでみたくなったと書きました。そうしたら水野代表 が『太平記』を関西例会に持参され、貸していただきました。大正六年発行のかなり年期の入った『太平記』(有朋堂書店)上下2冊本で、「有朋堂文庫(非売 品)」とあります。
 面白そうな所から拾い読みしていますが、巻第十六の「日本朝敵事」に不思議な記事がありました。天智天皇の時代に藤原千方(ふじわらのちかた)という者 が四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えて伊賀と伊勢で反乱を起こしたという伝説です。朝廷から派遣された紀朝雄(きのともお)により鎮圧されますが、 天智の頃ですから九州王朝の時代です。『日本書紀』などには記されていませんので、史実かどうか判断できませんが、九州王朝説により解明できないものかと思案中です。なお、「天智天皇」を「桓武天皇」とする写本もあるようですが、実見していません。
 伊賀地方では今でも藤原千方に関する旧跡が残っているとのことで、当地では有名な伝説のようです。『太平記』にはこの他にも面白そうな記事があり、少しずつでも読み進めようと思います。以上、今回は軽い内容の「洛中洛外日記」でした。


第828話 2014/11/29

地名接尾語「さ」と「言素論」

 地名接尾語としての「ま」や「の」について論じてきましたが、まだよくわからない地名接尾語に「さ」があります。宇佐・土佐・稻佐・三笠・須佐・伊佐・石原(いさ)・麻・厚狭(あさ)・安佐・小佐(おさ)・岩佐・笠・加佐・笠佐・ 吉舎(きさ)・笹・奈佐・波佐・布佐・三佐・武佐・与謝・若狭など末尾に「さ」が付く地名は多数あります。従って、共通した何らかの意味を持つと考えられ ます。
 言葉の先頭に付く「さ」は、小百合や小夜曲のように「小さな」という意味の「さ」が知られていますが、地名接尾語の場合はそれとは違うようです。このように、「さ」の音に複数の異なる意味があることになるのですから、「言素論」で言葉を分析するさいに、どちらの意味を取るのかで恣意性が発生することもあ り、こうしたケースは学問的に不安定なことがご理解いただけると思います。
 「さ」の意味を探る上で注目されるのが京都府福知山市の石原(いさ)という地名です。「原」という字に「さ」という発音はなさそうですから、音ではなく訓(字の意味)の一致から「さ」の音に当てたのではなないでしょうか。そうであれば、「さ」は「原」(フィールド)の意味を持っていたことになります。そうしますと、「ま」(一定領域の意味)と似た意味となり、「○○さ」とは「○○」のフィールドということになります。まだアイデア段階ですが、地名接尾語 「さ」の意味をこれからも考えていきます。


第827話 2014/11/23

「言素論」の可能性

 「言素論」は日本古代史研究に新たな可能性を秘めているのですが、古代中国の音韻研究にも寄与できる可能性もあります。たとえば音韻復元が未だ困難とされている『三国志』時代の音韻研究ですが、倭人伝の国名分析により解明できるケースがあります。たとえば、「奴国」などの「奴」の音韻が、通説の「な」や「ど」ではなく、「ぬ」あるいは「の」の可能性が最も高いということがわかっ てきました。
 『三国志』倭人伝に記された倭国内の国名に「奴」の字がよく使われています(奴国・彌奴国・姐国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・狗奴国)。現在では「ぬ」「ど」とわたしたちは発音しますが、志賀島金印の「漢委奴国王」の場合は通説では「な」と訓まれています。倭人伝国名の末尾に「奴」が使用されていることが注目されますが、おそらく倭人の発音に基づき漢字を当てたものと思われますから、この「奴」が地名接尾語の可能性をまず考えるべきです。そうしますと、日本列島内の地名接尾語として多用されているのが、「ま」の他には「の」「さ」「な」などがあり、この中から「奴」の音の可能性があるのは 「の」と「な」です。しかし、地名としては「の」が圧倒的に多いことから、「の」の可能性が最も高いと思われます。
 たとえば思いつくだけでも、昨晩地震があった長野をはじめ、吉野・熊野・日野・信濃・星野・茅野・真野・高野・美濃・小野・遠野・角野・中野などいくらでもあります。したがって日本列島内に多数ある「○○の」という国名が倭人伝に無いと言うことは考えにくいので、「奴」を「の」と訓むのは合理的な選択肢となります。ただし、古代から現代までの音韻変化という問題がありますので、ここでは「の」あるいは「ぬ」に近い音という程度にとどめておくほうが学問的には安心です。中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)も著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社、2014年)で同様の考えを発表され ています。好著ですので、ご一読をお勧めします。
 「奴」の発音を「の」「ぬ」と考えた場合、次に問題となるのが、その意味です。地名接尾語として何らかの共通した意味があったはずですから、「言素論」 としてこの考察を避けて通れません。これまでは何となく「野原の野(の)」のことで、野原や広原の多い地名に接尾語の「の」が付けられたと考えていました。現に「○○野」という地名が数多くあります。もちろんこうした意味で「○○の」という地名が付けられたケースも少なくないと思われますが、倭人伝の 「奴国」や志賀島の金印の「委奴国」の場合、かなり大きな領域の国名と思われますから、古代においては「の」「ぬ」に単に「野原」ではなく何か特別な意味があったのではないかと考えています。残念ながら今のところ良いアイデアはありません。
 古田先生が提唱された「言素論」は発展途上の先駆的学問領域であるがゆえの限界や欠陥、想定できない問題の発生を避けられませんが、同時に大きな可能性も秘めています。古田学派内での活発な論議や仮説発表を通して発展させていきたいと思います。


第826話 2014/11/22

「言素論」の方法論

 「洛中洛外日記」824話などで、地名接尾語「ま」について紹介しましたが、 西村秀己さんから、「ま」が一定領域をあらわす言葉なら、なぜ「ま」が地名に付いたり付かなかったりするのか、地名そのものが一定領域を表しているのに、 なぜ更に一定領域を意味する「ま」が付く必要性があるのかという鋭いご質問をいただきました。そこで、今回はこの地名接尾語「ま」についてわたしの考えを説明し、「言素論」の方法論について触れることにします。
 まず、「ま」を地名接尾語とするための条件としては、末尾に「ま」を持つ多数の地名の存在が必要です。数が少なければ、偶然の一致かもしれないという批判をクリアできないからです。すでに何度も紹介しましたように、日本列島にはかなり多くの末尾に「ま」がつく地名があり、これを偶然とするよりも、何らかの必要性があり、地名の末尾に「ま」を付けた文明や集団が存在したと理解する方が合理的なのです。
 次に、「ま」が付いたり付かなかったりする理由ですが、幸いにも末尾に「ま」が付いたり付かなかったりする例が現在もあります。「床の間」「土間」「居間」「客間」「応接間」というように「ま」が付くケースと、「玄関」「便所」「台所」のように「ま」が付かない場所が家の中にあります。前者は「間」が付くことにより一定領域(空間)であることと、それがどのような目的の領域であるかがわかる仕組みになっています。後者は「間」の代わりに「所」という一定 領域(空間)であることを示す言葉が付加されています。あるいは漢語として目的と一定空間であることが明らかな「玄関」のような言葉には「ま」が不要であ り、付加されていません。
 おそらく、これと同様に末尾に「ま」を付加することにより、ある集団などの一定領域を意味するケースとしての地名接尾語「ま」が付けられたのではないで しょうか。すなわち古代日本列島において、特定集団の領域を表す言葉として「ま」があり、その集団名などの末尾に「ま」を付ける慣習があり、その結果、末尾に「ま」を持つ地名が多数成立したのではないでしょうか。
 実はこれと同様の地名領域表現として、中国風の「国(くに)」「県(あがた)」「里(さと)」名称などが導入され、後には「評」「郡」「郷」が国家権力の行政単位として採用されます。このように、より古い時代に一定領域をあらわす言葉として地名接尾語「ま」などが発生したと、わたしは考えています。
 以上、地名接尾語「ま」の成立を「言素論」の視点から考察したのですが、もちろん他に有力で合理的な説明や仮説があれば、比較検証し、どの仮説が最も妥当かを判断すればよいと思います。「言素論」を古代史研究に使用する場合は、少なくともこの程度の学問的手続きと用心深さは必要でしょう。(つづく)


第825話 2014/11/21

「言素論」の困難性

 今回は「言素論」の学問としての困難性について説明します。それは古代における発音・音韻が現在のわたしたちにはわからないことが多いことと、残されている史料の文字表記と古代の音韻とが正確に対応しているかどうか、これもわからないケースがあるという点です。
 このことを具体例(わたしの失敗)で説明しますと、たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介した「○○じ(ぢ)」地名の音韻における、「じ」と「ぢ」の 違いです。姫路や淡路、庵治、但馬、味野は「ぢ」と思われますが、「吉備の児島」の場合は普通「こじま」であり、「じ」です。わたしはこの「児島」も「こじ(ぢ)+ま」とするアイデア(思いつき)として述べたのですが、この点、倉敷市の「味野」地名を教えていただいた安田さんからメールをいただき、「ぢ」 ではなく「じ」ではないかとのご指摘をいただきました。『古事記』の国生み神話に見える「吉備児嶋」は「嶋」ですから「こじま」と発音され、安田さんのご指摘はもっともなものでした。
 ただ、わたしには思い当たることがあり、あえて「吉備の児島」の「児島」を「こじ(ぢ)+ま」とするアイデアを述べました。それは『古事記』の国生み神 話の「大八島国」の次に登場する六つの「嶋」(吉備児嶋・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・両児嶋)のうち、「吉備児嶋」だけは「嶋」(アイランド)ではなく半島で、しかも「吉備」という地名表記つきで、他の五つの「嶋」とは表記方法が異なっています。そこで、この「児嶋」は「嶋」と表記されていますが、本来 は「こぢ+ま」という領域名であり、それを『古事記』編者は「こじま」として他の五つの「嶋」と同様に「児嶋」と表記したのではないかと考えたのです。
 しかし、わたしのこのアイデア(思いつき)に対して、西村秀己(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、会計。高松市)さんから「児島半島は昔は島で、戦国時代以降の干拓により半島になった」とのご指摘があり、わたしの思いつきは成立困難であることがわかりました。
 「じ」と「ぢ」に限らず、古代日本語の発音は現代の五十音よりも多く(たとえば万葉仮名の甲類・乙類など)、今のわたしたちの発音・音韻感覚によって十把一絡げに同音だから同じ意味とすることはかなり危険が伴うのです。ここに「言素論」を利用するさいの難しさの一つがあります。(つづく)


第824話 2014/11/20

「言素論」の応用例

 「言素論」の学問的性格や方法論について説明したいと思いますが、抽象論ではわかりにくいので、なるべく具体論をあげるようにします。今回は応用例として「松」地名分析での経験を紹介します。
 語尾に「松(まつ)」がつく地名は全国にたくさんあります。たとえば有名な都市では浜松(静岡県)・高松(香川県)・小松(石川県)などです。いずれも海岸付近にあることから、何となく海岸に松林が多い所なのだろうと思っていたのですが、古田先生の「言素論」を知ってからは、考えを改めました。「松(ま つ)」の「ま」は地名接尾語の「ま」、「つ」は港を意味する「津」のことと理解できたのです。従って、地名の語幹部分は「はま(浜)」「たか(高)」「こ (小)」となります。
 「ま」が末尾につく地名は、薩摩・播磨・須磨・有馬・球磨・三潴・朝妻・鞍馬・宇摩・但馬・生駒・門真・筑摩・詫間・群馬・多摩・浅間・中間・置賜・埼玉・大間など数多くあり、これらは偶然ではなく、地名の末尾に付くべき何らかの意味を持つ言葉であることは間違いないでしょう。現在でも、土間・床の間・ 応接間・居間・隙間などのように、一定の空間・領域を意味する言葉として「ま」が使用されています。従って地名接尾語の「ま」も同様に一定領域や空間を意味すると考えられます。さらに敷衍すれば、山(やま)・島(しま)・浜(はま)・沼(ぬま)などの基本的一般名詞末尾の「ま」も語原が共通している可能性 があります。
 「つ」は現在でも大津(滋賀県)のように、港を意味する言葉として使用されています。以上の理解から、地名の末尾につく「松(まつ)」は、「ある一定領域にある港」とする理解でその多くは説明可能です。その証拠に、浜松・高松・小松の他、末尾に「松」を持つ地名の多くは海岸・湖岸・川岸付近にあり、この理解が正当であることを裏付けています。
 以上のように、「松」地名を松林が多い所とする浅薄な理解から、「言素論」により本来の意味に肉薄する深い理解が可能となるのです。これは「言素論」の応用例でも比較的成功した事例です。(つづく)


第823話 2014/11/19

「言素論」の基本前提

 古田先生が提唱され古代史研究において援用展開されている「言素論」について、古田学派内では様々な論議がなされています。特に「古田史学の会」関西例会では、その使用方法や理解をめぐって激しい論争が今も続けられています。わたし自身も「言素論」を利用して多くの仮説やアイデアを述べてきたこともあり、この「言素論」について整理する必要を感じています。そこでわたしの理解もまだ不十分ですが、「言素論」について見解をのべてみたいと思います。
 まず「言素論」成立のための基本的前提として、古代日本語の単語や文字表記において、一般的には「一字・一音節・一義」がより古い形態と考えることがあります。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。この fishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」 が「な」なのです。
 この基本前提に基づき、「一音節」ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味の構成を明らかにするのですが、同時に「どうとでも言える」という恣意性に対する批判を避けられないのです。その「どうとでも言える」という恣意性に基づいて立てられた「仮説」は危ういという批判が西村秀己さんらから出されており、それに対して「言素論」の持つ先駆性による限界をわきまえた上で、その学問的可能性を追求すべきという反論があり、わたしはこの立場に立っています。
 この対立は、賛成反対を問わず、「言素論」を古代史研究に利用しようとする論者にとって重要な問題なのですが、残念ながら十分な理解がなされないまま、 論文に「言素論」が使用されるケースが散見されます。こうした感想はわたしも西村さんも同様に抱いており、そこにおいてお互いの意見の違いはありません。 誤解を恐れず単純化すれば、「言素論」使用に対して厳格な条件を要求する西村さんと、とりあえず作業仮説(思いつき)として利用する分には、あまり厳しいことは言わないでもよいのでは、とするのがわたしです。
 もっとも西村さんが指摘されるように、「一音節」に複数の意味があるケースでは、どの意味とするのかは個人の勝手な判断となりかねず、論証抜きの恣意的な判断となる、という批判はわたしも認めるところです。たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介しました瀬戸内海地方に散見される「○○じ(ぢ)」という 地名の「じ(ぢ)」には共通した意味があるのではないかとする、わたしのアイデア(思いつき)においても、「ぢ」を神の古名である「ち」が濁音化したものとする理解もあれば、「道」を意味する「ぢ」かもしれず、どちらが妥当かは論証の対象であり、個人の勝手な判断で論を進めるのはあまり学問的態度とは言え ません。(つづく)