第832話 2014/12/07

高良大社の留守殿

 『日本書紀』斉明四年十月条(658年)に「留守官」(蘇我赤兄臣)という官職名が記されています。岩波古典文学大系の頭注には「天皇の行幸に際して皇居に留まり守る官。」と説明されています。この「留守官」について、九州王朝の難波遷都(前期難波宮)にともない、太宰府の留守を預かる官職とする説を正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)は関西例会で発表されていました。
 この正木説に対応するかもしれないような痕跡を「発見」しました。筑後国一宮の高良大社(久留米市)の本殿の裏に「留守殿」という摂社があったという報告が高良大社の研究者として著名な古賀壽さんからなされていたのです。『高良山の文化と歴史』第6号(高良山の文化と歴史を語る会編、平成6年5月)に収録されている古賀壽さんの論稿「高良山の史跡と伝説」に「留守殿のこと」として、この「留守殿」が紹介されています。
 大正時代前半のものと認められる境内図に、本殿の真後ろに「留守殿」の小祠が描かれているとのこと。中世末期成立とされる『高良記』にも「留守七社」という記事が見えますから、現在ではなくなっていますが、「留守殿」は古くからあったことがわかります。古賀壽稿に引用されている太田亮『高良山史』の見解によれば「又本社には、もと留守殿七社あり、(中略)蓋し国衙庁の留守職と関係あろう。」とされています。古賀壽さんも「『留守社』また『留守殿』という特異な名称と、本殿背後の中軸線上というその位置は、この小祠のただならぬ由緒を暗示していよう。」と指摘されています。
 わたしは高良大社の祭神の玉垂命は「倭の五王」時代の九州王朝の王のこととする説(九州王朝の筑後遷宮)を発表していますが、このことから考えると高良大社本殿真後ろにあった「留守殿」は筑後国国庁レベルではなく、九州王朝の天子にとっての「留守殿」と考えるべきと思われます。
 この九州王朝の「留守殿」と先の斉明紀の「留守官」が無関係ではない可能性を感じています。高良大社の「留守殿」がどの時代の「留守官」に関係するのかはまだ不明ですが、九州王朝の遷都・遷宮に関わる官職ですから、筑後から筑前太宰府への遷宮に関係するのか、太宰府から前期難波宮への「遷都」に関係するのか、あるいはそれ以外の遷都・遷宮に関係するのか、今後の研究課題です。

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