第17話 2005/08/05

「淡海は琵琶湖ではなかった」

 古田史学の会内部でしばしば研究テーマとなっているものに、「淡海」はどこかという問題があります。口火を切られたのが木村賢司さん(会員・豊中市)で、『万葉集』に見える「淡海の海」を全て抜き出され、その歌の内容から通説の琵琶湖ではありえないとされました(「夕波千鳥」、『古田史学会報』38号)。そして、淡海の海を博多湾近辺の海ではないかとされました。
 古田先生は現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされ、後に阿波(徳島県)近海と考察されるに至っています。
 西村秀己さん(本会全国世話人・向日市)は『倭姫命世記』に見える「淡海浦」の地勢記事から熊本県八代市の球磨川河口付近とする説を関西例会で口頭発表されました。
 いずれの説も一理あるものの決め手に欠けていました。そんな中で発表されたのが、水野孝夫さん(本会代表・奈良市)の「阿漕的仮説 — さまよえる倭姫」(『古田史学会報』69号)でした。その結論は西村説を裏づけるものですが、『倭姫命世記』に記された淡海浦の記事、すなわち西に七つの島があり、南には海水に淡水が混じって淡くなるという海域が八代市球磨川河口(球磨川の伏流水が水島付近で湧き出している)に存在することを見つけられたのでした。しかも、対岸の天草には放浪するお姫様の伝承を持つ姫戸などの地域があったのです。すなわち、倭姫伝承も九州王朝の伝承からの盗用だったのでした。
 これらの発見には、当地や有明海などに詳しい古川清久さん(会員・武雄市)の協力があったそうですが、こうした共同作業などは古田史学の会の持つ特長です。プロの学者でもできないような新発見が古田学派内では次々と行われています。あなたも古田史学の会に入って、一緒に研究しませんか。

「阿漕的仮説−さまよえる倭姫−」(『古田史学会報』69号)参考資料

ひぼろぎ逍遥阿漕(あこぎ)を参照

鯨魚(いさな)の問題や、歌そのものについては下記通り。

古田氏の「淡海」の過去の見解である『和名抄』の邑美については下記をご覧下さい。
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

この歌に対する古田氏の最新の理解(阿波の国、四国徳島近辺)については、
『古代に真実を求めて』 (第八集 明石書店)講演記録「原初的宗教の資料批判」の質問一をご覧ください。


第16話 2005/07/31

新東方史学会の立ち上げ

 この度、古田先生は新たな事業を推進するために「新東方史学会」を立ち上げられることになりました。その新規事業とは次の三点です。

(1)雑誌『古田学』(仮称、年2回)の創刊。ミネルヴァ書房から発刊されることになっています。古田先生が編集責任者。
(2)小規模な学会「国際人間観察学会」を設立し、学術誌(全て英文論文、年1回)を発行。全世界へインターネットでも発進します。同学会事務局の設置。
(3)インターネットの取り組みとして、古田先生から全国へのメッセージを発信。

以上の事業を推進する統括組織として新東方史学会が立ち上げられます。9月17日(東京)、24日(京都)には立ち上げのための講演会を開催します。なお、新東方史学会の役員人事などは両講演会にて発表されます。多くの皆様のご来場をお願い申し上げます。
 古田先生の、おそらくは生涯の学問的事業の総決算として今回の立ち上げを企画されたものと思われますが、古田先生を応援する団体(東京古田会、多元的古代研究会、古田史学の会)も全面的に協力していきます。詳細は順次お知らせいたします。

古田武彦氏から、新東方史学会創立の「宣言」が発表されました

第32話 2005/10/01 新東方史学会会長に中嶋嶺雄氏 へ


第15話 2005/07/31

『古今和歌集』の読み人知らず

 昨日の古田先生の講演会は大盛況でした。会場の京都市商工会議所ホールには250名の聴衆が訪れ、上岡龍太郎さんや公明党の角替豊府会議員らも見えておられました。もちろん本会会員も各地から多数参加され、懐かしいお顔もありました。
 1部はわたしと古田先生の対談形式で「古田史学入門編」ということでしたが、古田先生のお話が熱気を帯びて、時間オーバー。わたしは時計を見ながら冷や汗ものでしたが、初めて古田史学に接した方にも好評で、終了後、感動の声が寄せられました。
 2部の講演では「君が代」に関する新たな発見として、『古今和歌集』の「読み人知らず」問題に触れられました。『古今和歌集』1111首の内、なんと425首が読み人知らずとのこと(高田かつ子さんの調査)。読み人が書いてある歌では、そのほとんどが平安時代の人物で、これらが「古今」の「今」に相当する歌であることから、それ以外の読み人知らずの425集は「古」と考えざるを得ません。従って425首の多くは九州王朝時代の歌であり、その中に「君が代」も入っています。だから「君が代」は大和朝廷の天皇に捧げられた歌ではなく、九州王朝の天子に捧げられた歌である、との論証でした。
 『古今和歌集』にこれほど多くの「読み人知らず」があるとは思いませんでしたし、「古今」の「古」と「今」が九州王朝と大和朝廷に対応しているという説には、深く考えさせられました。
 終了後、主催者(ミネルヴァ書房・ふくろう会)の皆さんと食事会がありましたが、そこでも靖国神社問題など古田先生の興味深い話が続きました。9月24日のアバンティホール(京都市南区・JR京都駅の南)での講演会では、この話が更に展開されるとのこと。楽しみです。


第14話 2005/07/24

『古田史学会報』の紹介

 わたしたち古田史学の会では年に6回偶数月に『古田史学会報』を会員の皆様に発行しています。内容は古田先生や会員の論文、催し物の案内などが中心です。本ホームページでも順次公開していますが、古田学派の最新研究動向を知る上では『古田史学会報』を読んでいただくのが一番だと思います。
 年会費三千円(一般会員)で講読できます。会費五千円の賛助会員になっていただきますと、会報とは別に会員論集『古代に真実を求めて』(年1回、明石書店刊)も進呈しています。
 本日、ようやく『古田史学会報』69号の編集が終了しました。8月初頭に発行しますが、項目だけ一足早くお教えしましょう。今号も好論文がそろいました。

〔『古田史学会報』69号の論文・記事〕
阿漕的仮説−さまよえる倭姫−(奈良市・水野孝夫)
九州古墳文化の独自性−横穴式石室の始まり−(生駒市・伊東義彰)
『古事記』序文の壬申大乱(京都市・古賀達也)
宮城県からも出ていた遮光器土偶(仙台市・勝本信雄)
イエスの美術(今治市・阿部誠一)
高田かつ子さんとのえにし(奈良市・飯田満麿)
古田史学の会・第11回定期会員総会の報告
「新東方史学会」新発足の報告(古田武彦)
関西例会案内・史跡めぐりハイキング案内
9/24「新東方史学会」立ち上げ古田武彦講演会(京都市)のご案内
書籍特価販売のお知らせ(古田史学の会・書籍部)
「古賀事務局長の洛中洛外日記」を連載開始
事務局便り(古賀達也)


第13話 2005/07/20

関西例会の風景

 7月16日、古田史学の会・関西例会がありました。30名ほどの参加でいつもの会場が手狭に感じられました。関西例会は参加費500円を払っていただければ会員でなくても聴講できます。毎月第三土曜の午前10時から午後4時半まで、途中12時から1時間の昼休みを挟んで行われますが、古田学派の最新の研究状況や古田先生の近況なども聞けて、大変有意義な集いとなっています。
 最初の1時間はビデオ鑑賞で、最近は「森浩一が語る日本の古代」を見ています。各人の研究発表では質疑応答などもあり、時に白熱した論議に発展することも。これもまた、例会活動の良いところです。わたしは研究内容を論文にする前に、かならず例会で口頭発表することにしていますが、質疑応答や批判などを通じて、自分では気づかなかった問題点などが指摘されることもあり、例会の場を重宝しています。
 例会終了後の二次会も楽しみの一つで、参加者の半数以上が二次会へと流れ込みます。もちろん、懇親の他に例会の延長で質疑応答なども行われます。二次会は西井さんがしきっておられるので、安心して飲んで食べられます。ただし割り勘(お酒を飲まない人はやや割安となります)。飲み足りない人は更に三次会へと突入しますが、わたしは最近は遠慮しています。
 7月例会の内容は次の通りでした。あなたも関西例会に参加してみませんか。なお、古田史学の会では札幌・仙台・名古屋・松山でも例会が開かれています。

〔ビデオ鑑賞〕
 森浩一が語る日本の古代・弥生時代西の文化
〔研究発表〕
(1)少数意見の尊重こそ民主主義を向上させる(木村賢司・豊中市)
(2)洛中洛外日記の解説(古賀達也・京都市)
(3)神々の亡命地・信州(古賀達也・京都市)
(4)中国南朝の対朝鮮外交(飯田満麿・奈良市)
(5)九州古墳文化の独自性・石人石馬(伊東義彰・生駒市)
(6)「親王」と「皇子」と「王」の間(冨川ケイ子・相模原市)
(7)月神と壱岐(西井健一郎・大阪市)
(8)「井」姓分布と神八井耳命(古賀達也・京都市)
〔代表からの報告〕
 会務報告・古田氏近況・彦山流記と信貴山縁起絵巻・他(水野孝夫・奈良市)


第12話 2005/07/17

信州のお祭り・御柱

 古代日本列島において文明の衝突・興亡の痕跡が随所に見られます。著名な例では、弥生時代の銅矛文明圏と銅鐸文明圏の衝突、そして銅鐸文明の消滅という考古学的事実があります。この二大青銅器文明圏の衝突と興亡という列島内大事件が神話として残っています。一つは、『古事記』にある大国主の国譲り神話です。
 天国(あまくに)の神々が出雲の主神である大国主に国を譲れと武力介入した神話です。出雲には荒神谷遺跡などから銅鐸を含む大量の青銅器が出土していますが、この神話は銅矛文明圏(天国、壱岐対馬)による銅鐸文明圏の出雲への侵略が「国譲り」という表現で語られているのです。この侵略に最後まで抵抗した神が建御名方神(たけみなかた)です。彼は戦いに敗れ信州の諏訪湖まで逃げます。そして、その地から出ないことを条件に許されます。
 天国の軍隊は、銅鐸文明圏の中枢領域である近畿にも突入を繰り返します。近畿から破壊された銅鐸が出土していますが、これもこの侵略の痕跡でしょう。天国の軍隊は神聖なる祭器である銅鐸を破壊し、銅鐸文明の神々(人々)は東へ東へと逃亡したのです。その様子を「伊勢国風土記」では次のように記されています。天日別命(あまのひわけのみこと)が率いる天国の軍隊が伊勢の国を侵略し、伊勢の王である伊勢津彦は東へと逃げ、彼もまた信濃の国へ住んだと。
建御名方神や伊勢津彦はなぜ信州に逃げたのでしょうか。そして、なぜ天国の軍隊は信州に逃げた彼らを捕らえなかったのでしょうか。ここに、信州が持つ不思議な歴史の謎があります。
 他方、これと共通する風習が中世ドイツにもありました。追われた犯罪者が四本の柱で囲まれた場所に逃げ込めば、役人も手出しができなかったと言われています(阿部謹也『中世の星の下で』ちくま文庫)。四本の柱の中は神聖な地、歴史学でアジールと呼ばれる空間なのでした。これは諏訪大社の御柱とそっくりです。 古代信州は軍隊と言えども侵すことのできない神聖な地、アジールだったのです。だから、追われた銅鐸文明の神々は信州へと逃げた、そう考えざるを得ません。そして、この考えが正しければ、諏訪大社の御柱祭は弥生時代以前にまで遡ることができます。古代日本での文明の衝突を考えるとき、信州のもつこの神聖性はキーポイントとなるのではないでょうか。


第11話 2005/07/11

信州のお祭り・お船

 松本市での講演会の前日、同市の中央図書館に行き、以前から気になっていた諏訪大社の御柱祭について調査しました。同祭の写真集などを見ていると、御柱を出迎える「お船」が道路上を曳かれている光景がありました。こんなところにも「お船」が登場するのかとちょっと驚きました。
 信州のお祭で有名なものに、穂高神社(南安曇郡穂高町)のお船祭がありますが、安曇という地名からも想像できるように、海人(あま)族のお祭ですからお船と呼ばれる山車が登場するは、よく理解できるのです。しかし、諏訪大社の御柱祭にまで主役ではないようですがお船が登場することに、その由緒が単純なものではないなと感じたわけです。
 祇園山鉾や博多山笠の山車が、古代の船越に淵源するのではないかという古川さんの説を洛中洛外日記第7話で紹介しましたが、今回の調査の際、『隋書』倭国伝(原文はイ妥国伝)の次の記事の存在に気づき、新たな仮説を考えました。

 『隋書』には倭国の葬儀の風習として次のように記録しています。

「葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或いは小輿*(よ)を以てす。」

輿*(よ)は、輿の同字で、輿の下に車 [輿/車]。

 倭国では葬儀で死者を運ぶのに陸地でも船を使用していたことが記されているのです。そうすると、山車の淵源は海人族の葬儀風習にあったと考えてもよいのではないでしょうか。祇園山鉾や博多山笠の「ヤマ」が古代の邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)と関係するのではないかという、わたしのカンも当たっているかもしれませんね


第10話 2005/07/11

信州のお祭り・縄張り

 松本市での講演会も盛況の内に終わりました。毎回のことながら「古田史学の会・まつもと」の皆様には大変お世話になりました。御礼申し上げます。
 今回、松本に行って気が付いたのですが、当地では神社のお祭りの際には、氏子の家など神社周辺一帯に白い御幣を垂らした縄を張り巡らすのです。行きの列車の窓からもこの光景を目にしましたし、松本神社周辺でもかなり広い範囲に縄が張られていました。最初は何のことか判らずに、「古田史学の会・まつもと」の木村さん(同会会計)や北村さん(同会副会長)にお聞きしたところ、信州ではお祭りの時に、このように御幣を垂らした縄を張り巡らせるとのことでした。そして、日本中どこでもお祭りではこうするものだと思っておられました。わたしが、京都や郷土の久留米市では見たことがないと言うと、驚いておられたのが印象的でした。それくらい、信州ではこの習慣が根付いているのでしょう。
 思うに、この「縄張り」はお祭りに当たっての「結界」のようなもので、神聖な場所、すなわち「アジール」を示すものではなかったか、と推測しています。こうした風習は他の地域でもあるのでしょうか。興味深いところです。
 柳田国男が「日本の祭」で信州の穂高神社の例として、祭の際に「境立て」として四方十町ほどの境の端に榊の木を立てることを記していますが、縄を家々の回りに延々と張るのと同様の神事かもしれません。ある意味では、より徹底した神聖な場の囲い込みではないでしょうか。


第9話 2005/07/03

明治時代の九州年号研究

 今年、古田史学の会が発行した『古代に真実を求めて』8集には、九州年号研究史に関する重要な論文2編が収録されています。一つは自画自賛になり恥ずかしいのですが、わたしの「『九州年号』真偽論争の系譜」で、昨年10月に京都大学で開催された日本思想史学会で発表した内容を論文にしたものです。主に江戸時代における九州年号真偽論にふれたもので、新井白石は実証的な真作説(ただし、大和朝廷の年号で正史から漏れたものとする)、対して貝原益軒は皇国史観に立った偽作説(僧侶による偽作)であることなどを紹介しました。
 もう一つの論文は冨川ケイ子さんによる「九州年号・九州王朝説 — 明治25年」で、なんと明治時代において九州年号を真作とする説が、当時の大家から論文発表されていたという内容です。わたしもこの事実を関西例会で冨川さんからお聞きしたとき、大変驚きました。古田先生以前に、初歩的ではありますが、「九州王朝説」や九州年号真作説が発表されていたのですから。
 その大家の論文とは今泉定介「昔九州は独立国で年号あり」と飯田武郷「倭と日本は昔二国たり・卑弥呼は神功皇后に非ず」で、特に飯田武郷は大著『日本書紀通釈』の著者として有名です。これらの論文は明治25年発行の『日本史学新説』広池千九郎著に収録されており、国会図書館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で閲覧できます。詳細は『古代に真実を求めて』8集を是非お読み下さい。
 このような研究史から埋もれていた貴重な論文を発見された冨川さんの業績は、古田学派による2004年度を代表する学問的成果の一つと言えます。ちなみに、冨川さんは相模原市に住んでおられますが、毎月の関西例会に新幹線で参加されるという熱心な会員さんです。その学問への情熱には本当に頭が下がります。

古賀氏の論文の原史料は闘論★九州年号をご覧下さい


第8話 2005/07/01

古田先生『君が代』を語る

 先日、ミネルヴァ書房の杉田社長が拙宅に見えられました。主な要件は7月30日(土)に京都市の商工会議所会館で開催予定の古田先生の講演会についてでした。杉田社長は古田史学の良き理解者でもあり、古田先生の九州王朝説に基づいた『太宰府は日本の首都だった』(内倉武久著)などの好著も多数出版されています。更には古田先生による『卑弥呼(ひみか)』という本の出版も企画されており、楽しみです。 ミネルヴァ書房ではこれまで同社社員や関係者を対象に、少人数による古田先生の話しを聞く催しが開かれていたそうですが、もっと多くの人に聞いていただこうと、講演会を開催することにしたそうです。テーマは初めての人にも興味を持ってもらえるように「君が代」を取り上げることに。
 ただ、古田史学の初心者の人にもわかりやすく、ということで二部形式にして、一部では古田先生との対談形式による「入門編」とし、二部は古田先生の講演とするそうです。そこで、一部の対談の相手としてわたしがご指名に預かったというわけです。300名が入る会場ですし、初心者の人の気持ちになって先生に質問しなければならず、今から心の準備をしているところ。古田先生の『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社)などをもう一度読み返しています。 なお、7月30日の講演会の詳細が決まり次第、当ホームページでお知らせいたしますので、多数ご来場下さい。

 古田氏のこれまでの「君が代」に対するおもな見解です。
参考は下記の通り。
君が代の源流 「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌(2000年  1月12日)
日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について(1999年 8月 8日)

古賀氏の論考としては下記の通り
「君が代」の「君」は誰か (1999年10月11日  ) 会員の論考もあります。
九州旅行雑記 今井俊圀

本は下記どおり、索引を参照
 市民の古代 別巻3 『「君が代」、うずまく源流』 新泉社
 市民の古代 別巻2 『「君が代」は九州王朝の讃歌』 新泉社
『日本の秘密−「君が代」を深く考える』 五月書房


第7話 2005/06/28

祇園祭と船越

 わたしは勤務先へ自転車で通っている「チャリ通族」です。夏場は暑くて大変ですが、それでも祇園祭が近づくとウキウキしてきます。と言うのも、自宅の上京区から会社のある南区までの道に、山鉾が立つからです。いつもは油小路通を走りますが、その間、山鉾が二つ立ちます。別の道、例えば室町通や新町通を利用すると、更に多くの鉾を見ることができます。祭の一週間ほど前から組立が始まり、三日ほど前には飾り付けも終わり、ほぼ完成します。こうした組立の様子やお囃子の練習などを朝夕の通勤時に見ることができるのですから、京都ならではのうらやましい自転車通勤かもしれません。
 この祇園祭の山鉾ですが、その淵源は古代まで遡るのではないか。山鉾や博多山笠の「山」は邪馬壹国のヤマと何か関係はないか、と以前から思っていたのですが、山鉾は古代の「船越」の様子を表現したものとする説が、最近出されました。
 ホームページ「有明海・諫早湾干拓リポートIII」に掲載された古川清久さんの論文「船越」に次のように述べられています。
 「全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で“船越”を行なっていた時代からの伝承ではないか」※「古田史学会報」No.  68に転載。
 そう言えば、松本市の須々岐水神社のお祭り「お船祭り」では、「お船」と呼ばれる山車が繰り出されますが、これなど「船越」そのもの。古川さんの新説は意外と正解かもしれませんね。


第6話 2005/06/24

中嶋嶺雄さんと古田先生

 一昨年、松本市へ講演に呼んでいただいた時、前日に市内を案内していただけることになりました。そこで私は松本深志高校の見学を希望し、古い校舎の中まで案内していただきました。同校は戦後間もなく古田先生が教鞭を執られた学校です。青年教師、古田先生と最年長の教え子とでは3歳しか歳が違わなかったそうです。 私が訪れた時、ちょうど松本深志高校では学園祭「とんぼ祭」が近づいており、生徒さんたちが教室で準備に追われていました。
 このとんぼ祭で思い出されるのが、教え子のお一人である中嶋嶺雄さん(大学セミナーハウス理事長・国際教養大学学長・東京外国語大学前学長)による次の回想です。

「とんぼ祭といえば高校2年の時の社会科学研究会の展示を思い出す。1954年のこと、風潮として高校生の社研といってもみんなマルクス・ボーイ。ソ連を礼賛し、人類の救済はモスクワから来るといった観の展示がしてあった。 そこへ国語と日本史担当の古田武彦先生が入ってきて、『この展示はおかしい。ソ連の社会主義がそんなにバラ色かどうかはスターリンの死後、銃殺されたベリアの事件でも明らかではないか』と問いかけたのである。生徒たちは古田先生のプチ・ブル性を激しく批判した。すると先生は床に車座になって、理路整然と生徒たちと語りはじめた。

 今日では日本古代史の権威になられた先生の立派な姿は、後の大学紛争に身を置かねばならなかった時、どこかで思い出を重ねていたように思う。」 古田先生は青年の頃から熱血漢だったんだと、思わず納得してしまうエピソードではないでしょうか。