第2449話 2021/05/05

『宋史』日本伝の「九■州」

 先日、気になる問題があって、中国正史の倭国伝や日本伝を読みました。気になる問題とは、『隋書』には阿毎多利思北孤という国王の名前(字)が記されているのに、『旧唐書』にはなぜ倭国王の名前が記されていないのだろうということでした。倭国の重要情報である国王名がなぜ書かれていないのだろうと、不思議に思ったのです。そこで歴代正史の夷蛮伝では各国王名はどのような扱いになっているのかを調べています。この調査結果は別の機会に紹介したいと思いますが、その過程で岩波文庫『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(石原道博編訳)に収録されている『宋史』日本伝影印本に奇妙な表記があることに気づきました。
 『宋史』日本伝には、官道別の国名や国数が記録されています。たとえば、東海道であれば「東海道有、伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・常陸、凡十四州。共統、一百一十六郡」とあります。他の官道も同様に、東山道・八州、北陸道・七州、山陰道・八州、小(ママ)陽道・八州、南海道・六州、西海道・九州と、それぞれに国名・国数などが記されています。
 ところが、西海道の国数である「九州」の部分は「九■州」となっており、間に「■」(黒い四角)が入っているのです。版木を彫る際に間違ってしまい、その部分が「■」となったのだろうかとも思ったのですが、よくよく考えるとそれは有り得ません。もし字を彫り間違えたので、その誤字を削ったのであれば、その部分は空白となるはずだからです。逆に、誤字を消すために四角の形に何かを塗り込めたのであれば、印字は「■」になります。しかし、これもあり得にくいことと思います。なぜなら、誤字の存在に気づいたのであれば、版木を彫り直せばよいからです。ちなみに、掲載された日本伝の他の部分にこのような「■」はありません。なぜこの不体裁な「■」をそのままにしたのでしょうか。これはとても奇妙なことと思われました。
 この一見奇妙な「■」ですが、もしかすると意図的な表記ではないでしょうか。すなわち、東夷の国の記事中に「九州」という表記があることを避けるために、わざと「九■州」にしたのではないかと思います。というのも、「九州」という言葉は中国の天子の直轄支配領域を意味する政治的用語だからです。『史記』を始め、『旧唐書』などにも天子の直轄支配領域としての「九州」という用語が使用されています。
 『宋史』日本伝の場合は、国の数を表す「九ヶ国」の意味での「九州」という表記ですが、夷蛮の国である日本伝の記事中に「九州」があることを憚って、わざと間に「■」を入れて「九■州」としたのではないかとわたしは考えています。中国の天子の直轄支配領域としての「九州」と区別するためです。
 こうした理解が妥当かどうかを確かめるためには、『宋史』影印本の全体を見て、他に「■」が使用されているのか、あるいは他の異蛮伝に「九ヶ国」を意味する「九州」があれば、それが同様に「九■州」とされているのかを調べればよいわけです。後日、図書館で調べたいと思います。何かわかれば「洛中洛外日記」で報告します。
 ちなみに、日本列島にも「九州」(九州島)という地名があります。これは九州王朝(倭国)の天子の直轄支配領域(九州島)を意図的に九国に分割し(注①)、「九州」と命名したものと古田史学では考えられています。古田先生が、「筑紫王朝」ではなく「九州王朝」という学術用語を作り、自説に採用された理由は、この中国の政治的用語「九州」にあったのです。この日本国内の政治的用語「九州」の成立については、拙論「九州を論ず ―国内史料に見える「九州」の変遷」「続・九州を論ず ―国内史料に見える「九州」の分国」が収録された古田先生らとの共著『九州王朝の論理』(注②)をご参照下さい。

(注)
①筑紫・肥・豊のみを「前」「後」に二分割し、それに日向・薩摩・大隅を加え、九ヶ国(九州)とした。
②古田武彦・福永晋三・古賀達也『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。


第2448話 2021/05/04

「倭王(松野連)系図」の史料批判(11)

 – 松野氏の濃密分布地、岐阜県瑞穂市

 「倭王(松野連)系図」には、古代から室町時代頃(注①)までの人物名が記されています。その中にいくつか注目すべき傍注があり、同系図の信憑性を計る手がかりとできそうです。中でも十世紀頃の「宅成」という人物の傍注に「左小史」「子孫在美濃国」とあり、松野宅成の子孫が「美濃国」(岐阜県)にいるとされています。この傍注が記された時期は不明ですが、web調査によると、松野姓が現在も岐阜県に濃密分布していることがわかりました。従って、同傍注は信頼できることとなり、系図の中近世部分の信頼性は高いのではないかと思われます。
 「日本姓氏語源辞典」(注②)によれば、「松野」姓の分布状況は次の通りです。

【県別分布順位】
1 神奈川県(約3,100人)
2 大阪府 (約3,000人)
3 東京都 (約2,800人)
4 岐阜県 (約2,700人)
5 愛知県 (約2,300人)
6 静岡県 (約2,000人)
7 兵庫県 (約2,000人)
8 北海道 (約1,900人)
9 熊本県 (約1,700人)
10 千葉県 (約1,600人)

【市町村別分布順位】
1 岐阜県 瑞穂市(約1,000人)
2 岐阜県 岐阜市(約800人)
3 静岡県 浜松市(約800人)
4 熊本県 熊本市(約600人)
5 新潟県 上越市(約400人)
6 香川県 高松市(約400人)
7 長崎県 長崎市(約300人)
8 山梨県 甲府市(約300人)
9 大阪府 堺市 (約300人)
10 大阪府 松原市(約300人)

 また、松野姓の発祥地として次の説が紹介されていました。

①静岡県富士市南松野・北松野発祥。平安時代に記録のある地名。東京都千代田区千代田が政庁の江戸幕府の幕臣に江戸時代にあった。同幕臣に伝承あり。
②栃木県那須郡那珂川町松野発祥。戦国時代に記録のある地名。
③熊本県球磨郡球磨村神瀬松野発祥。同地に分布あり。
④新潟県上越市牧区東松ノ木発祥。江戸時代に記録のある地名。地名はマツノキ。同地に分布あり。
⑤合略。赤松と浅野の合成。広島県広島市中区基町が藩庁の広島藩士に江戸時代にあった。同藩士は赤松姓の「松」と軍功により浅野氏から賜った「野」からと伝える。推定では安土桃山時代。赤松アカマツ参照。浅野アサノ参照。
⑥地形。松と野から。鹿児島県いちき串木野市冠嶽に江戸時代にあった門割制度の松野之屋敷から。屋敷による明治新姓。善隣。大阪府泉南市鳴滝に分布あり。
※呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。

 この中で、「倭王(松野連)系図」の松野氏に関係すると思われるのは、次の二つです。

 「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野発祥。同地に分布あり。」
 「呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。」

 「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野」発祥説は「倭王(松野連)系図」の傍注(注③)に見える「火国」(肥後国)との関係がうかがわれます。「呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。」も「呉系」という点が系図と一致しています。
 「筑紫前国夜須郡松狭野」に住し、「松野連」姓を名のったという系図の記事とは異なりますが、呉から肥後(火国)に渡り、球磨郡球磨村神瀬松野に土着した一族が「松野」を名のったという可能性もあります。筑後国夜須郡に「松野」地名が現存していないという状況を考えると、「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野」発祥説の方が有力と考えるべきかもしれません。
 なお、岐阜県に濃密分布する松野氏については解説がありませんが、先の系図傍注記事にあるように、京都で宮仕えしていた松野氏の分派(松野宅成の子孫の一部)が岐阜県(美濃国)に移転したのではないでしょうか。そうすると、岐阜県の松野家(注④)に「倭王(松野連)系図」が今も伝わっている可能性がありそうです。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)所収の「倭王系図(松野連)」によれば、同系図末尾(同書68頁)から三代目の「久世」という人名の傍注に「応永三十二(1425)正三位(後略)」とある。
②日本姓氏語源辞典 https://name-power.net/
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図』所収「倭王系図(松野連)」(63頁)の「宇也鹿文」の傍注に「火国菊池評山門里」が見え、同「市鹿文」の傍注には「同時賜火国造」とあり、呉王夫差の子孫が火国(肥後)に移り住んだとしている。
④岐阜県瑞穂市出身の有力者に、岐阜県知事や衆議院議員を歴任した松野幸泰氏(1908-2006)がいる。同家は松野連(呉王夫差・倭国王)の末裔ではあるまいか。調査したい。


第2447話 2021/05/03

『多元』No.163の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.163が届きました。一面は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「禅位と傳位についての考察」です。『日本書紀』の孝徳紀と持統紀に見える「禅位」が同一王朝内での生前譲位であり、中国古典の禅位(禅譲による王朝交代での新皇帝への譲位)とは異なることに着眼した論稿です。新しい視点で、持統紀の「禅位」を九州王朝からの王朝交替に伴う表記ではないかとする仮説を提起されたものです。今後の検証と展開が楽しみなテーマではないでしょうか。
 藤田隆一さん(足立区)の論稿「秋田孝季の直筆文書」は、和田家文書「目録覚」の全文を釈文された労作です。秋田孝季の直筆であれば、貴重な史料となりますので、厳格な筆跡鑑定が待たれます。


第2446話 2021/04/30

『九州倭国通信』No.202の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.202が届きました。同号には拙稿「古典の中の『都鳥』考」を掲載していただきました。同稿では、古典(『万葉集』『古今和歌集』『伊勢物語』謡曲「隅田川」)に見える「都鳥(みやこどり)」とは通説のユリカモメではなく、冬になるとシベリアから博多湾岸など北部九州に飛来するミヤコドリ科のミヤコドリであることを論証しました。
 この都鳥は、博多湾岸や北部九州に都があったから、都鳥と呼ばれたのであり、九州王朝(倭国)の都がこの地にあったことの証拠ともいえます。そうでなければ、都鳥などとは呼ばれなかったはずですから。この都鳥は、白と黒の美しい模様とオレンジ色のクチバシが印象的な鳥です。
 『万葉集』では次のように詠われています。
 「船競(ふなぎほ)ふ 堀江の川の水際(みなぎわ)に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」『万葉集』巻第二十(4462 大伴宿禰家持の作)


第2445話 2021/04/30

「倭王(松野連)系図」の史料批判(10)

 ―天孫降臨の矛盾と古田先生の慧眼―

 『記・紀』に見える天孫降臨神話は弥生時代(前期末~中期初頭)での史実の反映であり、その天孫族が居した高天原(天国)を日本海に実在した島嶼領域(壱岐・対馬・隠岐・五島列島・他)と古田先生はされました(注①)。すなわち、邪馬壹国や後の九州王朝(倭国)の始原の地を天国領域とされたわけです。他方、「倭王(松野連)系図」には、始祖とする「呉王夫差」以降の子孫が天国領域に居したとする記述はありません。こうしたこともあり、古田学派の実証的な研究者は同系図を後代造作ではないかと疑い、九州王朝(倭国)系図と見ることを躊躇してきました。わたしもその一人でした。
 天孫降臨神話を歴史事実の反映とする古田説に対して、わたしはそのことを支持する反面、矛盾をかかえた仮説ではないかとも考えてきました。というのも、日本列島西北部・他にあった大八洲国(出雲・筑紫・新羅、注②)への〝侵略〟という実質を持つ〝天孫降臨〟ですが、天国(島嶼領域)よりも巨大な耕地面積=生産力(弥生水田)と人口(労働力)を有す筑紫や出雲が天国よりも軍事的に劣っていた理由が不明だったからです。
 もっとも、朝鮮半島から伝わった鉄器(武器)による軍事力がその背景にあったとする見解もあるのですが、それでは日本列島の国々は鉄器に興味がなかったのでしょうか。島嶼の天国は鉄器を入手できたが、お隣の筑紫や出雲の国々は鉄器を入手できなかったとするのでしょうか。わたしはこのような〝解説〟では納得できないのです。
 このような疑問を抱いてきたのですが、その解決の糸口に気づくことができました。それは祖先神信仰に基づく宗教的権威です。たとえば、古代ギリシアにおいてオリンポスの神々の命令(デルフォイの神託)にアテネやスパルタなどの諸国が従ったようにです。同様に天国には筑紫や出雲の諸国が従うだけの宗教的権威があったことは、『記紀』神話を見ても明らかと思われます。そして、この権威の淵源が周王朝へと繋がる始祖伝承(呉の太伯、呉王夫差)だったのではないでしようか。
 本テーマの考察を続けることにより、わたしはこのことにようやく気づくことができました。ところが、天国や倭人の始原について既に指摘されていた人がいました。恩師、古田武彦先生です。『盗まれた神話』で次のように示唆されています。

 〝天つ神たちは、どこから「天国」へ来たか?〟そのような発想は、『記・紀』には存在しないのである。
 この「天国」が実は「海人国」であること、それはこれが一定の海上領域である点からも、容易に想像できるところであろう。さすれば、「天つ神」はすなわち「海人(あま)つ神」となろう。記・紀神話の母なる領域は、「天国」を中心とする対馬海流文明圏だ。では、この海上領域に割拠していた海人族は、はじめからそこにいたのか、それともどこかからやってきたのだろうか?
 このような問いに対する回答、それは思うに本書の用いた方法とは異なる、別の方法にまたねばならぬであろう。たとえば考古学的方法、たとえば人類学的方法、たとえば比較神話学的方法等々だ。また、中国の史書、『魏略』の文面とされる「其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う」なども、その見地からかえりみられるべきであろう。(注③)

 「洛中洛外日記」2443話〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(9) ―倭人伝に周王朝の痕跡―〟で、「倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、『太伯』始祖伝承や『呉王夫差』始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。」とわたしは述べたのですが、古田先生は45年も前にこのことを示唆されていたのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。朝日新聞社版189頁。
②同①、412頁。
③同①、438頁。


第2444話 2021/04/29

6月19日(土)古代史講演会済み

       関川尚功氏、古賀達也が講演

〝考古学から見た邪馬台国大和説

       畿内ではありえぬ邪馬台国〟

 「古田史学の会」では、6月19日(土)午後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会場は奈良新聞本社西館3階です。関西例会でも使用している会場二部屋分を使用し、「三密」回避などコロナ対策を徹底して実施する予定です。
 同日に行う恒例の古代史講演会は、関西地区の友好団体との共催で行います。今回は外部講師に関川尚功(せきがわ ひさよし)さん(元橿原考古学研究所・所員)をお招きします。正木裕に代わり、古賀達也が「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」で講演を行います。
 関川さんの近著『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年)は、大和地方の発掘調査を40年の長きにわたり行ってこられた考古学者によるものですから、古代史学界に衝撃を与えました。考古学の第一線で活躍されてきた関川さんのお話を直接お聞きできる願ってもない機会です。最新の大和の考古学について、わたしも関川さんから学びたいと思います。 

当日の午前中は「古田史学の会・関西例会」を行います。

「古田史学の会」定期会員総会・古代史講演会の案内

◆日時 6月19日(土) 13:30~17:00
 古代史講演会 13:30~16:00
 古田史学の会・会員総会 16:00~17:00
 ※御前中は「古田史学の会」関西例会 10:00~12:00

会場変更 奈良新聞本社西館3階
〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地4会場変更

(5.19会場 大阪市福島区民センターから会場変更)

◆主催 古代大和史研究会・市民古代史の会京都・和泉史談会・誰も知らなかった古代史の会・古田史学の会
◆講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所・所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国
 講師 古賀達也(当会代表)
 演題 「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」
◆参加費 無料

6月19日会場地図

6月19日会場地図奈良新聞本社
近鉄新大宮駅北600m

考古学から見た邪馬台国大和説--畿内ではありえぬ邪馬台国

考古学から見た邪馬台国大和説–畿内ではありえぬ邪馬台国


第2443話 2021/04/28

「倭王(松野連)系図」の史料批判(9)

 ―倭人伝に周王朝の痕跡―

 古代中国の諸史料(注①)に記された倭国の始祖「太伯」伝承は、歴史事実を反映しているのではないかと、わたしは推定しています。その理由について説明します。なお、太伯とは、中国の春秋時代に存在した呉国を起こした、周王朝建国期の人物です。
 この周王朝の官職名「大夫」が、『三国志』倭人伝に散見されることを古田先生が早くから指摘されてきました。『「邪馬台国」はなかった』(注②)で次のように述べています。

 「『大夫』については、倭人伝中に
  古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。
 とある。魏晋ではすでに『大夫』は県邑の長や土豪の俗称と化していた。(中略)
 ところが、倭国の奉献使は自ら『大夫』を名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、『卿・大夫・士』という、夏・殷・周の正しい古制のままの用法であった。」『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)376頁

 この指摘は、倭国が古くから周の影響を受けていたことを意味します。その史料根拠の一つとして、『論衡』(注③)に次の有名な記事があります。

 「周の時、天下太平にして、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(中略)成王の時、越常、雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」『論衡』巻八、巻十九

 成王は周王朝を建国した武王の子供で、二倍年暦を考慮しない通説では紀元前11世紀頃の人物です。その頃から、倭人は中国(周)と交流(鬯草の献上)があったとれさており、周王朝の官職名「大夫」が倭人伝の時代、3世紀でも使用されているのです。
 更に、倭人伝と周王朝との関係を明らかにした、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の一連の優れた研究があります。『俾弥呼と邪馬壹国』(注④)に収録された「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」です。同稿では、倭国の官職名などに用いられた漢字に、周代の青銅器に関係するものがあることを明らかにされました。
 こうした研究により、倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、「太伯」始祖伝承や「呉王夫差」始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。(つづく)

(注)
①『翰苑』『魏略』『晋書』『梁書』。
 「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』
 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
 「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『論衡』の著者は王充で、後漢代の成立。
④古田史学の会編『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年3月。


第2442話 2021/04/26

「倭王(松野連)系図」の史料批判(8)

  — 始祖「太伯」説の史料と論理

 『記紀』神話とは異なり、九州王朝・倭王の始祖を周の太伯やその子孫の呉王夫差とする伝承は、国内史料としては「倭王(松野連)系図」の他に、その一端を示す『新撰姓氏録』があります。また中国史料としては、『翰苑』や『翰苑』に引用された『魏略』があり、正史の『晋書』『梁書』もあります。次の通りです。

○「松野連 出自呉王夫差也」『新撰姓氏録の研究』右京諸藩上
○「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
○「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
○「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
○「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 ここで注目されるのが、中国側史料すべてに倭人の風俗として「文身」(いれずみ)が見えることです。特に『翰苑』に引用された『魏略』の記事は重要です。
 『魏略』は『三国志』と同時期に成立した史書であることから、両書は倭国を訪問した魏使の報告書に基づいて記されたと考えられます。そうすると、『三国志』倭人伝には倭王の始祖伝承は記されず、『魏略』は太伯を始祖とする倭人の伝承を記したということになります。これは両書の編纂方針の差によると考えざるを得ませんが、それが何なのかは未詳です。もしかすると、『三国志』の著者陳寿は、倭人の始祖伝承を信ずるに足らずとして、採用しなかったのかもしれません。
 しかし、『魏略』に採用された倭人の始祖伝承は、史実かどうかは別にしても、当時の倭国がそのように認識しており、そのことを魏使に伝えたということは否定し難いのではないでしょうか。わたしは、この始祖伝承は歴史的背景を持つもので、一定の真実を秘めているのではないかと考えています。(つづく)


第2441話 2021/04/23

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その6)

大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類」

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』で提起された諸説中、最も読者の評価が分かれたのが、同書最終章の一節「アンデスの岸に至る大潮流」に記された〝倭人の南米渡航説〟でした。倭人伝に見える次の記事を、倭人が太平洋を横断し、南米にあった裸国・黒歯国へ行ったと古田先生は理解されたのです。

 「また裸國・黑齒國有り。また其の東南に在り。船行一年にして至るべし。」『三国志』魏志倭人伝

 「この説は、読者がついてこれない。削除してはどうか」と編集者(注①)からの提案があり、刊行後も古田先生のご友人(最高裁判事)から「再版時に削除すべき」との忠告がありました。それでも古田先生は〝論理の導くところに従った結果〟であるため、そうした要請を謝絶されました。こうした〝いわくつきのテーマ〟を扱った論文を『俾弥呼と邪馬壹国』に収録しました。次の三編です。

○大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類―」
○茂山憲史「古田武彦氏『海賦』読解の衝撃」
○古賀達也「バルディビア土器はどこから伝播したか ―ベティー・J・メガーズ博士の思い出―」

 なかでも大原論文は、バルディビア遺跡(エクアドル)から出土した南米最古の土器の製造技術を日本列島の縄文人が伝えたとするメガーズ博士(米、スミソニアン博物館)の説には同意できないというもので、南米大陸ではバルディビア土器よりも古い土器が出土しており、日本列島からの伝播とは断定できないとされました。もっとも、倭人が太平洋を渡った可能性までを否定されたわけではなく、考古学的出土事実に基づいて再検証を促されたものです。学問研究にとって貴重な提言ではないでしょうか。
 茂山論文は、『海賦』の記事に倭人が太平洋を横断した痕跡(イースター島のモアイ像やコンドルなどの描写、「裸人の国」「黒歯の邦」の表記がある)を古田先生が発見されたことの意義を改めて強調したものです。『海賦』は『文選』に収録された文章で、作者の木華は西晋の官僚です。すなわち、『三国志』を書いた陳寿と同時代の人物で、両者が南米にあった裸国・黒歯国を記録していたことは重要です。詳細は古田先生の『邪馬壹国の論理』(注②)をご覧下さい。
 わたしは、「縄文ミーティング」(注③)のために来日されたメガーズ博士の思い出と、当時のバルディビア土器についての学問論争を紹介しました。「洛中洛外日記」〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟で論じたテーマですので、ご参照下さい(注④)。

(注)
①『「邪馬台国」はなかった』は朝日新聞社から出版されたが、同書編集担当の米田保氏から「倭人の中南米への渡海説」削除の要請があった。古田先生はそれを拒絶され、米田氏も最終的に了解された。
②古田武彦『邪馬壹国の論理 ―古代に真実を求めて―』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房から復刊。
③1995年11月3日、東京の全日空ホテルで開催された。その内容は『海の古代史』(原書房、1996年)に載録されている。古田先生のご配慮により、わたしは録音係として傍聴する機会を得た。
④古賀達也「洛中洛外日記」2249~2252話(2020/10/04-6)〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟


第2440話 2021/04/22

「倭王(松野連)系図」の史料批判(7)

 ―祖先は天照大神か太伯か―

 多元史観・九州王朝説を支持する、わたしたち古田学派の研究者が「倭王(松野連)系図」を扱いにくかった理由として、史料批判の難しさがありましたが、より根源的には倭王の始祖を呉王夫差とする同系図の基本姿勢が、九州王朝の祖神を天照大神とする古田説と相容れなかったことにあります。すなわち、天孫降臨による〝建国〟なのか、中国からの移動による〝転国〟なのかという歴史の大枠に対する理解の問題があったのです。
 この問題は国家権力側にとっても、自らの権威の正統性にかかわる重要問題です。大和朝廷は『古事記』『日本書紀』で主張しているように、天照大神による「天壌無窮の神勅」(注①)による天孫降臨を自らの権威や支配の正統性の根拠としています。他方、日本の神々や皇祖と異国の君臣が混雑した系図系譜を厳しく取り締まっていることが『日本後紀』(注②)に記されています。

 「勅、倭漢惣歴帝譜図、天御中主尊標為始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雑糅、敢垢天宗。愚民迷執、輙謂実録。宜諸司官人等所蔵皆進。若有挾情隠匿、乖旨不進者、事覚之日、必処重科。」『日本後紀』平城天皇大同四年(809年)二月五日条

 天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されている『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されています。この『倭漢惣歴帝譜図』の始祖伝承は、呉王夫差や太伯を始祖とする「倭王(松野連)系図」や『晋書』『梁書』の記述とは倭漢の関係性が真逆です。このような例もあることから、呉王夫差を始祖としながら、九州王朝の「倭の五王」へと繋がる「倭王(松野連)系図」の信頼性(史実性)を調べる作業、すなわち史料批判は困難を窮めるのです。(つづく)

(注)
①『古事記』「上巻」に次の記事がある。
 「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。」
 『日本書紀』「神代下 第九段(一書第一)」に次の記事がある。
 「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌と窮(きわま)り無けむ。」
②『日本後紀』は『続日本紀』に続く正史で、六国史の第三にあたる。成立は承和七年(840年)で、延暦十一年(792年)から天長十年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。全40巻(現存10巻)。


第2439話 2021/04/21

「倭王(松野連)系図」の史料批判(6)

 ―「呉王夫差」始祖伝承の痕跡―

 前話に於いて、「倭王(松野連)系図」の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたとしました。次に、同系図のもう一つの主張、「呉王夫差」始祖伝承について検討します。
 鈴木真年氏の稿本「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」(注①)の冒頭部分には次の人物名が並びます。

 「夫差《呉王》 ― 公子慶父忌 ※― 阿弓《怡土郡大野住》 ― 宇閇《》 ― (後略)」《》内は傍注。
 「※― ○ ― ○― (中略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され、「阿弓」へと繫ぐ。)
 「※― 順《》 ― (八代略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され九代続き、同系図の「卑弥鹿文」の子供の位置に繫ぐ。)

 このように鈴木真年氏の稿本には複数の所伝が書き込まれており、複数の「松野連系図」に基づいて、異伝も加筆書写された姿を示しているようです。このことから、同系図のいずれかが現代も御子孫に伝わっている可能性があります。全国の松野姓の分布状況などを調査すれば、系図をお持ちの御子孫が見つかるのではないでしょうか(注②)。
 鈴木真年氏と親交のあった中田憲信氏による稿本「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」(注③)の冒頭部分は次のようです。

 「松野連 姫氏
 呉王夫差 ― 忌《字慶父》《孝昭天皇三年来朝 住火国山門菊池郡》 ― 順《字去□》《居于委奴》 ― 恵弓 ― (後略)」 《》内は傍注。□の字は、わたしの持つコピーからは読み取れない。

 鈴木真年氏の稿本とは異なっており、別の異本によるのかもしれません。しかし、呉王夫差を始祖とする点は同じですから、九州王朝内にこうした伝承を持ち、それを誇る氏族がいたと考えられます。このことを示唆する史料が中国史書にあります。唐代に成立した『晋書』と『梁書』です。

 「(前略)男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身(顔や身体に入墨)している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。(後略)」『晋書』倭人伝

 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身(入墨)がある。(後略)」『梁書』倭伝

 『晋書』は3~5世紀の西晋・東晋、『梁書』は6世紀の梁を対象とした史書ですが、その著者は『晋書』が房玄齢(578~648年)、『梁書』が姚思廉(?~637年)。成立は『晋書』が648年、『梁書』が629年です。この7世紀前半に成立した両書に、「呉の太伯の後裔」記事が現れ、倭国からもたらされた情報であると記されています。
 史書ではありませんが、同じく唐代成立の『翰苑』(注④)の「倭国」条にも次の記事が見え、同条に引用されている『魏略』(注⑤)にも「自謂太伯之後」の記事があり、それによれば同伝承史料の存在が3世紀まで遡ることになり、注目されます。

 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」

 「(前略)自帯方至女國万二千余里。其俗男子皆黥而文。聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 これらの中国(唐)側の認識に対応しているのが、「倭王(松野連)系図」に記された〝主張〟です。同系図に遺された始祖伝承と通じる伝承(注⑥)が、7世紀前半成立の『晋書』『梁書』に記されていることから、同伝承の成立が7世紀前半以前であることがわかります。このことも、同系図の始祖伝承が後代の造作ではないことを指示しています。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、1頁。
②例えば、柿本人麻呂の御子孫「柿本氏」が佐賀県に分布しており、人麻呂を含む同氏の系図が伝わっている。その内の一つのコピーを古田先生からいただいている。機会があれば「洛中洛外日記」でも紹介したい。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、4頁。
④唐代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は、日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
⑤中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。著者は魚豢(ぎょかん)。成立年代は魏末から晋初の時期と考えられている。
⑥呉は中国の春秋時代に存在した国の一つで、国姓は姫(き)である。周王朝の祖の古公亶父の長子の太伯(泰伯)が次弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国とされ、紀元前12世紀から紀元前473年、7代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。従って、「倭王(松野連)系図」で始祖を呉王夫差とすることは、太伯を始祖とすることにもなる。


第2438話 2021/04/18

「倭王(松野連)系図」の史料批判(5)

 ―傍注「評制」記事の証言―

 「倭王(松野連)系図」に記されている傍注記事中に「評」や「評督」が見え、同系図の成立過程の一端をうかがうことができます。先に同系図傍注に次の評制(評督)記事があることを紹介しました(注①)。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
    ※「 」内は人物名。《》内はその傍注。

 これは7世紀頃の人物に付記されたもので、7世紀後半が評制期であることがわかっている現代のわたしたちにとっては当然の表記です。しかし、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に伴い、8世紀から郡制に変更となります。この郡制は近代まで続いており、歴史学上の〝郡評論争(注②)〟以前の人々(系図蒐集者の鈴木真年を含む)には、そもそも評制という歴史概念さえありません。ですから後代(郡制の時代)において、「評」を「郡」に書き換えることはできても、「評」への改変造作は不可能なわけです。従って、同系図に見える「評制」記事は、7世紀後半時点であれば執筆可能な表記であり、すなわち、その記事原文は九州王朝時代に成立した可能性が高いのです。遅くとも、「評」の記憶が系図編纂者に残っている時代の成立と考えざるを得ません。
 こうした視点に立ったとき、同系図の次の傍注にわたしは着目しました。「倭の五王」の三世代前の「宇也鹿文」という人物の傍注です。

 「火国菊池評山門里住」(注③)

 「倭の五王」の三世代前なので、3世紀末から4世紀初頭に相当しますから、地名表記として「火国」は妥当ですが、「菊池評」という評制期の行政区画は存在しません。従って、この傍注は7世紀後半に成立したと考えられます。こうした史料状況により、少なくとも「宇也鹿文」から「牛慈」「長堤」までの系図部分は7世紀後半に成立したと考えることができます。同時に、このような「評制期」記事の後代造作は困難であるため、歴史事実を反映した傍注記事を持つ系図としての評価が可能です。
 こうした理解により、同系図の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたことになります。この理解は、「倭の五王」が近畿ではなく、北部九州(少なくとも肥後から筑後に至る範囲)を拠点とする王権(倭国)であったことを強く示唆します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟。
②7世紀以前の行政区画名が『日本書紀』に見える「郡」とするのか、金石文や古代史料に遺る「評」とするのか、戦後の日本古代史学界で続いた学問論争。出土木簡などにより、650年頃から700年までは「評」、701年からは「郡」であることで決着した。古田武彦先生は、評制を九州王朝(倭国)が制定したものであり、王朝交替により大和朝廷が郡制に変更したとした。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、63頁。「火国菊池評山門里」は熊本県菊池市付近が対応する。『和名抄』に「肥後国菊池郡山門郷」が見え、古代に遡る地名であることがわかる。