第2309話 2020/12/04

古田武彦著『古代通史』が復刻(ミネルヴァ書房)

 ミネルヴァ書房(京都市)から古田武彦著『古代通史』(注①)が復刻されました。ミネルヴァ書房から贈呈していただいた同書には、『東日流外三郡誌』の編著者秋田孝季と和田長三郎の名前が記された寛政宝剣額(注②)のカラー写真(青山富士夫氏撮影)が掲載されており、和田家文書調査のため古田先生と二人で津軽半島を駆け巡った当時を思い出しました。
 同書には復刻にあたり、新たな二編が加えられています。冒頭の青木洋さんによる「復刊によせて」と古田光河さん(ご子息)による「あとがきにかえて」です。青木さんは自作のヨットで世界一周した著名なヨットマンです。倭人が太平洋を横断したとする説を発表された古田先生と懇意にされていた方です。古田光河さんは親子間の会話や想い出が紹介されており、古田先生の新たな一面をうかがい知ることができました。
 その「あとがきにかえて」にも紹介されていますが、同書冒頭の「投石時代から狩猟時代へ」に「論証」という言葉が繰り返し使われています。次の通りです。

 「なぜ違っているのかということの論証が必要」「新しい論証の連続」「論証をもとにして」「論証の連続」「論証が時代別に分かれている」(同書1頁)

 本編冒頭の一頁にこれだけ「論証」という言葉が見えます。古田先生がいかに論証を重視されていたのかおわかりいただけると思います。わたし自身も古田先生に私淑した30年間、次の言葉を繰り返し聞かされました。「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(注③)。「学問は実証よりも論証を重んずる」(注④)。「論証は学問の命」。これらの言葉の意味は古田先生の著書にも記されていますし、復刻された本書もこの精神で貫かれています。

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』は原書房から1994年に発刊され、この度、ミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション27」として復刻された。
②青森県市浦村の山王日枝神社に奉納された宝剣額。「寛政元年(1789)八月一日」の日付を持ち、秋田孝季と和田長三郎(吉次)が『東日流外三郡誌』完成を祈願したもの。
③古田武彦『真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房、2013年)によれば、旧制広島高校時代の恩師岡田甫氏から学んだソクラテスの言葉とのこと。
④村岡典嗣氏のこの言葉は次の論稿にて紹介されている。
 古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『文芸研究』100~101号。東北大学文学部、1982年。同論文は『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版、1983年)に収録された。
 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』「日本の生きた歴史(十八)」ミネルヴァ書房、2013年にも紹介されている。


第2308話 2020/12/03

古田武彦先生の遺訓(17)

周代史料の史料批判(優劣)について〈後篇〉

 『竹書紀年』などの伝世史料や金文にも検討すべき問題があり、厳密な意味での同時代史料として取り扱うには克服すべき課題がありました。その結果、現時点で一次史料としての信頼性を有すのは竹簡であることがわかりました。しかし、学術調査で出土した竹簡であればよいのですが、古物商ルートで入手した盗掘品の場合、偽造の可能性もあるので、信頼してもよいものか懸念がありました。
 ところが、古物商ルートで入手したと思われる精華簡『繋年』(注)の場合、放射性炭素同位体年代測定法により紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、戦国期後半の同時代史料といえるのです。
 このように、竹簡の場合は放射性炭素同位体年代測定法により成立年代の確認が可能なため、伝世史料や金文よりも成立年代の信頼性が担保できるというメリットがあります。ただし、竹簡は伝世史料に比べると情報量が少ないため、やはり研究には伝世史料を用心深く使用せざるを得ないのが現実です。このような周代史料の実情を、わたしは定年退職後の勉強の結果知ることができ、ようやく周代暦年研究のスタートラインに立つことができました。(つづく)

(注)精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、2388点の竹簡からなる膨大な史料である。このうち、138件からなる編年体の史書が『繋年』と名付けられ、2011年に発表された。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されている。


第2307話 2020/12/02

古田武彦先生の遺訓(16)

周代史料の史料批判(優劣)について〈中篇〉

 主な周代史料には伝世史料(『春秋左氏伝』『周礼』『国語』『竹書紀年』など)、金文(殷周の青銅器に記された文字)、竹簡(精華簡『繋年』など)があります。これらの史料批判として、一般論としては竹簡や金石文などの考古史料が確かな史料として位置づけられるのですが、それほど単純ではないことがわかってきました。
 これはわたしの初歩的なミスだったのですが、当初、『竹書紀年』は出土竹簡に基づいており、信頼性が高いと思っていました。ところが調べてみると、それはとんでもない誤解でした。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』(注①)に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注②)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明によれば、今ある『竹書紀年』は三世紀の出土後に散佚し、その千年以上後の清代になって収集されたものであり、元の姿をどの程度遺しているのか、用心してかからなければならない伝世史料なのでした。
 金文についても同様で、同時代金石文と単純にとらえることができないこともわかりました。殷周の青銅器の中には古美術商ルートで出回ったものも少なくなく、偽造の可能性がついてまわります。次に出土であってもその遺構の編年の問題があります。というのも、その時代における青銅器の偽造、あるいは模造という可能性があり、殷周時代との同時代性の確認が必要です。
 このような「周代史料」の実態がわかってきましたので、それでは最も信頼できる史料は何なのかという課題について熟慮しました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②西晋(265~316年)。


第2306話 2020/12/01

古田武彦先生の遺訓(15)

周代史料の史料批判(優劣)について〈前篇〉

 『論語』が成立した周代における二倍年暦(二倍年齢)研究のために、周代史料について調査勉強を続けてきました。そのなかで各種史料の優劣を見極める作業、史料批判について認識を改めることが多々ありました。そのことについて説明します。
 古田先生の下で研究や現地調査を行う中で、史料批判について具体例をあげて学んだことがありました。その代表的なものは次のようなことでした(順不同)。

①木簡などの同時代史料を優先する。
②より古い史料を優先する。ただし、『三国志』写本のような例外もある(書写年代がより古い紹興本よりも、新しい紹熙本が原文の姿「対海国」「一大国」を遺している)。
③同時代金石文を優先する。ただし、金石文成立時の作成者の意思(作成目的)や認識(当時の常識)の影響を受けており、史実と異なる可能性があることに留意が必要。
④史料性格を分析し、史料作成目的を把握する。
⑤史料内容が関連諸学や安定して成立している先行説と整合しているか。
⑥現代の認識では理解できない、あるいは矛盾し、誤りと思われる内容にこそ、当時の古い姿が遺されているケースもあり、注意が必要。安易に原文改訂してはならない。

 このようなことを折に触れて教えていただきました。文献史学では、まずこの史料に対する目利き(史料批判)が重要です。ところが、周代史料の場合、史料状況がもっと複雑であり、より論理的な深い考察が史料批判に求められていることに気づきました。(つづく)


第2305話 2020/11/30

『東京古田会ニュース』195号の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』195号が届きました。同号には拙稿〝「二倍年暦」と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―〟を掲載していただきました。同稿では、中国周代の「百歳」記事と漢代の「五十歳」記事を紹介し、周代の長寿「百歳」と漢代の長寿「五十歳」という、ちょうど二倍になる認識の存在は二倍年暦(二倍年齢)仮説でなければ説明困難としました。
 同号冒頭には田中巌さん(東京古田会・会長)による「会長独言 郷土史の掘り起こしから」があり、地元千葉県佐倉市の農民一揆や義民伝承について報告されていました。わたしの七代前のご先祖、古賀勘右衛門(浮羽郡西溝尻村庄屋)が江戸時代屈指の百姓一揆(久留米藩宝暦一揆)のリーダーであったこともあり、関心を持って読みました。宝暦一揆については、「古田史学の会」HPに拙稿「久留米藩宝暦一揆の庄屋たち 西溝尻村庄屋六郎左衛門と百姓勘右衛門」(『古田史学会報』66号、2005年2月)が掲載されていますので、ご覧いただければ幸いです。


第2304話 2020/11/29

『古代に真実を求めて』24集の巻頭言

 本日、ようやく『古代に真実を求めて』24集の巻頭言を書き終えました。これまでになく、今回は巻頭言に苦しみました。というのも、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)からいただいた「巻頭論文」があまりにも立派で、それに見合う巻頭言となると、今までとは全く異なるものにしなければならないと、この半月ほど悩みに悩んできたのです。そして、苦しみながらも昨日から二日間ほど自室にこもり、ようやく書き上げました。
 その結果、巻頭言らしくない巻頭言となり、次のような項目に仕立てあがりました。読者や冥界の古田先生からの評価はいかに。

【『古代に真実を求めて』24集巻頭言】
『「邪馬台国」はなかった』の論理と系
          古田史学の会 代表 古賀達也

○はじめに
○『「邪馬台国」はなかった』を初めて読まれる方へ
○『「邪馬台国」はなかった』を既に読まれた方へ
○「陳寿を信じとおす」という学問の方法
○論理の導く所へ行こうではないか

 以上の小見出しを立て、次の一文で巻頭言を締めくくりました。

〝この「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である」という言葉に、「論証は学問の命」と通底する著者の気迫と学問精神がうかがえるのではあるまいか。であれば、「陳寿を信じとおす」という学問の方法の行く着く先がどこであっても、著者が怯(ひる)むことはありえない。著者を師と仰ぎ、本書を上梓したわたしたちもまた、同様である。〟


第2303話 2020/11/24

古田武彦先生の遺訓(15)

西周暦年の〝決め手〟「天再旦」

 前回の〝古田武彦先生の遺訓(14)〟で紹介したように、西周の年代が二倍年暦(二倍年齢)補正により、最大で200年ほど短縮される可能性があります。そのうえで、西周の暦年を見直す〝決め手〟の一つとして、『竹書紀年』に見える「天再旦」があります。今回はこの問題について紹介します。
 古代中国の暦年復原が中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(注①)で行われ、西周の王の在位年代を次のように〝決定〟しました。

【夏商周断代工程 西周王年表】(注②)
代数 王名 在位年(紀元前) 在位年数
1 武王  1046~1043    4
2 成王  1042~1021 22
3 康王  1020~ 996 25
4 昭王   995~ 977 19
5 穆王   976~ 922 55
6 共王   922~ 900 23
7 懿王   899~ 892 8
8 孝王   891~ 886 6
9 夷王   885~ 878 8
10 厲王   877~ 841 37
– (共和の政) 841~ 828 14
11 宣王   827~ 782 40
12 幽王   781~ 771 11

 この中の第七代懿王の元年について、『竹書紀年』に記された「懿王元年、天再び鄭(てい)に旦す。」とあるのを、鄭の地において夜明けが二度あったと解釈し、太陽が地平線から上った直後に皆既日食が起こるという珍しい天体現象と見なされました。国家プロジェクト「夏商周断代工程」では、この年代を古天文学により計算し、紀元前899年のことと〝決定〟しました。しかし、その後に懿王の年代決定が誤っていたことが判明し、見直しが進められていますが、まだ結論は出ていないようです。この経緯については、「洛中洛外日記」〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟で紹介しましたので、ご参照下さい。
 そこで、二倍年齢仮説により周代が新しくなることから、紀元前899年よりも後に発生した「天再旦」現象について、調査しています(注③)。もし、二倍年齢仮説により復原できた懿王元年にこの天体現象があれば、周代暦年復原研究にとって大きな前進となるはずですし、周代における二倍年暦(二倍年齢)の存在証明にもなります。(つづく)

(注)
①岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)で、プロジェクト「夏商周断代工程」について紹介されている。
②佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』108頁(星海社、2018年)から転載。
③国立天文台の谷川清隆先生に調査のご協力をいただいています。


第2302話 2020/11/22

『日本書紀』の「称制」記事を疑う

 昨日、福島区民センターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回12/19(土)はドーンセンターで開催します。
 今回の研究発表で最も興味深かったのが服部さんの『日本書紀』に見える「称制」の研究でした。『日本書紀』には神功と天智、持統による称制記事がありますが、中国史書に見える「称制」とは、まだ幼い天子の代理として母親(皇太后)などが政治を行うことを意味しています。他方、『日本書紀』では、天智や持統は前の天皇(斉明、天武)が亡くなってから「称制」しており、本来の意味での「称制」ではないことを疑問視され、持統は九州王朝の天子との関係における「称制」であったことを『日本書紀』は隠したとされました。「称制」の定義などについて反対意見も出されましたが、服部説はするどい着眼点であり、『古田史学会報』での発表が待たれます。
 例会後の懇親会では、関西例会をズームやスカイプにより配信することについて、意見交換がなされました。こちらも、実施に向けて検討を続けます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①海女の玉取伝説(高松市・西村秀己)
②古事記・日本書紀の編纂に関する一考察(茨木市・満田正賢)
③元号の始まり(八尾市・服部静尚)
④称制とは何か(八尾市・服部静尚)
⑤昔話の主役の老人の意味と古代の家族構成について(大山崎町・大原重雄)
⑥書紀に探る蘇我氏東漸の痕跡(大阪市・西井健一郎)
⑦九州王朝の国号(京都市・岡下英男)
⑧『古事記』に見える「驛」記事(東大阪市・萩野秀公)
⑨『隋書』と俀国・多利思北孤・端政(川西市・正木 裕)

◎事務局長報告(正木事務局長)
(1)例会初参加者(2名)の自己紹介
(2)新入会員の報告
(3)八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の報告(古賀・久冨さん)
(4)関西各地の講演会の報告と紹介
(5)南秀雄「古墳時代における都市化の実証的研究」(大阪市文化財協会のweb版紹介)
(6)福岡県古賀市船原古墳出土「玉虫入り馬具」、京都府与謝野町大風呂南1号墳出土「ガラス釧(くしろ)」報道の紹介
(7)五尺刀と糸島の宇陀(宇田川原)の紹介

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用のため)
 12/19(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 01/16(土) 10:00~12:00 会場:i-siteなんば ※午後は新春古代史講演会
02/20(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

◆新春古代史講演会 2021年1月16日(土) 13:30~17:00 (受付開始13:00) 会場:i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス) 参加費1,000円 ※午前は関西例会。午前・午後通しの参加費も1,000円です。
 ①「道行き読法」と投馬国・狗奴国の位置〈仮題〉
  講師:谷本 茂さん(古田史学の会・会員)
 ②裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」〈仮題〉
  講師:正木 裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)
 ③古代戸籍に遺された二倍年暦の痕跡 ―『大宝二年籍』『延喜二年籍』の史料批判―〈仮題〉
  講師:古賀達也(古田史学の会・代表)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 12/22(火) 18:30~20:00 「古代戸籍に記された超・長寿社会の謎 ―『大宝二年籍』『延喜二年籍』の真相―」 講師:古賀達也

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 12/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館交流ホールBC室
    「多利思北孤の時代⑤」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール 参加費500円
 01/09(土) 14:00~16:30 「白村江での敗戦と唐からやってきた進駐軍」「筑紫都督府と壬申の乱」 講師:服部静尚さん
 03/13(土) 14:00~16:30 「天皇と三種の神器」「王朝交代」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター
 12/08(火) 14:00~16:00 「未定」 講師:未定

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 12/01(火) 18:30~20:00 「周王朝から邪馬壹国へ ―『倭人伝』の官名『泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚』の謎を解く」 講師:正木 裕さん
 02/02(火) 18:30~20:00


第2301話 2020/11/20

『オデュッセイア』の二倍年暦

 「洛中洛外日記」2297話(2020/11/17)〝継体天皇「二倍年齢」の論理〟において、「論理性を競う論点の提示が、二倍年暦論争には必要と思われます」と書いたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から次のメールを頂きました。

〝論理的に二(以上)倍年暦(少なくとも一倍年暦ではない)と判断出来る説話は東洋のものではないがオデュッセウスの説話ですね。
 20年間故国に帰れなかったオデュッセウスにはテーレマコスという息子がいて、「20年」が一倍年暦ならばとっくに成人している、つまり行方不明の前王オデュッセウスに替わってイタケー王に即位している筈。なのに王妃ペーネロペーに求婚者が群がっている状況は、明らかにテーレマコスが即位出来ない年齢である証拠。つまりこれは二(以上)倍年暦。求婚者達が皆殺しになるのは単なる求婚者ではなくイタケーの王位を狙っていたから。(西村秀己)〟

 東洋と西洋の古典に堪能な西村さんならではの視点です。十数年前、わたしも西村さんからの助言により、『オデュッセイア』の二倍年暦について論文発表したことがあります。転載します。

〝『オデュッセイア』の二倍年暦
 古代ギリシアにおける二倍年暦はいつ頃までさかのぼることができるだろうか。管見ではギリシア最古の大英雄叙事詩『オデュッセイア』(ホメロス)が二倍年暦によると考えている。その理由は次のような事である。オデュッセウスが故郷イタケーを二十年間留守にしている間、妻ペネロペイアに群がる求婚者とその息子テレマコスとの諍(いさか)いが描かれているのだが、少なくとも二十歳以上となるテレマコスが幼く描かれている(注①)。このことについては従来から疑問視されてきたようであり、たとえば次のような疑義が出されている。

 「かりにテレマコスが、父の出征後に生まれたとしても、二十年の歳月が過ぎた現在ほぼ二十歳ということになるが、本篇ではせいぜい十代後半位のイメージで描かれているように思われる。」
 「オデュッセウスが出征して二十年が経過していること、また出征時にテレマコスが既に出生していたことから推定すれば、オデュッセウスはおよそ五十歳、ペネロペイアも四十歳に近く、テレマコスもまた少なくとも二十歳に達していたとせねばならない。二十歳といえば既に一人前の男子であるが、冒頭で彼がまだ幼さの抜け切らぬ少年の如く描かれているのは、少々奇異な感を与える。」ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫、一九九四年刊。松平千秋訳)の訳注・解説による。

 このオデュッセウス出征後の二十年間が二倍年暦であれば、一倍年暦の十年間となり、息子テレマコスの年齢も十歳プラスαとなり、彼が幼く描写されたことも自然な理解が得られるのである。また、オデュッセウスの年齢も三十歳代となり、帰国後、求婚者たちと戦って勝利することも可能な年齢となる。更に言えば、妻ペネロペイアの年齢も二十代後半位となり、求婚者が群がるほどの美貌が維持できる年齢ではあるまいか。
 このように、『オデュッセイア』は二倍年暦で読まなければ、その描写や背景にリーズナブルな理解が得られないのである。また、次の場面も二倍年暦を指し示す例である。オデュッセウスが変装して自宅に二十年ぶりに帰ってきたとき、愛犬アルゴスはオデュッセウスに気づき尾を振り耳を垂れたが、近寄る力もなくそのまま息絶えてしまう。アルゴスはオデュッセウス出征前から優秀な猟犬であったと記されていることから、もし二十年が一倍年暦ならアルゴスは二十歳を越えることになり、犬の寿命としては長すぎる。二倍年暦であればアルゴスの年齢は十歳代となり、犬の寿命としてリーズナブルである。この点からも、『オデュッセイア』が二倍年暦で叙述されていることは間違いないと思われる。
 ホメロスは紀元前九世紀の人物とされていることから、ギリシアでは少なくとも紀元前九世紀以前から二倍年暦が使用されていたと考えられるが(注②)、それがいつまで使用されていたのか、その下限はまだ不明であり、今後の研究課題である。〟

(注)
①西村秀己氏(向日市在住、古田史学の会々員)のご教示による。
②『イリアス』『オデュッセイア』の舞台ともなったトロイ戦争が紀元前一二〇〇年頃のことであるから、論理的可能性から言えば、ギリシアでの二倍年暦はその時点までさかのぼることも十分想定できよう。
【出典】古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界 ソクラテスの二倍年暦」『古田史学会報』No.54 2003年2月。『新・古代学』7集(新泉社、2004年)に「新・古典批判 二倍年暦の世界」として収録。


第2300話 2020/11/20

古田武彦先生の遺訓(14)

西周の王たちの二倍年齢

 古田先生の遺訓により、周代史料である『論語』の二倍年暦を証明するために、周王の在位年数や寿命の調査という回り道をしてきたのですが、ようやく周代の前半に当たる西周(注)については、二倍年齢が採用されていたと考えてもよい段階まで研究が進展してきました。その根拠は次の通りです。中間報告として、とりまとめておきます。

(1)周建国時の四代の王たちの長寿(約百歳)
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)

 「古代にも百歳の人はいた」とする論者でも、紀元前12世紀頃(通説)の中国で、約百歳の王が親子四代続いたとは言えないのではないでしょうか。在位年数とも矛盾しますから。これが二倍年齢であれば、60歳、50歳、48.5歳、46.5歳となり、古代人の寿命として極めてリーズナブルです。

(2)5代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。これも(1)と同様です。

(3)9代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があります。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ません。

(4)11代厲(れい)王も在位年数がちょうど二倍になる例があります。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。他方、『竹書紀年』では26年としています。

(5)11代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から長寿命と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせます。(『竹書紀年』)

 以上のように、周王の在位年数や寿命記事に二倍年齢と考えざるを得ない例が少なからず存在しています。これらの史料事実から、少なくとも西周では人の寿命や在位年数は二倍年齢が採用されていたと思われます。
 他方、暦が二倍年暦であったかどうかは、まだ結論を得るに至っていません。しかしながら、従来の周代暦年復原はこれら周王の二倍年齢を一倍年齢とみなして試みられてきたので、未だに成功していないのではないかと考えています。引き続き、周代後半の東周時代(春秋・戦国時代)について、調査検討を行います。(つづく)

(注)殷を倒して周を建国した初代武王から、12代幽王までの約400年間を西周と呼ぶ。この期間が二倍年齢であれば、実際は半分の約200年間となる可能性が高まる。


第2299話 2020/11/19

新・法隆寺論争(8)

法隆寺金堂の「薬師如来像」釈迦仏説

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表(注①)された法隆寺金堂の「薬師如来像」釈迦仏説は始めて聞くものであり、驚きました。その主たる根拠は薬師如来像光背に装飾されている「七仏」です。同様の「七仏」は釈迦三尊像光背にもあり、これは「釈迦七仏」と呼ばれているものです。同様に「薬師七仏」もあるのですが、その日本への伝来は七世紀後半か八世紀以降と考えられることから、光背銘の文(注②)に従って薬師如来像とされてきたこの像は釈迦像であり、銘文は薬師如来信仰が盛んになった後代に彫られたものとされました。たしかに、薬師如来像は釈迦三尊像によく似ており、光背銘がなければ釈迦像とされたと思われます。
 上原和さんが『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注③)で、「薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。」と指摘されていることも、服部説に通じそうです。
 さらに上原さんは次のような興味深い見解を述べられています。

 「現在の法隆寺金堂にある薬師像は、白鳳の擬古作である。だから、薬師像の銘文は、すべて嘘である、といってしまうのは、いささか短絡にすぎる。なぜなら、ここで重要なのは、あえて一時代前の、すなわち推古朝下の止利様式に倣って本尊が造られたという、そのまぎれもない事実にある。(中略)法隆寺の再建ということになって、かつての金堂とともに焼失してしまった旧本尊の復原が意図されるのは、当然ではないか。その復原された旧本尊に、造像銘も、以前のように、追刻される。しかし、その追刻された造像銘が、かならずしも、完全な復刻となりえなかったことは、一見本尊のその像容が、止利風、あまりにも止利風に見えながら、そのかたちの性質のうえには、どうしようもなく当代の、初唐の表現感覚が現れ出ているのと、まったく同様であり、銘文の文体も内容も、時代の影響から完全にまぬがれることはできなかったのではないだろうか。少なくとも、銘文の和訓化された漢文は、推古期の文体とは云い難い。
 (中略)様式のうえからいうと、旧本尊の復原に際して倣った止利様式は、東西魏のものにもっとも近い。東西魏において、いちばん熱烈に、信仰されたのも、この釈迦・彌勒であった。除災招福にも、延命長寿にも、衆生斯福にも、亡父母・亡夫・亡妻のための追善供養にも、おしなべて、釈迦・彌勒の像が、ついで観音像が造像されていた。では、創建時の法隆寺の本尊は、釈迦か彌勒か、何れかということになると、私は、おそらく釈迦の坐像であろうと想像する。そして、その像容は、おそらく、現在、私たちが法隆寺金堂の右正面に見ている薬師坐像と、同じかっこうのもので、右手を挙げ、左手を膝上に置いたに相違ない。釈迦仏の右手施無畏の説法印である。」(注④)

 上原さんは薬師如来像は焼失前の法隆寺本尊の釈迦仏に倣ったものとされており、服部説と相通じるものがあります。そして、それではなぜ釈迦仏を銘文では薬師仏としたのかという新たな疑問が服部説には発生します。服部説の詳細はいずれ論文として発表されると思いますので、従来にない新説として注目したいと思います。と同時に、古田旧説を支持するとしたわたしの理解にも見直しが迫られているようです。(つづく)

(注)
①服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。
②法隆寺金堂「薬師如来像銘文」
 池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時 歳
 次丙午年 召於大王天皇與太子而誓願賜我大
 御病太平欲坐故 将造寺薬師像作仕奉詔 然
 當時 崩賜造不堪 小治田大宮治天下大王天
 皇及東宮聖王 大命受賜而歳次丁卯年仕奉
③上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
④同③。143~145頁。


第2298話 2020/11/18

新・法隆寺論争(7)

法隆寺金堂の「薬師如来像」白鳳仏説

 法隆寺は古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要寺院です。その代表例が九州王朝の天子(阿毎多利思北孤)のために造られた釈迦三尊像と近畿天皇家の「天皇」のために造られた薬師如来像の存在です。
 釈迦三尊像が七世紀前半の仏像であることに異論はほとんど見られないのですが、薬師如来像は七世紀前半の「推古仏」とする説の他に、七世紀後半の白鳳仏とする説があります。当初、古田先生は前者の立場に立たれ、光背銘に見える「天皇」号を根拠に、近畿天皇家は七世紀初頭頃からナンバー2としての「天皇」号を称していたとされました(注①、古田旧説)。もちろん、ナンバー1は九州王朝(倭国)の天子です。なお、古田先生は晩年に、近畿天皇家が「天皇」号を称したのは王朝交替後の701年から(古田新説)と自説を変更されています(注②。わたしは古田旧説を支持してきました)。
 この薬師如来像を白鳳仏とする見解を二つ紹介します。一つは小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(注③)で、次のように述べられています。

 「銘文については、推古三十一年の釈迦三尊像の造像銘が完全な漢文で書かれているのにたいして、それより十五年あまりもさきの、この銘文が日本化した漢文体で書かれていること、はっきり薬師像をつくると記しているが、病気の平癒を祈願して薬師像をつくることは白鳳以前には例がなく、また天皇と書かれているのも推古十五年(六〇七)当時のものとしてはおかしいということなどから、推古十五年に書かれたものとは次第に考えにくくなったのである。
 つぎに様式上はどうかというと、写真を比較してもわかるように、飛鳥時代の仏像に釈迦三尊におけるように顔の面長であるのが特徴だが、この像では頬にはりがでてきて、丸顔に近くなってきていること、杏仁形を特徴とする目も、下瞼の線のカーブがゆるく直線的になってきていること、また衣文の線条もやわらかみを加えており、釈迦三尊像では強く末広がりに張っていた裳掛が、この像では比較的垂直にたれ下がってきていること、などがあげられる。これらの要素は視覚的には平面的から深奥的への深まりを示し、次期白鳳期の仏像様式につながるものをもってきているのである。
 これらの点から、この像は、推古十五年につくられた最初の法隆寺とその本尊が天智天皇のころに焼失したのち、法隆寺の再建に当って、飛鳥時代の様式をできるだけ忠実に追いつつ、つくられたものではないかと想像される。」同書45~46頁

 次に、上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注④)の記事を紹介します。

 「しかし、ここで、この薬師像の銘文をよく読んでみると、いろいろ疑問が生じてくる。(中略)それに、用明が亡くなって二十年以上もすぎてからの追善供養に、薬師像が造られるということも、常識的に考えてみて、いかにもおかしいし、だいいち薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。もっとも、いちばん早い遺作例としては、竜門石窟の古陽洞に、北魏の孝昌元年(五二五)銘のある薬師像が見られるが、これは、きわめて希有の遺例であって、竜門石窟の場合、その後、唐の儀鳳三年(六七八)に至るまで、一世紀半あまりの間、まったくその例を見ることはない。
 それに、なによりも決定的なことは、この法隆寺金堂の薬師像は、一見、止利仏師の作風に似通うものを思わせるのであるが、仔細に見るとそのかたちの性質は、すなわち、その表現様式は、まぎれもない、七世紀後半の白鳳時代のものであり、明らかに、法隆寺の再建された時点で止利様式に倣った擬古作であることを示している点である。試みに、現在、法隆寺の大宝蔵にある橘夫人厨子内の阿弥陀三尊像と比較するがいい。かたちの性質が、まったく同じであることに、読者は一驚するはずである。」同書142~143頁

 このように、薬師如来像を白鳳仏とする見解が以前からありました。ところが、昨日、京都市で開催された講演会(注⑤)で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、同薬師如来像を釈迦像とする驚くべき仮説が発表されました。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、2014年)
③小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(芸艸堂、1976年)
④上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
⑤服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。