奈良新聞に「古田史学の会」名刺広告を掲載
令和3年1月3日付の奈良新聞に「古田史学の会」名刺広告が掲載されましたので、お知らせします。そのお隣には関西例会に常連参加されている原幸子さんが代表をされている「古代大和史研究会」も出されていました。奈良県には古代史ファンが多いと聞いていますので、新年も多くの方が古田史学に接していただければ幸いです。
令和3年1月3日付の奈良新聞に「古田史学の会」名刺広告が掲載されましたので、お知らせします。そのお隣には関西例会に常連参加されている原幸子さんが代表をされている「古代大和史研究会」も出されていました。奈良県には古代史ファンが多いと聞いていますので、新年も多くの方が古田史学に接していただければ幸いです。
既にお知らせしていますように、来る1月16日(土)に新春古代史講演会を開催します。本年は、古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』発刊から50周年を記念して、同書によせた講演三題をお届けします。古田先生が提唱された邪馬壹国説における最新研究を「古田史学の会」の研究者3名が発表します。
わたしからは、倭人伝に記された倭国の二倍年暦が古代戸籍(大宝二年籍)にまで影響が及んでいることを報告させていただきます。正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)からは、邪馬壹国博多湾岸説を証明する最新の考古学的成果などが紹介されます。谷本茂さん(古田史学の会・会員)からは、「古田史学の会」関西例会でも注目され論争にもなった投馬国・狗奴国に関する新説が発表されます。
昨年から続くコロナ禍の中での講演会ですが、広い会場を使用して三密を回避し、手指の消毒・マスク着用の要請などの対策をとります。お誘い合わせの上、ご参加いただきますようお願い申し上げます。なお、コロナの影響により緊急中止の恐れもありますので、ホームページにご注意いただきますようお願い申し上げます。
古田史学の会 令和三年新春古代史講演会
~『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年によせて~
□日時 1月16日(土) 13:30~17:00 (開場13時)
□会場 I-site なんば 大阪府立大学なんばサテライト
〔アクセス〕
○地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分
○南海電鉄難波駅なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
○地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分
□参加費(資料代) 千円 ※午前中の「古田史学の会」関西例会にも参加できます。
□主催:古田史学の会 協力:古代大和史研究会 誰も知らなかった古代史の会 和泉史談会 市民古代史の会・京都 市民古代史の会・八尾
□講師と演題
谷本 茂 「道行読法」と投馬国・狗奴国の位置
正木 裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国説」
古賀達也 古代戸籍に見える二倍年暦の痕跡
『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在と若年層の少なさという史料事実を一倍年齢でも二倍年齢でも説明不可能なため、古代戸籍に関する先行研究を調査しました。
その結果、平安時代に入ると中央政府(近畿天皇家)の権力や地方への影響力が低下し、地方の造籍において、地方官僚ぐるみによる「偽籍」という行為が発生していることを知りました。平田耿二『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)によれば、律令体制が形骸化していた九~十世紀頃には、班田収受で得られた田畑の所有権を維持するために、造籍時に死亡者の除籍を届け出ず、生きていることにして、年齢を加算し戸籍登録するという偽籍行為が頻出していたとのことなのです。すなわち、延喜二年『阿波国戸籍』に見える超高齢者たちは既に亡くなっており、戸籍に登録されているからといって、その当時に超高齢者がいたと判断することはできないわけです。そのことは、同戸籍を二倍年齢実在の「実証的」根拠に使用できないことをも意味します。
更に若年層や成人男子が極端に少ないという現象も、徴用・徴兵等の義務から逃れるために、男子の戸籍登録をしなかったためと推定されています。あるいは、男子が生まれても女子として戸籍登録した可能性もあります。
確かに偽籍説であれば、同戸籍の考えにくい超高齢者群の存在、若年層や成人男子の極端な少なさについての合理的な説明が可能です。従って、同戸籍の〝史料事実〟は史的事実ではなく、実証の根拠とすることができないことを偽籍説により論証していることになります。他方、十世紀初頭の阿波国では中央政府の律令支配が形骸化していたことを示す史料根拠として、同戸籍が使用できることも示唆しています。
今回のケースは、史料事実と史的事実が別であることや、実証と論証の関係性を理解する上でわかりやすい事例ではないでしょうか。(つづく)
わたしが『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』を知ったのは、長野県白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年)においてでした。参加されていた「邪馬台国」阿波説論者の方からいただいた岩利大閑著『道は阿波より始まる』に同戸籍が掲載されていたのです。
一瞥して、その超高齢者群の存在に驚きました。当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで二倍年齢表記が残存していたのではないかと疑ったのです(暦は一倍年暦の時代)。そこで、超高齢者群の存在を記すその年齢記事(史料事実)を根拠に、実証的に二倍年齢の存在を証明できるのではないかと考えました。
しかし、同戸籍の年齢を半分にすると、80~110歳の超高齢者の年齢は現実的な数値になるものの、それ以外の年齢層では若くなりすぎて全く整合性がとれません。また、若年層が少ないという別の問題も解決できません。すなわち、同戸籍記載年齢を一倍年暦でも二倍年暦でも実証の根拠に使用することは、それを支持するための論証が成立せず、学問的に危険と気づいたのでした。そのため、二倍年齢により同戸籍を理解するという仮説提起をわたしは断念しました。
前話で指摘したように、古代諸史料に見える「九十歳」とか「百歳」という、当時としてはあり得にくい年齢記事を〝史料事実〟として疑いもせずにそのまま実年齢と理解し、〝史料事実に基づく実証〟と称して仮説を提起し、論を進めることが危険であるように、二倍年齢表記ととらえ、単純に実年齢はその半分とすることも、同様に危険です。やはり「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡先生が述べられたように、「実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠」(注)なのでした。(つづく)
(注)「学問は実証よりも論証を重んずる」との村岡先生の言葉に対する加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)の感想。更に加藤さんは、わたしへのメールで次のようにも追加説明されています。
〝村岡先生の言葉の私なりのもう少し平易な理解を申し上げますと、実証Aと称するものを持ち出して、Bと結論する人と、Cと結論する人が有った場合、Aは共通ですから勝負はつかず、決め手となるのは結論B,Cを導く論証の適否にある、という内容を、端的に表現されたもの、とも思えるということです。
いずれにしても、何か特別なことではなく、ごく当たり前のことを言われているとしか思えないことに変わりは有りません。Aから短絡的にBと結論しがちであるが、よく考えてみるとCが正しい、というようなケースにおいて、村岡先生の言葉は特に理解し易いと思います。〟
昨年11月の八王子セミナーでは、最初に『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』研究の経緯を紹介しました。当時としては超高齢者群の存在を示すその年齢記事(史料事実)を根拠に、実証的に二倍年暦(二倍年齢)表記ではないかとする作業仮説の当否を検討しました。その結果、実証的な判断により提起したこの仮説を是とする論証が成立せず、後に撤回に至った研究経緯を説明しました。この研究事例における史料事実と実証と論証について説明します。
延喜二年(902年)成立の『阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』に当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで二倍年齢表記が残存していたのではないかと疑ったのが研究の始まりでした(暦は一倍年暦の時代)。その年齢分布(史料事実)は次の通りです。
【延喜二年阿波国板野郡田上郷戸籍断簡】
年齢層 男 女 合計 (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
合計 50 361 411 100.0
※出典:平田耿二『日本古代籍帳制度論』1986年、吉川弘文館
同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。そこで、わたしはこの高齢表記を二倍年暦を淵源とする二倍年齢ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は1年で2歳とする、古い二倍年齢表記が阿波国では継続採用されていたのではないかと思ったわけです。
他方、子供の数が少ない同戸籍の記述(史料事実)に基づく実証として、次ような見解も提起されていました。「邪馬台国」阿波説を唱える研究者による次の記事です(注)。
「(前略)大倭の地へ王都が移遷されて以来、中世源平時代はもとより室町時代迄でも阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました。天皇家の周辺をささえたのは阿波人であったのは姓氏録を研究するだけで明白です。それぞれの血脈に従い、能力に応じた官職についていました。現在でいう停年になれば故里に帰ってきます。(中略)人はいうに及ばず、農水産物衣類まで阿波に依存して成り立っていたのです。」岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』6頁
子供の数が極端に少ないという、他の古代戸籍とは真逆の史料事実をそのまま歴史事実として受け入れたために、「阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました」とする解釈を導入せざるを得なかったものと思われます。しかし、同戸籍で極端に少ないのは「成年男子」だけではなく、1歳から20歳までの「少年少女」もそうなのですから、この解釈では史料事実を充分に説明できません。すなわち、論証が成立していません。ですから、学問的な実証にも至らず、仮説としても成立していないのです。
このような事例は、古代諸史料に見える「九十歳」とか「百歳」という、当時としてはあり得にくい年齢記事を〝史料事実〟として疑いもせずにそのまま実年齢と理解し、〝史料事実に基づく実証〟と称して仮説を提起し、論を進めることの危険性をご理解いただける典型的なケースではないでしょうか。実は似たような誤りを、同戸籍についてわたしもおかしそうになりました。(つづく)
(注)岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』昭和61年(1986)、京屋社会福祉事業団。
歴史研究においては実証であれ論証であれ、確かな史料事実に基づいて行わなければなりません。しかし、史料事実そのものが何かを証明してくれるわけではありません。茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)の論稿(注①)では、そのことを次のように説明しています。
〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことにはなにも語りません。〟『倭国古伝』207頁
その上で、実証と論証の関係を次のように説明しています。
〝「事実」についての論理展開があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が増す、という構造になっていたと思います。これこそが、村岡氏や古田氏が目指していた学問の方法でしょう。〟(同上)
この実証と論証の関係について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)は、私へのメールで次のように述べられました。
「実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉(注②)は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが」
この加藤さんの指摘は、茂山さんの説明と意味するところは同じです。このことを二倍年暦(二倍年齢)研究を例に説明します。(つづく)
(注)
①茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて 22集』古田史学の会編・明石書店、2019年)所収。
②「学問は実証よりも論証を重んずる」(古田武彦先生が紹介された村岡典嗣先生の言葉)
歴史研究においては史料事実に基づく実証と、同じく史料事実に基づく論証という、性格が異なる証明方法があります。両者の論理学的関係性については、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)による優れた解説があります(注①)。また、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」には異なる視点からの考察があり、示唆を受けました(注②)。わたしも「洛中洛外日記」で〝学問は実証よりも論証を重んじる〟〝「実証主義」から「論理実証主義」へ〟などを連載しました(注③)。なお、〝学問は実証よりも論証を重んじる〟は古田先生ご生前に『古田史学会報』でも発表しており、先生には読んでいただいています。
本年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)において、わたしは古代戸籍における二倍年暦(二倍年齢)の痕跡という新しい分野の研究を発表しましたが、そこでも実証と論証の関係性について丁寧な説明が必要と痛感しました。そこで、令和三年を迎えるにあたり、二倍年暦研究を対象として、このテーマを改めて詳述することにします。
それでは「洛中洛外日記」読者の皆様、一年間のご愛読に感謝し、令和三年が実り多き年となるよう祈念しながら、本年最後のご挨拶といたします。良いお年をお迎え下さい。
(注)
①茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『古田史学会報』147号(2018年8月)所収。
茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて 22集』古田史学の会編・明石書店、2019年)所収。
②山田春廣〝学問は実証よりも論証を重んじる ―「実証主義」は「教条主義」、科学は「仮説主義」―〟、ブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2018年5月9日)掲載。
③古賀達也〝学問は実証よりも論証を重んじる(1)~(9)〟、「洛中洛外日記」622~639話(2013年11月19~12年29日)掲載。
古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」、『古田史学会報』127号(2015年4月)所収。『古代に真実を求めて』19集(古田史学の会編・明石書店、2016年)に転載。
古賀達也〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(1)~(5)〟、「洛中洛外日記」1832~1855話(2019年2月1日~3月10日)掲載。
先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.161が届きました。拙稿「アマビエ伝承と九州王朝」を掲載していただきました。コロナ禍の中、注目されたアマビエ伝承と九州王朝との関係について論じたものです。
肥後の海に現れたとする「アマビエ」の元々の名前は「アマビコ」であり、「コ」が「ユ」と誤記誤伝され「アマビユ」になり、更に「ユ」が「エ」と誤記誤伝され「アマビエ」になったと考え、本来は肥後の古代伝承にある「蜑(アマ)の長者」のことではないかとしました。もちろん、この「蜑の長者」とは九州王朝の王族のことです(注)。
当号には、大墨伸明さん(鎌倉市)による「古田武彦記念古代史セミナー2020の開催報告」が掲載されていました。本年11月に開催された同セミナーの報告が要領良くなされています。わたしは古代戸籍に遺る二倍年暦(二倍年齢)の痕跡について報告しましたが、発表時間が30分と短かったので、A4で20頁に及んだ予稿集の内容全てを説明することができませんでした。新年になりましたら、「洛中洛外日記」で拙論の論理構造と学問の方法に焦点を当てて、わかりやすく解説したいと思います。
(注)「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)「アマビエ伝承と九州王朝(1~4)」
『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)などに見える「阿智王伝承」や「阿智使主伝承」は、本来は別伝承であったものが〝習合〟されたものとわたしは考えています。その痕跡が最もよく遺っているのが、同じく『群書系図部集 第七』に収録されている「秋月系図」です。既に紹介したように、秋月氏は九州王朝に仕えた千手氏の主家であり、両氏が同族であることが別の系図(注②)に記されています。
「秋月系図」では、阿智王の次代の高貴王(「又名阿多倍」とある)には長文の傍注があり、そこには時代が異なる二つの説話が記されています。ひとつは、阿多倍は「都賀使主」を号し、大臣を任じ、「嫁斉明天皇産三王子。其中子志拏直賜大蔵姓。」とあるように、高貴王(阿多倍)は「斉明天皇」と結婚し、三人の子供が生まれ、その次男の志拏直が大蔵姓を賜ったという不思議な伝承です。
その記事に続いて、阿智王が「応神天皇」の御世に七姓の氏族と共に帰化したという伝承が記されています。この伝承は『続日本紀』延暦四年六月条に見える、坂上大忌寸(いみき)苅田麿による宿禰姓への改姓を願う上表文の引用であり、「応神天皇(誉田天皇)」時代の帰化という部分は『日本書紀』応神紀二十年条の次の記事と類似しています。
「二十年の秋九月に、倭漢直の祖阿知使主、其の子津加使主、並に己が黨類(ともがら)十七縣を率て、来歸(まうけ)り。」
この二つの伝承のうち、七世紀中頃の来日伝承を持つ史料は「秋月系図」「大蔵氏系図」「田尻系図」(注③)などの筑前の氏族の系図で、九州王朝の家臣となった大蔵氏系氏族に限られているようです。この系列の伝承で興味深いのが、先の「秋月系図」の傍注にあるように、来日した阿多倍が「斉明天皇」と結婚したという点です。「大蔵氏系図」では「阿多王妻以敏達天皇之孫茅渟王之女」とあり、来日した阿多倍(阿多王)が敏達天皇の子の茅渟王の娘(斉明に相当)を妻にしたとあります。恐らく、来日した阿多倍が「九州王朝の皇女」を妻にしたという本来の伝承が、九州王朝の存在が忘れられた後世において、近畿天皇家の「斉明」や「茅渟王之女」に書き換えられたものと思われます。
(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②東京大学史料編纂所蔵『美濃國諸家系譜』「秋月氏系図」
③『群書系図部集 第七』「田尻系圖」(昭和六十年版)
野中寺に伝わる弥勒菩薩銘(注①)の「中宮天皇」を九州王朝の天子(筑紫君薩夜麻)の奥さんとする仮説を10年ほど前の「古田史学の会」関西例会で発表したことがあります(注②)。そのときのことを「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟で次のように紹介しました。
〝中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智五年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。
従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。〟
ここまでを作業仮説として提起していたのですが、それ以上は進展していませんでした。ところが先日(12月21日)、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)とインターネット通話で九州王朝トップ(倭王)の称号や天皇号の位置づけについて意見交換していたときに、この中宮天皇は天智の皇后で九州王朝の皇女と考えられている倭姫王のことではないかというアイデアが浮かんだのです。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が近年発表された九州王朝系近江朝説とも関連したものです。このアイデアについて日野さんに意見を求めたところ、近畿天皇家一元史観の学界内に中宮天皇を倭姫王とする説が既にあるとのことでした。
そこで、古田学派内での先行説の有無を調べるために、正木裕さんに確認したところ、昨日開催された「水曜研究会」(注③)で同様の意見が参加者(服部静尚さん他)から出されたとのことでした。こうした研究動向を知り、仮説として成立しそうなアイデアであることに自信を得ました。これからは各研究者による様々な論証が試みられることと期待しています。
(注)
①同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
②古賀達也「中宮天皇と不改常典」(古田史学の会・2011年7月度関西例会)
③古田史学の会・会員有志による研究会(会場:豊中倶楽部自治会館)。毎月一度、水曜日に開催されることからこの名称が付けられた。
『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)には、阿智王と阿智使主、高尊王・高貴王と阿多倍のように、同一人物に複数の名前があることから、「洛中洛外日記」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟において、〝名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。〟と指摘しました。この問題について検討したところ、本来は別伝承であった「阿智王伝承」と「阿智使主伝承」が〝習合〟されていた可能性が高まりました。
阿智王や阿智使主に関する伝承はいくつかの史料(注②)に見えますが、主には次のような差異があります。
(1)代表的な始祖の名前が「阿智王(あちおう)」と「阿智使主(あちのおみ)」
(2)その子供の名前が「阿多倍」と「都賀使主(つがのおみ)」
(3)来日の時期が「孝徳期」と「応神期」
(4)来日した人物が「阿智王・阿智使主」と「阿多倍」
(5)帰化した類族数が「十七縣」と「七縣」
これらの差異が史料毎に様々なバリエーションで伝承されており、一見すると整合性や規則性はありません。しかし、この中で決定的な差異は(3)の来日年代です。孝徳期(七世紀中頃)と応神期(『日本書紀』紀年では三世紀後半頃)ですから、誤記誤伝のレベルではありませんので、本来は別々の伝承があったと考えざるを得ないのです。
(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②管見では、阿智王・阿智使主を始祖とする伝承記事が次の史料にある。『日本書紀』(応神紀二十年条)、『新撰姓氏録』、『続日本紀』(光仁紀・宝亀三年条、桓武紀・延暦四年条)、「大蔵氏系図」、「坂上系図」、「秋月系図」、「田尻系図」。
九州王朝の家臣「千手氏」「大蔵氏」調査のため、群書類従の系図を久しぶりに読みなおしました。同書は『群書系図部集』七冊本として続群書類従完成会より発行されたもので、編纂者は江戸時代の学者、塙保己一(はなわ ほきいち、1746~1821年)です。
前に読んだ時は気づかなかったのですが、『群書系図部集 第七』の「伊香氏系図」(注①)に二倍年齢と考えざるを得ない記事がありましたので紹介します。同系図は冒頭の「伊香津臣命」から「伊香宿禰豊厚」「伊香宿禰豊氏」兄弟へと続き、それ以降は兄の「伊香宿禰豊厚」の子孫へと続いています。その兄弟の傍注に次の記事が見えます。
「伊香宿禰豊厚
天武天皇御宇白鳳十年辛巳以伊香字卽賜姓。此兄馮爲伊香郡開發願主也。歳百卅七。」
「伊香宿禰豊氏
歳百五。」
この記事から、次の三点が読み取れます。
(1)伊香津臣氏は「天武白鳳十年」辛巳(681)に「宿禰」姓をもらった
(2)近江国伊香郡(評)の有力者、伊香宿禰兄弟の
(3)没年齢が兄137歳、弟105歳
《解説》
(1)この白鳳は天武元年(672)を白鳳元年とする、後世の改変型九州年号。本来の九州年号(注②)白鳳は元年が661年で、23年間続く。同系図によれば、伊香宿禰豊厚の子供の厚彦が大宝(701~703年)時代、厚彦の子供の厚持が和銅(708~714年)時代とされていますから、年代的に矛盾はありません。
(2)「近江国風土記逸文」(注③)に近江国伊香郡の羽衣伝承があり、伊香刀美(伊香津臣と同人物とされる)という人物名が見える。
(3)このような超高齢表記は、古くから倭国で採用されていた二倍年齢と考えざるを得ない。従って、一倍年齢の68.5歳、52.5歳に相当する。
本年11月の八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)において、わたしは〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―〟というテーマで、倭国の二倍年暦(二倍年齢)の影響が「庚午年籍」(670年)造籍に及んだ可能性について報告しました。そして、今後の課題として、七世紀後半における二倍年齢の痕跡を他の史料でも探索するとしました。そして偶然にも系図調査により、白鳳時代の二倍年齢記事の発見に繋がりました。
この伊香宿禰たちが近江国伊香郡(評)の有力者であることも示唆的です。「大宝二年籍」の中でも二倍年齢の痕跡が見られるのが「御野国戸籍」であることから、御野(美濃)国の隣国である近江国伊香郡(評)で二倍年齢が七世紀後半においても使用されていたことは重要な発見と思われます。「大宝二年籍」でも西海道戸籍(筑前、豊前)には二倍年齢使用の明確な痕跡がなかったことから、一倍年暦の時代に二倍年齢使用が続いた地域と完全に暦も年齢計算も一倍年暦に変更した地域との差(注④)があることを八王子セミナーで指摘したのですが、その傍証にもなる今回の発見でした。
(注)
①『群書系図部集 第七』「伊香氏系圖」(昭和六十年版)。
②『二中歴』所収「年代歴」等による。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)を参照されたい。
③日本古典文学大系『風土記』457頁(岩波書店、1958年)。
④九州王朝の都(太宰府)があった筑前などは暦法先進地域として、二倍年暦(二倍年齢)から一倍年暦(一倍年齢)への変更がよりはやく完全に進められたと思われる。