古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3483話 2025/05/07

八幡書店・武田社長との対談録

 八幡書店から刊行する『東日流外三郡誌の逆襲』に収録する、武田社長との対談録の原稿が先日届き、校正追記して送り返しました。A4版で40枚の原稿となり、大変な作業でしたが、その甲斐あって面白い対談録になりました。

 和田家文書の信頼性や偽書の定義など、武田社長とわたしの見解の差なども随所にあらわれており、読者にも楽しんでいただけるものと思います。一言でいえば、和田家文書を文献史学の視点から研究するわたしと、伝承文学として捉えようとする武田社長との差異といってもよいかもしれません。ただ、偽作説に対する批判や憤りは共感しており、とても楽しく有意義な対談録になりました。校正に当たっては、そうした会話体の雰囲気を損なわないよう、かつ読者が理解しやすいような修正にとどめました。

 その後も武田社長から毎晩のように内容確認や相談の電話が続いています。後世に残す一冊にしようとする熱意が感じられ、わたしも同じ気持ちですので、連日、初校ゲラの修正を行っています。かなりの修正件数となり、発行を少し遅らせてでもゲラ校正作業を一回増やす必要を感じています。

 刊行後、東京や青森で出版記念講演会を行う予定です。武田社長は青森の講演会にも参加したいとのことでした。本を世に出すにあたり、執筆者と版元の情熱と息が合うことの大切さを改めて知ることができました。NHK大河ドラマ「べらぼう」の〝蔦重〟の気持ちが少しはわかったような気がします。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがき
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を語る人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の「和田家文書」調査― 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3482話 2025/05/06

奈良新聞読者への

 「列島の古代と風土記」プレゼント企画

 「奈良新聞」4月29日版に、「列島の古代と風土記」読者プレゼント企画が掲載されました。同書は古田史学の会が『古代に真実を求めて』28集として発行したもので、同新聞社に本会から毎号贈呈しているものです。奈良県民はその土地柄からか歴史に関心が深い方が多く、古代大和史研究会(原幸子代表)主催による正木裕さんを講師とする古代史講演会は盛況です。
同紙には「列島の古代と風土記」について、次のように紹介しています。

 「古田史学の会が、古田史学論集『古代に真実を求めて』の最新第28集「列島の古代と風土記」(古田史学の会編、明石書店刊、税込み2420円)=写真=を本誌読者3人に。

 第28集の特集テーマは「列島の古代と風土記」で、風土記・地誌が語る古代像を、多元史観・九州王朝説の視点から見る。故古田武彦氏の風土記論を参照しつつ、風土記に記された倭国(わこく)の事績を検討し、卑弥呼(ひみこ)の墓の所在や羽衣(はごろも)伝承など、各地に残された謎や仮説の真実に迫る論考9編を収録する。このほか一般論文3編を収録。」

 ちなみに、来年発行予定の『古代に真実を求めて』29集の特集テーマは、ご当地の藤原京や太宰府・難波京などの古代都城をとりあげます。投稿締切は本年九月末日です。投稿規定は「列島の古代と風土記」末尾に掲載しています。ふるってご投稿ください。


第3481話 2025/05/01

志賀島の金印発見の経緯記した史料

 本日の読売新聞 WEB版に興味深い記事がありました。志賀島で金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる東大寺の森本公誠長老が所蔵しているというもので、その文書には、1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上したという内容が記されているとのことです。

 他方、そうした通説とは異なる口碑伝承が当地には伝えられており、古田先生も調査されていました。それは、金印は糸島市の細石神社に代々伝わってきたもので、何らかの事情により福岡藩にわたったというものです。古田先生の調査によれば、発見者とされる甚兵衛という人物の実在を確認できないことと、志賀島叶の崎には弥生時代の遺構が発見されておらず、甚兵衛により発見されたという経緯も怪しく、細石神社や当地に伝えられてきたという伝承の存在を軽視できないということでした。

 今回のニュースによれば、従来説の信憑性が高まることになり、このテーマは引き続き検討が必要です。下記の「洛中洛外日記」などでも複数の現地伝承について触れていますので、ご覧下さい。

「古賀達也の洛中洛外日記」
806話 2014/10/19 細石神社にあった金印
1337話 2017/02/14 金印と志賀海神社の占い
1776話 2018/10/25 八雲神社にあった金印
1781話 2018/11/04 亀井南冥の金印借用説の出所
『古田史学会報』139号、2017年 金印と志賀海神社の占い

【以下、読売新聞 WEB版から転載】
三つの石に箱のように囲まれて…
「金印」発見の経緯記した史料、東大寺長老が所蔵

 江戸時代に福岡・志賀島(しかのしま)で国宝の金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる奈良・東大寺の森本公誠長老(90)が所蔵している。子孫にあたる家などに伝えられたとみられ、貴重な資料として研究者が注目する。(奈良支局 栢野ななせ)

 金印は、約2.3センチ四方の印面に篆書(てんしょ)体で「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻み、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は蛇をかたどったとされる。1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上されたという。1954年に国宝に指定され、78年に福岡市に寄贈された。

 金印考文は、発見から約20年後の1803年に福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)が記した史料。〝金印は三つの石に箱のように囲まれて埋められていた。鑑定で黄金の印であると判明したため郡奉行に伝え、福岡藩主が実見した。金印は蔵に納め、甚兵衛は褒美を受け取った〟などと記されている。福岡市博物館によると、文書は複数あり、志賀島の旧家などに伝わったと考えられる。島の地図が添えられたものと地図のないものの大きく2系統に分けられるという。

 森本長老が所蔵する文書は縦37.7センチ、横50.5センチ。長老の祖母が梶原家出身で、長老が30年ほど前、おじから文書を引き継いだ。金印発見の経緯や「印を押し、鈕の形を図に写した」という記述、島の地図、金印と大きさが一致する「漢委奴國王」の印影がある。蛇の細かい文様や金印のわずかな欠損まで描き表した図も添えられている。

 同博物館の朝岡俊也学芸員は「(景熙の)自筆かどうかの判断は難しいが、金印考文の中でも、書いた本人の一族に伝えられているという点で貴重だと言える」と説明。大阪市立美術館の内藤栄館長(芸術学)は「手元に金印があったとすれば、実際に押し得たかもしれない。実物を写し取らなければ、図もこれほど細部まで描けないだろう」と指摘する。森本長老は「文書とともに石が伝えられたが、戦争の混乱で失われたと聞く。もしかすると(文書に記されている)金印を囲んでいた石だったのかもしれない」と話している。

 金印は、大阪市立美術館で開催中の「日本国宝展」(読売新聞社など主催)で7日まで展示されている。

【写真】森本長老が所蔵する金印考文。志賀島の金印。


第3480話 2025/04/30

久住猛雄氏「比恵・那珂遺跡群」論文の紹介

 6月22日(日)の「列島の古代と風土記」出版記念大阪講演会(注①)で講演していただく久住猛雄さんには、弥生の硯の研究と共に次の優れた研究があります。日本最古の〝大都市〟比恵・那珂遺跡(福岡市)についての研究論文「最古の『都市』~比恵・那珂遺跡群~」(注②)です。そこには重要な指摘と考察が述べられています。要約して紹介します。

❶比恵・那珂遺跡群は「最古の〈都市〉」である。「街区」の形成は「考古学的に認識しうる都市の条件」の一つとして重要視されているが、それがより明確にわかるのは比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、「初期ヤマト政権の宮都」とされる纏向遺跡においては、そのような状況は依然ほとんど不明である。
❷比恵・那珂では、高床倉庫が林立する倉庫群領域が弥生中期頃から形成される。それら倉庫域は『魏志倭人伝』の「邸閣」領域と推定される。
❸比恵・那珂遺跡の最大の特徴の一つとして、列島内外の遠隔地を含む多地域の土器の搬入が多く見られる。この現象が弥生中期後半から後期の全期間において継続的に見られ、他の集落に比べて明らかに多い。楽浪土器、半島系無文(粘土帯)土器、三韓土器、南九州から近江・東海西部地方までの土器が流入している。
❹半製品である「鉄素材」の出土が多い。その中には、朝鮮半島ではなく中国本土産と推定されるものもある。比恵・那珂では明確な鍛冶遺構が少ないが、むしろ長距離交易品としての鉄素材が流入して取り引き交換される場所で、鉄器に関しては福岡平野内の鍛冶集落から供給される率が高かったと考えられる。博多の鍛冶工房群の直接的な管理運営者は比恵にいた大首長の蓋然性が高い。
❺比恵・那珂では、天秤権用の石権(重り)が出土しており、鳥栖市本行遺跡出土の石権と重量単位に対応関係があり、比恵・那珂ないし「奴国」がその単位を定めた可能性がある。
❻これらの交易には文字によって管理されていた可能性が最近出てきた。博多湾岸からの板石硯出土の発見が続いており、外交だけでなく、交易にも文字が使用されていたと、近年では考えられている。
❼弥生時代から古墳時代前期の福岡県下から検出された井戸約800基のうち、なんと500基前後が比恵・那珂に集中している。その人口は控えめでも3000人以上と予想される。おそらく、直接経営の周囲水田では不足することから、広大な倉庫群領域の存在自体、余剰食糧あるいは交換物資として広範囲から食料を集積していることを示唆している。

 これらの考察・指摘は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を示唆するものですが、久住さんご自身は「邪馬台国」畿内説を支持されているとのことです。学問は異なる仮説が自由に発表でき、互いに学びあい、真摯に検証・論争することが大切です。久住さんの講演が待ち遠しいものです。

(注)
①「古田史学の会」主催。会場は大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば。6月22日(日)13:00開場。講師と演題は次の通り。
久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―。
②久住猛雄(福岡市埋蔵文化財課)「最古の『都市』~比恵・那珂遺跡群~」総括シンポジウム『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。

古代の都市と文字文化 20250622 isiteなんば

古代の都市と文字文化 2025年6月22日 isiteなんば


第3479話 2025/04/25

『東日流外三郡誌の逆襲』謝辞に代えて

 ―冥界を彷徨う魂たちへ―

 5月末刊行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』のために書き下ろした「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」掉尾の一節を紹介します。

【以下、転載】
七、冥界を彷徨う魂たち
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。〔令和六年(二〇二四)四月十日、筆了〕

【写真】『東日流内三郡誌』と『東日流外三郡誌』。(明治写本)


第3478話 2025/04/24

東日流外三郡誌を学問のステージへ

 ―和田家文書研究序説―

本年5月末頃に刊行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』の序文として書き下ろした「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」の最終節を紹介します。同書を世に出すに当たっての思いを綴ったものです。

【以下、転載】
五、文献史学のアプローチを
東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書は、江戸時代の寛政年間を中心に編纂された伝承史料群である。そこに記された「史料事実」は江戸期における人々の歴史認識であって、それは「歴史事実」とは異なる別の概念だ。したがって和田家文書は、そこに記された歴史叙述がどの程度歴史の真実を伝えているのかを研究する、文献史学の研究対象なのである。
しかし、東日流外三郡誌は不運に見舞われた。理不尽な偽作キャンペーンの発生だ。偽作論者たちは、和田家文書に〝偽書〟のレッテルを貼り、文献史学の研究対象とする研究者に論難を加え、和田喜八郎氏による偽作とまで言い放ったのである。
そのような偽作キャンペーンに学問的反証を行い、和田家文書を真っ当な文献史学の研究対象の場に戻すべく、本書は上梓された。東日流外三郡誌と歴史の真実のみを求める。本書はこの学問精神に貫かれている。東日流外三郡誌の逆襲がここから始まるのである。〔令和六年(二〇二四)三月二十日、筆了〕

【写真】1994.5.7 石塔山神社にて。和田喜八郎氏・古田武彦氏・古賀。テレビ東京放送(昭和61年頃)の東日流外三郡誌調査風景。

参考


第3477話 2025/04/23

『東日流外三郡誌の逆襲』初校ゲラ校正

 先週末、八幡書店から『東日流外三郡誌の逆襲』の初校ゲラが届き、連日夜遅くまで校正・校閲作業に追われています。また同社の武田社長からは対談記事の内容確認などの電話が続いています。当初の予想を大幅に上回る約四百頁の著作となりましたが、これは先に「古田史学の会」で編集発刊した『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店)の二倍です。そのため、校閲作業を娘(同志社大学メディア学科卒)に手伝ってもらうことにしました。AIを駆使してデジタルデータのチェックを行うとのことで、旧世代のわたしには思いもよらない新時代の技術のようです。

 同書は偽作説への痛烈な反証になっています。和田家文書偽作説を支持する方には是非読んで頂きたいと願っています。五月末頃に予定されている出版の暁には、東京・仙台・青森で記念講演会を開催したいと考えており、関係者の皆様と相談しています。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがき
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を語る人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の「和田家文書」調査― 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3476話 2025/04/22

文献史学と考古学の〝もたれあい〟

 ―「邪馬台国」畿内説の真相―

 先日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。5月例会の会場は大阪市立中央会館です。

 今回も活発な討論・意見交換が繰り広げられました。関西例会ならではの光景です。このようにして学問は深化発展するのだと思います。わたしたちは、一元史観や権威(古田先生をも含む)におもねるような発表ではなく、〝師の説にな、なづみそ(本居宣長)〟を実践しています(注①)。もっとも、〝古田説にはなづまず、一元史観になづむ〟ような言動は考えものですが。

 正木さんの発表「邪馬壹国の王都」は、久住猛雄さん(福岡市埋蔵文化財センター)による、列島内最大規模の比恵那珂遺跡(弥生時代~古墳時代前期)の調査報告(注②)を紹介し、邪馬壹国博多湾岸説の考古学的根拠とするもので、わかりやすく印象的な内容でした。特に、同遺跡(環濠を持つ)の規模が吉野ヶ里遺跡の四倍であること、その南方には卑弥呼の墓があったと考えられている須久岡本遺跡群(注③)が広がっていることなど、この地をおいて、日本のどこに邪馬壹国があったとするのかと、改めて確信を深めました。

 質疑応答の際、「畿内説は何を根拠にして小規模な纏向遺跡や時代が異なる箸墓古墳を「邪馬台国」とするのか」という主旨の質問が出されました。とても重要な質問と思い、わたしは次のような学界の実体を説明しました。

〝この二十年ほど、わたしは畿内説の文献史学や考古学の研究者に会えば、次のような質問を繰り返してきました。「邪馬台国を畿内とする根拠を教えて下さい」。そして得られた回答はほぼ次のようなものでした。

〔文献史学者の意見〕「文献(倭人伝)の記述からは邪馬台国の位置は不明だが、考古学ではヤマトの纏向としていることから、畿内説が最有力と考えている」〟(注④)

〔考古学者の意見〕「考古学では邪馬台国の位置はわからないが、文献史学によれば畿内説で決まりとのことなので、纏向遺跡が該当すると考えている」

 この両者の主張からわかったことは、「邪馬台国」畿内説は〝文献史学と考古学のもたれあい〟、自説の根拠を互いに他の分野の見解に基づくとする「根拠なき“有力”説」であったことです。これでは〝学問の癒着構造〟とでも言われそうです。

 本来であれば、文献史学なら史料事実(倭人伝)を、考古学なら出土事実(弥生遺跡・遺物)をもって自説の根拠とすべきです。あるいは、自らの学問領域ではわからないのであれば、「邪馬台国の位置は不明」と言うべきです。そのうえで、別々の根拠とそれぞれの方法によって成立した両者の仮説(「邪馬台国」の位置)が一致すれば、その仮説はより有力となり、多くの人々の支持を得て、通説に至るのが真っ当な学問の道筋(道理)です。そうはなっていない日本の古代史学界は何かがおかしい。〟

 この学界の状況に対して、「否」の声を上げ、邪馬壹国博多湾岸説を唱えたのが古田武彦先生でした(注⑤)。そして、その学説(多元史観・九州王朝説)や学問精神をわたしたち「古田史学の会」は受け継いでいます。こうした関西例会での歯に衣を着せぬ論議を聞くたびに、三十年前、「古田史学の会」を創設してよかったと思います。

 今月から上田武さん(古田史学の会・事務局)が司会を担当。永年、司会を担当していただいた西村秀己さん(古田史学の会・会計、高松市)に感謝します。なお、当面の発表申請窓口は引き続き西村さんが担当しますので、お間違えなきようお願いします。

 4月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①応神帝 (記・応神帝譜に載る人々) (大阪市・西井健一郎)

②九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁神獣鏡 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

③古代日本の三国時代 ―蝦夷国の基礎的研究― (京都市・古賀達也)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

④百済三書の信憑性について (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/KlZsJrX7JKU

⑤邪馬壹国の王都 (川西市・正木 裕)
https://youtu.be/bgxvyw9Ild4

⑥「倭王の東進」と「神武神話」 (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22会員総会・記念講演会の案内
❷「列島の古代と風土記」特価販売(2200円、税・送料をサービス)の案内
❸その他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
05/17(土) 10:00~17:00 会場 大阪市立中央会館
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

(注)
①〝本居宣長の「師の説にな、なづみそ」は学問の金言である〟と古田武彦氏は語っていた。
②久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。他。
③古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1978年。
古賀達也「筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王―」『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店、2025年)
④仁藤敦史氏は『卑弥呼と台与』(山川出版社、2009年)、「倭国の成立と東アジア」(『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年)で、次のように畿内説の根拠を述べている。
「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)
「前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁」
⑤邪馬壹国博多湾岸説は、短里説(一里76メートル)による帯方郡から邪馬壹国までの総里程一万二千余里の到着地が博多湾岸であるとする文献史学の仮説、筑前中域が弥生時代の金属器(青銅器・鉄器等)と漢式銅鏡の出土数が国内最多であり、ヤマトよりも圧倒的に多いという考古学の出土事実により成立している。

【写真】比恵那珂遺跡群地図と比恵遺跡


第3475話 2025/04/17

『九州倭国通信』218号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.218号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」の後編を掲載していただきました。前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。後編では、中国史書(『三国志』倭人伝、『宋書』倭国伝、『隋書』俀国伝、『旧唐書』倭国伝・日本国伝)の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介しました。例として『宋書』倭国伝について、次のように論じました。

 〝たとえば、『宋書』倭国伝の倭国王の比定。そこには五人の倭国王の名前、「讚」「珍」「濟」「興」「武」が記されています。いずれも『日本書紀』には見えない名前です。従って、古田氏はこれら「倭の五王」は近畿天皇家の人物ではなく、倭国も大和朝廷に非(あら)ずとしました。他方、神代の昔から近畿天皇家(後の大和朝廷)を中心に日本列島の歴史は展開したとする一元史観では、「倭の五王」全員をヤマトの天皇のこととするため、次のような解釈や諸説が発表されました。

 云わく、「讚」は履中天皇(去来穂別イサホワケ)。その理由は、第二音「サ」を「讚」と表記した。或いは仁徳天皇(大鶺鷯オホササキ)。その理由は、第三・四音の「サ」、または「ササ」を「讚」と表記した。

 云わく、「珍」は反正天皇(瑞歯別ミヅハワケ)。その理由は、第一字の「瑞」を中国側が間違えて「珍」と書いてしまった。
云わく、「濟」は允恭天皇(雄朝津間雅子ヲアサツマノワクコ)。その理由は、第三字の「津」を中国側が間違えて「濟」と書いてしまった。または第三・四音の「津間」は「妻」であり、この音「サイ」が「濟」と記された。

 云わく、「興」は安康天皇(穴穂アナホ)。その理由は、「穴穂」がまちがえられて「興」と記された。または「穂」を「興(ホン)」と誤った。
云わく、「武」は雄略天皇(大泊瀬幼武オホハツセワカタケ)。その理由は、第五字の「武」をとった。

 わたしはこのような恣意的解釈が日本古代史学界では学問的仮説として横行していることに驚きました。一元史観を是とする〝答え〟を先に決めておいて、それにあうような恣意的で奇々怪々な解釈を羅列する。これは全く美しくないというより他なく、理系ではおよそ通用しない方法です。いわんや、世界の識者を納得させることなど到底不可能です。〟

 当号掲載の沖村由香さんの「古代地名を考える(第一回)『万葉集』次田温泉(すきたのゆ)」は興味深く拝読しました。ご当地の二日市温泉は、『万葉集』には「次田温泉」と大伴旅人の歌(巻六 961番)の題詞にあり、「すきたのゆ」あるいは「すぎたのゆ」と訓まれたはずだが、平安時代の『梁塵秘抄』には「すいたのみゆ(御湯)」とあり、「すきた」→「すいた」の音韻変化が平安時代に発生しているとされました。従って、『万葉集』の「次田」の場合は、従来のように平安時代の訓み「すいた」ではなく、「すきた」と訓むべきとされました。

 わたしも太宰府条坊都市近隣にあるこの温泉に関心を抱いており、九州王朝(倭国)がここに都を置いた理由の一つに、この温泉の存在があったのではないかとする仮説を、本年7月6日の久留米大学公開講座で発表する予定です。この研究のおり、なぜ「次田」を「すいた」と訓むのだろうかと不思議に思っていたのですが、その疑問の一端が沖村さんの論稿により、わかるかもしれないと思いました。

 沖村稿によれば、「平安時代に起こった音便現象(イ音便)によるもの」とのことで、同様の例として、「大分(おほきた)」→「大分(おおいた)」や「埼玉(さきたま)」→「埼玉(さいたま)」、「秋鹿(あきか)」→「秋鹿(あいか)」があるとのこと。このような「き」→「い」という音韻変化があることを知らなかったので、とても勉強になりました。それではなぜ、「すき」の音に「次」の字を当てたのかなど、まだまだ疑問はつきません。これから勉強したいと思います。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。


第3474話 2025/04/15

『古田史学会報』187号の紹介

 『古田史学会報』187号を紹介します。同号には拙稿〝『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」〟を掲載して頂きました。同稿は、『古今集』仮名序に見える「ならの御時」傍注の「文武天皇」や、人麻呂の官位が正三位とあるのは九州王朝系史料に基づくとする仮説です。

 一面に掲載された谷本茂稿「九州王朝は「日本国」を名乗ったのか?」は、倭国(九州王朝)側が七世紀前半以前に「日本」と名乗った痕跡は無いとして、主に古田先生が晩年に発表した古田新説を批判し、むしろ旧説の方が論旨が一貫し、矛盾が少ないとしたものです。なかでも、同稿末尾に追記された【補注】は衝撃的な内容で、中国史書をはじめ漢籍に詳しい谷本さんならではの指摘だと感心しました。これこそ、古田先生が常々言っておられた〝「師の説にな、なづみそ」本居宣長のこの言葉は学問の金言です〟に相応しい論考ではないでしょうか。以下、当該部分を転載します。

 〝古田武彦氏は、『失われた九州王朝』の中で、『三国遺事』五に、新羅の真平王[在位579年~631年]の時代の用例として「日本兵」があり、当時「日本」という呼称が存在した確実な証拠であるとされた(ミネルヴァ書房版382頁~384頁)。融天師彗星歌の説明文を、「… 時に天師、歌を作り、之(これ)を歌う。『星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反(かえ)りて福慶を成さん』と。大王歓喜す。…」と読み下している。『』の部分が歌の内容を直接表記したものとみなしたのである。

 しかし、この読み方は、遺憾ながら、古田氏の誤読である。原文では、この部分に続いて「歌曰」として、実際の歌の内容が引用してある。その中には「倭」という表記があるのであるから、こちらが当時の用語であることは明らかである。古田氏が読み下し文中で『』で示した部分は、歌の原文ではなく、『三国遺事』の著者・一然の地の文(解説文)であり、十三世紀の表現であるから、「日本」が現れるのは当然なのである。〟

 187号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』187号の内容】
○九州王朝は「日本国」を名乗ったのか? 神戸市 谷本 茂
○戦中遣使と司馬仲達の称賛 渡邉義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』について たつの市 日野智貴
○「科野大宮社」に残る「多元」 上田市 吉村八洲男
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(下) 川西市 正木 裕
○『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」 京都市 古賀達也
○谷本茂氏、また多くの方との対話継続のために 世田谷区 國枝 浩
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2025年度会費納入のお願い
○メールアドレス登録のお願い
○編集後記(6/22出版記念講演会・会員総会の案内) 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3473話 2025/04/14

久住猛雄氏の「板石硯」論文の紹介(2)

 久住さんの論文「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」(注①)には更に鋭い指摘があります。しかも出土事実に基づく論理的な考察であり、説得力を感じました。当該部分を転載します。

 〝『魏志倭人伝』に、倭と「諸韓国」との外交にも「文書を伝送し」とあるから、韓国側にも書写道具(板石硯・研石)が存在する蓋然性がある。韓国では、陶製円面硯の導入が百済で5世紀からなされるが(都라지2017)、それ以前には今まで認識されていない「板石硯」が多く存在するだろうと予測する。今後、出土品の再検討が必要であろう。書写用具としては「筆」の問題があるが、弥生時代中期後半併行の韓国昌原市茶戸里遺跡において、1号木棺墓より5本の筆が出土している(李健茂1992、武末2019;図11)。列島産の可能性が高い青銅器(中細形銅剣)や付近の祭祀土器に糸島型の須玖式系土器があり、「奴国」や「伊都国」と茶戸里の首長は交渉していたのが明らかなので、列島にも同様な筆が存在した可能性は高い。今後、筆だけでなく、硯研台・硯篋、さらに木簡を含む書写に関わる有機質製品が発見されることが予想されるし、そのような認識で発掘調査とその整理作業に臨む必要があろう。〟

 ここに示された考察は次のような論理構造を持っています。

❶倭人伝には、倭と「諸韓国」との外交にも「文書を伝送し」とあるから、同時期の韓国側にも書写道具(板石硯・研石)が存在する蓋然性がある。
❷弥生時代中期後半併行の韓国の茶戸里遺跡木棺墓より5本の筆が出土している。
❸茶戸里遺跡からは日本列島産の可能性が高い青銅器(中細形銅剣)や糸島型の須玖式系土器が出土しており、北部九州と茶戸里の首長は交渉していたのが明らか。
❹そうであれば、日本列島にも同様に筆や硯研台・硯篋、さらに木簡を含む書写に関わる有機質製品が発見されることが予想される。

 この倭人伝の史料事実と考古学的出土事実から導き出された❹の「予想」は、とても論理的で合理的なものです。考古学界では〝論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。〟を実践する研究者が増えていることを実感しています。「古田史学の会」ではそうした研究者を応援し、そして学ばせていただきたいと願っています。たとえ意見が異なっていたとしてもです。
6月22日の「列島の古代と風土記」出版記念大阪講演会(注②)での久住さんの講演が待ち遠しいものです。(おわり)

(注)
①久住猛雄(福岡市埋蔵文化財課)「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」韓国慶北大学校人文学術院HK+事業団 第4回国際学術大会『木から紙へ ―書写媒体の変化と古代東アジア―』発表資料集、2021年。
②「古田史学の会」主催。会場は大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば。6月22日(日)13:00開場。講師と演題は次の通り。
久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―。


第3472話 2025/04/13

久住猛雄氏の「板石硯」論文の紹介(1)

 弥生時代の硯(すずり、板石硯)の福岡県を中心とする発見が続き、弥生時代の文字使用を示す遺物として注目しています。従来は砥石と判断されていた板状の石製品を再調査すると、硯であることが判明しました。これを発見したのが、福岡市埋蔵文化財センター・文化財主事の久住猛雄(くすみたけお)さんです。本年6月22日の「古田史学の会」主催講演会(注①)では久住さんを講師として、弥生時代の板石硯と当時最大の都市「比恵那珂遺跡群(福岡市)」について講演していただく予定です。

 それに先立ち、久住さんの論文「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」(注②)を再読しています。同論文では『三国志』倭人伝に記された弥生時代の文字文化について考察しており、倭国の文字(漢字)の受容について古田説と同様の見解であり、以前から注目していました。転載します。

 〝3世紀(弥生時代終末期~古墳時代初頭)には、『三国志』の通称「魏志倭人伝」によると、倭女王卑弥呼は魏に「上表」しているし、さらに倭王が「京都(魏都洛陽)、帯方郡、諸韓国」に遣使する場合には、「文書を伝送」し、「賜遣之物」に誤りがないかどうか「皆、津に臨みて捜露す」とあるが、これは何か「目録」のようなものと「賜遣之物」を照らし合わせたと解釈できるし、「文書を伝送し」という記事からは、少なくとも「外交」においては「文字」を使用していたことは明らかではないかと考えるがいかがであろうか。

 この記述の中では、中国王朝(「京都、帯方郡」)との外交だけでなく、「諸韓国」との外交においても、「文書を伝送」していたとされていることも重要である。一方、「魏志倭人伝」には、「使訳の通ずる所三十国」ともあるから、倭王だけでなく倭の諸国も「文書」を伝送したり、「賜遣之物」のやりとり(対外長距離交易)には「目録」や、あるいは取引記録などで文字を使用していた可能性は十分考えられる。

 さらに遡って見てみると、『漢書』地理誌では(紀元前1世紀、弥生時代中期後半頃)、「(倭人は)分かれて百余国となす。歳時をもって来りて献見すると云う」とあるが、「歳時」のたびに「百余国」が「献見」したとすれば、最初に遣使した場合はともかくそれ以降は、外交儀礼上、何らかの「上表」文と、献上品の「目録」を持参するように漢(楽浪郡)側から求められたのではないだろうか?
以上が、少なくとも弥生時代中期後半以降、倭において「外交」および「対外長距離交易」においては、「文字」を使用することがあり得たとする理由であり、前提となる考えである。ただし注意してほしいのは、そのことをもって直ちに「内政」一般において文字を使用していたこと(「文書行政」の開始)を意味しないし、またそのようには考えていないということである。〟

 このようにとても鋭い視点です。しかし、慎重に判断されたものとは思いますが、〝直ちに「内政」一般において文字を使用していたこと(「文書行政」の開始)を意味しない。〟とするのはいかがなものでしょうか。なぜなら、倭人伝には次の記事があるからです。

 「收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。」

 「租賦を収む」とあるように、「租賦」(祖は穀物、賦は労役)を徴収する制度が記されていることから、徴税・徴発のためには戸籍(文字による記録)が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要ですから、行政(内政)に於いても文字を使用していたと考えざるを得ないのです。

 更に久住論文には優れた論理的考察が示されています。(つづく)

(注)
①講師と演題は次の通り。会場は大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば。6月22日(日)13:00開場。
久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―
②久住猛雄(福岡市埋蔵文化財課)「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」韓国慶北大学校人文学術院HK+事業団第4回国際学術大会『木から紙へ ―書写媒体の変化と古代東アジア―』発表資料集、2021年。