古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3581話 2026/01/16

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (6)

 弘前中学の名物教師、

  天内氏・森氏・菊池氏

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)後列の男性三名の内、裏に書かれた「天内」《男A》と「森」《男B》が、旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)教師の天内兼太郎氏(1885~1985)と森林助氏(1880~1935)であることが判明しました。そうすると、裏書きに名前の記載がない後列右端の男性も弘前中学の教師か関係者ではないかと思い、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)から送っていただいた『鏡ヶ丘百年史』(注①)のコピーを精査しました。そうしたところ、「菊池巍」という教師の写真が目にとまりました。

 同誌(217頁)に掲載されている菊池巍(きくち たかし)氏の写真も画質が荒く不鮮明ですが、「記念写真」に見える長身の《男C》と容貌や雰囲気が似ているのです。そこで、WEBで同氏の写真を探したところ、「近代文献人名辞典(β)」(注②)に顔写真がありました。得られた三枚の写真を見比べると、同一人物と見て良いと思われました。長身で大きな耳と面長の顔、ちょっと気取ったような雰囲気などが共通しており、しかも菊池巍氏も弘前中学の教師であり、天内兼太郎氏(1885~1985)・森林助氏(1880~1935)と一緒に「記念写真」に写っていることも、この推定を強く支持します。

 ちなみに、秋田孝季集史研究会の増田達男さんからご教示いただいた『青森県人名辞典』(東奥日報社、1969年)には次のようにあり、年代的にも「記念写真」に見える他の人物と整合します。

 「菊池 巍(きくち・たかし) 明治九~昭和九(一八七六~一九三四)南津軽郡大光寺村の名門、菊池家の一族健左衛門の長男。東奥義塾に入学したが、卒業にいたらず独学で明治三一年小学校教員検定試験に合格、各地小学校につとめ三四年中津軽郡青柳小学校長となる。その間、研学を怠らず三九年中学校教員検定試験に合格して国漢科の免許状を取得、四○年弘前中学校教諭となる。以来昭和八年末に至るまで、終始同校に勤務した。人格は円満そのもので孜々として生徒を教導、深く敬愛され同校の偶像的存在であった。孤峰と号して漢詩をよくした。没後知友(森林助)の手により、「孤峰遺稿」が刊行された。」※(森林助)は古賀による補記。

 菊池巍氏(1876~1934)も弘前中学の名物教師だったようで、『鏡ケ丘同窓会報』6号(昭和39年・1964年)に掲載された高木直衛氏による「在校時代の思い出」には次のように記されています(注③)。

 「それから、忘れることのできないのは、菊池巍(たかし)先生である。先生は大光寺村の旧家の出で、小学校の先生をしながら国漢の文検をとられた篤学の士である。漢文が特に得意のようだった先生は元来他人を疑うことを好まぬ極く正直なお人柄であった(後略)」

 こうして、「秋田重季氏ら記念写真」に並んで写っている六名の男性の内、五名の素性を確認でき、裏書きの名前の正確性が更に高まりました。(つづく)

[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」

(注)
①『鏡ヶ丘百年史』弘高創立百年記念事業協賛会、昭和58年(1983)。
②WEB辞典『近代文献人名辞典(β)』「菊池孤峰(きくちこほう)、本名:菊池巍」。
③高木直衛(明治四十三年卒)「在校時代の思い出」『鏡ケ丘同窓会報』6号、鏡ケ丘同窓会、昭和39年・1964年。


第3580話 2026/01/15

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (5)

 ―弘前中学の教師、天内氏と森氏―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏に書かれた、「森」《男B》が、著名な津軽の歴史家で旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)教師の森林助氏(1880~1935)である可能性がでてきました。そこで、森林助氏の写真探索のため、秋田孝季集史研究会の皆さんに協力を要請しました。そうしたところ、玉川宏さん(同会・事務局長)より、『鏡ヶ丘百年史』(注①)のコピーが送られてきました。

 同誌には、弘前中学校の著名な教師として森林助氏の名前や記事が散見され、同氏の写真も掲載されているのですが、画像が不鮮明で「記念写真」の「森」《男B》と断定できるほどではありません。しかし、顔の輪郭や眼鏡をかけていることなどが似ており、別人と断定することもできないように思いました。

 ところが、同誌には「森林助」と並んで「天内兼太郎」の名前が散見するのです。すなわち、弘前中学には「森」と「天内」という「記念写真」裏に記された名字を持つ二名の教師がいたのです。この事実は、「記念写真」の人物が森林助氏と天内兼太郎とすることを強く示唆するもので、わたしには決定的な証拠と思えました。こんなことが偶然に起きるとは考えにくいからです。

 しかしながら、同誌には天内兼太郎氏の写真はなく(大勢の集合写真はあるが、人物は小さくて見分けられない)、「記念写真」後列の「天内」《男A》と比較確認することができません。そのため、天内兼太郎氏の写真を探したところ、『鏡ケ丘同窓会報』六号(昭和39年・1964年)に同氏最晩年(八十歳)のときの写真があり、「記念写真」とは年齢は離れていますが、顔の輪郭や禿頭であること、右肩が左肩より下がっていることなどの共通点があり、同一人物であると思われます。『鏡ヶ丘百年史』にも、同氏のことを記した記事(599頁)に「小柄で禿頭」とあり、「記念写真」後列に見える他の二人の男性と比べると、「天内」《男A》が最も低身長であり、記事に記された容貌・体型と一致しています。

 『青森県人名辞典』(東奥日報社、1969年)には、弘前中学で大正9年(1920)11月から昭和21年まで教鞭をとっていたと記されており、次の説明があります(注②)。

 「天内兼太郎(あまない・けんたろう) 明治一八~昭和四○(一八八五~一九六五)県立弘前中学校教諭。中津軽郡岩木町生まれ。旧姓坂本。軍隊生活が長く、大正九年特務曹長(後の准尉)で退職して、県立弘前中学校に奉職。教練と体操を担当、昭和二一年まで二五ヵ年余にわたって、幾千の弘中生から〝カレコ〟のあだ名で敬愛された名物教員。八〇歳で死去。」

 同じく『青森県人名辞典』には、森林助氏についても次の説明があります。

 「森 林助(もり・りんすけ) 明治一三~昭和一〇(一八八〇~一九三五)福島県の人。国学院大学で国史学を専攻。青森県火造中学校を振り出しに明治四二年弘前中学校に転じ、没するまでながく同校に教鞭をとった。その間、地方史の開拓研究にうちこみ、陸奧史談会の運営の中心となり、青森県史の編さんにも関与し、地方史研究の進展におおきな功績を残した。その著書は「山鹿素行と津軽信政」「津軽弘前城史」其の他数多く、後進を益するところ多大なものがある。」

 こうして、「秋田重季氏ら記念写真」に並んで写っている六4名の男性の内、四名の素性が明らかとなり、裏書きの名前の正確性が高まってきました。(つづく)

(注)
①『鏡ヶ丘百年史』弘高創立百年記念事業協賛会、昭和58年(1983)。
②秋田孝季集史研究会の増田達男氏からの情報による。


第3579話 2026/01/14

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (4)

 ―津軽の歴史学者、森林助氏―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏に書かれた、「天内」《男A》・「森」《男B》・「和田長三(郎)」《男D》の内の「森」について、偶然にも弘前市立図書館で閲覧した史料中に、書写者・編纂者として「森林助」という名前が散見されることを知りました。たとえば、同館蔵「八木橋文庫」目録に次の記述が見えます(注①)。

 北畠史料ノート(ロ) 森林助 K091-3-5-2
大正4〜大正12(1915〜1923)写 1冊 半紙 仮和
註:「波岡御所史料」 北畠系図、波岡系図、波岡御所断片、弘前藩士浪岡氏、津軽郡中名字、金光上人伝、西光寺、他

 調査の結果、森林助氏は津軽の著名な歴史家であり、旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)の教師であることを知りました。本田伸「〈史料紹介〉森林助宛の二通の書簡:花山院忠長の津軽滞在をめぐって」(注②)に次の説明がありました。

 「森林助〈一八八〇~一九三五〉は、陸奥史談会を立ち上げるなど、津軽地方史の掘り起こしに功繍を挙げた人物である。長らく弘前中学校で教鞭を執り、棟方悌二・中里忠香・中道等らとともに、大正十五年(一九二六) の『青森県史』(青森県教青委員会編、全八巻)編纂に関わった。『山鹿素行と津軽信政』『東日流弘前城史』など多くの著作があり、平賀町(現平川市)の葛西覧造をはじめ、多くの後継者を育成した。」

 この記事により、森林助氏は明治・大正・昭和に活躍した歴史研究者であり、旧制青森県立弘前中学校の教師であったことがわかりました。しかも、秋田重季氏や綾小路護氏と同時代の人物ですから、「記念写真」に記された「森」《男B》の有力候補です。そこで、森林助氏の写真探索のため、秋田孝季集史研究会の皆さんに協力を要請しました。(つづく)

(注)
①弘前市立図書館、八木橋文庫目録(平成25年10月)。
https://www.city.hirosaki.aomori.jp/tosho/old/yagihashi.pdf
②本田伸「〈史料紹介〉森林助宛の二通の書簡:花山院忠長の津軽滞在をめぐって」『弘前大学國史研究』123号、2007年。


第3578話 2026/01/13

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (3)

 ―裏書きの「天内」「森」とは誰か―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏側に書かれた男性の名前5名のうちの2名「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》について、綾小路護子爵と秋田重季子爵であることを確認できました。そうすると他の3名「天内」《男A》・「森」《男B》・「和田長三(郎)」《男D》も正確な情報に基づく名前ではないかと考えました。そこで、最初に「天内」の調査をしました。

【写真の裏書き】※表の写真の配置とは左右が逆転している。
○後列 「森」《男B》・「天内」《男A》・「女」
○前列 「女」・「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》・「女」・「和田長三(郎)」《男D》

 というのも、当写真が藤本光幸氏の遺品中にあったことから、光幸氏のお父上(光一氏)が藤崎町の旧家、天内(あまない)家から藤本家に養子として入ったとお聞きしていたので、その天内家の一人ではないかと考えたのです。そこで、秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さん(藤本光幸氏の妹)に天内家の写真が遺っていないか調査して欲しいとお願いしました。残念ながら、天内家には古い写真が残っていないとのことでしたが、写真の「天内」は〝父親とよく似た顔だち〟とのことでした。しかし、写真が遺っていなければ比較検証できませんので、「天内」《男A》調査は暗礁に乗り上げました。

 次に取り組んだのが、「森」《男B》の調査。昨年9月27日、弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のおり、「明治大正時代に秋田子爵に会えるほどの有名な「森」さんを知りませんか」と、秋田孝季集史研究会の方々に尋ねました。しかし、有力な情報は得られませんでした。ところが、津軽での最終調査日(10月2日)に行った弘前市立図書館での古文書調査で、史料中に「森林助」という名前が散見していることに気づいたのです(注③)。(つづく)

(注)
①秋田重季(あきた しげすえ) 1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会(政治団体)に属して活動した。
②綾小路護(あやのこうじ まもる) 1892年(明治25年)~ 1973年(昭和48年)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。
③弘前市立図書館蔵「八木橋文庫」目録に次の記述がある。
北畠史料ノート(ロ) 森林助  YK091-3-5-2
大正4〜大正12(1915〜1923)写 1冊 半紙 仮和
註:「波岡御所史料」 北畠系図、波岡系図、波岡御所断片、弘前藩士浪岡氏、津軽郡中名字、金光上人伝、西光寺、他

〖写真の説明〗
秋田重季氏と綾小路護氏の比較写真(左が「記念写真」、右がWEB上の写真)。


第3577話 2026/01/12

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (2)

 ―写真の裏書きにあった「秋田重季」―

 残された研究テーマ「秋田重季氏ら記念写真」調査分析には貴重な〝ヒント〟がありました。その写真の裏側に書かれた次の文字(縦書き)です。

○後列 「森」《男B》・「天内」《男A》・「女」
○前列 「女」・「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》・「女」・「和田長三(郎)」《男D》

 ※❶ 男性5名にのみ名前が記されており、女性5名は「女」あるいは不記載。

 ※❷ 写真の下部が何故か切り取られているため、(郞)は見えず、推定による。(季)は「禾」の部分が残っているので、「季」と判断した。「綾小路」の下に名前があったのかどうかは不明。後列の男性2名は名字のみ。

 ※❸ 後列右端の長身の人物《男C》には名前の記載がない。左上に付された円内の《男X》も不記載。

 ※❹ 表の写真とは名前の位置が左右逆転している。写真の人物の真裏の位置に名前を記したことによる現象か。

 ※❺ 裏書きの名前は後列「天内」の下に「秋田重(季)」と記されているが、表の写真では「森」《男B》の下に「秋田重(季)」《男E》がいる。これが意図的なものか、ただ単に不正確な記述によるのかは不明。

 この写真裏の書き付けにある人物名の当否を調査した。まず、秋田重季氏(注②)の写真をWEBで探したところ、若い頃(20歳代か)の写真があり、「記念写真」の《男E》と同一人物であることが確認できました。

 次いで、「綾小路」もお公家さんか華族ではないかと考え、調査したところ、綾小路護氏(注③)が同時期の子爵であったことがわかりました。そこで、WEBにあった同氏の写真により、「記念写真」の《男F》と綾小路護子爵とが同一人物であることを確認できました。

 裏書きにあった氏名の内、2名が正しかったことから、他の人名「森」「天内」「和田長三(郎)」も正しいのではないかと考え、調査を進めました。(つづく)

(注)
①写真の人物配置は次の通り。
○左上の円内《洋服正装の男X》1名
○後列(立ち姿)5名
《和服の女A》《洋服正装の男A》《和服正装の男B》《和服の女B》《和服正装の男C》
○前列(ソファーに着座)5名
《和服の男D》《和服の女C》《和服の男E》《和服の女D》《和服の女E》
○前列(床に着座)1名
《和服の男F》
②秋田重季(あきた しげすえ) 1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会(政治団体)に属して活動した。
③綾小路護(あやのこうじ まもる) 1892年(明治25年)~ 1973年(昭和48年)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。


第3576話 2026/01/11

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (1)

 ―藤本光幸氏の遺品、一枚の写真―

 令和五年五月六日~九日、わたしは青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりとなる和田家文書の本格調査を再開しました。〝令和の和田家文書調査〟と名付けたこの津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子氏)の方々から物心両面のご協力をいただき、多くの成果に恵まれました。ところが、どうしても進まなかった重要な研究テーマがありました。「秋田重季氏ら記念写真」の調査分析です。

 〝令和の和田家文書調査〟のとき、興味深い資料を弘前市の竹田家で拝見しました。竹田侑子さんのお兄様、藤本光幸さんの遺品中にあった一枚の「記念写真」です。縦約9cm・横約14cmのモノクロ写真で、前後2列に並んだ男女11名と左上に付された円内の男1名の写真です。人物は次のように並んでいます。撮影年次・場所は不明です。

○左上の円内《洋服正装の男X》1名
○後列(立ち姿)5名
《和服の女A》《洋服正装の男A》《和服正装の男B》《和服の女B》《和服正装の男C》
○前列(ソファーに着座)5名
《和服の男D》《和服の女C》《和服の男E》《和服の女D》《和服の女E》
○前列(床に着座)1名
《和服の男F》

 女A・女B・女Eの3名は日本髪を結った若い女性で、芸妓さんのようです。女C・女Dの2名は「女将」のような雰囲気の女性です。
後列の男A・男B・男Cはいずれも正装で緊張した面持ち。それに比べて、前列の男D・男E・男Fは和服を着て、くつろいだ様子。しかも隣の女性と手をつないでいます。前列左端の男Dは、最も若い青年のように見えます。

 こうした構図から、前列3名の男性が宿泊・宴会している旅館か料亭に、後列の3名の男性が訪問したときの記念写真のようです。恐らく主賓は前列中央の男Eと思われます。言うならば、地方の旅館に遠方より来た男D・男E・男Fが、地元の男A・男B・男Cにもてなされた際の記念写真とでもいったところでしょうか。男Xについては未詳。

 これだけでしたら、どうということもない記念写真に過ぎませんが、前列中央の男Eが秋田重季子爵(注②)のようなのです。秋田子爵家は三春藩の藩主、秋田家の子孫です。すなわち、秋田孝季・和田長三郎吉次に東日流外三郡誌の編纂を命じた7代目藩主(秋田*倩季・よしすえ)の子孫なのです。その人物の記念写真が、なぜ藤本光幸さんの遺品にあったのか。このことの解明が、〝令和の和田家文書調査〟での未解決テーマとして残っていました。(つづく)
*倩:人偏に青(倩の異体字)。

(注)
①古賀達也「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。
②秋田重季(あきた しげすえ)1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動した。


第3575話 2026/01/08

1月18日(日)新春講演会の

    講師、荊木美行さんのこと

 「古田史学の会」では恒例の新春講演会を茨木市で1月18日(日)に開催します(注①)。会外からの講師として、皇學館大学教授で文献史学の研究者、荊木美行(いばらき・よしゆき)先生を招聘しました。

 氏の著書『東アジア金石文と日本古代史』(2018年)を読んで以来(注②)、是非とも本会で講演していただきたいと願っていたところ、同じく講師として講演していただく谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)と正木裕さん(本会事務局長)のご紹介により、来ていただけることになりました。

 岡崎公園内の京都府立図書館で『東アジア金石文と日本古代史』を始め、氏の著書を数冊拝読し、荊木さんは「邪馬台国」北部九州説(筑後地方)で、「ほぼ短里」説(一里:九十m)であることを知りました。古田武彦先生の邪馬壹国説にも触れておられ、氏は後代史料を根拠に「邪馬台(臺)国」を是とする説ですが、古田説を無視することもなく、良心的な学者だと思いました。

 『東アジア金石文と日本古代史』はさすがに文献史学の専門家らしく、その博識が随所にうかがわれました。特に『風土記』に関わる論考はとても勉強になりました。新春講演会ではそうしたお話しをお聞かせいただけることと楽しみにしています。

 講演会後には、講師を囲んでの懇親会も予定しています(当日、会場で受け付けます。別途、懇親会参加費が必要)。講演会・懇親会は会員以外の方も参加できます。皆さんのご参加をお待ちしています。

(注)
①『列島の古代と風土記』出版記念 新春講演会「風土記が秘した歴史」
〖日時〗2026年1月18日(日) 午後1時20分~5時
〖講師・演題〗
荊木美行氏(皇學館大學教授) 風土記は史実を語るのか ―天皇の巡幸伝説をめぐって―
谷本茂氏(『古代に真実を求めて』編集部)  「多元史観」から見た風土記研究 ―「縣型(乙類)風土記」の成立時期―
正木裕氏(元大阪府立大学理事・講師) 『風土記』が拓く大和朝廷以前の歴史
〖会場〗茨木市文化・子育て複合施設「おにクル」7階 茨木市駅前三丁目9-45(JR茨木駅・阪急茨木市駅から歩約10分)
〖参加費(資料代)〗1000円 高校生以下無料 大学生500円
〖定員〗150名 〖主催〗古田史学の会
②古賀達也「【書評】荊木美行『東アジア金石文と日本古代史』斜め読み」『古田史学会報』167号、2021年。

②古賀達也「【書評】荊木美行『東アジア金石文と日本古代史』斜め読み」『古田史学会報』167号、2021年。


第3573話 2026/01/06

『藤原京 王朝交代の舞台』のゲラ校正

  『古代に真実を求めて』30集

     投稿募集要項

「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』29集となる『藤原京 王朝交代の舞台』(明石書店)の初校ゲラの校正作業を編集部員の担当者3名(谷本茂さん・西村秀己さん・古賀)で進めています。当号の採用稿はいずれも誤字脱字などは少なく、校正作業は順調に進んでいますが、内容がハイレベルであり、校正担当者の知識や理解力が要請されています。
同誌末尾には、次号(『古代に真実を求めて』30集)への投稿募集要項(投稿規定)や編集後記などがありますので、以下転載します。

《原稿募集(投稿規定)》
❶三十集の特集テーマは「古代の女人伝承」です。古田史学・多元史観の継承発展に寄与できる論文をご投稿ください。
❷特集論文・一般論文(一万五千字以内)、フォーラム(随筆・紀行文など。五千字以内)、コラム(解説小文。二千字程度)を募集します。投稿は一人四編までとします〔編集部からの依頼原稿を除く〕。
論文は新規の研究であること。他誌掲載論文、二重投稿、これに類するものは採用しません。それとは別に、編集部の判断に基づき、他誌掲載稿を転載することがあります。
❸採用稿を本会ホームページに掲載することがありますので、ご承諾の上、投稿してください。
❹投稿締め切り 令和八年(二〇二六)九月末。原稿は最終稿を投稿して下さい。投稿締切後の修正には原則として応じません。編集部から、採用予定稿の修正を求める場合があります。
❺原稿はワード、またはテキストファイル形式で提出して下さい。ワードの特殊機能(ルビ、段落自動設定など)は使用しないで下さい。ルビは()内に赤字で付記してください〔例 古田史学(ふるたしがく)〕。原稿は縦書仕様とし、アラビア数字を漢数字にするなど、適切に対応してください。
❻掲載する写真や表は、文書ファイルとは別に写真ファイル・エクセルファイルとして提出して下さい(ワード掲載写真は画像が不鮮明になるため)。その際、写真・表の掲載位置を原稿中に赤字で指示してください。
写真や図表などの転載・転用は、他者の著作権や版権に留意し、必要であれば転載許可申請などに対応できるよう、事前に準備して下さい。
❼英文目次に掲載しますので、原稿タイトルの英訳を冒頭に記入して下さい。英訳に不慣れな方は編集部にて対応しますので、お任せ下さい。
❽投稿先 古賀達也まで。

《編集後記より抜粋》
次号、三十集の特集テーマは「古代の女人伝承」。高市早苗さんがわが国初の女性総理大臣に選ばれたこともあり、多元的古代の真実を「女人」を視点として捉え直す機会にしたいと、このテーマを決めました。日本古代史には、卑弥呼・壹与・倭姫・薩末比売や神話の女神たち、近畿天皇家にも神功皇后をはじめ推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正などそうそうたる女性達が登場します。あるいは歴史の流れの中で忘れられた女性も少なくないでしょう。必ずしも伝承を論じたものに限定はしませんが、古田史学・多元史観の立場から、古代の女性をテーマとした論稿を期待します。
投稿される方は投稿募集要項の規定❶~❾を遵守してください。投稿締切は二〇二六年九月末日。古田史学・多元史観の継承と発展に寄与する論稿をお待ちしています。(古賀達也)


第3572話 2026/01/05

令和八年の抱負 (4)

 ―多元史観による蝦夷国研究―

 昨年、発行した『東日流外三郡誌の逆襲』の続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮称)の構想を練っています。続編では『東日流外三郡誌』の研究だけではなく、古代東北史の研究として蝦夷国についても論究してみたいと考えています。そこで、多元史観による蝦夷国研究を四つ目の抱負としました。次の蝦夷国関係論稿を収録予定です。

○蝦夷国誕生の真実 ―東日流に逃げた愛瀰詩(エミシ)―
○蝦夷国の「山神社」考
○青森の日本中央碑と佐賀の中央碑
○蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―
○蝦夷国「会津高寺」への仏教伝来

 拙稿の他に、藤田隆一さんや合田洋一さんの論文も掲載予定です。前作とは違った視点で編集したいと思います。ご期待下さい。(おわり)

〖写真の説明〗「東日流外三郡誌」明治写本

 


第3571話 2026/01/03

令和八年の抱負 (3)

 ―多元史観による木簡研究―

 昨年11月、京都府立医大病院の病床で考えた令和八年の抱負として、近年、本格的に始めた木簡研究のアップグレードがあります。

 古田先生が木簡研究を始めた五十年前とは異なり、木簡研究環境は劇的に変化しました。その主な点は次のようなことで、いずれも古田先生の研究時代にはゼロではないにしろ、ほとんど望むべくもありませんでした。それに比べると、今のわたしたちは実に恵まれた研究環境にあります。

(ⅰ)飛鳥・藤原木簡出土量の劇的な増加。
❶ それまでは『日本書紀』などの近畿天皇家が作成した史料に頼らざるを得なかった古代史研究だったが、それよりも信頼性が格段に優れる同時代文字史料としての大量の木簡群の出現により、『日本書紀』の史料批判さえもが実証的に可能となった。(その先例に、著名な郡評論争がある。)
❷ 特に飛鳥・藤原木簡群により、七世紀後半から八世紀初頭の王朝交代に至る実態に迫ることが実証的に可能となった。

(ⅱ)奈良文化財研究所HP「木簡庫」による検索機能の出現。
❶ それまでは何冊もの発掘調査報告書を専門機関や図書館で読み、出土木簡の内容・点数・出土層位・編年などを研究者自らで検索・分類するという、気の遠くなるような作業を個々人で行う必要があった。それが「木簡庫」の出現により、PC上で瞬時に可能となった。それにより、研究者は木簡に記された文の史料批判に集中することができるようになった。「木簡庫」の作成公開は、奈良文化財研究所の優れた業績の一つであろう。
❷ 遺跡毎の出土木簡の研究から、遺跡中の出土遺構(坑や溝などからの一括出土)毎の木簡検索機能により、自説に有利な木簡だけを取りあげて解釈を進めるという恣意的な研究方法ではなく、一括出土した全ての木簡(「木簡庫」に掲載された)に基づく史料批判と仮説提起が在野の研究者でも可能となった。
❸ とりわけ、王朝交代の舞台である藤原宮木簡の大量出土は、古田学派による王朝交代研究に多大な貢献をしている。拙稿「飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説―」(『古代に真実を求めて』27集、明石書店)、今春発行予定の『藤原宮 王朝交代の舞台』(『古代に真実を求めて』29集)に掲載する「王朝交代の宮殿 ―藤原宮木簡による九州王朝研究―」などはこれらの恩恵を受けたものだ。

(ⅲ)市大樹氏による木簡研究レベルの高度化と公開。
❶ 木簡研究において特筆すべき業績の一つとして、市大樹氏(注)の著作がある。一般読者向けの『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』(中公新書、2012年)を始め、『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)などは古代史研究者には必読の書だ。氏は一元史観に立っているが、多元史観に立つ古田学派にとっても学ぶべき点、多大だ。

 以上のように、時代的制約もあって、古田先生が為し得なかった最新の木簡研究により、古田史学を更に発展させること。これが令和八年、新年の抱負の三つ目です。(つづく)

(注)市大樹氏(いち・ひろき、大阪大学栄誉教授)は奈良文化財研究所「木簡庫」の編集作業に係わられた実績がある。

〖写真の説明〗飛鳥池出土の「天皇」木簡。市大樹『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』。


第3570話 2026/01/02

令和八年の抱負 (2)

『東日流外三郡誌の挑戦』

         に合田論稿転載

 昨年末、「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」を執筆し、『東京古田会ニュース』に投稿しました。運命の一書とは『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)であり、使命の一書とはその続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮称)です。続編には前著に収録できなかった重要論文を掲載します。その一つが合田洋一さんの「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」です(注①)。元日に合田さんに電話で年賀のご挨拶をしたおり、転載の了解を頂きました。

 同稿は『東日流外三郡誌』(明治写本)二百~三百冊を昭和46年に市浦村役場で見たと証言(注②)した永田富智さんとの思い出が記されたもので、永田さんは昭和38年時点で東日流外三郡誌のことをご存じであったとのこと。偽作説論者たちは〝東日流外三郡誌は昭和40年代から50年代に和田喜八郎が偽作した〟と偽作キャンペーンを繰り返しましたが、それが真っ赤な嘘であることが、『北海道史』を編纂した中近世史の専門家である永田氏の証言からも明白となりました。合田稿では、『東日流外三郡誌』市浦村誌版が刊行された昭和50年よりも十年以上前の昭和38年に、永田氏がその存在を知っていたことが証言されています。当該部分を抜粋します。

 〝私は、明治大学三年(昭和三十八年)の八月に帰省(北海道江差町)した時、父に卒業論文(『蝦夷地に於ける戦国時代』)の史料研究のため函館図書館に寄るので一日早く帰ると話したところ、父は「それならいい人を紹介するよ」と目の前で函館図書館に電話してくれた。なんと、その相手の人こそ当時図書館で学芸員をされていた永田富智先生だったのである。(中略)早速、永田先生にお会いして長時間に亘りご指導戴いた。(中略)その時の先生の言葉を今も鮮明に覚えている。「合田君、北海道・東北の歴史を研究するなら『つがる外三郡誌』という書があるからそれを研究したらいいよ」(その時はつがるの字は「東日流」ではなく「津軽」とばかり思っていた)と。私は「その書はここにあるのですか」とお聞きしたところ「ここにはなく、青森のある人が持っているので紹介してあげるから東京への帰途寄ったらどう」と言って下さったのである。当時の私は奨学金とアルバイトで学生生活を送っていた貧乏学生だったことから、青函連絡船(四時間半)で青森に行き夜行列車(二十二時間)で急いで東京に帰り、仕事(アルバイト)に間に合わせなければならなかったので、丁重にお断りして「またの機会に是非お願いします」と辞したのである。のちのち寄り道できなかったことがなんとも悔やまれた。(中略)

 振り返って見ると、昭和三十八年とは、『東日流外三郡誌』がまだ活字本になっていない時であった。古賀さんの前掲論稿によると、昭和五十年頃「市浦村史版」、六十年頃「八幡書店版」が発刊されるが、永田先生はその前の昭和四十六年に市浦村役場で二、三百冊の『東日流外三郡誌』明治写本を見たとのことであった。〟

 運命の一書『東日流外三郡誌の逆襲』に次いで、使命の一書『東日流外三郡誌の挑戦』の刊行。これが令和八年、新年の抱負の二つ目です。(つづく)

(注)
①合田洋一「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」『古田史学会報』148号、2018年。
②古賀達也「真実を語る人々」『東日流外三郡誌の逆襲』明石書店、2025年。

〖写真の説明〗永田富智先生。北海道松前町阿吽寺にて、1996年9月15日。東日流外三郡誌(明治写本。)


第3569話 2026/01/01

令和八年の抱負 (1)

 ―「秋田孝季遺訓」の編纂―

 「古田史学の会」会員の皆様、友人、読者の皆様、新年のご挨拶を申し上げます。令和八年も「洛中洛外日記」をよろしくお願いいたします。

 昨年11月、持病治療のため入院手術しました。お陰様で一週間で退院でき、寿命も延びたようです。延びた寿命をどのように使うべきか、病院のベッドで、古田先生がやり残された研究を引き継ぐのは当然として、それは何だろうかと考え続けました。

 先生最後の公の場となったKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録にお供したとき、対談の最後に桂米團治さんと次のようなやりとりがありました(注①)。

米團治 本当に、話は尽きませんね。湯水のごとく出てまいります。――まだまだ先生、研究続けられますよね。
古田 ハハハ、まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思いますが……。
米團治 何をおっしゃいます。でも、たくさんのお弟子さん……。
古田 こういうね、素晴らしい後継者が出てますからね。私は安心して……。ま、古田が死んだら、と楽しみにしている人もおると思うんですがね。しかし、私が死んだからってね、ここまで分かって来たら、ストップはかけられませんわね。
米團治 うちの親父(桂米朝)と同世代ということで、そんなよしみもありまして、KBS京都に来ていただきまして、本当にありがとうございました。お弟子さんの古賀達也さんもどうもありがとうございました。

 二時間に及んだ収録(2015年8月27日)の後、対談は三回(9月9日、16日、23日)に分けて放送され、翌月の10月14日に先生は亡くなられました。

 先生が〝弟子〟らに託したこととは何か、残された寿命で何をなすべきか、先生没後10年に当たる昨年、病床で考えました。そして、最初に思い浮かんだのが、『東日流外三郡誌』の編者、秋田孝季伝の筆を執ることでした。わたし一人でできる事業ではありませんので、志を継ぐ後学のために、秋田孝季の遺訓を『東日流外三郡誌』などから抜粋する作業だけでも始めることを改めて決意しました。

 この思いを『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)の掉尾に記しています(注②)。

 〝あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。〟

 令和八年、新年の抱負の一つです。(つづく)

(注)
①桂米團治・古田武彦・古賀達也「古代史対談」『古田武彦は死なず』古田史学の会編、明石書店、2016年(『古代に真実を求めて』19集)。
②古賀達也「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。

〖写真説明〗『古田武彦は死なず』。米團治さんの還暦記念パーティーにて(2018.12.20)。