筑紫舞「翁」と六十六国分国
「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝について調査したところ、正木裕さんの能楽研究に行き着きました。同研究によれば、世阿弥『風姿華傳』に見える秦河勝記事などに注目され、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」(『風姿華傳』)は九州王朝の多利思北孤(上宮太子)が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことを表現しているとされました。そして、次のように結論づけました。
〝本来、「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴、ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥のいう「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。〟(注①)
世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』にも同様の記事があり、翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されています。
〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』
この『明宿集』の記事で注目されるのが、「秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ」「翁一体ノ御面ナリ」とあるように、秦河勝が「翁」を舞ったという所伝です。倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります(注②)。西山村光寿斉さん(注③)により、現代まで奇跡的に伝承された舞です。正木さんが論じられたように、九州王朝の「六十六国分国」と筑紫舞の「翁」には深い歴史的背景があるようです。(つづく)
(注)
①正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
②『続日本紀』天平三年(731年)七月条に雅楽寮の雑楽生として「筑紫舞二十人」が見える。筑紫舞の「翁」には、「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」があるが、「十三人立」は伝わっていないという。
③西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に、その経緯が詳述されている。