第3091話 2023/08/11

王朝交代の痕跡《金石文編》(4)

 ―九州王朝時代(7世紀)の

      近畿天皇家系金石文―

 木簡の記載様式が、七世紀の九州王朝(倭国)時代と八世紀の大和朝廷(日本国)時代とでは、全国一斉に大きく変化しています。行政単位の「評」から「郡」への変更をはじめ、年次表記の様式が「干支」から「年号」「年号+干支」へ、年次記載位置の「冒頭」から「末尾」への変化などが顕著な例です。こうした激変は九州王朝説の視点から見ると、王朝交代に伴うものであり、恐らくは両王朝の制度(律令格式)の差異によると思われます(注①)。ところが金石文には、七世紀段階で既に年次表記位置に変化が現れています。

 「洛中洛外日記」前話で七世紀の金石文を分類し、冒頭に年次表記を持つものを〈α群〉、末尾に持つものを〈β群〉、文章の途中や末尾付近に持つ中間型を〈γ群〉としました。そして銘文に記された権力者(上位者)に注目しました。次の通りです。

 【金石文名(記載年次) 上位者〈年次表記位置〉】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 この中でとりわけ注目されるのが、〈β群〉〈γ群〉の年次記載位置を持つ次の金石文です。

(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉

 被葬者である船王後、小野毛人、采女竹良が直接的には近畿天皇家の家臣であることと、銘文での年次表記位置が八世紀(大和朝廷時代)の木簡の表記と対応していることは整合しています。なかでも采女氏塋域碑に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、「采女竹羅」「采女筑羅」として、次の『日本書紀』の記事に見えることから、天武・持統の家臣であることを疑いにくいのです。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には小錦下として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には朝臣の姓をもらい、天武崩御の際には直大肆として誅しています。没年は不明ですが、采女氏塋域碑によれば持統三年己丑(689)までには直大弐になり、没しているようです。この『日本書紀』の記事によれば、采女竹良が仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありませんし、今回注目した年次記載位置もこの理解と整合しています。

 古田先生は晩年、船王後墓誌や小野毛人墓誌の天皇を九州王朝の天子の別称としましたが、わたしは古田旧説(九州王朝天子の下のナンバーツーとしての天皇)を支持してきました(注②)。今回のケースも古田旧説が妥当であることを示唆しています。(つづく)

(注)
①『養老律令』公式令に見える文書様式との関係が注目される。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2023年。

フォローする