第3166話 2023/11/27

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(2)

 飛鳥宮跡は三期の遺構からなっており、今回のⅠ期に属する長大な塀跡の出土を知り、〝やはりあったのか〟とわたしは思いました。Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられており、七世紀前半に遡る王宮遺構となるのですが、これまでは飛鳥宮跡からはあまり出土していませんでした(上層のⅡ期・Ⅲ期の遺跡保存のため、下層のⅠ期遺構の調査が進んでいない)。今回の出土は、文献史学や金石文の解釈にも影響を及ぼす、重要な発見です。このことについて説明します。

 報道やその後入手した橿原考古学研究所の報告にある、塀跡が45m以上という長大で、その向きが南北正方位ではなく、東に対して北に25°の振れを持っている点に、わたしは注目しています。これは、Ⅰ期の宮域が広域であり、当地の権力者の宮殿の規模にふさわしいことと、南北正方位ではないことは七世紀前半の特徴を示しています。ちなみにⅡ期・Ⅲ期の遺構は南北正方位であり、七世紀中頃から後半の特徴を示しています。

 こうした出土事実から、この塀跡を舒明天皇の飛鳥岡本宮に関わるものと判断されています。また、柱を据える穴は一辺1m以上あり、重要な建物などを区画する堅牢な塀跡とみられることも、この判断の根拠の一つとなっているようです。更に、柱穴には焼けた土や炭化物(灰)が残り、飛鳥岡本宮が636年に火災で焼けたという『日本書紀』の記述(注)と対応していることも、こうした判断を裏付けています。

 文献史学の視点からしても、法隆寺火災記事(670年)、前期難波宮火災記事(686年)と同様に、焼けてもいない飛鳥岡本宮が焼けたなどと『日本書紀』編者が記す必要性はなく、『日本書紀』の火災記事と今回の出土事実が一致していることは重要です。なぜなら、七世紀前半の飛鳥宮に関する『日本書紀』の記事の信憑性が、低くはないことを示唆するからです。

 木下正史さん(東京学芸大名誉教授・考古学)が、「舒明天皇の飛鳥岡本宮はこれまで状況が分からなかったが、長大な塀跡が見つかったことで宮がかなり広範囲に及んでいたことが考えられる。塀全体に焼けた痕跡があり、宮の大部分が焼けるほどの火災だったのではないか」とするのも、無理のない解釈と思われます。(つづく)

(注)『日本書紀』舒明八年条に次の記事が見える。
「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。」

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