第3306話 2024/06/18

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (4)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応に基づいており、大阪の他の場所に同様の地名が見当たらないことから、山根徳太郎氏による難波宮跡発見までは最有力説であったと思われます。

 喜田氏には、この他にも法隆寺再建論争や藤原宮長谷田土壇説など、『日本書紀』や諸史料に見える記事を根拠とした仮説提唱と論争があったことは著名です(注①)。例えば、天智紀に法隆寺が全焼したと記されており、燃えてもいない法隆寺が火災で失われたなどと『日本書紀』に書く必要はないという文献史学の骨太な論証方法で、法隆寺再建説を喜田氏は唱えました。対して、仏教建築史学や仏像研究による実証的で強力な非再建説がありましたが、若草伽藍の出土により、喜田の再建説が認められました。しかし、それではなぜ現在の法隆寺が推古朝にふさわしい建築様式であり、仏像も飛鳥仏なのかという疑問は未解決のままでした。しかも、その後に五重塔の心柱伐採年が594年であることが年輪年代測定により判明し、再建説ではますます説明が困難となりました(注②)。

 同様の問題が難波宮所在地論争にも横たわっています。『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿名「難波長柄豊碕宮」を史料根拠として、それが現存地名の「長柄・豊崎」(大阪市北区)と対応し、その地の方が狭隘な上町台地よりも広く、王都王宮の地に相応しいという、極めて常識的で合理的な長柄豊崎説でしたが、山根徳太郎氏の執念の発掘により、難波宮が上町台地法円坂(大阪市中央区)に存在していたことが明らかとなりました。しかし、それではなぜ『日本書紀』にも記された「長柄・豊崎(碕)」という有名な地名が法円坂ではなく、他の場所(北区)に遺存するのかという問題が残されたままなのです。わたしが前話で述べたように、「真の問題」とはこのことなのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」30973106話(2023/08/22~09/07)〝喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (1)~(7)〟
②現法隆寺は飛鳥時代の古い寺院が移築されたものとする、移築説が古田学派の研究者、米田良三氏より発表されている。
米田良三『法隆寺は移築された』新泉社、1991年。

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